バガヴァン ババ様の御生誕祝いの一環として、11月の第2土曜日から日曜日にかけて世界中のサティヤ サイ センターで、全人類の平安・調和・至福への祈りをこめた24時間連続バジャン(神の栄光を歌うこと)が行われます。 多くの人数で神の御名を共に歌うこと(ナーマ サンキールタン)はたいへん重要だと、ババはおっしゃいます。これは今の時代〔カリ ユガ〕において、もっとも簡単に神に到る道なのです。 バジャナ ビナー スカ シャーンティ ナヒンバジャン(神への賛歌))なくして幸福と平安はない
今日、わたしたちは、アカンダ バジャン(世界中のサイの帰依者によって24時間続けられる 歌われたバジャンは音波の形で 集団でのバジャンを娯楽として扱ってはなりません。何千人もの人々が共にバジャンを歌うとき、人はその献身的行為とそこで体験する法悦に完全に浸りきるべきです。歌は、活気に満ちた魂のこもったものであるべきで、機械的であったり、 すべての人が神の御名を唱えることの有効性と効能をよくわかっているというわけではありません。まず必要なのは、思いと言葉と行動が純粋であることです。舌で唱える神の御名を |
神の御名を集団で歌い唱えるときには、そのグループ全体が容易に参加できるような形にすべきです。バジャンはみんながついていけるようなメロディーやリズムのものにするようにしなさい。リード
シンガーが他の人たちになじみのない歌を選べば、グループからの 特別な行事の際に大人数でのバジャンをコーディネイトする人たちの多くは、そのときどういった種類のバジャンを歌うべきなのかをわかっていません。独自のスタイルをもっている人は、個人で歌うぶんには自分の好きなように歌ってもかまいませんが、集団で歌うには向いていません。 集団でのバジャンを行うときに守るべきいくつかのルールがあります。アーラープ〔バジャンのイントロとして精妙なラーガで歌われる独唱〕はキールタン(個人で歌うこと)のときには行ってもかまいませんが、集団でのバジャンではまったく場違いなものです。そのようなバジャンにおいては、もっぱら神の御名に重点を置くべきです。 1986年11月8日の御講話より 純粋なアートマの化身である皆さん! 昨年の11月23日、バガヴァンの降誕50周年を祝うために世界各地から人が集まりました。そして、各センターの役員たちは第二回世界大会を始めとする諸行事に参加しました。その後、役員たちは、50周年の年が終わる前にある喜ばしい行事を各国で催すことができるよう、その日を定めてほしいと言ってきました。彼らを落胆させないために、世界中のすべてのセンターで、土曜日(昨日)の午後6時30分から今日の午後6時30分まで、全24時間にわたってバジャンとナーマ サンキールタン〔集団で神の御名を歌うこと〕を行うことが決まったのです。 その結果、世界42ヵ国の7000以上のセンターが、熱意をもってこの喜ばしい課題に取り組みました。 それは「アカンダ バジャン」すなわち、絶え間のないバジャン、と名づけられました。しかし、それは本当にアカンダ バジャンでしたか? そのバジャンはある日の午後6時30分に始まり、翌日の午後6時30分に終わります。これを「絶え間ない」バジャンと呼べるでしょうか? この宇宙の広大さと時間の永遠性を考えるとき、24時間などいったい何だというのでしょう? それは一回のまばたき、地上での人生のごく一瞬にすぎません。たった一日神の御名を唱えただけで、皆さんは「絶え間なく!」バジャンを行ったと主張します。アカンダ バジャンという名に値するためには、それは呼吸と同じくらい絶え間のないものでなければなりません。 皆さんは、自分たちが行っているサンキールタンの本当の意味を探究しなければなりません。キールタンとは「神の栄光を高らかに歌うこと」であり、サンキールタンとは舌や口からではなく 神への切々たる思いを歌い、神を崇めるという体験を満喫することは、大気の浄化を助けます。今日、人は、暴力と憎悪と無慈悲と不正を表す音声によって汚された空気を吸い込むことを余儀なくされています。そのため人々は、本来人が獲得するはずの深遠なるものを急速に失っているのです。ナーマ サンキールタンのバイブレーションは大気を清め、純粋で、穏やかで、人を高めるものにすることができます。この世界規模のサンキールタンのプログラムが計画されたのは、こうした崇高な目的を掲げてのことでした。 1976年11月14日の御講話より それを単なる24時間や7日間の催しにしてしまわずに、生まれてから死ぬ
まで続けなければならない、ということもまたアカンダ バジャンは意味しています。火葬場への行進は誕生の瞬間から始まります。心臓の鼓動は火葬場へと向かう行進のための太鼓の音です。ある人はより長い道のりを歩き、ある人はすぐに到着します。しかし、すべての人がそこへと向かう道の途中にあります。それゆえ、バジャンは子どものときから歌い始め、ずっと続けなければなりません。バジャンはいつも人と共にある同伴者であり、慰めであり、力でなければなりません。バジャンをすることを老年まで延ばしてはなりません。というのも、バジャンは つねに神の御名を唱えていなさい。わたしは皆さんがここで歌ったバジャンを、昨日今日と聞いていました。皆さんの声は弱く、会場の外には十分聞こえませんでした。わたしは、ある団体がアカンダ バジャンをすることを決め、その計画を成功させるために一時間いくらで数人の人を雇わなければならなかったことを知っています。信仰と熱意をもってバジャンをしなさい。あなたの歌う御名の一つひとつに信愛をこめ、その信愛で町中を揺さぶりなさい。神の御名は、同朋愛を深め、調和を樹立し、すべての嵐を鎮め、平安を与えてくれます。 1959年7月10日の御講話より
参考:http://www.sathyasai.org/calendar/akhand.html
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