クリスマス  
     
 

イエス・キリストの誕生日は、毎年12月25日に信愛と熱意をこめて祝われます。神の子であられるイエス・キリストは、愛と犠牲のメッセージを世に広めるため、この日に誕生しました。ババは、ただイエスに祈ったりあこがれたりするだけでなく、イエスのメッセージを実践することを、この日あらためて自分自身に誓うべきだとおっしゃっています。クリスマスのお祝いで特徴的なのは文化祭です。海外からの信者が聖歌隊で歌を披露したり、学生たちが「神の御子」の生誕の瞬間や、イエスのすばらしい人生におけるさまざまな出来事、そして御教えを再現する劇を披露したりします


クリスマスにまつわるババの御言葉

愛があるところに憎しみの余地はありません。誰も妬んではなりません。このよこしまな性質が現れるとき、愛は逃げてしまいます。愛の住まう場所は純粋なハートです。純粋さのあるところに唯一性があります。唯一性は神性をもたらします。

今日、純粋さが欠けています。それでどうやって神性を得ればよいのでしょうか? 欲望を持たずに、すべてを神に差し出さなければなりません。あなたのすべてを神に捧げなさい。これがイエス キリストの教えでした。イエスはすべてを神への捧げものと見なしていました。

イエスが十字架に打ちつけられている時、周りの人々は涙を流していました。その時、天の声が宣言しました。「すべては一つ、私の愛しい息子よ! すべての人に等しくあれ」。

小さな聖書を物質化するサイババイエスは「死は命の衣である」と述べました。ちょうど衣服を着替えるように、私たちは肉体を替えるのです。肉体は衣(内在する魂のための衣服)です。ですから、肉体はただの衣服として見なされるべきです。肉体について心配すべきではありません。

こうした教えを何人が心に留めているでしょう? 皆さんは理想的な人生を送れるようにならなければなりません。それがキリストの誕生日を祝う正しい方法です。偉大な教師たちの理想を守ろうとする者は、ほとんどいません。

キリストは、キリストの教えに反対してキリストを告発した嫉妬深い人々の犠牲者でした。神を信愛する人は、嫉妬深い人の批判を気にするべきではありません。善良な人は皆、そうした困難に直面すること を余儀なくされます。神を信愛する人は、すべては自分にとってよいことであると見なすべきです。

1997年12月25日の御講話より

神への愛を育みなさい。他の愛の形はどれも、とうてい愛とは呼べないものであり、はかない一時的な執着にすぎません。人間にとって最も愚かなことは、自分の神性を忘れることです。皆、自分が神から来たことに気づくべきです。すべての人は神の子です。誰もがもっと神に近づこうと努めるべきです。それが霊性修行(サーダナ)です。神は自分のハートの内に住んでいる(フリダヤニヴァースィ)ということを、皆さんは実感するに違いありません、ハートの中に深い思いやりを育みなさい。思いやりがないハートは、ただの石ころにすぎません。

これはイエスのメッセージです。愛のメッセージです。愛は神です。愛の中で生きなさい。一日を愛で始めなさい。一日を愛で過ごしなさい。一日を愛で終えなさい。これが神に到る方法です。愛に満たされている人だけが、神にとって愛しい者となるでしょう。

今、ドイツや日本をはじめ、多くの国から来た帰依者がここにいます。ここでどのような幸福を味わったとしても、お金を使い果 たしたり、ビザが切れたりしたら、自国に帰らなければなりません。皆さんの目的は、ここに永久に滞在するための永住ビザを取得することでなければなりません。それは神の恩寵によって得られます。皆さんは愛によってのみ、それを得ることができます。愛があれば、神の近くにいることは永遠に保証されます。

愛の化身である皆さん! あなた方の誰の中にも愛は存在します。愛を育み、他の人と分かち合いなさい。愛があるなら、アシュラムを探し求める必要はありません。なかには、一つのアシュラムから別 のアシュラムへと渡り歩く愚か者がいます。これはまったくの愚行です。どこにも行く必要はありません。神は皆さんのハートの中にいます。一つの信条を固く守りなさい。日によって信条を変えてはなりません。固い信心を持って一つの道を進みなさい。それが愛の行動指針です。

1996年12月25日の御講話より

キリストは、愛を与えることと、愛を分かち合うことを人生の主な目標にすることを決意しました。その愛は多くの障害や喪失に遭いました。キリストは、真の人間とは、障害に立ち向かい、愛の中で前進できる者であると考えていました。喪失や苦痛に屈してはなりません。喜びに心を奪われてはなりません。すべてに平静に向き合いなさい。

キリストは不幸を見過ごすことができませんでした。エルサレムでは、鳩が供物として売られ、殺されていました。キリストは哀れな動物たちに対して加えられた蛮行を激しく非難しました。キリストは、そのような暴力を止めて、捕らえられた鳥たちを自由にするという神聖な仕事に取り掛かりました。人々の中にはキリストを非難、中傷し、罰しようとする者もいました。

「どのような生物への挨拶も神に届く」(サルヴァ ブータ ナマスカーラム ケーシャヴァム プラティ ガッチャテー)とヴェーダは述べています。私たちは、自分を賞賛する人への挨拶にも、批判する人への挨拶にも意味はないと考えます。自分を賞賛する人への挨拶は理解できますが、自分を非難する人への挨拶が何になるのでしょうか? 私たちはつねに非難を受け入れるべきです。なぜなら、非難がなければ、賞賛するすばらしさや価値はなくなるからです。批判がなければ、好意的評価は本来の意味を失います。あらゆる言葉、あらゆる思考が何らかの障害を伴うのはそのためです。善にとって悪は影です。喜びにとって困難は影です。相反するものはすべて相互に関係しています。喜びと苦悩、利益と損失は共存しています。キリストは多くの障害に直面 しながら強さと忍耐をもって自らの道を歩み続けました。キリストは、人類への奉仕、愛という行動指針、そして、愛を広めるために、人生を捧げました。

クリスマスの季節はクリスマスのおじいさん、サンタクロースを連想させます。「トコヴァン」というのがサンタクロースの元々の名前です。彼はトルコで生まれました。彼は聖職者としての生活を始め、少しずつ霊性の卓越を獲得していきました。彼はどうやって霊性の巨匠となったのでしょうか? それは犠牲の精神によってでした。彼は出会った子どもたちすべてにチョコレートや人形やプレゼントをあげていました。生涯にわたって彼は絶えず与え続けました。クリスマスが近づくと、子どもたちは皆、サンタクロースのあとを追いかけました。サンタクロースは贈り物をすべて一つの袋に入れて持ち歩き、あらゆる子どもたちに配りました。彼はどのようにして贈り物を配ったでしょう? 彼は「これは神様の愛のしるしだよ、これは神様の愛のしるしだよ」と言い、そのようにして贈り物は配られたのです。その結果 、彼はクリスマスのおじいさんと呼ばれるようになり、もともとの名前は忘れられてしまいました。

私が今日伝えたい重要なメッセージは、イエスも伝えていた、愛と慈悲というメッセージです。ですから、少年少女の皆さん、この神聖で聖なる日に、かの聖人の誕生日を祝うとき、私たちはイエスのメッセージに則した行動をとらなければなりません。誕生日を祝うことは容易ですが、誕生日を祝う人物の純粋さとメッセージもまた、見失わないようにしなければなりません。

サイの理想とは何でしょう? 愛を分かち合いなさい、一つになりなさい、すべての人を神の子と見なしなさい。人類は皆兄弟、神は父なり、という思いを育みなさい。それを受け入れ、それに従うとき、私たちは自分をサイの帰依者と呼ぶことができます。

1995年12月25日の御講話より

今日、私たちはキリストの誕生日を祝います。イエスが飼い葉桶の中で生まれた時、三人の王が星によってイエスの生まれた場所に導かれたと言われています。実際には、彼らは王ではなく、三人の羊飼いでした。そのうちの一人は幼子イエスを見て言いました。「この子は神を愛する者となるだろう」。二人目の羊飼いは言いました。「いいや、神がこの子を愛するだろう」。三人目の羊飼いは言いました。「誠にこの子は神ご自身である」。

この三つの宣言の真の意味はこうです。

神を愛することは、神の使者になることである。
神に愛されることは、神の息子になることである。
究極の状態は、神と一つになることである。

イエスが「私と私の父なる神は一つである」と述べたように、すべての人が神の使者です。これは、人は自分自身を神格化すべきであるという意味です。人はいつ自分を神の息子と呼ぶことができるでしょうか? 神が万人のために無私の心で行った純粋な行為を理解しなさい。イエスにはわずかな利己心もありませんでした。イエスが行い、話し、考えたことはすべて、他者のためでした。これにひきかえ、人が行い、話し、考えることのすべては、利己心から生じます。人は利己心の手中にある操り人形になってしまいました。利己心がすっかりなくなって神聖になった時、初めて人は自分を「神の子」と言うことができます。自分を「神の子」と呼ぶために、皆さんは父なる神の特質を表に出さなければなりません。

イエスは社会奉仕の精神を体現しました。社会奉仕という着想をもたらしたのはイエスの母マリアです。イエスの幼少期から、マリアは真実、親切、慈悲、正義といったよい特質をイエスに教えていました。イエスは母親から教訓を学び、霊的信仰を培いました。エルサレムから戻ったのち、イエスは両親に奉仕することが自分のもっとも重要な義務であると感じました。なぜなら、イエスはすべてにおいて両親のおかげをこうむっていたからです。この精神で、イエスは大工仕事をして父親を手伝っていました。父ヨセフはイエスが三十歳の時に亡くなりました。イエスは貧窮者や寄る辺のない人々への奉仕に専心する許可を母親に求めました。家を出たのち、イエスはヨハネから洗礼を受けました。その後、イエスは食べ物も飲み物もなしで、四十日間の厳しい禁欲生活を送りました。最初、イエスは自分を「神の使者」であると考えていました。苦行ののち、イエスは自分が神の子であると悟りました。イエスは、自分の最初の弟子として漁師の一団に布教を始めました。イエスは漁師たちに、第一に天国を求めるべしと教えました。天国に入るためには愛に満ちたハートを育くむべし、そうすれば、自分のハートが天国になる、と。さらにイエスは漁師たちに、「私と父なる神は一つである」と述べました。

今日、クリスマスは多くの国で祝われています。どの国でも、人々は何人かで集って自分たちの教会へ行き、説教を聴いて家に戻ります。中には飲み食いして浮かれ騒いでいる所もあります。しかし、プラシャーンティ ニラヤムで見られるような厳粛で神聖なクリスマスを祝っている場所は、世界のどこにも見つけることはできません。ここにはすべての国から人々が集まっています。キリスト教徒は多くの宗派をもっているため、それぞれ個別 にクリスマスを祝います。プラシャーンティ ニラヤムにおいてのみ、あらゆる宗派のキリスト教徒、そして、異なる信仰を持つ男女が、一緒になってクリスマスを祝います。皆が一体となって取り組みます。これは、人類は皆兄弟、神は父なりという思いの具体的な表れです。

1994年12月25日の御講話より

イエスは、神は愛であると説きました。この基本的な真理を実感することなく、人は憎しみや妬みをはじめとする悪い性質が人々の愛を汚すのを許しています。人が愛という性質を授けられているのは、愛を利己的な目的で表現するためではなく、神へと向けるためです。イエスは善に善を返すのは少しも偉大なことではないと語りました。人は自分を傷つけた人にさえ善行をなすべきです。

キリストの誕生日を、ごちそうを食べたり、飲めや歌えや、あるいは宴会騒ぎでお祝いするのは、正しいことではありません。イエスの説いた理想を実践しなければなりません。それこそがイエスの誕生日を正しくお祝する方法です。誰を崇敬するにせよ、その人の教えに従った生活をするよう努めなければなりません。帰依者が自分の信仰する教えを実践しないのであれば、その信愛はどのようなたぐいの信愛でしょう? それはにせの信愛です。

1988年12月25日の御講話より

イエスを深く信じる人々は大勢います。彼らの義務はイエスの崇高なメッセージを賛美することです。イエスのもっとも重要なメッセージは、「地球に平和を、人々の間に友好を」です。平和がなければ、人類は物質、霊性、倫理のどの分野においても進歩を遂げることはできません。

トレーター ユガには、シュリ ラーマが真理と正義(サティヤとダルマ)の時代を確立するためにやって来ました。ドワーパラ ユガには、シュリ クリシュナが愛と平安(プレーマとシャーンティ)の促進という使命を伴いやって来ました。カリ ユガ(現在のユガ)では、真理、正義、平安、愛が、神の使命の目的です。それゆえ、皆さんはこの四つを人生の指針にしなければなりません。この四つの理念を堅く守れば、必然的な結果 として非暴力(アヒムサー)となります。イエスのもっとも大切なメッセージを顧慮することなしに、ただイエスの御名を唱えて祈っても無駄 です。「神はすべての人の内にいる。誰をも非難してはならない。誰をも傷つけてはならない」。これがイエスのもっとも重要なメッセージです。

1985年12月25日の御講話より

 

 
 

 

ババによるクリスマスの御講話

2009年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20091225.html

2008年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20081225.html

2007年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20071226.html

2006年 サティヤ サイ ババ2006年講話集



      http://amazon.co.jp/dp/4916138155/

2004年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20041225.html

2003年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20031225.html

2002年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20021225.html

2001年 サナザナサラチ76号

2000年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20001225.html

1999年 サナザナサラチ70号

1998年 サイラムニュース65号(抜粋)



      http://sathyasai.or.jp/sn/sn65/x_mas65.html

1997年 サナザナダルマ42号

1996年 ビデオ「クリスマスの御講話」(絶版)、サイラムニュース57号(抜粋)

1995年 サナザナダルマ36号

1994年 サナザナサラチ55号

1993年 「人生は愛、楽しみなさい」(抜粋)



      http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19931225.html

1992年 サナザナサラチ49号

1991年(1)サナザナダルマ22号

1991年(2) http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19911225.html

1990年 サイラムニュース141号

1989年 サナザナ ダルマ15号

1988年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19881225.html

1987年 サナザナダルマ9号

1986年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19861225.html

1985年 未訳

1984年 サナザナサラチ24号(抜粋)

1983年 音声のみ

1982年 未訳

1981年  http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19811225.html

1980年  http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19801224.html

1979年 「サイババ イエスを語る」

1978年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19781224.html

1977年 「サイババ イエスを語る」

1976年 「サイババ イエスを語る」

1975年 英訳なし

1972年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19721224.html

1970年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19701225.html