ラジオサイ  
 
G. ヴェンカタラーマン教授による
特別考察
2011年4月3日 午後 09:30
 
     
 
初めに、私たちの愛する主なるサイの蓮華の御足に、ささやかなお祈りを捧げたいと思います。

プラシャーンティ ニラヤムから愛のこもった「サイ ラム」と御挨拶を申し上げます。これを書いている今は、2011年4月3日の夜7時半近くです。私は今しがた病院から戻りましたが、今回は、スワミの健康に関する最新情報をお知らせするだけでなく、この機会を利用して、この一連の状況に関連して二、三、思うところを皆さんにお伝えしたいと思います。今週の後半になって、スワミの今回の入院にまつわる、十分な長さの考察を書き上げたいと考えています。

まずはお知らせです。私は数日前にスワミが入院された最初の時から、毎日病院を訪れています。今夜私が二階に上がってみると、そこにいた人々の数が減っていただけでなく、初めて、緊迫した空気から解放された、リラックスした雰囲気を感じることができました。そのことからすぐに、すべてがうまく行っていて、いっさいの心配が無用な状況であることが分かりました。二重に確認を取るために、私はサファヤ博士と短い会話をしました。博士は、「順調な回復が続いています。すべての生命器官系統が完全にコントロールされて、まったく何の心配もありません」 と仰いました。少しの時間を置いてチャクラヴァルティ氏が出て来られて、同氏もまた、よい報せを隅々まで確認させてくれました。ですから私は、すべての帰依者の皆さんに、Eメールや、テキスト メッセージや、ツイート等々を通して聞くことにではなく、責任ある地位にいる方々の言葉に注意を払うように、心よりお願いしたいと思います

私には、ここに二つの問題があると思えます。一つはスワミの健康管理です。それはもちろん、諸設備に関してスワミの信託機関(トラスト)の上級役員たちの支援を受けている、病院の医師たちの問題です。したがって医師チームとトラストメンバーチームは、両チームともそれぞれに忙しく働いています。次に二番目の問題に目を向けてみましょう。それ噂話の管理に関する問題です。

私は、噂がどのようにして生じるのかを知りません。実際私は、神様すら御存知ないのではないかと思ってしまうことすらあります! 誰もが噂を非難しますが、いざとなると、ほとんどの人が、足が地に着かなくなり、耳に入ってくるニュースの端々に我を忘れて、その出所や、その真実性、ニュースを伝えている人の信頼度等々を確認する作業を怠ってしまいがちになります。想像してみてください。もしあらゆる人々が、医師たちやトラストのメンバーたちに洪水のように電話を掛けて、彼らの集中力を低下させることになったらどうなるでしょう。

人々はきっと次のように言うでしょう。「でも、私たちはどうなるのですか? あなたは、私たちがスワミのことを気遣ってないと言うおつもりですか? あなたは私たちがどれほどスワミのことを気にかけているか御存じないのですか? 私たちがスワミのことをどれだけ心配しているか、少しでも分かっているんですか?」と。私は、そのことは十分に理解しています。実際、まさにそのために、私たちはラジオ サイで絶えず皆さんに接触して、皆さんの不安を和らげようとしているのです。皆さんは、私たちがこれを二つの異なった方法を通じて行っていることにお気づきかもしれません。一つは放送を行ったり、病院長が発行し署名した公式発表をお知らせしたりすることであり、もう一つは、そうした状況の中で私たちが何を為すべきかに関する覚書を提供することです。

今日の午後、私たちの仕事を大いに手伝ってくれている若い男性が、私が食事に行っていた時に、私の部屋を訪れました。彼は主に、私たちの仕事に関する事柄について話し合うために来たのです。それが終わった時、彼は小さな声で私に言いました。「今回のスワミに関することですが、受け止めるのがとても難しいのです。私たちはそれをどのように理解したらよいのでしょう? 私は、それを個人的にどのように扱ったらいいのでしょう?」私は彼が何を尋ねているか、よく分かっていました。にもかかわらず、突然その難しくて深遠な質問を受けたとき、控えめに言っても、私は多少茫然としてしまいました。 その問いによって私は真剣に考え始めました。するといくつかの思いが心に流れ込んで来ました。でも、ひとつだけはっきりしていたことがあります。クリケット用語を使えば、人生はいつもバウンサー(打者の胸の高さ以上までバウンドする球)を投げて来ます。そしてスワミは、今までずっと、人生は私たちを驚かせる独特のやり方を持っているので、そのような激しいバウンサーにどのように対処するべきかを私たちに教えて来られました。しかしながら、私たちはそれにほとんど注意を払いません。それはおそらく、スワミが仰ることはすべて次元の高い哲学で、私たちには何の関係もないという印象を持っているためでしょう。

私の心は、直ちに病院に戻り、そこにいて無数の業務を管理しながらスワミの治療に当たっている医師団をも管理していらっしゃるサファヤ博士のことを思いました。博士は、過去のいかなるアヴァターにも、前例があったという話は誰も聞いたことのないような任務を遂行していました。また、外側から対処すべき複雑な後方支援の問題を多数抱えているトラストのメンバーのことも思いました。確かにラーマ神はラーヴァナとの戦いで傷つきました。しかしながら、そこにはそうした危機に対処できる、たとえばハヌマーンのような聖なる召使いたちがいました。今はカリユガ(暗黒の時代)であって、主なる神が、余計な助け抜きで、人間としての御自身の役割を演じる時代です。私は、「もし様々な方法でスワミの御世話をしているこれらの人々が、冷静さを失ったとしたら、どういうことが起きるか想像してみるといい?!」と、独りごとを言いました。幸運にも、そういう事態は起きていません。どうして私にそれが分かるのでしょうか? これらの人々が冷静に対処する様子を間近で見てきたからです。彼ら全員が共通して放射しているものが一つあるとすれば、それは平常心でした。本当に、それは私にとって驚くべき教訓でした。

クリシュナ神がすべてのヨーガの内で、平常心こそが最高であると言ったのを覚えていますか? スワミが一つの御講話全体を使って、平常心の重要さについてお話しになられたのを覚えていますか? そして私は、平常心は、聖書にあるマナのように天から落ちて来るものではないことを思い出しました。それは丹精込めて培わなければならない規律であり美徳でした。そして丹精込めて平常心を培うことは、スワミの御教えにできる限り深く注意を払うことを通じて、初めて可能になるのです。

スワミの御教えと言えば、私は、かつてバガヴァンが、二つの言葉をテーマとしてお話し下さった、この上なく美しい御講話のことに、どうしても言及したくなります。手短に言えば、その御講話は次のような内容でした。バガヴァンは仰いました。「あなたが体調を崩しているとしましょう。あなたは何をしますか? もちろん医者に行きます。あなたを診察したり、色んな検査をしたりしてから、医者は二つのことをするでしょう。 まず彼は薬をくれるでしょう。次に、食事制限について教えてくれるでしょう。神もまたあなたの霊的な病を癒すために、同じことをします。彼はまず、薬を与え、次にあなたが守らなければならない食事制限について教えることでしょう。神が推奨する薬とは何でしょう? 簡単です。ナーマスマラナ、つまり、神の御名を唱えることです。そして、あなたが守ることを神が望む食事制限とは何でしょう? それもまた簡単です。それは、私たちは常に神の命ずるところに従わなければならないということです。」

さてここで、みんなで立ち止まって、正直に自分に尋ねてみましょう。「私たちはどれほどの頻度でナーマスマラナをするでしょうか?ナーマスマラナをしようという思いさえ、一日に一度浮かぶことがあるでしょうか?」同様に、スワミは実にたくさんの戒めを与えて来られました。そのほとんどが、この上なく単純なものです。その一つが、「口数を減らしなさい」です。私たちはそれを守っているでしょうか? 以前は、もし話しをしたければ、誰かが傍にいなければなりませんでした。最近はそうではありません。電話があるからです。15年ほど前までは、電話や電話線は、インドではまだ珍しいものでした。でも今は、子供でも携帯電話を持っています。最近、バンガロールから来た学校の教師から聞いたニュースに、私は驚嘆しました。彼女の学校で行われたある調査で、中学二年生は、一日平均800個のテキストメッセージを送信しているということが明らかになったのだと言うのです! 調査の対象となった生徒たちには、サイの帰依者の子供たちもたくさん含まれていたに違いありません。

正直に自分に問いかけてみましょう。おしゃべりを減らすことに関するスワミの指導、助言、命令、その他何と呼んでも読んでもいいですが、私たちは、そうした御教えをどれだけ真剣に受け止めているでしょうか? 私たちは皆答えを知っていると思います。私は、仕事に来るときや、夕方に散歩をする時に、絶えず携帯電話で話しをしている人々を見ます。確かに私は、何か用事があるときに電話で話す必要があるのは理解できます。しかし、歩いているときや、A地点からB地点に移動している間や、ついでに言えば、スクーターや車を運転しているときにさえも、話し続ける必要があるのでしょうか?

今は、私たち全員が、自分たちはどれだけ真剣にスワミを受け止めているかということを自問しなければならないときだと思うのです。今は、私たちのハートを真剣に監査する時である、とでも言うべきかもしれません。「私たちは心からスワミを愛しています」と言葉で言うだけでは十分ではありません。もちろん、私たちは皆スワミを心から愛しています。しかし、スワミを愛することはまた、私たちがスワミのお導きや戒めを尊重する責任を負うということではないのでしょうか? 私たちは、ずっとそのことを無視するという過ちを犯してきたのかもしれません。しかし、私たちは今この時を、教訓の時とすることができるのではないでしょうか?

考えてみてください。

神の祝福がありますように。

ジェイ サイラム

いつものように、たくさんの愛と尊敬を込めて、この短い話を、スワミの蓮華の御足に捧げます。

http://media.radiosai.org/www/Special_Ann4.html

 

 

 
     

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