サイババの御言葉

日付:1963年9月2日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
クリシュナ神の信者クチェーラにまつわる御講話より

スダルシャナ ―― 善見


昨晩、あなた方がクリシュナ アヴァターラ(クリシュナとなって化身した神)のことを聞いた時、ハートは喜びで満たされ、私にはその喜びがあなた方の目からあふれ出ているのが見えました。その体験であなた方の心も浄化されました。クリシュナ アヴァターラは、世界を守るため、そして、世界を守る方法としてのダルマを強化するために、やって来ました。神がそれらの目的を果たすために人間の姿をとるということは、神の言葉が綴られている本や、それらを知っている偉人たちによって、明言されています。クチェーラ〔クリシュナの同級生〕の物語は、神を礼拝するため、神を敬うために、人はいかにして神を瞑想しなければならないかを述べています。クチェーラは、神に与えなければならないものとは正確にはいったい何なのかを知りました。

神は、贈り物に添えられる気持ち、贈り物を差し出す態度を見ます。神は量や値段には動かされません。ドラウパディー〔『マハーバーラタ』のパーンダヴァ兄弟の共通の妻〕が捧げたのは自分が食事を料理した器の脇に貼り付いていたほんの小さな葉っぱでしたが、クリシュナ神はおかげでお腹がいっぱいになったと言いました。クリシュナの空腹はすっかり満たされたのです。ルクミニー女神〔クリシュナ神の妃〕は、たった一枚のトゥラスィー(聖バジル)の葉を天秤に載せただけでしたが、そこにいっぱいの信愛を込めたので、その葉はクリシュナ神の体重と同じ重さになりました。クチェーラは「打ち飯」〔ライスフレークで作るポーハという炒めご飯〕をいくらか手土産にし、クリシュナ神はおいしそうにそれを食べ、信愛でいっぱいのその捧げものをおおいに喜びました。

いつもサーユージャを最終目的として念頭に置きなさい

真っ白で丈夫できれいな紙と、それと同じ大きさの汚い紙ではあっても銀行で100ルピーと刷られた本物の紙幣は、同じではありません。バクティを刻印することでその「打ち飯」はおいしくなりました。人生という木で成長した、愛という果実を神に捧げなさい。愛の光を強めなさい。そうすれば、悲しみ、妬み、エゴという蝙蝠は暗闇へと飛んでいってしまうでしょう。

いつもサーユージャ(絶対者に帰融すること〔解脱〕)を最終目的として念頭に置いていなさい。サーユージャをあきらめたり、忘れたりしてはなりません。ゆっくりと海へと流れゆく川のようでありなさい。マドラスからカルカッタへの切符を買った人は、自分の行きたい場所がカルカッタであるからその切符を買ったのですから、旅の途中によその場所で旅をやめることはなく、いつも目的地を念頭に置いています。もちろん、途中の光景や景色に興味がわくこともあるかもしれませんし、気分転換のためにどこかで途中下車することもあるかもしれません。しかし、サーローキャ〔絶えず神を黙想していること(解脱への第一段階)〕とサーミーピャ〔神の近くに行くこと(解脱への第二段階)〕とサールーピャ〔神と自分を同一視すること(解脱への第三段階)〕)の間に、どこかよそで家を探すことはしないでしょう。実際、あなた方はそれらの場所には行きますが、それぞれの段階で満足すべきではありません。それらは途中の駅だということを覚えていなさい。それぞれに到着し、それから、その先に行かなければなりません。

クチェーラのエピソードの中で、クチェーラの妻はクチェーラ本人よりも重要な役を担いました。クチェーラの妻のほうがバクティ〔信愛〕が深かったのです。実際、女性のほうが男性よりも信愛が深いものです。女性のほうが自分の心を制することができます。子供たちにお腹いっぱい食べさせることができるよう、クチェーラをクリシュナ神のところに行かせるようにと促したのは、妻の母性愛でした。妻はクリシュナ神を信じていました。クチェーラは躊躇して、クリシュナは私のことがわからないかもしれない、私のことを覚えていないかもしれない、私を宮殿の中に入れてくれないかもしれない、私の敬意を受け取ってくれないかもしれない、と主張しました。

真のバクタには神への恐れがあるべきではない

『バーガヴァタ』〔ヴィシュヌ神の化身たちの物語集〕の中で、クチェーラは絶えず神を瞑想していたと述べられていますが、そうであるなら、どうやってクチェーラのこれらの疑念を説明したらよいでしょう? クチェーラの妻は、一切の疑念を捨てて少なくともクリシュナの宮殿の門まで行くようにとクチェーラをせきたてました。少なくともクチェーラがそのささいな難儀を果たしたなら、クリシュナはクチェーラを中に入れてくれるはずだと妻は確信していました。当然、火はすべてを暖めますが、そのためには、人は火のそばに行かなければなりませんね? 遠くにいながら、火は私を暖かくしてくれないと文句を言うことはできません。クチェーラがあまりにも緊張していたので、妻は門のところに行くようにとクチェーラを説得するだけでせいいっぱいでした。

ひとたび行くことが決まると、クチェーラの妻は雨の日のために隠しておいたわずかな米が一つかみあったのを取ってきました。妻はそれをお湯で煮て、鍋から取り出して、乾燥させ、それから火であぶり、学生時代のクリシュナの好物だったとクチェーラが言っていた「打ち飯」をこしらえるために、それをすりこぎで何度も強く打ちました。その「打ち飯」を自分が着ている服の布の端に結び付け、クチェーラは出かけていきました。一歩踏み出すごとに恐れが募りました。真のバクタ〔神を信愛する者〕にはそのような恐れはあるべきではありません。バクタは、権利として神のもとに行き、当然与えられるべき恩寵を得なければなりません。

もちろん、クリシュナ神はアールタ(苦悩する者)とアルタールティ(富を求める者)にも、ジグニャース(霊性の知識を求める者)とグニャーニ(解脱を得た者)にも、慈悲を注ぎます。アールタ(苦悩する者)は病気で苦しんでいる人です。アルタールティ(富を求める者)は貧困に打ちひしがれていて繁栄と幸運を求めている人です。ですから、クリシュナはクチェーラを中に呼び、喜びを抑えきれずに、グルの御足のもとで共に過ごした学び舎での幸せな日々をクチェーラに思い出させました。さらには、普段食べるような供物をぼろぼろの服の布の端に結わいてあるのを隠そうとしてクチェーラが身をくねらせていると、クリシュナはそれを見つけて、とてもおいしそうに食べはじめたのです。

主は貧困を裕福に変えることができる

クリシュナがその三つかみ目を手にした時、ルクミニー女神はクリシュナの手をつかんだと言われています。一般的に、解説者たちが説くその理由は、もしクリシュナがあと何つかみか食べたなら、クリシュナ神の富のすべてがクチェーラのところに行ってしまうのではないかとルクミニー女神は心配したというものです! なんと馬鹿馬鹿しい考えでしょう! それはまるで、神の富は尽きてしまうものであり、神はバクタが神の富のすべてを持っていってしまわないように気をつけている、つまり、全宇宙の母が贈り物を出し惜しみしているということになってしまいます! そんなことは決して本当ではありません! ルクミニーがクリシュナの手をつかんだ本当の理由は、ルクミニーは信愛に満ちたハートの捧げもののおすそ分けを要求したのです。ルクミニーは自分も一盛り欲しがったのです。ルクミニー女神には、そのおすそ分けをもらう権利がありました。

クチェーラは、かなりがっかりしてドワーラカを去りました。なぜなら、なんの施しも、施しの約束ももらえなかったからです。クチェーラは、家族とお腹を空かせた子供たちのことを思い浮かべて悲しくなりました。クチェーラは深い悲しみに呆然となり、そのため、自分の家が大きく変わっていることに気づかずに、家の前を通りすぎてしまいました。クチェーラの家は一晩で大きな屋敷になっていました。クチェーラの妻は、クチェーラがいるのを見て呼び戻し、クリシュナ神の恩寵によって突然どのように自分たちに幸福が注がれたかを話して聞かせました。

語る言葉を和らげ、行いを神聖なものにせよ

クチェーラの霊性修行は、その日に始まりました! それまでは、クチェーラは単なる儀式主義者で、シャーストラ〔経典〕に定められている外的な儀式の型を繰り返していました。クリシュナ神が自らの奇跡の力によっていかに貧困を裕福に変えることができたかがはっきりとわかった時、クチェーラは、永久に続く、衰えることのない喜び、つまり、サーユージャ(絶対者に帰融すること)を確実にするために、神の恩寵を勝ち得ようと決意しました。クチェーラは、スダルシャナ〔善見/「ス」=善、「ダルシャナ」=見ること〕、すなわち、自分にとって何が良いかを見る目を得ました。そして、今の自宅にあるあふれんばかりの財宝の中で、何の執着も持たずに禁欲者の生活を送りました。クチェーラは、今の裕福も、以前の貧困も、すべては夢だとわかったのです。

皇帝が、自分が物乞いになった夢を見て、ある家の戸口で手を伸ばし、施しを断られて泣き、別の家の戸口でお腹いっぱい食べられて、大喜びしました。夢から覚めると、もう自分は貧乏ではなく、皇帝でした。しかし、それさえも夢であり、錯覚なのです。

ブラフマンだけが真実(サット)です。プラクリティは非真実(アサット)です。いつもこのことを自覚していること、それは最高の霊性修行です。スダルシャナ(善見/神のヴィジョン)を求め、あなたの語る言葉を甘いものにし、あなたの善行を捧げ物にしなさい。これは三重の道です。

子供になって、あなたの自惚れとプライドを失くしなさい。あなたがまだグナ〔鈍性・激性・浄性という三属性〕の領域にいて、欲望(良いものへの欲であれ、壮大なものへの欲であれ、卑しいものへの欲であれ)が動機となっている時には、あなたは自分で母親を捜し求めなければなりません。あなたがグナの足かせ(欲望の誘惑)から自由になった時、母のほうから急いであなたのところにやって来て、あなたを自分の膝に乗せ、愛情込めて撫でてくれるでしょう。あなたの見る目を清めること、あなたの話すことを甘くすること、あなたの行いを神聖なものにすること――解脱はこの道に横たわっています。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.3 C20

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