日付:2011年11月19日・場所:プラシャーンティ・ニラヤム
女性の日

フィリス・クリスタル女史によるスピーチ


皆さん一人ひとりの内に宿るババに対し、サイ ラムとご挨拶を申し上げます。ババはすべての人の中にいらっしゃり、見るものすべての中にいらっしゃるからです。

皆さんは気づかれているかどうかわかりませんが、ババは、亡くなられてからさらに、私たち全員にとって接触しやすくなられ、どこででも、常に私たちを導いてくださっています。

今からだいぶ前、1973年に、夫と一緒にホワイトフィールドにババに会いに行った時のことを思い出します。――当時、外国からの訪問者は非常にわずかでした。当時ババは、私たち夫婦が帰国する直前になると、必ず最後のインタビューを授けてくださったものです―― その時の訪問が私にとってババに接した初めての経験だったので、私は興味津々でしたが、同時に、次はどうすべきかと思っていました。再びインドに戻って来るべきなのか、あるいはただ、今までのように生きるべきか? 当時の私はとても恥ずかしがりやでしたが、なんとか勇気を出してババにこう尋ねました。

「ババ、私たちはどうしたらいいですか? こうしてあなたに会いに来ましたが、また来るべきでしょうか? ババのご助言は?」

私は、この時のことを決して忘れないでしょう。ババは私に指を向けて、こうおっしゃいました。

「まず、あなたは覚えておかなくてはなりません。あなたは、この小さな体に会いに戻って来る必要はありません」

"この体"とおっしゃりながら、ババはご自分の体を指差されました。そして、私がそのメッセージを咀嚼できるよう、少し間を空けられました。次にババは、こうおっしゃいました。

「あなたは、私を、私の分身を、自分のハートの中に見つけなければなりません」 ここでもう一度、間がありました。それからこうおっしゃいました。

「ええ、あなたは戻ってきますよ。エネルギーを回復するためにね」

そうして、私たち以外にも大勢の人たちが、エネルギーを回復するために定期的にここへ戻って来ていました。当然ですね。そして今、非常に多くの人が、次はどうしようと、1973年当時の私のように悩んでいます。そこで私は、まず、ババがあの物理的な体の中に入っていると考えないことが、とてつもなく重要だと感じています。

ある時、ババは私に、すばらしい内面のビジョンを見せてくださいました。ババは、あのババの姿で私のところに来てくださったのですが、見事に輝く"光の体"となっていらしたのです。私は息をのみました。

それはババが腰を痛めて最初の手術を受けられた時のことで、私たちはホワイトフィールドにいました。ババが病院に向かわれた後、ダルシャンホールは完全に空っぽになりました。誰も中に入ることは許されませんでした。ところが、私が内面的に見たビジョンでは、驚いたことに、ババが高座にいらしたのです。でもその姿は、私たちが知っているいつものババではありませんでした。中央にいらしたのは確かにババでしたが、その周りを、すばらしい見事な光が包んでいたのです。そのビジョンが与えてくれるとてつもないエネルギーに、私は圧倒されました。そして、自分の頭の中でババの声を聞いたような気がしました。そういうことは時々あります。ババがおっしゃったのは、次のようなことでした。

「これが私の本当の体です。あなたが会いに来るあの体は本物ではありません」

その光の体を介して、ババは説明を続けられました。その説明によると、ババはご自身を、その本物の体である本物のババから、私たちが知っているあの体に映し出すことができたそうです。さらに、よく実際になさっていたように、ババは世界中どこにでも顕現することがおできになりました。そのような説明が頭に入ってきて、私は本当に驚いてしまいました。そして今、ババはそうしたことを、よりたやすく行うことができます。ババは、私たちが深く愛したあの体には、もういらっしゃらないからです。

確かに、サマーディ(お墓)はここにありますが、ババはここにいらっしゃるわけではありません。もちろんこれがあることで、私たちがかつて、いかに喜んでババに会いに来たかを思い出すことができますが、それがババの最も重要なメッセージではありません。だから私は、ババがこのお墓に埋葬されているというふうには考えられないのです。どうしてもできません。そんなふうに考えるのは、ババを矮小化することです。ババは、どこにでもいらっしゃり、私たち全員の中におわします。

 

今日、皆さんに話すために出かけてくる前から、私は自分がババの死を悼(いた)んでいるという印象を与えることは不可能だとわかっていました。私はババを失ったことを悲しんではいません。私たちは悲しむべきではないのです。ババは私たちにそうしてほしいとは望んでいらっしゃいません。そんなことをすれば、ババの存在を小さくしてしまいます。ババはどこにでもいらっしゃるのです。

以前、ババのインタビューを待っていた時のことを思い出します。ババは私たちを見回し、私たちは、これからババが何をおっしゃるのか、もしくは、何をなさるのかと思いながらババを見ていました。そして、ババはおっしゃいました。

「私たちは皆、電球のようなものです」

私たちは、あっけにとられたようになりました。ババはおっしゃいました。

「ある人は20ワットの光を放つかもしれません。ある人は60ワットや80ワットの光を放つかもしれません。しかし、ババは、何千ワットという光を放っているのです」

私が今日話しかけたいのは、皆さん一人ひとりに宿るババに向けてです。私はババを悼んでいません。そうではなく、私は、ババがあの体から出て行かれたので、胸をなでおろしているのです。あれほどまでに病んだババを見て、私は本当にお可哀相にと思っていました。私たちは、ババがもうここにいらっしゃらないことに、歓喜すべきです。

ええ、もちろん、私たちはババに会えなくて寂しいと思っています。ええ、私たちはババにあれこれお願いをするでしょう。でも私は、ババがこうおっしゃったことも覚えています。

「私は、あなたが欲しがるものを与えます。いつかあなたが、私が与えようと思っているものを欲しがるようになると願って。それを与えるために、私はやって来たのです」

これもまた、ババの最も重要な御言葉の一つです。

大勢の人が私にこう言いました。

「でも、ババはもういません。ババにあれこれお願いすることは、もうできないのです」

いいえ、ババはそこかしこにいますよ。なぜ私たちは、こう尋ねないのでしょう?

「あなたは何を私に与えようとなさっていたのですか? あなたはどのようにして、私をあなたの道具として使ってくださるのですか?」

これがババの最も基本的なメッセージです。これが、私たちの誰もが従うことのできるメッセージです。頭脳明晰である必要はありません。大学の学位も必要ありません。私たちが誰かは関係ないのです。私たちは皆、ババの目には同等に重要な存在です。

このことを初めて理解した時、私は、大いに安堵したことを覚えています。私はイギリスで、非常に厳格に育てられ、いつも、自分はちっぽけで、まったく価値がないに違いないと思わせられていました。だから、"ババの目には誰もが等しい"とババに言われて、本当に安心したのです。

誰かが誰かより下ということはありません。逆に、誰かが誰かより上ということもありません。私たちは皆、同等なのです。私たちはこの体ではないからです。このマインドでもないからです。ババが言うところの、猿のようなマインドではないからです。体やマインドは、私たちの邪魔をするものです。私たちは、本当の自分、つまり内にある光につながらなくてはなりません。何年も前からずっと、ババは私にそうおっしゃっていました。ですから、私たちは世界中どこにでも行ってその光を輝かせること、その光を人々の内に見ることができるのです。それが今現在、最も重要なババのメッセージです。ババはここに埋葬されているわけではありません。絶対に違います。そのように考えてしまうと、ババとつながるのは非常に困難になります。

今、周りにいる人たちを見回して、その人たちにババの御姿を見るべきです。なぜなら、ババが私にあの信じ難い光の体を見せてくれた時、これにも驚きましたが、ババは私の頭の中にこう話しかけたからです。

「今、私があなたに見せているこの光の体に集中すれば、あなたは他の人の内にある光の体にも、あなたの内にある光の体にも近づくことになります」

これがババのメッセージです。これが、ババが私たちにどうしても学んでほしいと望んでいらっしゃることであり、生きるうえで実践してほしいと望んでいらっしゃることです。

確かにババは、すばらしい、すばらしい御教えを授けてくださいました。少々混乱してしまうことは、本当にしょっちゅうあります。どの御教えに従うべきかわからなくなるのです。でもババはいつも、こうもおっしゃっていました。

「ただ、どれか一つに従えばいいのです」

また、何度もこうおっしゃっていたことも覚えています。

「私はあなたに話しかけ、メッセージを書き、教えを記しましたが、私はそれらを毎日の生活の中であなたに実践してほしいのです」

私たち一人ひとりが、年齢に関係なく、男性か女性か、母親か祖母か祖父かなどにも関係なく、全員、ババの愛を放射できるのです。私たちは皆、ババの道具になれるのです。そのためには、常に、

「あなたは私に何をお与えになりたいのですか? あなたはどのようにして私をお使いになりたいのですか?」

と尋ねることです。

あるババの御言葉を読んだことをいつも思い出すのですが、奇妙なことに、ここに来るために家を出る直前、その御言葉が自分の机の上に置いてあるのを見つけました。それは今もって非凡かつ見事なメッセージであり、私たちが誰であるかということに集中すべきだと伝えています。その文の内容とは、次のようなものです。

私たちはババに、「はい」と言わなくてはなりません。でも、「はい、ただし、こんなふうに、あるいは、あんなふうに使ってください」と言うのではなく、「はい、あなたの道具としてお使いください」と言うのです。これがババの最も重要なメッセージです。私たちは、ババのメッセージに、ババのメッセンジャーに、なれるのです。

私たちは、ただ「はい、私を道具としてお使いください」と言うべきであり、自分の望む方法で使ってほしいと言うべきではありません。それは違うのです。他人の望む方法で使ってもらおうとするのも間違っています。果たしてババは私たちをどうお使いになりたいのか、それを問うべきです。

何十年も前にババに初めて会いに行ったとき、私は人前で口を開いて話すことを恐れていました。その数年後、まずババのところへ行ってから私の祖国のイギリスに行く旅程になっていた時があったのですが、イギリスでは生まれて初めてセミナーを行う予定になっていました。その時も私は人前で話すことを怖がっていて、ババはインタビューで私にこうお尋ねになりました。

「クリスタル夫人、なぜそんなに不安がっているのですか?」

私はこう答えました。

「怖いんです。これからイギリスに行って、生まれて初めて講演をしなくてはならないのですが、そんなこと、できません」

すると、ババはすばらしい笑みを浮かべながら私を見て、とてもお茶目な感じでこうおっしゃって、私をからかいました。

「でもクリスタル夫人、あなたは一日中話をしているでしょう?」

私は言いました。

「ええ、でも、話す相手は一度に一人だけです」

ババはおっしゃいました。

「しかし、1 + 1 + 1 = 1 ですよ。すべては一つです」

そしてババは、まったくもって貴重なアドバイスをくださいました。こうおっしゃったのです。

「講演をしている時は、ただ一人のことだけを考えなさい。あなたは、一人ひとりの内にいる神我に向かって話をしているにすぎません。一人に向かって話せばいいだけです」

そして、「あなたを助けますよ」とも言ってくださいました。

その後、私たちはインドを去り、イギリスへ行きました。セミナーで人々の前に立った私は、「ああ、どうしよう」と思いました。参加者は全員セラピストで、非常にピリピリして批判的で、「この女はいったい何を教えようっていうんだ?」と考えているように見えたのです。私は、頭の中でババにこう言いました。

「さあ、あなたが約束してくださったんですから、あなたの出番ですよ」

すると、驚いたことに、言葉が出てきました。そして、その状態はセミナーが行われた週末の間、ずっと続きました。でも、いかにも当時の私らしく、私はこんなことを言っていました。

「まあ、でも、一回だけだわ。また同じことが起こるかしら?」

そして、次の機会が来たとき、私は同じことを繰り返しました。ババが言ってくださった言葉を覚えていたのです。すると再び同じようにうまくいき、この方法はそれ以来ずっとうまくいっています。

私たちは「はい、ババ」と言わなくてはなりません。ここに埋葬されているババにではなく、世界中のあらゆる場所にいらっしゃり、すべての人々の内におわすババに向かって言うのです。

とてもよく覚えている別のインタビューがあるのですが、ババは踊りながら部屋に入ってきて私たちを見回し、こうおっしゃいました。

「私が皆さんの目をのぞきこんだら、誰が見えると思いますか?」

何と答えるべきか、誰一人見当がつきませんでした。するとババはおっしゃいました。

「私があなた方の目を見ると、そこには私自身が映って見えます」

私たちは、誰かの目を見たら、そこにババが映る姿を見なくてはならないのです。今やアシュラムのみならず、ましてそこにあるお墓の中では絶対になく、どこにでもいらっしゃるババを。

私はそのお墓を拝むことはできません。ごめんなさい、私にはできません。代わりに皆さんを拝まなくてはいけません。皆さんは、様々な国に散らばっているババそのものだからです。

私たちには非常に重大な使命があります。私たちは皆、ババのミッション(使命)の一部なのです。それは貴重な機会であり、とてつもない祝福です。次に何が起こるかわかりません。

多くの人が、2012年は何が起こるのかと恐れています。何が起こるかなんて、私たちに関係があるでしょうか? いいえ、どうでもいいことです。私たちが心の底からババに「はい」と言っているなら、ババは、私たちが他の人たちを助けられるようなところに私たちを配置するはずです。心配する必要はないのです。このことは、私のとても長い人生でずっと証明されてきました。ババは、私たちが呼べば、いつでもその場においでになります。プッタパルティにいるのではないのです。そう、ババは、私たちがなれる姿のすばらしいお手本だったのです。あなたは寛大ですか? はい。愛にあふれていますか? はい、もちろん。――それが、ババが私たちに教えたいことです。

私は、ババの愛が自分に注がれてほしいと心から願ってから、ババが元気で、活気に満ち、冗談を言い、笑い、楽しそうにしていたのを思い出すと、ババの愛が実際に私の中に流れ込んでくるのを思い描くことができると知りました。その愛は、私の内なるババからも流れてきます。ババはその、自分に内在するババのことを「ゴッド セルフ」(神我)とおっしゃっていました。私は自分の好みで「ババ セルフ」(ババである自分)と呼んでいます。私たちは、その愛を他の人たちにも放射することができます。

これこそ、私たちが実行すべきことです。そこにもここにも、どれだけ多くの人がいるか見てみてください。一大部隊ですよ。私たちはこれから何をすべきでしょうか? 今こそ、ババのミッションに従わなければなりません。私たちが引き継ぐのです。あのすばらしい御姿をまとったババは、もうここにいらっしゃらないのですから。

ババはいつも、「この姿に執着してはいけない」、「私はいつか去る」とおっしゃっていました。私が思うに、ババは去らなくてはならなかったのです。ご自分をあの体ではないとおっしゃるババの言葉に私たちが耳を貸さないまま、あれ以上長く生きていらしても、私たちのためにならないからです。ババは私たちを解放なさいました。今となっては、私たちはババの分身を自分自身のハートの中に見つけるよりほかありません。

今、隣に座っている人を見てみてください。そして、ここにもババの一例が、あそこにもその一例が、そこにも別の一例がいることに気づいてください。そして、あなたの中にいるババを見てください。私たちは皆、歩く寺院だからです。

ババは、かなり昔のインタビューで、踊りながら部屋に入ってこられ、部屋の中を見回して、こうおっしゃいました。

「あなた方は自分が誰か知りません。あなた方は自分をその体だと思っています。違いますよ。あなた方は皆、歩く寺院です。その寺院、その体に、本当のあなたがおさめられているのです」

ババはもうここにはいらっしゃいません。だから今、私たちはババをお手本として用いるべきです。あらゆる場所ですべての人に愛を注ぐババを。そうすることで、ババがくださった最も重要な御教えを実践することができるように。

世界中どこにいても、ババの愛を放射するのです。光になるのです。すべての人にとっての光となるのです。エゴからではなく、あなたが特別だからでもなく、頭脳明晰だからでもなく、ましてや、私たちの邪魔をする猿のようなマインドだからでもなく。

それから、もう一つすべきことがあります。当然ながら、私たちは自らの光を隠している覆いを確実に取り除く必要があるということです。その覆いとは、私たちが様々に持っている習慣であったり、否定的な性質であったりします。私たちは皆、そうしたものをたくさん持っています。でも、それらを持っていることを常に自覚しているとは限りません。

一つ思い出したのですが、プッタパルティのアシュラムにいた時に、アメリカから来た人で、規則という規則をすべて破る女性がいました。ところが、ババが女性の中で唯一彼女をご自分の車に乗せたため、私たちは皆、肝をつぶしました。そして、当時アシュラムにいた青年たちが大勢、私たちのところにやって来て、こう言いました。

「なぜ彼女があんなにもすばらしい特権を得て、私たちはこんなにも厳格にしていなきゃいけないんですか? あの女性は規則を全部破っているのに。不公平です」

当時、ジャック・ヒスロップは、いつでもババに質問をすることができました。そこで、私たちはヒスロップ氏にこう頼みました。

「青年たちが反抗的になっています。状況が理解できないんです。どういうことなのか、ババに尋ねてくれませんか?」

ババはそれに答えてくださいました。翌朝のことです。場所はホワイトフィールドに移っていて、私たちもその場にいました。ババはジャック・ヒスロップの前に行き、こうおっしゃいました。

「ヒスロップ、質問があるのですか?」

ヒスロップは言いました。

「はい。青年たちがとても悩んでいます。自分たちはすべての規則に従わなければならない一方で、あなたが、規則を全部破るあの女性に、車に乗せるという最上級の特権をお与えになったので、青年たちは苦しんでいるのです」

ババは微笑んでこうおっしゃいました。

「わざとやっているのですよ。あなた方皆の気持ちをかき乱して、持ってはいても誰もが直視したくない、嫉妬やねたみを表に出すためにね」

私たちは自分の問題に取り組むべきであり、他の人を批判すべきではありません。自分以外の誰かを変えることはできないのです。変えられると思うかもしれませんが、その変化は長続きしません。その相手は、あなたを喜ばせるために、善い振る舞いをしてみせるかもしれません。でも、変わりません。あなたがその人に変わるようにと言っても、変わりません。あなたが変えることができるのは自分だけです。



ババとフィリス・クリスタル女史 (第3回サティヤ サイ世界青年大会にて、2007年)

私たちはババの御教えを本当に数多く受け取っています。本当にたくさんの御教えがあります。私たちはその御教えを活用しなければなりません。今は特にそうです。ババはここにいらっしゃらないのですから。ババは、御教えの体現であった肉体を去られました。そしてババは、ご自分の一部として、私たちをこの世に残されたのです。

ですから、悼む(いたむ)のはやめましょう。悲しむ時ではないのです。ババは私たちを解放してくださいました。私たちの魂を自由にしてくださったのですから。ですから、私たちは、自分自身の問題に取り組む必要があります。

「ええ、私は嫉妬しています。ええ、私は身勝手です。ええ、私は強欲です。ええ、私は人をねたみます。ええ、私は怒りを覚えます」

と、自覚できるようにならなければなりません。そして、その自覚した性質を手放すのです。

ババはいつもこのようにおっしゃっていました。

「そのような性質は、私に寄こしなさい。私が対処します」

これが、私たちが実際にババを皆の中に見ることができる方法なのかもしれません。人となりを批判してはいけません。駄目です。それは単なる寺院です。その人の本質は、ババが象徴となり、典型となり、お手本として見せてくださった姿です。

さあ、今、ここにいる人たちを見回して、こう感じてください。

「そう、私も、真我である見事な光の体を持っている」

ここにいるすべての人に、光を送ります。そして、皆さんが出会うすべての人にも光を送ります。そして皆さんは、ババのすばらしい人生を引き継ぎ、ババのメッセージを運ぶ光となるでしょう。オーム サイ ラム。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会

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