ラジオ サイ ジャーナルより


完璧な弟子

〜 ジョン・ヒスロップ博士の物語 〜


7月2日〔2004年〕はグルプルーニマーの神聖なお祭りです。この日、世界中の帰依者がグルに参拝し、永遠の平安への道へと導いてくださる世界教師であるバガヴァンに感謝の意を捧げます。もちろん、グルに対して感謝することは良いことですが、バガヴァン御自身は何を求めておられるのでしょう? 称賛はババにとって何の意味もなさないことを私たちは知っています。ババにとって本当に重要なのは、どれほど私たちがババによって示された道を歩んでいるかということです。そのことこそがババに捧げものをする最も素晴らしい方法であると、ババ御自身もおっしゃっています。画家や彫刻家がその作品によって知られるように、教師はその生徒によって知られます。グルはその弟子によって知られ、アヴァターはその帰依者によって知られるのです。主であるグルに全託し、その教えを実践する完璧な帰依者の中に、主の栄光は最も輝かしく映し出されます。このような帰依者は、神の愛としての変容をもたらす光の環に他の人たちを呼び戻す、要因、道具となります。グルに真に敬意を表するのはこのような帰依者であり、その一人がジョン・S・ヒスロップ博士なのです。

ジョン・S・ヒスロップ博士は、世界中にバガヴァンババのメッセージを広めるためにババによって用いられた、素晴らしい道具の一人でした。ヒスロップ博士は神智学と瞑想という道によってスワミのもとへ来ました。18歳の青年が太平洋のタヒチに冒険を求めて旅立った時にすべてが始まりました。タヒチで神智学について語る牧師に出会ったヒスロップ博士は、ロサンゼルスに戻るとすぐに、人類への奉仕を志して神智学協会に入会します。そして、彼はすぐに、神智学運動の柱であったアニー・ベサント博士によってカリフォルニア州オーハイに設立された協会に積極的に関わることになりました。

このオーハイで、ヒスロップ博士はインド出身のJ・クリシュナムルティに接触することになります。J・クリシュナムルティはアニー・ベサント博士によって「世界教師」の器として見定められていた人物です。この時の体験について、ヒスロップ博士はこう語っています。

「クリシュナムルティ氏とベサント博士は地平線を覆い尽くすような巨大な存在でした。私にとってこの二人は、いや、二人のみが、人生の真理を見出した存在であると思えました。私は、この至らない自分に対してベサント博士とクリシュナムルティ氏が大いなる忍耐と寛容さを示してくれたことに対して、感謝の念が尽きることはありません。しかし、クリシュナムルティ氏の学徒であったときの私には、英知は生まれてこなかったのです。」

その間、ヒスロップ博士は高等教育を受け、最終的にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の教育学部で博士号を取得しています。その後、しばらくの間、教壇に立っていましたが、後にビジネス界に身を転じ、そこで大成功を収めます。また彼は、哲学的悟りへの情熱を共に分かち合うことのできるヴィクトリアと結婚し、二人は連れ立ってグルを転々とした後、1950年代に、当時すでに西洋の新聞の見出しを飾っていたマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーに行き着きます。しかし、その「何か」を求めて25年の歳月が過ぎましたが、その「何か」はまだ見つけられませんでした。

1958年、ヒスロップ博士は、マヘーシュ・ヨーギーがヒマラヤ山中に瞑想のための教育施設を設立するのを手伝うために、インドへとやって来ました。米国人であったために、ヒスロップ博士は、最初、CIA工作員(!)として疑われましたが、後に仕事をすることが許されました。その時点で、ヒスロップ博士は休暇を取ってビルマ(ミャンマー)へと向かい、仏教徒によって行われていたヴィパッサナー瞑想を学びました。ヒスロップ博士にはこの仏教形式の瞑想が魅力的で素晴らしいものとして感じられましたが、氏の言葉によれば、

「仏教徒の道は、知性とマインド〔心、思考〕の道でした。この修行法を見出したことへの感謝と喜びにもかかわらず、私のハートは干からびている、と私は感じていました。その西洋人のハートには、少しの愛しか残っていませんでした。私たち(ヒスロップ夫妻)は、ヴィパッサナー瞑想の規律は世俗の人間にとっては危険なものとなりかねず、この道を正統に歩むためには僧侶になるべきであるとも思い始めたのです。」

当時、ビルマは内向きの政策をとりはじめていて、外国人に対して門戸を閉ざしていました。ですから、ビルマに戻り僧侶となって滞在することは不可能であるように思えましたが、ヒスロップ博士はヴィパッサナー瞑想を固守していたため、他にとるべき道はありませんでした。その後数年が経ちました。

「妻と私は1968年に初めてババのことを聞きました。それは、インドを訪問したある女性から私の友人の一人に渡されたババに関する記述を通してでした。その女性は神聖灰(ヴィブーティ)と、ババの奇跡による彼女への美しい指輪の贈り物、そして興味深いたくさんの話を持ち帰っていました。ある特別な話が私の関心に火をつけました。その話とは、ババといる間、彼女は自身の人格に変化を感じ、その変化は自宅に戻ってからでさえも続いた、というものでした。この発言は私の心に強い印象を与えました。人のハートをも変えることができるような人物、大変微細でありながら大いなる影響力を備え、神秘的で、神聖な人が、今日、存在するというのでしょうか?

もし、そのような人が今日の世界に本当に生きているのなら、私の人生にとって、その人を探し出すことに勝る緊急の用件などあり得ませんでした。私はその御方の恩寵と慈悲を求め、その御方が私の乾いたハートに触れ、命溢れる活き活きとしたものとしてくださるよう祈りました。

妻と私は、とある月曜日にこうしたババの話を耳にしたのですが、同じ週に私たちはすでにインドへと向かう飛行機の中にいました。」

ヒスロップ博士の話は続きます。

「ババを見た瞬間に、私には何の疑いもなく、全知全能の真の源である存在がここにおわすと認識しました。ババとの最初の出会いの衝撃を言葉で言い表すことは難しく、ほとんど不可能に近いものがあります。私の存在そのものすべてが、深く影響を受けて変容しました。すぐに、ババは私の人生の中心となり、今日までずっとそうあり続けています。最初の出会いでのババの臨在の中で、世俗の世界は私から抜け落ち、私の全意識は内へと引き入れられ、気づきの最も微細なレベルにおいて、ババは私のハートに愛として現れました。愛は間違えようのないもので、ババがその愛であるということは、同様に間違えようのないものでした。私は、神のみが私のハートに愛として入り込むことができるのだと思えました。そして、それ以来、この神の臨在の感覚は決して変わることがありません。霊的な生活に対してはいつも理知的なアプローチをとっていた私でしたが、大変驚いたことに、ババに出会ってからは、瞬く間に信愛の道が私にとってきわめて自然なものとなったのでした。」

スワミはヒスロップ博士に数えきれないほどの体験を授け、神の顕現のあらゆる側面をヒスロップ博士が感じられるようにしました。ババはまた、ヒスロップ博士に数多くのインタビューを与え、博士の質問に詳細に答え、病気の際には救いに来られ、災難から守り、きわめて稀な物品を博士のために物質化し、クリシュナのヴィジョンという祝福すらも一度授けたことがありました。ここで、これらのうちの少しの例をヒスロップ博士自身の言葉でご紹介しましょう。ババによってヒスロップ博士に物質化された十字架についての有名なエピソードから始めたいと思います。興味深いことに、この十字架は1973年のマハーシヴァラートリの日に、森の奥深くで物質化されました! この神聖な祭事は、通常であれば非常に多くの人々の前で行われるところを、その時、ババは少数のグループを連れ立ってほとんど私的な形で執り行いました。ヒスロップ博士がその時の記憶を呼び戻すのに耳を傾けましょう。

「十字架は、最も吉祥な日の一つであるマハーシヴァラートリの日に物質化されました。その前日の夕方、私たちは、翌朝早く旅立てるよう準備しておくように、そして、車に荷物が積まれ準備が整った段階で目的地を知ることになる、と言われました。スワミはほんの一握りのお供だけを連れていくと決められた、と。

私たちの目的地は、マイソール市から車で数時間離れたところにある、バンディプル森林公園内のバンディプル保護区域でした。私たちは午後の早い時間に森林公園内のレストハウスに到着しました。その後、野生の象の群れの一つに出くわすことを期待して、曲がりくねった様々な道を行きましたが、象たちは秘密の場所に隠れていて一頭も姿を現しませんでした。しかし、いくつもの丘を巡った車の旅には、もう一つのもっと重要な目的があったのです。

乾いた砂場となっている河原の上に架けられた橋を渡った時のことです。ババは、この場所であると指示なさいました。私たちは車を道路脇に停め、川の土手を下りて砂状の川底を目指しました。私はババのすぐ横にいました。茂みのそばを通った時に、スワミは2本の小枝を折り、それらを縦と横に交差させて、私に尋ねました。“ヒスロップ、これは何かね?”

“はて、スワミ、十字架です”と私は答えました。それからババは、指を曲げて小枝を載せた手のひらを閉じ、親指と人差し指の間から、握ったこぶしの中に、ややゆっくりめに息を3回吹きかけました。それから、ババは手を開いて十字架のキリストを見せ、それを私にくださいました。

ババはおっしゃいました。“これはキリストが肉体から離れた時の実際の姿を示しています。芸術家が想像した姿ではありません。お腹がへこみ、肋骨がすべて浮き出ています。彼は8日間何も食べていませんでした。”

私は十字架を見て絶句しました。ババは続けておっしゃいました。“この十字架は、実際にキリストが磔にされた木で作られています。2000年も経っていますから、その木を探すのに少々時間がかかりました! このキリストの像は彼が亡くなった後のものです。これは死に顔です。”

私は十字架に奇妙なものを見つけて尋ねました。“スワミ、十字架の上部にある穴は何でしょうか?”ババからの答えは、十字架は元々、支柱に掛けられていたのです、というものでした。」

十字架の物質化の後しばらくしてから、河原の砂地でシヴァラートリが執り行われました。帰依者たちがバジャンを歌い、ババは聖なる日の記念にリンガムを現出なさり、創造の重要性を示されました。通常執り行われるシヴァラートリとは大変な違いがありました。

二、三年経った後、アメリカ人帰依者数人が、ヒスロップ博士のために物資化された十字架についてスワミに尋ねたところ、ババは次のようにお答えになりました。

「ええ、それは彼のために物質化しました。私があの木〔実際に十字架として使われた木〕を探しに行くと、十字架の小片は自然分解して元素に戻っていました。私はそれらの元素に手を伸ばして、小さな十字架を作るのに十分な物質に復元しました。スワミが自然に介入するのはめったにないことですが、時たま、帰依者のためにそうすることもあるのです。」

十字架の物語は物質化だけに留まりませんでした。ヒスロップ博士は数か月後に奇妙な体験をします。物質化された十字架を友人数名に見せている時のことでした。ヒスロップ博士は次のように語っています。

「数週間も経たないうちに、私たちはメキシコの自宅に戻りました。そこでは間もなく、この十字架にまつわる驚くべき一連の出来事に遭遇することになったのです。(ある日の)午後5時近くのことでした。その日の午後は、メキシコ湾沿岸一帯の空は晴れていて穏やかでした。ところが、突然、何の前触れもなく雷が轟いたのです。窓の外に目を向けると、ほんの少し前までは晴れ渡っていた空に暗雲が立ち込め、稲妻が走りました。激しい風が家の中を吹き抜け、その猛烈な力で窓やドアがバタンバタンと開いたり閉じたりして、ガラスが割れそうなほどでした。カーテンは四方八方に吹き飛ばされました。私たちはこの突然の天候の変化に大変驚きましたが、妻がはっとして言いました。“今は午後5時、キリストが十字架で亡くなられた時間だわ。今、ここで起きていることは聖書に書かれていることよ。” しばらくしてから妻が聖書を持ってきて、私たちは関連する箇所が見つかるまでページをめくり続けました。そこには、キリストが命を手放した時、稲妻と雷を伴う激しい嵐が起こり、強風が神殿の垂れ幕(カーテン)を引き裂いた、と書かれていました。私たちは、今、目にしたものは自分たちの想像を遥かに超えた不思議な出来事だと結論付けました。目の前で繰り広げられた光景は、まさに十字架での磔にまつわる出来事の再現だったのです。翌日のサンディエゴの新聞には、エンセナーダ市近郊のメキシコ湾沿岸に起こった突然の奇妙な嵐についての短い報道が載っていました。一年ほど経って、その時の出来事をエルチ・B・ファニブンダ医師に、彼の執筆中の書籍『ヴィジョン・オブ・ザ・ディヴァイン』の資料として送りました。博士は私からのメモをババに見せ、ババはそのメモを読むと、その出来事は書かれている通りに起こった、その出来事の意味も書かれている通りで正しい、とおっしゃいました。」

*この十字架については、サティヤ サイ メール マガジン2012年1月号にも記事が掲載されています。   http://www.sathyasai.or.jp/mmg_cnt/201201/topic2.html

バガヴァン ババは、懇願されると、数えきれないほどの帰依者を危険や差し迫った惨事から救ってこられました。スワミはヒスロップ博士も救いましたが、ヒスロップ博士の体験はそれらとは大きく異なるものでした。

「1973年のある日の夜8時ごろ、私たちはブリンダーヴァンを発ってバンガロールへ戻る途中でした。タクシーの中には運転手も含めて5人が乗っていました。バンガロールの道は2車線しかないのですが、ブリンダーヴァンを出て数マイル走ったころ、タクシーは1台のバスを追い越そうとしました。タクシーの運転手には前方に車のライトが見えていましたが、バスを追い抜くには十分な時間があると見積もりました。しかし、それはまったくの間違いでした。前方のヘッドライトの対向車はこちらに向かって大変なスピードで向かってきていました。

その地帯はまた、道路の状況も最悪でした。道は工事中で、舗装のための土や小石が道端に積まれていました。こうした状況の中、こちらに向かってくる車が道路の脇へと避難するという可能性はありませんでした。私たちもまた、この状況を回避することはできませんでした。というのも、バスは私たちの左側にいて、道路の右側には補修工事用の土石がありました。そして、その瞬間、対向車はまさに目の前にまで来ていたのです。対向車の運転手は愚かで、私たちを乗せたタクシーの運転手も同じく愚かでした! 対向車のヘッドライトが私たちのタクシーの前面ガラスを直に照らしました。衝突までもはや1秒もありませんでした。私たちは血の気を失っていました。私たちの中で、その瞬間ババを思い浮かべた人、ババを呼んだ人は誰もいませんでした。私たちはもう死を覚悟し、本能的に衝突の瞬間に身構えました。ところが、まさに、その瞬間、理性では説明しきれない何かが起こったのです。その瞬間、2台の車は正面衝突を免れ得ないほど接近していました。ところが、次の瞬間、対向車は私たちの車の背後にいて、私たちの車は視界が開けた道でバスを追い越している最中でした。後ろを振り返ると、対向車であった車の赤いテールランプが見えました。衝突は起こりませんでした。

翌日、私たちはいつものように朝8時にブリンダーヴァンに向けて車で出発しました。朝のダルシャンにババが現れるのをベランダの近くで待つためでした。ババが部屋に入ってこられるとすぐに、私は蓮華の御足に触れ、“昨晩は私たちの命を救ってくださってありがとうございました”と言いました。

ババはにっこりしておっしゃいました。“ええ、間一髪のところでしたね。あなた方は誰一人としてスワミを呼ぶこともできないほど気が動転していました! でもスワミはどちらにしてもあなた方を助けました。”それから、ババは男性グループのほうを向いて、テルグ語でその出来事を話されました。

それから私が、“スワミ、私たちを助けるために、時間と空間を変えられたのですね。”と言うと、スワミはただ微笑むだけで何もおっしゃいませんでした。」

時々、スワミは、ご自身が礼拝されたことのある別の御姿を見せるという状況を作って帰依者を祝福することがあります。ヒスロップ博士はシュリ・クリシュナとしてのババを一瞥することのできた幸運な数少ない帰依者の一人でした。ヒスロップ博士は次のように語っています。

「何年も前のことです。私はババの車に乗っていました。ババは後ろの席に他の2人と共に座られ、私と運転手は前の席にいました。私たちはプッタパルティへ向かう途中でした。ババといっしょに車で移動するのは魅惑的な体験です。

行程の途中、おそらく半分位の地点に来たときのことです。ババは話をなさっていて、私はババを見ようと後ろを向きました。私は息を呑み、固まってしまいました。自分の目が信じられませんでした。

私を固まらせ、息を呑ませたものとは、ババのお顔でした。私の知っているババはそこにはおられませんでした! その代わり、この世とも思えないほど美しいお顔がありました。形も色も、私たちの敬愛するサイのお顔の造作とはまったく異なっていました。その魅力的な美しさは極めて偉大で、強烈で、私のハートはよじれて痛みをも感じるかのようでした。いかなる写真であっても、偉大な芸術家の手による絵画であっても、私は生涯を通じて、それほどの極度に美しいお顔は見たことがありませんでした。それは想像と発想を絶するもので、全くの未体験のものでした。

お顔の色は青でした。単なる青、芸術家がシュリ・クリシュナを描く青ではなく、暗い空に時々見られるベルベッドの青〔紺碧〕、海岸から何千マイルも離れた太平洋の船のデッキでたまに見たことのあった青でした。他にその色を表す言葉はわかりません。

私はババのお顔から眼を離すことができませんでした。ババの隣に座っていた2人は何か困惑した表情で私を見始めていました。

車が数マイル走った後、シュリ・ヴィッタル・ラーオ氏(ババの左側に座っていた)が私に尋ねました。“ヒスロップ、なぜ、スワミのことをあんなふうに見つめていたんだい?”

その質問に答える代わりに、私はババに質問を投げかけました。“スワミ、あの青い色は何だったのでしょうか?”

スワミはお答えになりました。“ああ、あれかね? 底知れない深さのものがあるときにはいつも、それは紺碧に見えるのです。”

それでその出来事に関する会話は終わりました。当然のことながら、あれは主クリシュナだったのでは、という思いが心をよぎりました。しかし、この体験に関連して、その時も、その後も、私はババにクリシュナの名を告げることはありませんでした。1975年11月のある出来事までは。」

御降誕祭を直前に控えたある日、スワミはある家族をインタビューにお呼びになりました。ヒスロップ博士もそこに呼ばれました。スワミはその家族にしばらく話をした後に、ヒスロップ博士のほうを向きました。以下、ヒスロップ博士の話が続きます。

「しばらくして、ババは私におっしゃいました。“ヒスロップ、あなたの体験を彼らに話してあげなさい。”私はそれに応じて、いくつかの出来事を述べた後、同じ話〔紺碧のお顔を見たことについて〕をしました。その場にいた男性は深く感銘し、彼の口からは次のような言葉が飛び出してきました。“ああ! それは主クリシュナに違いありません!”

ババはにっこりとして、言いました。“ええ、あれはクリシュナでした。あのクリシュナは、芸術家が描いたものでも、作家が想像したものでもありません。私はヒスロップに本物のクリシュナを見せたのです。”」

*この体験談については、サティヤ サイ メール マガジン2012年特別号にも詳細が掲載されています。  http://www.sathyasai.or.jp/mmg_cnt/20120810/speech2.html

ヒスロップ博士は、まさしく特別に選ばれた存在でした。というのは、博士は、ほんのわずかな人しか得られないような多くの素晴らしい経験に恵まれたからです。その一つとして、実際にスワミをあらゆるところに見る助けとなったというヒスロップ博士の体験の記述をここにご紹介します。

「プラシャーンティ ニラヤムに約3年間滞在した後に、私が米国に戻り、飛行機を降りた時のことです。スワミの頭と肩が、私の頭と肩に重ねられたような感じがしました。私はそのように感じたのです。私はスワミの髪も感じました。そこで私は、“ああ、スワミ、アメリカへようこそ!”と言いました。この感覚は3年間続きました。私が行く所はどこでも、スワミがそこに立っておられました。センターで人々に話をした時には、その部屋にいた一人ひとり全員の背後にスワミが立っておられました! すべての人の背後にスワミの頭がありました。壁を見ると、大勢のスワミが立っておられる列〔の影〕ができていました。このようなビジョンも最終的には終わり、私はスワミに言いました。“スワミ、あの現象は、今、終わってしまいました。”スワミはおっしゃいました。“ヒスロップ、すべての現象は一時的なものだということを知らないのですか?” そして、さらにこうおっしゃいました。“君はこれまで、君の側では何の努力もすることなくスワミのヴィジョンを見ることができた。今度は、自らの意志で、君が見るところすべてにスワミを見なければなりません。”それで、私はそうしているのです。」

もう一つヒスロップ博士のたぐいまれな体験談があります。

「ある時、スワミはマドラス〔チェンナイ〕に行って、ある女主人の家に思いがけず立ち寄りました。皆さんもおわかりのように、アヴァターが自分の家を訪れるとなれば、お迎えのために何らかの準備をしたいと必ずや思うことでしょう。たとえば、お花であったり、お盆に食べ物を盛ったりなど、主を家に歓迎するための何かです。この帰依者の場合も例外ではありませんでした。

スワミが玄関まで来られて、ドアをノックしました。その女主人は、スワミが立っているのを見ると、驚きの声を上げました。“ああ、スワミ、スワミ、お会いできてとても嬉しいです。でもスワミ、家に来てくださることをおっしゃってくださらなかったので、私にはスワミをお迎えするための品が何もありません。お花も果物もありません。何もないのです。” かわいそうに、その女性は大変困惑していました。すると、スワミは、“心配は要りません、心配は要りません”とおっしゃり、後ろを向いて車に手招きなさいました。

車から、翼のある2人の天使が、大きな銀のお盆を持ってやって来ました。お盆の上には果物やお花、それから、女主人がスワミをお迎えするのに必要なすべての品が載っていました。天使はそのお盆を家まで持ってくると、その女主人に渡しました。するとスワミは、天使に向かって車に戻ってよい、と合図をなさいました。2人の天使はふわふわと宙に浮いて車へと戻り、羽を閉じて車の中に入り、消えてしまいました!

その後、何年か経って、スワミはもう一つ別の車を取得されました。それはバスで、学生を乗せて遠足に連れていくことがよくありました。ある時、スワミは学生たちをそのバスでマドラスに連れていきました。

まず、スワミは、ご自身が滞在することになっていた、あの女主人の家に立ち寄りました。学生たちはどこか他の場所に滞在する予定でした。家の玄関を開けて、バスにたくさんの学生が乗っているのを見た女主人は、家の中に戻って銀のお盆を持ってきました。そのお盆はまだそこにあって、女主人は学生たちに羽の生えた天使の話をしたのでした。」

ヒスロップ博士は、満たされることのない渇望と共に何年も主を求めて放浪しましたが、スワミは最終的にヒスロップ博士を自らのもとに引き寄せ、神の近くにいるという祝福を授けました。ヒスロップ博士としては、その与えられた機会を、自分のためのみならず人類全体のために最大限に生かしました。博士はサイの大使としてあちこちへ赴き、著書〔当然ながら広く知られている〕や講演を通じてサイのメッセージを広く遠方まで届けるという、サイの召し使いとしての奉仕を捧げました。癌に冒されていた時でさえも、戸惑うことなく出かけて行っては、自らが見つけ出した主についての話をしました。ヒスロップ博士は次のように言っています。

「現代社会では、無味乾燥な喜びのない生活が一般の体験です。世界中で娯楽や快楽を狂ったように追いかけている状況が見られます。今日の文化に巻き込まれた大人からは、ほぼ全世界のいたるところから次のような祈りが湧き上っています。“ああ、主よ、私のハートに新たな春の季節を授けてください。私のハートに、再び、愛の川が深く強く流れますように!”

私にとって、バガヴァン シュリ サティヤ サイ ババの最も驚嘆すべき奇跡の一つは、次のようなものです。鎖に繋がれたハートも、ババの方を向くことによって、あらゆる束縛から自由になることができます。スワミを見ること、そして、スワミは決して見捨てないということを確信することは、最も素晴らしい感覚です。ハートは歓びをもってその信頼に応えます。ババへの愛は日ごとにますます強くなっていきます。ババは帰依者にとって、母なる神、父なる神です。何の遠慮も、構えも、恐れもなく、人はババを愛することができるのです。」

ヒスロップ博士は、最期の最後まで絶え間なくババの御名を唱えていました。博士が肉体を手放した時、周りを囲んでいた友人たちは聖音オームを唱え続けていました。その詠唱は、神の御足という永遠の休息地に博士の魂が旅立った時も継続されていました。その後しばらくしてから、スワミは、ベランダで、一人のアメリカ人帰依者に、「ヒスロップはどこにいますか?」とお尋ねになりました。その帰依者は、あたかもヒスロップ博士が天にいることを強調するかのように、上を見上げました。すると、ババは次のようにおっしゃったのです。「彼は私のところに来ています。善い人です。いつもスワミのことを思いスワミのために働いています。」 これに勝る称賛はないでしょう。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:2004年ラジオ サイ ジャーナル Vol.2 Issue13

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