サイババの御言葉:今、三つが一つの中に

日付:1967年7月28日・場所:プラシャーンティ・ニラヤム
クリシュナ神降誕祭の御講話より

今、三つが一つの中に


今日は神聖な日です。今日、信者たちは主の威厳と光輝に浸り、主の御名の甘さを味わいます。主の信者たちにとって、御名はたいへん愛しいものです。なぜなら、『バーガヴァタ』全編に主の御名がちりばめられているからです。クリシュナ アヴァター〔神の化身〕は完全な化身であり、十六の栄光の側面すべてを備えていました。ラーマ アヴァターの場合は、その十六のうちの三つは三人の弟〔ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナ〕が一つずつ備えており、一つは同時代に生きたパラシュラーマが備えていました。ラーマがパラシュラーマに出会って打ち負かし、所持していた神の力の一片を得るまでは、パラシュラーマがその一つを所有していたというわけです。他の化身たちは、一人の邪悪な人物、あるいは邪悪な者たちの集団が体現する悪を鎮圧するという、その場限りの目的で化身しました。しかしながら、ラーマ アヴァターとクリシュナ アヴァターは、もっと全体的な目的、ダルマを復興するため、徳高い者たちを養うためという使命と、それに加えて、悪者を懲らしめ、悪は続かないということを世界に教えるために化身しました。人間は、人間性と動物性と神性の混合物です。人間が自らの動物性を取り除くことができなければ、それは悲劇です。人間が自らの神性を育てることができなければ、それはさらに大きな悲劇です。ラーマ アヴァターやクリシュナ アヴァター、および、それぞれのリーラー(神聖遊戯)とマヒマー(奇跡の力)を黙想することは、人間に内在する神性を育むもっとも確実な方法です。

どの化身の場合も、化身が降臨する前に、化身が務めを果たすための協力者二人がやって来ます。それはマーヤーシャクティ(幻力)とヨーガシャクティ(神と一体化させる力)です。マーヤーシャクティは、悪者に警告するために、姉となってやって来ます。ヨーガシャクティは、いつもいっしょにいる仲間たちを夢中にさせ、とどまらせておくために、兄となってやって来ます。マーヤーシャクティはカムサ〔幼少時のクリシュナを殺そうとした王〕をじわじわと破滅に追いやり、そのためにカムサの失脚は、さらにひどい、見せしめとなりました。しかし、このカリの時代には、悪者は愛と慈悲を通じて、更正され、再建されなければなりません。それゆえ、このアヴァターは、武器を持たずにやって来たのです。このアヴァターは、愛というメッセージを持ってやって来ました。下劣な者、悪意のある者を変えることができる唯一の武器は、愛を込めて唱える神の御名です。

カーリンガのエピソードは人類への偉大な教訓

御名には神の栄光の香りが付いています。ですから、御名が心の中で回転すれば、御名は心を幻から自由になるための道具へと変えることができるのです。クリシュナ神に付けられた「ナヴァニータチョーラ」〔バター泥棒〕という御名を例にあげましょう。この御名は、人々が保管していたバターを取って逃げた人物を意味しているのではありません。クリシュナが盗んだのは、凝乳をかき回して作る、いわゆるバターではありません。それは、「世俗での経験」と呼ばれる凝乳から、「切望」と呼ばれる攪拌プロセスによって得られる、「信仰心」というバターなのです。クリシュナが欲しいのは、このバターでした。ヤショーダー〔クリシュナの育ての母〕がこの「盗み」のことで幼子クリシュナを叱ったとき、クリシュナはこう言い返しました。

「でも、お母さん、みんな、僕がそれを盗むのが好きなんだよ。僕が盗まなかったら、みんな残念に思うよ。みんな、ただそれをかき回しているんじゃなくて、僕に盗んでほしいと思ってかき回しているんだ。僕が盗むと、みんなのハートが光って、みんな目を覚ますんだ」

クリシュナが自らが人々の間に降臨した神性を明らかにして皆をびっくり仰天させた、幼少期のすばらしい冒険談の中でも、カーリンガ〔カーリヤ〕のエピソードは一番意味深いものです。大蛇カーリンガは、有毒な息でヤムナー河の水と周辺の空気を汚染していました。その地域に近づいた者は、人でも牛でも皆、死んでしまいました。しかし、神なる少年クリシュナは、ヤムナー河に飛び込んで、悪臭のする大蛇を河の奥底から水面に誘い出し、大蛇の鎌首に飛び乗って、その上を小さくて柔らかな蓮華の御足で踊ったのです。クリシュナの柔らかな絹のような足の裏で踏んで押すだけで、牙から猛毒を出させて抜いて、怪物のようなコブラを永久に無害なものへと変えるには十分でした。

あなたの内なる神性に心を支配してもらいなさい

これは人類にとってすばらしい教訓です。このリーラーは、この時より以前に幼子クリシュナの超人的な力と英知を証明した数々の出来事とは、大きく異なります。クリシュナは、嵐の悪魔〔トリナーヴァルダ〕に吹き飛ばされ、子牛の悪魔〔ヴァッツァ〕に体当たりされ、荷車の悪魔〔サクト〕に押し倒され、鸛(こうのとり)の悪魔〔バカ〕につつかれ、乳母の悪魔〔プータナー〕に毒を盛られました。〔いずれの場合も幼子クリシュナは神の力を使って奇跡的に相手を倒して殺した。〕 疑い深い無神論者たちは、おそらくこれらの奇跡を、偶然、あるいは、誇張された話だといって片付けるでしょう。しかし、カーリンガのエピソードは、霊性修行における価値のある教訓なのです。

万人の内にあるマーナサ サローヴァル(深く穏やかな心の湖)には、情欲、怒り、貪欲、執着、傲慢、憎悪という六つの鎌首のある毒蛇が潜んでおり、空気を汚し、近づいた者すべてを滅ぼしてしまいます。神の御名がその湖に飛び込んで奥底にたどり着くと、その毒蛇を力ずくで水面に浮かび上がらせて、退治することができます。ですから、あなたの内なる神、クリシュナに、心を支配してもらいなさい。シューッという音を立てて牽制する鎌首をクリシュナに踏みつけてもらい、邪悪な蛇を飼い慣らしてもらいなさい。毒を吐かせて、浄性の甘美なものにさせるのです。これこそが、カーリンガのエピソードが教えている霊性修行であり、課している義務なのです。

他のすべてのアヴァターと同様に、クリシュナは自らの降臨を、少しずつ、段々と、大衆がどれくらいその実体を受け入れるかをそのつど試しつつ、世界に知らせました。当時も今と同じように、自らはアヴァターであると宣言するために、しるしと奇跡が示されました。

まだ幼いクリシュナが揺りかごの中にいたときでさえ、ヤショーダーが驚かされたことがありました。ある日、ヤショーダーは、クリシュナを寝かせるために、子守唄を歌いながら、物語を語り聞かせていました。それは『ラーマーヤナ』の物語で、いかにしてダシャラタ王が四人の息子を持ち、いかにして長男のラーマが育っていったか、ラーマが王位を継承するはずだったのを、いかにして継母がラーマの父にかけあってラーマを14年間森へ追放させるようにさせたか、いかにして金色の鹿がラーマの最愛の妻の前に現われたか、策を講じてラーマを庵から追いやり、ラーマがいない隙に妻をさらって自分の島の王国に連れ去った邪悪なラーヴァナを、いかにしてラーマが追いかけていったかを! ヤショーダーがそれを語ったとき、クリシュナはとても怒った様子でした。クリシュナは片手を上げて叫びました。

「ラクシュマナ! 僕に弓矢をおくれ!」

ヤショーダーは、ラクシュマナはラーマに連れ添って森に行った弟だということを思い出し、ラーマだったお方が、クリシュナとなってこの世に再びやって来たのだということを確信させられたのでした。

クリシュナの再来が明かされる

チャイタニヤも、幼少から母親に神の化身としての兆候を示していました。そのころのチャイタニヤは、まだ四つん這いになって歩く赤ん坊でした。ある日、母親が老齢の正統派のブラフミンを客として自宅に招いたときのことです。そのブラフミンは、チャイタニヤの母親が用意した食材を使って自分で昼食をこしらえていました。彼は形式にかなった清浄な食事、他人の手によって穢されていない食事を望んだのです。ブラフミンは自分が食べる前に食事を神にお供えしていました。それは自らが立てた誓いでした。お供えする食事の準備ができたのは、だいぶ遅くなってからでした。ちょうどブラフミンが祈りを捧げるためにクリシュナの像の前に腰を降ろすと、赤ん坊のチャイタニヤがよちよち歩きで近づいてきて、料理の皿に指を突っ込んで、その供物を神へのお供えものならざる「不浄なもの」にしてしまいました。そのためブラフミンは、もう一度母親から食材を受け取り、料理を作り直し、夜もふけるころになって、お供えの礼拝はようやく再開されました。けれども、このときも、どこからともなくチャイタニヤが這ってきて、神聖な食事を穢してしまったのです! この悪戯は三度繰り返されました。そのため母親はチャイタニヤを引きずってきて、頭を叩いてお仕置きをすると脅しました。すると、チャイタニヤは母親に向かって無邪気にこう尋ねたのでした。

「あのブラフミンが僕を呼んで、ご飯を食べてくださいって言ったんだ。それなのに、僕がお料理のそばに行くと怒るんだよ」

このようにして、チャイタニヤは自分がクリシュナの再来であることを明かしたのです。

どのアヴァターも、霊性修行の長い道のりの第一歩を教えます。それは執着を手放すということです。トレーターユガには、『ヨーガ ヴァシシュタ』〔聖賢ヴァシシュタが若いころのラーマに説いた内容を収めた聖典〕が同じ原則を教えました。ドワーパラユガには、クリシュナがアルジュナにヴィシャヤ ヴァーサナ(物質界への執着)を手放すことを教えました。

昔、一切の執着を捨て去って苦行を積んでいた、ある一人の行者がいました。その行者がヒマラヤの山中を歩いていたとき、風が吹いて髪が行者の目を覆い隠しました。そのため、行者は風上に体の向きを変え、これまでとは逆方向に歩き出しました。その行者は方向にも目的地にも執着していなかったのです!

人々は、一見、信仰心があるかのように、「クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ」と言いますが、決して現世的な利益や名声への渇望を手放しません。どのユガにも、人間には、救い、復興し、再建するために降臨してくれる神の化身がいます。今の時代には、マハーシャクティ(超力)と、マーヤーシャクティ(幻力)と、ヨーガシャクティ(神と一体化させる力)が、揃って一つの人間の姿の中にやって来ています。皆さんの努力は、その御姿の中から恩寵を自分の近くに引き寄せて、得ることに傾けられるべきです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.7 C25

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