サイババの御言葉:サンカルパ

日付:1963年10月28日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭連続講話Gより

サンカルパ


カルッリ・ヴィーラバドラシャーストリは今、20日から始まったスワーディヤーヤ グニャーナ ヤグニャ(自己を悟るための供犠)〔ヴェーダの英知の供犠〕の終了を宣言しました。しかし、このヤグニャ(供犠)に終了(サマープティ)はありません。一生がヤグニャです。生涯にわたるヤグニャはいつ終了を迎えるのでしょう? 私が教えてあげましょう。「サマ」は、神(ブラフマン)を意味します。「アプティ」はプラープティ、すなわち、到達、到着を意味します。神に到達した日、到達した時に、人生というヤグニャが終了したと言うことができるのであって、それまでは言えません。今日の終了は一連の儀式の終了にすぎません。聴くこと(シラヴァナ)、反芻すること(マナナ)、深い瞑想(ニディディヤーサナ)を通じて、あなたがどこにいてもヤグニャを続けていきなさい。

シャーストリは今日、クリシュナとルクミニーの結婚(ルクミニー カッリャーナ)〔ルクミニーはクリシュナを慕っていたが、兄のルクミンによりシシュパーラ王と結婚させられようとしていたところ、クリシュナが現れてルクミニーを奪い自分の妻にした〕の話をしました。この話は単に結婚の話なのではありません。この結婚はプルシャ〔全能の神、原人、男性原理〕とプラクリティ〔自然界、現象界、原質〕の結合です。ブラフミン〔バラモン、僧侶階級〕の仲介はヴェーダの権威の象徴であり、それを通してのみ二者の融合が知られるのです。ルクミニーはジーヴァ(個我)であり、クリシュナはパラマートマ(至高我、大我)です。ルクミニーはプラクリティから課せられた規則と制限に苦しんでいます。アハンカーラ(エゴイズム、自我意識)がルクミニーの兄です。俗心がルクミニーの父親です。しかし、自らの善行(サダーチャーラ)のおかげで、ルクミニーの心(マインド)は神の上で落ち着いて動かなくなりました。そのため、ルクミニーは神にたどり着く方法を講じることができたのです。

人は自分の刑を全うするために生まれる

ルクミニーの祈り、悔い改め、切望、不動心は報われました。ルクミニーは結婚の儀式の前にガウリー プージャー(宇宙の母なる女神への礼拝供養)をしに出かけて行きましたが、この古くからある善い行動規定を守ったために、ルクミニーは最終的に救われたのです。ルクミニーはその寺院で神への礼拝に集中し、そのおかげで、横になって待っていた神の手で束縛を解かれたのです! 両親も兄も、そして親戚全員が異議を唱えましたが、人は自分の運命を切り開くために生まれるのであり、他人の劇で役を演じるために生まれるのではありません。人は自分の刑を全うするために生まれます。刑を果たし終えれば、人は自由になります。あなたはずっと監獄に入っているわけではなく、親しくなった囚人仲間がまだ中にいるからと言っても、そうはいきません! ルクミニーはそれ以前にクリシュナに会ったことはなかったという事実を考えてみなさい。前もって求婚されていたということもありませんでした。魂が切望し、魂が勝ち得たのです。二人が会っていたのは精神の領域においてでした。

これは通常の結婚ではありません。けれども、この結婚について書いたり、講談(ハリカタ)をしたりする人々は、これを片意地な娘と気楽で無鉄砲な若者のロマンティックな冒険活劇として物語ります! しかし、この結婚はタットとトワム(「あれ」と「これ」)の融合です。同じ物でも、近くにあると「これ」と呼ばれ、遠くにあると「あれ」と呼ばれます。「これ」は「そこ」です(「あれ」が「ここ」でなくて「そこ」にある場合)。タット〔「あれ」〕はトワム〔「これ」〕と同じもので、ただ遠くにあるだけです。なぜ遠くにあるのでしょうか? なぜなら、それは理智にも、五感にも、言葉にも手が届かないところにあるからです。

ブラフマンの把握は自らの体験によって決まる

至高神にまるわる人の体験を伝えるには、言葉では不十分です。実際、それを試みることですら、幸運な聖賢の能力によっても及びません。二人の巡礼者が森を通り抜けていたときのことです。木の下に腰を下ろした二人は、人間が様々な「母親」に負っている恩について話しはじめました。一人がその「母親」たちを列挙しました。自分を産んでくれた母親(マータ)、母なる牛(ゴーマータ)、母なる大地(ブーマータ)、そして、母なるヴェーダ(ヴェーダマータ)です。話は乳牛への礼拝供養(ゴープージャー)の重要性へと移り、乳牛という意味の「ゴー」は、正確には何を表しているのかという論議になりました。その議論は、尻尾、二本の角、四本の脚、乳房といった、乳牛が有する典型的なものに関する討論に発展しました。二人は立ち上がると、それらの特徴を具えている動物を探そうと長いこと歩き回りました。そして、とうとう、水牛がいるのを見つけ、二人は心ゆくまで水牛を礼拝しました。同様に、フラフマンの概念も各人が具えているものと経験によります。一人の男の人が、お父さん、息子、おじさん、お爺さん、いとこ、甥、夫などと呼ばれますが、それはその男の人が何人もいるということではありません!

われらがヴィッドワン マハーサバー〔ヴェーダを復興するためのヴェーダ学者の会〕は、すべての人の心にこの真理を根付かせます。マハーサバーが何かの信仰を非難したり、人々を新しい信仰に誘ったりすることを求めることはありません。マハーサバーは、サナータナ ダルマ(古来の永遠普遍の法)がいつもそうしてきたように、霊的な努力においてポジティブな態度を育むこと、自分が今どこにいようとも主なる神の方へと前進するよう万人を励ますことに従事します。人は、主なる神を自由に自分の好きな姿に思い描いてよいのです。他の人の信仰について言及するとき、辛辣な言葉を使ってはなりません。なぜなら、信仰は貴重な植物であり、辛辣さはそれを枯らせてしまうこともあるからです。真理を知りなさい、至福を体験しなさい――これがヴィッドワン(学者)たちが伝えるメッセージです。

「至福は人の本質である」と言う人は、自分自身が至福に満たされている責任があります。あなた方は、誰かが憂鬱そうにしているのを見ると、その理由を尋ねます。なぜでしょう? なぜなら、憂鬱は不自然なことだからです。それは人間の本質に反することです。水はひんやりとしていますが、それが水の性質です。それゆえ、氷のように冷たいアラカナンダー川のほとりにあるバドリーナート寺院の前に湧き出ている温泉は、驚異の目で見られるのです。人に「かくあれ」と言うあなた自身が、かくありなさい。人々は、自分の経験からものを話す人だけに従うでしょう。

シャーストラは霊性修行者の経験を基盤としている

川岸〔プラシャーンティ・ニラヤムの近くを流れるチットラーヴァティー川の岸〕にいた人たちが、ここでこの川を渡ることはできるか、どうすれば渡れるか、を知りたがりました。その人たちは、よそからやって来た人でした。足の不自由な男が、

「ここを渡るのは危険だ。もっと川下へ行きなさい」

と言いました。人々はその男の言うことを信用しませんでした。なぜなら、その男に歩いて川を渡ることはできなかったからです!

盲人はこう言いました。

「渡れるさ。ただし、初めは左寄りにしばらく進んで、それから右の方に行けばね」

と言いました。人々はその助言には従いませんでした。なぜなら、その男がそれを知っているわけがないからです。その男は誰かに手を引いてもらって渡ったはずです。

最後にやって来た男が、自分が渡らせてあげましょうと名乗り出ました。

「ここはよく渡っていますよ。私は向こう岸に住んでいて、こちら側の土地も持っているのでね」

そこで、人々はその男を信用して後ろについて行き、無事に対岸に渡ることができました。

小さな子供は大人たちから名前や物事を教えられます。子供は、「それは犬」、「あれは木」、「あれは石」などと言います。これは何かと聞かれると、「人」だと言います。どうして知っているのでしょう? そう言われたからです。動物、植物、木、鳥、人間の特徴は大人に教えられたのであり、子供は大人を信じているので、言われたことを頭から信用します。では、なぜあなた方はそれと同じように神を信じることができないのですか? あなた方は神についても言われています。あなた方が神を目で見ることができるよう、神は様々な特徴を具えて存在しているのだと、あなた方は何万年も言われ続けてきました。

シャーストラ(霊性の科学)は、神の印はかくかくしかじかであると宣言しています。シャーストラは霊性修行者たちの経験を基盤としており、何はともあれ真正性があります。多くの物事は、それを語る人の信頼性、偏りがないこと、造詣の深さによって、完全に信用できるかどうかが決まります。聖賢たちには偏見がなく、人をだまそうとか、誤った方向に導こうといった意図はありません。

愛だけが愛を理解することができる

もしあなたが自分もその経験を得なければと感じるならば、あるいは、もしあなたが信じないなら、よろしい、来て、体験しなさい。単に、一日来て、

「私はサティヤ・サイ・ババを見た。彼は上等な長いローブを着ていて、見事な髪をしていた」

と言って翌日立ち去ってしまうなら、意味はありません。もし周辺のホテルをぶらついたり、カードゲームに興じたり、噂話に耳を傾けたりして時を過ごしていたら、どうやって理解できますか? 見出す決意をし、学ぼうと決め、それに没頭しなさい。そうすれば知るでしょう。

今、そして過去の何十年間、何万という人がやって来ました。多くの人は知りたいという願望を持っていません。知りたいという望みを持っている人の多くも、五感で受けた印象ではなく実際の心(マインド)の経験に注意を向けなければならないという事実に気づきません。何かを凝視していても、あなたの心がそれに焦点を合わせなければ、あなたはそれを認識できません。あなたの体がこの会場にあっても、耳はホテルにいて、目は周囲を見回していたら、何を学べますか? 愛(プレーマ)を理解することができるのは愛だけです。

愛は話し方であり、真理は話の中味、ダルマは言葉です。平安はその話が目的とする結果です。実際、私は愛の化身(プレーマスワルーパ)です。私はあなた方に至福を与えるために努力を払っていますが、私に休憩は不要です。この供犠(ヤグニャ)のすべて、この学僧たちの集まり、このヴィドワン マハーサバーは、あなた方の至福のためです。

ダルマの確立という偉大な任務に加わりなさい

もしこの取り計らいの一切がどこか他の場所でなされていたら、どれほどの大騒ぎになっていたことか! 人々は寄付をしてくれそうな人々のリストを持って土地を探し、この人はどうか、あの人はどうかと迷い、最後には自分たちの手柄を自慢するでしょう。しかし、ここではそういったことについて知る者は極わずかしかいません。それはすべて、それ自体の善の力によるサンカルパ(神意の力)が働いているからです。そして、あなた方は私に何を持ってきましたか? 涙だけです! 来たときには悲しみの涙、帰るときには至福の涙です!

私はどんな行事や計画にも執心しません。私はまったく失敗を恐れません。なぜなら私は、私の計画は必ず成功することを知っているからです。このプラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバーも、何か新しいものではなく、古代よりの永遠のもの(サナータナ)であり、今、再び昔からの使命に取り掛かろうとしているのです。ダルマの確立(ダルマスターパナ)というこの仕事は、何度も何度も繰り返し為されます。あなた方には今、それを分かち合うチャンスがあるのです。ですから、この偉大な任務に加わって、自分の人生を価値のあるものにしなさい。

学僧たちによる夕方の講演と私の講話(サムバーシャナ)は、明日から止めなければなりません。なぜなら、あなた方の中には私に見てもらおうと、悲しみ、不満、困難、問題という重荷を担いで来た人たちがいて、私はその人たちとの面会を始めなければならないからです。これも私の仕事であり、私は喜んでそれに精を出すつもりです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.3 C34

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