ダサラ祭  
       
   
1988年10月のダサラ祭期間に行われたヴェーダ・プルシャ・グニャーナ・ヤグニャの様子
 


ダサラー祭

ダサラー(ナヴァラートリーとも呼ばれる)は10日間のお祭りで、通常10月にあります。ダサラー祭は母なる原理としての神を崇拝するもので、インド全土で祝われています。バガヴァンは、ダサラー祭とは、善が悪に勝利することを祝うものであり、私たちが「6つの悪魔」、すなわち、自分の内にある、欲望、怒り、執着、貪欲、プライド、ねたみに打ち勝つことを意味している、と説明なさっています。

ヴェーダ・プルシャ・サプターハ・グニャーナ・ヤグニャ

プラシャーンティ・ニラヤムでのダサラー祭には、「ヴェーダ・プルシャ・サプターハ・グニャーナ・ヤグニャ」なしには語れません。これは、過去何十年にわたって神の御前で執り行なわれてきた、全世界の幸福のための供犠の儀式で、一週間〔サプターハは七日間の意〕にわたって開催されるものです。

ヤグニャ初日、バガヴァンがサイ・クルワント・ホールでダルシャンを授けたあと、まずパンディット(ヴェーダ学者)たちが、サフラン色をしたシルクのドーティーとアンガヴァストラム(肩に巻く布で、伝統的なインドの衣装)を身にまとい、ヴェーダの吟唱とナーダスワラムの吉祥な音色が響き渡る中、バガヴァンの学生たちを従えて、ヤグニャの会場となるプールナチャンドラ・ホールへと列をなして入っていきます。ヤグニャは、木を擦り合わせるというもっとも自然に基づいた方法で火を起こす儀式から開始されます。そして、そうして起こされた聖なる火が「ヤグニャ・クンダ」(護摩壇)に灯されるのです。

このヤグニャにおいてもっとも重要なのが、ルッドラ ヤーガムです。ルッドラヤーガムでは、シヴァ神への奉納物が「シュリ ルッドラム」の吟誦とともに、ヤグニャ・クンダに納められていきます。このほかに、スーリヤ ナマスカーラ〔太陽神への礼拝〕、サハッスラリンガアルチャナ〔千のリンガムへの礼拝〕、シュリマド バーガヴァタ パーラーヤナ〔ヴィシュヌ神とその化身の物語『バーガヴァタプラーナ』の朗読〕、ラーマーヤナ・パーラーヤナ〔『ラーマーヤナ』の朗読〕、デーヴィー・マハートミャ〔女神神話『デーヴィー・マハートミャ』の朗読〕などの儀式も同時に執り行われます。こうした儀式のさなか、数人のパンディットが絶え間なくさまざまなヴェーダの讃歌を吟誦し、バガヴァンの生徒たちもそれに倣います。そして、ヤグニャのしめくくりとして、ヴィジャヤ・ダシャミーの日に、「プールナーフティー」〔完全奉納の意〕という最後の奉納が「チャマカム」の吟誦とともになされます。

ヤグニャの詳細はこちらをご覧ください。
「ヴェーダ・プルシャ・グニャーナ・ヤグニャの奥義」(G.V.スッバラオ著)
 

プラシャーンティ・ヴィドワン・マハーサバー

プラシャーンティ・ヴィドワン・マハーサバー〔ババ様が創設した、ヴェーダの復興を目的とするヴェーダ学者の会〕の主催により、サイ・クルワント・ホールで夕刻のプログラムが行われます。ここでは主に、バガヴァンの学校の優秀な学生や施設の職員が、尊い聴衆を前にスピーチをします。スピーチの内容は、霊性や哲学、バガヴァンの御教え、帰依者の体験談などです。これらのスピーチのあと、バガヴァンが皆に向けて御講話をお授けくださることもあります。

シュリ・サティヤ・サイ・グラマ・セヴァ

ヤグニャに加えて、近年、ダサラー祭のお祝いにおいてたいへん重要な側面を担っているのが、「グラマ・セヴァ」〔村への奉仕、2000年に開始〕です。この行事は、バガヴァンの学校や大学の学生たちが、プッタパルティをはじめとする近隣の村落を訪れて、バガヴァンのプラサーダム〔神からの恩寵の意〕を配るものです。このプラサーダムは、村落の人々に対するバガヴァンの愛と祝福のしるしとしての、食糧や衣類です。




御言葉



人間の肉体の中で、神性は神聖なエッセンス(ラーサ)としてすべての四肢に流れ、それらを維持します。この神聖原理は神の甘美さの具現(ラーサスワルーピニーあるいはアンギラーサ)と呼ばれています。肉体に浸透し、肉体を維持しているこの神聖原理もまた、母なる女神として崇拝されるべきです。次に、善悪、正否、人間を向上させるものと堕落させるものに関する事柄を探求した偉大な賢者(マハルシ)たちがいます。賢者たちは苦心と苦行の末、霊的な道と世俗的な道、そして人類が自らを救う方法を示す偉大な聖典を授けました。そうした賢者たちも、聖なる母として崇敬されなければなりません。

牛、大地、肉体を司る神、賢者、グルは、すべて神聖な母性の具現として崇拝されるべきものです。この五つのものは異なる名をもち異なる姿に見えますが、どれも母親であるという共通 点があります。この五つは、人類を守護し、維持する役割を担っているがゆえ、聖なる母として敬われ、崇拝されるべきです。

ひるがえって、子どもをもつ母親は、だれもがこの五つが有する特性を示します。母は子を養い、発育に必要なものを与え、知るべきことと避けるべきことを教え、正義の道に導きます。

それほど尊い母親を尊敬することも愛することもできない人の人生は、まったく無意味です。自分の母親をあらゆる神聖な力の化身そのものとして認識して敬意を示し、愛をもって接しなければなりません。これが九夜の祝祭(ナヴァラートリー)が私たちに与える真のメッセージです。

至高のシャクティは、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーの姿で顕れます。ドゥルガーは身体的、精神的、霊的エネルギーを授けます。ラクシュミーは金銭的な富だけでなく、理知的な富、人格という富など、多くの種類の富を授けます。健康さえも富の一種です。ラクシュミーは計り知れない富を授けます。そして、サラスワティーは、知性、理知的探求の能力、そして、識別 力を授けます。ナヴァラートリー祭は三女神の力を世に示すために祝われます。母親は三女神の結合体です。母親は私たちにエネルギーと富と知性を与えてくれます。母親はつねに私たちの立身出世を願っています。このように、母親はナヴァラートリー祭の間に崇める三女神を象徴しているのです。

1988年10月14日の御講話より

デーヴィー(女神)という語は、神聖な力という意味をもっています。この力は、悪の力を抑えて浄性を守るために、激性の形をとるのです。不正義、不道徳、不真実がとてつもない勢力となって死の舞を踊るとき、利己主義と私利私欲がはびこるとき、人が親切心や同情心といった感情をすべて失ってしまったときに、アートマの原理はシャクティ(神聖な力)の形をとり、激性の特質を身につけて悪の要素を破壊しようとします。これが、ダサラー祭の内にこめられた意味なのです。

聖なる女神が悪の要素を破壊するために、憤怒の状態にあるときには、恐ろしい姿をとります。女神を鎮めるために、女神の娘たちは赤いクムクム(神聖な赤い粉)を捧げて崇めます。女神は、足もとの血のように赤いクムクムを見て悪を打ち破ったことを確信し、優しい女神の姿をとるのです。赤いクムクムで女神を崇めることにこめられている意味は、それにより女神が鎮められたということなのです。

ダサラー祭の十日間に、悪い性質という形をとった羅刹らせつ(ラークシャサ)は敗北しました。ラークシャサとは悪い生き物を意味しているのではありません。人間の中の悪い性質こそが羅刹。傲慢は羅刹です。悪い考えは羅刹です。

ラーヴァナは、羅刹の王として描かれています。ラーヴァナには十の頭があるといわれていますが、十の頭をもって生まれたわけではありません。このラーヴァナとはだれで、十の頭とは何でしょうか? 色欲、怒り、迷妄、貪欲、高慢、嫉妬、心、知性、意志、自我意識――これら十の要素が十の頭を構成しているのです。ラーヴァナにはこれら十の性質がありました。だれもが自分はラーヴァナであるかラーマであるかを、自分の性質によって決めることができます。ラーマは悪い性質の破壊者でした。悪い性質を破壊する行動に携わっているとき、ラーマに激性の要素が表れました。しかしラーマの激性は、浄性と結びついたものでした。ラーヴァナの十の頭を切り落とすときでさえ、ラーマは愛を示しました。こうしなければ、ラーヴァナは罪から救われなかったのです。

神が罪を正すとき、それは無慈悲に思えるかもしれません。しかし外面 的には激性のように見えることも実は浄性なのです。あられを伴う嵐のときには、雨に混じってあられが降ります。しかし、雨もあられも水を含んでいます。このように、神の激性の行動の中にさえも、浄性が存在しているのです。同様に、鈍性の行動の中にも浄性があるかもしれません。これらは、神が行動する時や場所、環境によるのです。バターは指で簡単に切ることができます。しかし、鉄の塊を砕くためには、強くて大きなハンマーが必要です。神は浄性の人間には浄性のやり方で接します。そして激性の人間に対しては、激性の武器を()てるのです。

人々は神を崇めますが、神には恐ろしい姿と性質がつきものだと考えています。これは、正しくありません。神にはたった一つの特質しかありません。―――神は愛の化身なのです。「愛は神。愛は宇宙全体に満ちている」と言われてきました。それゆえ、世俗的な見方でこの世界を見るべきではありません。この世界は、愛の目を通 して見るべきなのです。

神聖な愛の具現者である皆さん! インドのお祭りはすべて、人々の間に神聖な愛を広めることを目的としています。まさしく神聖な愛を人々に授けるために、神は地球上に化身するのです。神みずから、愛をどのようにして示すべきか手本を見せます。神は愛を降り注ぎ、あらゆる人に愛する方法を教えます。それゆえ、この愛を体験して、人生を楽しみ、平安のうちに過ごしなさい。

1991年10月18日の御講話より

インド人(バーラタ人)は古代より、デーヴィ、すなわち母としての神を崇める一つの方法としてナヴァラートリー祭を祝い、その九夜十日間、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーを礼拝ます。この三女神は何者なのでしょう? 人は三女神の御姿に魅了されています。三女神のもつ深遠な意味は、カルマ、信愛(礼拝、ウパーサナ)、霊的英知(グニャーナ)という三つの力(シャクティ)によって表されます。

ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーのもつ意味は正しく理解されなければなりません。三女神は、「意志力」(イッチャ シャクティ)、「行動力」(クリヤ シャクティ)、「識別力」(グニャーナ シャクティ)という、人間に内在する三種の力を表しています。

サラスワティーは話す(ヴァーク)力として人に現れます。ドゥルガーは活力という姿で内在しています。ラクシュミーは意志力という姿で現れます。肉体は行動力を示します。心(マインド)は意志力の貯蔵庫です。アートマは識別 力です。行動力は肉体から生じる物理的なものです。不活性な肉体を動かして活性化する力は意志力です。意志力のバイブレーションを生じさせる力は識別 力であり、エネルギーの放射を引き起こします。三つの力は「オーム ブール ブヴァ スヴァハ」というマントラで表現されます。ブールは地球(ブーローカ)を表しています。ブヴァは生命力である人間の良心を表しています。スヴァハは放射の力を表しています。三つはすべて人に内在しています。つまり、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーは人のハートの中に住んでいるのです。

人は怒りや憎しみといった激性を示す傾向があります。それらはドゥルガーの威嚇的(いかくてき)な現れです。歌と詩で神をほめ讃えること、そして、それによって生じる快いバイブレーションはサラスワティーの力を示しています。人間に生じる思いやり、愛、寛容、共感といった純粋な性質はラクシュミーから引き出されます。

人々が絵に描かれたドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーを外的に礼拝するとき、人々は内にもつ深遠な力に物理的な姿を与えているのです。現代人は自分に内在する力に気づかず、その力に対する敬意を育むことがないという不幸な状態にあります。人は物理的な姿に魅せられて、外的なものを追いかけます。物質と深遠なものとの関係を理解しなければなりません。人の病の治療薬は人の内にあります。けれども、人は外にその治療薬を探しています。

私たちはこのナヴァラートリー祭の十日間に何をすべきでしょう? あなたの意志力を神への切望に変えなさい。行動力を神聖な行為をする力に変えなさい。識別 力を神そのものに変えなさい。

1994年10月9日の御講話より

ナヴァラートリーとは「九夜」という意味です。この九は何を意味しているのでしょう? 占星術によると九つの惑星(グラハ)があります。人間の体には九つの穴があります。深く探求するなら、人間は九つの惑星に左右されることがわかります。占星術師が九つの惑星について何と語ろうとも、実際は、二つの惑星だけが重要です。それは、執着(ラーガ)と憎悪(ドウェーシャ)です。
 ナヴァラートリー祭の間、自分の中の悪い性癖を根絶するために、神々はクムクム(神聖な赤い粉)で崇められます。赤い粉は血を象徴しています。このようにして崇めることの意味は、自分の血を神に捧げ、そのお返しに神から平安という贈り物を授かるということです。
 それゆえナヴァラートリー祭は、十日間神を想い続け、自分の中のあらゆる不純を清め、内在の神を体験するために行われます。ナヴァラートリー祭の最終日の前日は、アーユダプージャー(武器の礼拝)という名の儀式が捧げられます。礼拝されるべき武器とは、人間の中の神性な力です。このようにして神が礼拝されるとき、人は霊的進歩を遂げるはずです。

1994年10月14日の御講話より

出典:http://www.srisathyasai.org.in/Pages/AshramInfo/Dasara.htm (英語)


ババの御言葉

2009年 『シュリ サティヤ サイ ババ2009年2010年講話集』
2008年 サイラムニュース124号
2007年 サイラムニュース119号
2006年 連続講話 『シュリ・サティヤ・サイ・ババ2006年講話集』
2005年 連続講話
        http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20051007.html
        http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20051008.html
        http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20051009.html
        http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20051010.html
        http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20051011.html
2004年 連続講話 サナザナサラチ84号、87号、『プラサード第二版』 p337-366
2003年 http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20031005.html
2002年 連続講話
        http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20021009.html
        http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_20021011.html
        サナザナサラチ79号、81号、サナザナダルマ58号
2001年 連続講話 サナザナダルマ53号、55号
2000年 連続講話 サナザナサラチ72号、73号、サナザナダルマ51号
1999年 連続講話 サナザナダルマ49号
1998年 連続講話 サイラムニュース66号、69号、サナザナサラチ68号、71号、
              サナザナダルマ46号、『真の教育』46p
1997年 連続講話 サナザナサラチ64号
1994年 サイラムニュース56号
1993年 サナザナダルマ29号
1992年 連続講話
        http://sathyasai.or.jp/mikotoba/discourses/d_19920927n.html
1991年 サイラムニュース50号
1989年 連続講話 サイラムニュース106号、サナザナサラチ39号
1986年 サナザナサラチ30号
1963年 サナザナサラチ146号
1953年 『黄金の宇宙卵』