サイババの御言葉

日付:1968年5月16日・場所:バーラティヤ ヴィッディヤー バヴァン、ボンベイ
サティヤ サイ オーガニゼーション第一回世界大会の御講話その1(開会式)

御名 − 決して涸れない泉


苦行、神の御名を長年唱え続けること、聖地や寺社を巡礼すること、聖典を学ぶこと――これらは、霊性の勝利を熱望する人にとって、敬虔で善良な人々との交流〔サットサング〕ほどには助けになりません。

バーラタ〔インド〕は、霊性という宝石が詰まった稀有な宝の箱であり、真摯な求道者にあらゆる恩恵を授けることができます。このたびの求道者の会議は、実に素晴らしい機会であり、また、ボンベイの人々にとっては素晴らしい幸運の一片です。この輝かしい行事にふさわしいように、私は何言かを、すべての言語の起源であり、核であるサンスクリット語で話しました。私はテルグ語で講話を続けますが、カストゥーリがそれを英語に通訳します。(ババ様はここまでをサンスクリット語でお話しになりました。)

バーラタは、ヴェーダとシャーストラ〔論書や法典〕、また、それらの中で明確に述べられている原理を大衆教化のために詳説している叙事詩やプラーナ〔神話〕が生まれた場所です。バーラタは、神を崇敬するため、また、感覚を超えたものと交流するために、人としての技能を捧げたいという崇高な情熱から生まれた音楽や他の芸術の養成所です。バーラタは、神秘主義者や行者、賢者、熱心な神の崇拝者の支えであり糧です。バーラタは、ヨーガの科学が育まれ、体系化された場所です。それゆえ、このインドという国が、ヨーガ(克己 こっき)とティヤーガ(捨離)の国として多くの時代を経て存続しているのも不思議ではありません。

唯一なる神性原理がすべての国を巡る

こうしたインド文化の特性は、世俗的な文化の力と、物質的な快楽を供する文明の侵攻と、時間の回廊を通って広まった不信と疑惑の嵐によって、しばらくの間衰退するかもしれません。しかし、それらを完全に人々のハートから根絶やしにすることはできません。インド人の義務は、インド文化の特性を育てて人間社会に愛の種を蒔くことであり、そうすれば、その種が育って世界が寛容と敬意という香り高い花で満たされるでしょう。誰も人類同胞と離れて独りで暮らすことはできません。世界という舞台の上で、自国だけで自らの役割を果たして他国と関係をもたずにいられる国はありません。諸外国はインドの運命に影響を及ぼします。インドも同様に諸外国に影響を与えます。一つの血流が体の隅々まで巡ります。一つの神性原理がすべての国とすべての人々を巡ります。宇宙は神の体です。神は、肌の黒い人であれ白い人であれ、大地であれ海であれ、風であれ空間であれ、何がぴくりと動いても、何に痛みが走っても、そのすべてを知り、感じます。

モラルジー・デーサイ〔第6代インド首相〕は、先程の講演の中でダルマという言葉を何度も使いました。インドの指導者たちがハートにダルマを据えるならば、行いと状況に関するダルマの高い要求に基づいて、自分たちの活動のすべてを昇華することができます。ダルマは、思いと言葉と行動を一致させることを強要します。ダルマは心〔マインド〕を清め、貪欲と憎悪を取り除いてくれるでしょう。これはあらゆる信仰の代表者たちの集まりですから、ここであなた方は、すべての信仰は、世界の真理、見える真理と見えない真理を発見するためのプロセスの一部として衝動と激情を清める道にほかならない、ということを証言することができます。その道を歩み、そのプロセスに身を投じた人で、中傷と虐待から逃れられた人は誰もいません。

頂上へと至る道はいくつもある

ムハンマド〔マホメット〕は、唯一無二なる姿無き絶対者の首位を確立しようと努め、大変な迫害と中傷と剥奪(はくだつ)を受けました。イエスは、愛を基盤に人類を立て直そうと試みましたが、小心な人々がその教えによって自分の憎しみと貪欲でできたちっぽけな塔が崩れ落ちることを恐れたことから、磔にされました。ハリシュチャンドラは、決して揺らぐことなく真理を守ることを決意し、次から次へと徐々に恐ろしさを増してやって来る厳しい試練を受けました。神を知ろうと努める人は、侮辱と傷害と責め苦を微笑んで耐えることを、堅く決意しなければなりません。

探求は、同じ一つの宝を求めてのものです。頂上は一つであり、そこへ至る道はいくつもあります。道案内も大勢います。案内人たちは、やかましく主張し、互いに争い合います。七人の盲人が象を調べて、それぞれが自分の触れた部分を象だと想像しました。全員が自分はこういうものを触ったと説明しましたが、象という動物の全体像を正しく捉えることはできませんでした。ヒンドゥー教は象の腹部であり、他のあらゆる信仰に強さとスタミナを与えます。しかし、腹部がすべてではないことは認めなければなりません! 手や足はその他の信仰です。

たとえ外の世界に神の痕跡など何も見つからなかったと言い切る人であれ、神は死んだと断言する人であれ、あるいは、たとえ神が生きていたとしても、神はもはや人間に必要ないと主張する人であれ、神は障害であり邪魔者だと主張する人であれ、皆、説明のつかない何か、理解不可能な何か、理性や科学を超えたもの、世界に浸透して物事の行方に影響を及ぼす未知の何かがあることは、認めざるを得ません!

占星術という古代科学の基礎

インドのヨーギたちの極めて鋭敏な内なる目は、自らが望みさえすれば、直感的映像によって宇宙の多くの秘密を発見することや、過去や未来をちらりと覗き見ることができました。英国人がインドを撤退してから20年以上になりますが、このことは、ある一人のインド人のヨーギによって5043年前に予言されていました。そのヨーギは、インドは遥か西方から来た見知らぬ人種の支配から自由になる、それはナンダの年であると、宣言していました! そして、インドはナンダの年に西洋の支配から独立を遂げました! どうやって5043年前にそのことがわかり、それを宣言できたのでしょうか? ビハール地震〔1934年〕は、起こる2年前にヴァーラーナスィーの占星術師たちによって正確に予告されていました。占星術という古代のシャーストラ(科学)は何に基づいているのでしょう? その基盤は、現代の科学者が必要とするような科学的なものではありません。占星術は直感による霊的な経験に基づいたものです。

リードビーター〔神智学者の英国人〕は、ガーヤトリーマントラを正統なウダータ〔ヴェーダの節を構成している三音中の高音〕、アヌダーッタ〔三音中の低音〕、スワリタ〔三音中の中音〕で正確に唱えると、体験可能な本物の光輝を作り出すことができる一方で、正しくない発音や違うアクセントで唱えると、闇を濃くすると明言しています! ですから、ろうしょう朗誦や瞑想、祈りや定まった型の礼拝、マントラの唱え方の規則を嘲笑する代わりに、それらの価値を受け入れて、実践と実行によってその成果を検証し、確かめなければなりません。

心〔マインド〕を解放し、浄化し、昇華することができる最も偉大なマントラは、ラーマナーマ(ラーマの御名)です。ラーマを『ラーマーヤナ』のヒーロー、すなわち、ダシャラタ王の子であった神と同一視すべきではありません。王子が王室の導師によってラーマと名付けられたのは、それがすでによく受け入れられていた名前だったからです。その導師、ヴァシシュタは、ラーマという名は「喜ばせる者」を意味することから、その名を選んだのだと言いました。ラーマ以外は一人残らず自分を喜ばせますが、自由で普遍的な真我ほど閉じ込められた個々の魂を喜ばせるものはありません。それゆえ真我は、アートマ ラーマ、すなわち尽きることのない喜びを授ける真我、と呼ばれているのです。

ラーマ、極めて貴重な救いへの鍵

ラーマの御名の価値を具体的に物語る昔話があります。昔、聖賢プラチェータスは10億の詩節から成る聖典を作りました!その全文を手に入れようとして三界(天界と地上界と冥界)が争いました。争いが悲惨な様相を呈してきたため、神は三界を一所に集め、それぞれが三分の一ずつ受け取るように説得しました。つまり、各界が3億3333万3333節ずつ受け取ったのです。一つの詩節が分けられずに残りました。それは32の音節から成る詩節だったので、同じように均等に10音節ずつ三界に分け与えられ、二つの音節が残りました! さて、どうすれば二つを三分割できるでしょうか? そこで神は、その二つの音節は三界から等しく敬愛され、崇拝されるべしと決めました。その音節が「ラー」と「マ」であり、極めて貴重な救いへの鍵、「ラーマ」となったのです!

ラーマはハートという蓮の花から信愛という蜜を吸う蜂です。蜂は止まった花の花びらを落ちやすくさせてしまいますが、ラーマは花に自らの美しさと芳香を加えます。ラーマは、自らの光で水を蒸発させて集めて雲を作り、大地の渇きを癒す雨として水を還元させる太陽のようでもあります。ラーマという神秘的で強力な響きは、臍で生まれて舌へ上がり、舌の上で歓喜して踊ります。

ヴェーダの格言、「タット トワム アシ」(タットワマシ、汝はそれなり)は、ラーマという語の中に秘蔵されています。ラーマという語は、「ラ」と「アー」と「マ」の三音で成り立っています。むろん、「ラ」は「タット」(それ、ブラフマン、神)の象徴です。

「マ」は「トワム」(汝、ジーヴィ、個人)の象徴です。そして、その二つを繋ぐ「アー」は、二者が同一であることの象徴です。

他の御名よりも高位にある特別な御名はない

「ラーマ」という言葉には数霊術的な意味もあります。「ラ」は2と数え、「アー」は0、「マ」は5と数えます。よって、ラーマを足すと7になります。7は吉数です。音楽には七つのスワラ〔音階〕があり、天には七聖仙〔サプタリシ〕がいます。また、七日間絶え間なくラーマの御名を唱えると特別な果実がもたらされる、とも考えられています。

しかしながら、この大会でナーマスマラナ〔神の御名を唱えること〕という素晴らしい霊性修行について話し合われることになっているので、私は皆さんに言っておかなければなりませんが、他の御名より高い地位に上げられる特別な御名というものはありません。なぜなら、すべての御名は神のものであり、神はそのすべてに返答するからです。私はこの大会の明日の会合で、この点について詳しく話すつもりです。というのも、ナーマスマラナは、この国だけでなく世界中のすべての国にとって有益な修行だからです。

結びに、この大会がバーラティヤ ヴィッディヤー バヴァン〔1938年にK・M・ムンシー氏が設立した教育機関〕の構内で開かれていることへの満足の意を表します。人類すべてにバーラティヤ ヴィッディヤー〔インドの高次の知識〕のメッセージを届けようと試みる大会にとって、ボンベイでここより良い場所は間違いなく見つけることはできません。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:SathyaSaiSpeaksVol.8C18

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