サイババの御言葉

日付:1965年3月1日午後8時・場所:プラシャーンティニラヤム
マハーシヴァラートリの御講話(中)より

死ぬことで不死となる


マハーシヴァラートリは、マヘーシュワラ〔大いなる主/シヴァ神〕が霊性の求道者たちのためにリンガの姿をとる日です。求道者がマヘーシュワラに求めるべきものは英知(グニャーナ)です。

グニャーナム マヘーシュワラー ディッチェード 英知こそが人の中に隠れている神性を現出させる

これこそが、すべての苦行(タパス)、すべてのヨーガ〔神との合一のための行〕、すべての供犠(ヤーガ)の最終的な達成目的です。この世の快楽を追い求めながらその歓喜を得ることはできません。その歓喜の断片を得ることすらできません。夢でコブラに噛まれたあなたを治すためにすべきことは、あなたが目覚めること、それだけです。「目覚める」とは、英知を獲得することです。英知は、全能の神の栄光と力を絶えず瞑想することによって得られます。

幸せな生活のために欠かせないことが二つあります。それはディヤーヤ(穀物)とディヤーナ(瞑想や座禅)です。ディヤーヤ(穀物)は肉体を維持することであり、ディヤーナ(瞑想や座禅)は主の寺院の中に入って神の栄光に帰融することです。シャーストリ〔御講話の前に講演をした学僧〕は、聖仙たちは森の静寂の中に隠遁し、人類のために、厳しい精神修養によって霊的な経験とインスピレーションという偉大な宝を勝ち得た、と述べました。シャーストリはそうした聖仙の例を数多く述べましたが、人々の中には、そのようにして人ごみから逃れることを責め、英雄たる隠遁者たちを、生活という重荷に立ち向かうことを恐れる臆病者と呼ぶ人もいます! 彼らは隠遁者に、自分が救われることを望んで自分以外の人のことは考えない自分本位な人、というレッテルを貼ります。

隠遁者たちが独居を避けどころとする本当の理由は、人類のために解脱の秘訣を習得するためです。それは、昨今、高度な技術訓練を求めて外国に行く若い男性と同じです。経験を磨いて深め、役に立つ人間になることがまさしくその目的なのですから、臆病者だとか、社会の役に立たない人間だといって彼らを責めることはできません! 隠遁する聖仙たちの目的は、道をはずれた楽しい物事から五感を引き離していること、歓喜の泉を損うであろう汚染を逃れることです。

激情は表側のものにすぎない

アシュラムやタポーヴァナ〔苦行をするための森〕にいる時に聖仙たちが専心するアートマ ヴィッディヤー〔内なる神の英知〕は、彼らのもとに後からやって来る人すべてに救いをもたらします。聖仙たちの平穏と歓喜は他人をも感化するのです。あなた方は、聖仙たちは自分たちを見捨てたといって文句を言いますが、あなた方のもとにいる人たちはいったいどんな善を行い、何を達成したでしょう? 家族と同居していても、人は家族に対して蛇や蠍のように振る舞っています。多くの家庭は、居心地のよい喜びと安らぎの住まいというよりは、動物園を連想させます!

今朝、私は、怒り、憎悪、妬み、慢心は、心を焦がす炎であるということを話しました。そうした激情は表側だけのものであり、本当のあなたはそれらに煩わせられないと、デリーから来たシャーストリは先ほど言いました! それを聞いて、私はある話を思い出しました。ある少年が、家のキッチンにある缶や容器にそれぞれ何が入っているかをラベルに書いて自分が貼ると提案し、母親はそれに同意しました。少年は、全部の缶や容器に正しい内容を書いたラベルを貼りましたが、砂糖の入った缶にだけは「赤唐辛子」というラベルを貼りました! そのことを叱られると、

「そう書いておけば蟻が寄って来ないだろうから、蟻を騙すためにそうしたんだ!」

と少年は言いました。表面だけのヴェーダーンタでは激情の火を遠ざけることはできません。

もちろん、表面的なものも時には役立ちます。たとえば、コブラはシューッという音を出して威嚇して、相手を近づけません。怒りと憎悪は、求道者に忍び寄ってくる悪を撃退するのに使うことができます。あなたの道を阻む物事を怒りなさい。あなたを動物的にさせる習慣を憎みなさい。英知を培い、物事や行いの中に神を見なさい。それは人として生まれた今生を価値のあるものにしてくれます。

人のあら捜しをしてはなりません。なぜなら、人はあなたが顕現させたいと思っている神の現れにほかならないからです。あなたが人に見る欠点は、あなた自身の欠点です。この世には二つのものがあるだけです。一つは表面的なもの、もう一つは本当のものです。つまり、場(クシェートラ)と場を知る者(クシェートラグニャ)です。場(クシェートラ)は体(デーハ)であり、場を知る者(クシェートラグニャ)は肉体に宿る者(デーヒ)です。世界(ローカ)は世界の主(ローケーシャ)の姿形です。つまり、世界は神の体なのです。

死を解脱という最高の行為に変えよ

十分な英知を得たと感じると、あなたは起きます。しかし、起きると、あなたは一ではなく多を認識します。あらゆる多様性が消え去るのは、あなたが熟睡している時だけだからです。熟睡時、あなたは世界とそのだまし絵を認識しません。起きている間に、夢を見ている状態と熟睡状態についてよく調べ、真理の探求者にとって、眠らないでいるのは不利であるということを知りなさい。五感は当てにならないもので、有能な道具ではありません。

ある時、ラーマクリシュナ パラマハンサはラーニ ラーシュマニ〔ラーマクリシュナが住んでいた寺院の持ち主の女実業家〕の頬をぶち、皆を驚かせました。それはラーニがドッキネッショルの寺院で祈っていた時のことでした。その理由というのは、彼女は解脱ではなく束縛を母なる女神に求めていた〔自分の裁判の行方について考えていた〕ということが、ラーマクリシュナにはわかったからです! あなたに自由を与えてくれるこのチャンスを有効に使いなさい。愚かにもそのチャンスを逃してはなりません。

おそらく皆さんは、自分の村に戻ったら、「プッタパルティにはインドの国中からやって来た大勢の人がいた。外国から来た人もいた。ババのダルシャンを得ようと大勢の人が殺到していた」といったようなことを人に言うのでしょう。それはあなたがここから持って帰るべき土産話ではありません。以前、ある女性がプラーナの物語に節を付けて語るのを聞きに行った時のことです。彼女は長い時間ずっと会場に座っていました。彼女の土産話は、聴衆のことと、その騒々しさについてと、ライトとマイクとスピーカーのことだけで、語り部がどんな物語を語ったかについてはまったく覚えていませんでした! ここでは、静寂、ナーマスマラナ〔唱名〕、バジャン、ジャパ、ディヤーナ〔瞑想や座禅〕、主を一心に憶念すること〔スマラナ〕、霊的に同じ仲間との交流〔サットサンガ〕の価値を学びなさい。これらはあなたが苦悩に襲われた時、大いに役に立つでしょう。

一家の主の死に際に、妻と子供がこう言って主人を困らせました。

「あなたが逝ってしまったら、私たちはどうなるの?」

死にかかっていた男は、

「私が逝ってしまったら、私はどうなる?」

と問い、亡くなりました。

どうすることもしないまま、死という運命に向かってはなりません。肉体は朽ち果ててもかまいませんが、精神的に死んではなりません。本当のあなたは不死であるということを知りなさい。死を解脱という最高の行為に変えなさい。

霊性の追求における三つの規律

こうした知恵は、ダルマ ニシタ(ダルマの規律/堅実に道徳律を守ること)とカルマ ニシタ(カルマの規律/堅実に人生の四つの段階における義務を果たすこと)に身を捧げる生活を通してこそ、生じます。この二つのニシタ〔規律〕は、第三のニシタへと進むことで終わらなければなりません。それは、水と火が蒸気を作り出して貨車を進ませるのと同じです。あるいは、油と空気がエンジンのガスを作り出して車を進ませるのと同じです。第三のニシタはブラフマ ニシタです。それは、多に見える一なる基盤であるブラフマンを堅実に黙想することです。ニシタ〔規律〕は積み重ねによって堅実なものとなります。それは、あなたという個別の人間存在を大いなる英知の雨に融合させ、あなたを神に帰融させます。もっと正確に言うならば、あなたを神へと復元するのです。

今日、何万人もの人が、ここプラシャーンティ ニラヤムにやって来て、この比類なきサットサンガ(聖なる集まり)に参加しています。アートマ リンゴードバヴァム〔アートマが卵形のリンガとなって現出すること〕を見て自分を高めるために、これまで毎回シヴァラートリに来ていた多くの人が、今日は来ていません。一方、これまで来たことがなかった多くの人がここにいます。これはただのチャンスではありません。霊性の分野では、いや、すべての分野において、このようなチャンスはどこにもありません。これほどの幸運は、神の恩寵か自分自身の霊性修行のどちらかの賜物です。祈りに満ちた静寂の中に入って、アートマ リンガが出現する大いなる光景を見ることによって祝福されなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C9

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