サイババの御言葉

日付:1968年5月17日・場所:ボンベイ
第一回世界大会の御講話 そのA

啓 示


皆さんは、問題の解決案、疑問を解くための論拠、新たな問題やこれまでにない疑問が発生することを防ぐための方法の発見に取り組んでいます。そのような取り組みはあらゆる会議で好まれますが、霊性修行という海を渡る助けにはなりません。そうした話し合いや決議、スピーチ、そして、規定は、もろい計略でしかありません。この世は、それらをもって静めるには、あまりにも荒れており、乱れています。この会議は、冷静で穏やかな熟慮のための時間であって、性急で衝動的な空論や、軽率な議決のためのものでもありません。

インドの過去の聖賢たちが定めた不滅の教訓は、近年、無視され軽蔑され忘れられています。けれども、皆さんは再びそれを熟慮する必要があります。今日の話し合いの結果として出された提案や解決案は、ある範囲内では、どれも良いものですが、泳げない人がどうやって他人に泳ぎを教えることができますか? 自分の穀倉が空になっている人が、どうやって施しをすることができるでしょうか? 信愛、堅忍不抜、平安という富を獲得する方法を他人に助言するという危険を冒す前に、自分がそれらを獲得しなさい。自分が教える事を実践する気のない教師が大勢いた結果、バーラタ(インド)は侮辱や軽蔑に苦しんできたのです。

皆さんが私のメッセージをこの国や他の国の人々に伝えたいと熱望していることを、私は知っています。皆さんに思い出させてあげましょう、皆さんができる最善かつ唯一の成功法は、自分自身の人生を私のメッセージとすることです。皆さんの思いと言葉と行動が、私のメッセージで満たされていなければなりません。そうすれば、私のメッセージは努力せずとも効果的に広がり、世界の様相は一変するでしょう。

ナーマスマラナ――この時代の人間の唯一の希望

世界中からサティヤ サイ オーガニゼーションの会長、副会長、事務局長がここに集まりました。皆さんはサイの軍隊の士官です。皆さん自身が役に立たない道具であるなら、また、戦争の込み入った事柄を把握していないなら、どうやって兵士たちを戦場へと導くことができますか? 自分が完璧に修行を実践した後にだけ、他人への指導を試みることができるのです。これは人間のあらゆる活動分野における真理です。アーナンダ(至福)やプラシャーンティ(至高の平安)は、まず自分が獲得しなければなりません。そうして初めて、他人に伝えることができるのです。

学校の教師は、生徒に要求することに関して、自らが手本でなければなりません。愛と協力の道を歩むよう熱心に勧める権威者は、自分自身がそれらの美徳を実践していなければなりません。今、人々は指導されることを喜んでいません。指導者たちは指導する能力をもっていません。進歩は、指導者と指導される人の間の相互信頼のたまものです。今、あらゆる場所のあらゆる階層に蔓延している不安は、親、教師、管理者、そして、指導者の無責任によるものであり、また、彼らから利益を得ようと渇望する人々の責任でもあります。

ナーマスマラナは基本的な修行の一つであり、この会議で大きな関心が払われてるものです。この物質主義時代において、ナーマスマラナは人類にとって一つの希望であると、聖典は述べています。トゥッカーラームは、ナーマラトナ(御名という貴重な宝石)を讃える歌をうたいました。ですから、御名をガラス玉や小石のように軽率に扱ってはなりません。

人は路上でのビー玉遊びに宝石を使っている

あるとき、一人の少年がきらきら光る丸い石を拾い、その石を使って仲間たちと路上でビー玉遊びをしていました。たまたまその道を一人の宝石商が通りかかり、その宝石に目をつけました。宝石商は少年に近づき、道のわきへ連れて行って50ルピーと交換しようと持ちかけました。もし、少年が50ルピーの価値を知っていれば、その宝石の価値がわかったでしょうに! 少年は母親のところに行って、知らない人が自分の遊んでいたビー玉と50ルピーを交換しようと誘ってきたと話しました。母親はその石がそれほど高価な物であることに驚いて、言いました。「それを持って外に行ってはいけません。友だちとは家の庭で遊びなさい」。価値が明らかになると、制限が設けられたというわけです。

商人はその夜、眠れませんでした。無知な人たちからあの宝石を手に入れて、百万長者かマハーラージャにそれを売り、大儲けする計画でした。宝石商は少年の家を突き止め、少年を見たい一心で勾配の多い道を歩いていきました。少年はまるでそれが安っぽいビー玉であるかのように宝石で遊んでいました。それを見ると、商人は胸が痛くなりました。少年は宝石を床に投げ、それはちょうど奥の部屋から出てきた母親の足に当たり、薮の中に転がっていきました。宝石商は少年に100ルピーで交換してくれないか、500ルピーならどうかと、頼み続けました! 少年は泣きながら家の中に駆けこんで、知らない人が一人にさせてくれないと訴えました。母親は庭に出ていって、商人に帰るよう頼みました。

商人はそのチャンスを利用して、もし、ビー玉を渡してくれるなら、すぐに1000ルピー支払う用意があると母親に話しました! それを聞いて、母親は息子に家の外でその石で遊ぶことを禁じ、少年が遊べるのは部屋の中だけになりました。商人はそんなことでは追い払われませんでした。宝石商は次の日も家の前に現れて、ビー玉代として1万ルピーを差し出してきました。母親は石を手放すのを断り、鉄の金庫に入れて鍵をかけました! 次の日、商人が5万ルピーを持ってやって来ると、母親は石を銀行へ持って行って金庫に預けました。

人は神の御名の価値に気付いていない

皆さんも、神の御名という宝石の価値に気付かずに、それで遊んでいるのです。ひとたびその価値がわかったら、一番大事な宝物としてハートの奥に保管するようになるでしょう。神の御名は、皆さんの慰め、自信、勇気、悟り、解脱の探索を、成功させる鍵であることを知りなさい。

もう一つの例が古代の聖典から得ることができます。あるとき、ガナ(シヴァ神の従者である半神たちの一団)のリーダーを選ぶために、神々の間で競争が行われました。参加者は、できるだけ速く世界を回り、シヴァ神の御足のもとに戻って来なければなりませんでした。

神々は各自の乗り物に乗ってスタートしました。シヴァ神の下の息子も意気揚々と競争に参加しました。息子の頭は象で、乗り物は鼠でした! そのため、かなりハンディキャップがあり、ほとんど前に進んでいませんでした。そこにナーラダ仙が現れて、「どちらへお越しか?」と尋ねました。息子は大変あせっていたので怒り出しました。というのは、それは旅する者にとって、二重に縁起の悪いことだったからです。旅の途中で最初に会った者がブラフミンであるというのは、縁起の悪いことです。ナーラダは最上のブラフミン(ブラフマー神の息子)ではありますが、悪い前兆です! もう一つ悪い前兆は、どこかに向かっているときに、どこに行くのかと誰かに尋ねられることです。ナーラダはまさにそれを問いました! にもかかわらず、ナーラダはシヴァの息子の怒りを静めることができました。

宇宙を生んだ御名

ナーラダは、シヴァ神の息子から、窮地に陥った悲しさと勝ちたいという願いを聞き出しました。ナーラダは息子を慰め、絶望に屈しないように励まし、次のように助言しました。

「ラーマという御名は、そこから宇宙が生まれたという巨大な木から生じた種。ゆえに、地面にその御名を書き、一度その周囲を回ってから、シヴァのところへ急いで戻り、賞を要求すればよいでしょう」

息子は言われたとおりにして、父のところへ戻りました。どうしてそんなに早く戻ってきたのかと尋ねられ、息子はナーラダとその助言について話をしました。シヴァはナーラダの助言の正当性を認めて、息子に褒美を与え、息子はガナパティ(ガナたちの先導者)、そして、ヴィナーヤカ(すべてのもののリーダー)と賞賛されました。

御名は間違いなく神の恩寵をもたらします。ラージャスターンの王女であったミーラーバーイーは、地位と富、財産と家族を手放して、主なるギリダラ ゴーパーラ〔クリシュナ神〕への崇拝に自らを捧げました。夫が毒の入った杯を持ってきて飲むように命じると、ミーラーはクリシュナの御名を唱えてそれを飲み干しました。神の御名が引き起こした恩寵によって、毒は甘露に変じました!

キールタンという言葉は、神の御名や栄光を朗唱する、あるいは歌う、という意味で使われます。サンキールタンとは、喜びをもって、あるいは恍惚のうちに、はっきりと朗唱する、あるいは絶唱する、という意味です。ナーマ サンキールタン〔神の御名の朗唱〕は四つの形式に区分けすることができます。それは、「バーヴァ ナーマ サンキールタン」(思いがいっぱいに詰まった御名の朗唱)、「グナ ナーマ サンキールタン」(神の性質を中心とした御名の朗唱)、「リーラ ナーマ サンキールタン」(神の奇跡に関連した御名の朗唱)、そして、純然たる「ナーマ サンキールタン」です。

人が神に示すことのできるさまざまな姿勢

それはラーダーがとりこになったようなマドゥラ バーヴァ(甘美な想い)であるかもしれません。ラーダーはいついかなる時も、ただその甘さのみを見、聞き、味わい、捜し求め、得ました。

ラソー ヴァイ サハ
(神聖な甘さは神である)

ラーダーは自然と自然のものである神との間に、いかなる分け隔てもしませんでした。すべては神であり、すべてはクリシュナでした。ラーダーは、目覚めているときも、夢を見ているときも、熟睡しているときも、つねにクリシュナの存在を感じ、体験し、知っていました。神の手、足、目、顔、頭はあらゆる所にある、と『バガヴァッドギーター』でクリシュナが宣言した真理を、ラーダーは悟っていたのです。ラーダーの神への崇拝は「マドゥラ バーヴァ ナーマ サンキールタン」〔神の甘美さを思って歌うナーマ サンキールタン〕の最高の模範です。

次に、「ヴァーッツァルヤ バーヴァ ナーマ サンキールタン」〔神を我が子と思って歌うナーマ サンキールタン〕があります。このタイプのバーヴァの理想には、クリシュナの養母であったヤショーダーをあげることができます。クリシュナが神だとわかる一連の体験をしたにもかかわらず、ヤショーダーは母としてクリシュナに仕え、息子としてクリシュナを敬愛することのほうを好みました。

「アヌラーガ バーヴァ ナーマ サンキールタン」〔神を愛しい恋人と思って歌うナーマ サンキールタン〕の純粋な形は、ゴーピー〔牧女〕たちによって最もよく示されています。ゴーピーたちは自分たちの心の中に神を安置し、この世的な執着の一切を取り除き、思いと行いと言葉のすべてを神にささげて、ただ神を憶念して生活しました。

それから、「サキーヤ バーヴァ ナーマ サンキールタン」〔神を友と思って歌うナーマ サンキールタン〕があります。これはアルジュナに見られるものです。アルジュナは、クリシュナを最も親しい友人であり、義理の兄弟であると信じ(アルジュナはクリシュナの妹と結婚していたため)、クリシュナを一人の同志として信用していました。これもまた、あなたを神に執心させて、低次の衝動を昇華させることのできる姿勢です。

もう一つのタイプは「ダースヤ バーヴァ ナーマ サンキールタン」〔神の召し使いの気持ちで歌うナーマ サンキールタン〕です。神の忠実で絶対的な召し使いとして神に仕える――これは『ラーマーヤナ』におけるハヌマーンの道です。ハヌマーンには自分の意志や望みというものがありませんでした。ハヌマーンの祈りは、主の目的を達成するためのふさわしい道具となれますように、というものでした。

御名には救いと癒しと助けの力がある

おしまいは「シャーンタ バーヴァ ナーマ サンキールタン」〔平安な気持ちで歌うナーマ サンキールタン〕です。これは、浮き沈みに遭っても一貫して、何が起ころうとも神を賞賛し、予測のできないあらゆる運命を神の戯れとして耐えるという態度です。『マハーバーラタ』ではビーシュマがこの姿勢を貫きました。ビーシュマは、クリシュナが自分を殺そうと向かってきたときにさえクリシュナを崇めたのです。

さて、別のナーマ サンキールタンの方法として、神の御名を唱えている最中に、神がこの世に示したさまざまな偉業や遊戯、恩寵や慈悲による御業の数々を思い起こすというものがあります。これは「リーラ ナーマ サンキールタン」〔神の奇跡を示す御名を歌うサンキールタン〕と呼ばれています。チャイタニヤやティヤーガラージャはこの道を通して神を悟りました。

このほかにも、神の御名を唱えながら、神がまとったさらに多くの栄光、御力、神秘、荘厳さ、寛大さ、愛を追想する「グナ ナーマ サンキールタン」〔神の属性を示す御名を歌うサンキールタン〕と言われるものがあります。多くの土地で大いなる尊敬を受けている聖者たちの大多数はこのカテゴリーに入ります。

これとは別のカテゴリーに、御名の意味のいかんを問わず、御名それ自体の音節や音に価値を置く求道者によって示されているものがあります。彼らは言います。どんなバーヴァ〔思い、感情、気持ち〕であろうと、そして、リーラ〔神聖遊戯〕やグナ〔属性〕がサンキールタンと結びついていようがいまいが、御名が唱えられるとき、御名は神と神の恩寵に求道者を引きつける――と。そして、ほかから何の手を借りるまでもなく、御名それ自体に、救い、癒し、助けるための、能力や、力や、包容力がある――と、彼らは断言しています。

ラーマの本質はアートマ、すべての喜びの源

ラーマという御名は、かつてラーマ自身(トレーターユガの神の化身で『ラーマヤナ』の英雄であるダシャラタ王の息子)が述べたように、力強い解放者です。ラーマがシーターとラクシュマナを従えて森を歩いていたときのことです。ラーマが神であるとわかった隠遁者たちが、霊性の向上と勝利のために繰り返し唱えることのできるマントラや祈りを伝授してもらおうと周りに集まってきました。するとラーマは、自分は追放されて森をさまよう王子であり、霊性の道を歩む隠遁者たちに伝授する権威などないと答えました。そして、ラーマはジャングルの道を進んでいきました。

ラーマが足早に進むと、シーターがすぐそれに続き、ラクシュマナもその後に付いていきました。それを見て、長老の隠者は叫びました。

「友よ! 見なさい! ラーマは我らに伝授しておられる! ラーマは我らにマントラを授けてくださっている! 神が先導し、自然(忠実な伴侶、神の影)が付き従い、それからジーヴィ(個人)という神の一部、海の波が、後に続く。人を惑わす自然を静めるか、追い越して進みさえすれば、ジーヴィは神を見ることができるのだ。これはまさに、声によらないサーダナ(霊性修行)の講義だ。"ラ"は神、"マ"はその後に続く個人、"アー"はプラクリティ(自然)だ。"ラーマ"は、神が慈悲深くお授け下さったマントラである。これを固持し、おのれを守ろうではないか。私にとって、これ以外の道はない」と隠者は言いました。

私は、ラーマ ナーマ(ラーマの御名)を強く勧めます。なぜなら、ラーマの本質はアートマであるからです。ラーマは、喜びと、喜ばせるものを意味します。一方、アートマはあらゆる喜びの源であり、その本質は至福です。さらに、ティヤーガラージャが発見したように、ラーマは、ナーラーヤナ(ヴィシュヌ神)とシヴァ神の両方の崇拝者が採用できる御名です。「ラー」という音節はナーラーヤナ マントラ(「オーム ナモー ナーラーヤナーヤ」、ナーラーヤナ神に帰命し奉るの意)の鍵であり、「マ」という音節はシヴァ マントラ(「オーム ナマッ シヴァーヤ」、シヴァ神に帰命し奉るの意)の鍵です。

神はすべての名前と姿の和合

神をナーラーヤナの姿のうちに礼拝する人と、シヴァの姿のうちに礼拝する人の間にある偏見や派閥には、意味がありません。なぜなら、両方とも一つの究極の普遍存在の表れだからです。両者は、異なった神の武器を持っていることで見分けることができると言えるかも知れません。その武器は、ナーラーヤナの場合はシャンカ(ほら貝)とチャクラ(円盤)で、シヴァの場合はダマル(小さな太鼓)とトリシューラ(三叉の鉾)です。しかし、ほら貝と太鼓は、どちらも音による賛美と歌によって神に近づくことの象徴です。円盤と三つ又の鉾は、時間を作り司る存在としての神の象徴です。円盤は時間という車輪を表し、鉾の三つ又は過去と現在と未来を表しています。ナーラーヤナはハリと呼ばれ、シヴァはハラと呼ばれています。どちらの名前も「ハル」という同じ語根から派生したものです。「ハル」は、破壊する、除去する、魅惑する、魅了する、調和するという、神がそなえている働きです。

人間の義務は、絶えざる御名のスマラナ(憶念)によって、日々昼夜を神聖にすることです。歓喜と切望をもって憶念しなさい。もし、あなたがそれをするなら、神はあなたがあてがった御名と御姿、最も美しく最も相応しい御姿で、あなたの前に現れざるをえません! 神はすべての名前とすべての姿であり、それらすべてが見事に和合した集合体です! さまざまな宗教で支持され、さまざまな人間社会で崇拝されている神々は皆、実在の一なる神の手足です。ちょうど肉体が感覚器官と手足のが調和のとれた混合物であるように、神は人が神に付けたあらゆる名前と姿の和合物なのです!

異なる御名を区別してはならない

神の栄光を知らない人だけが、自分の崇拝する一つの御名と一つの御姿を主張し、さらに悪いことには、他の御名と御姿を崇拝する人々を非難するのです! あなた方は皆、サティヤ サイ オーガニゼーションに参加しているので、私は皆さんがそのような頑固者にならないように警告しなければなりません。自分は他の御姿や御名の神を崇拝する人たちとは違う別の宗派だなどと、公言して回ってはいけません。そうすることで、皆さんは、自分が激賞するまさにその神を制限することになってしまいます。「私たちはサイだけが欲しい。他には関心がない」などと狂信的に公言してはなりません。皆さんは、あらゆる姿はサイの姿であり、あらゆる御名はサイの御名であることに、確信をもたなければなりません。「他」は存在しません。すべては神です。

私が講話の中でサイについて語らず、また、講話の締めくくりに歌うバジャンでもサイとは歌わないことに、皆さんは気づいているでしょう。そして、それはいったいなぜなのかと不思議に思っていることでしょう。そのわけはこうです。私は、私がこの名とこの姿を宣伝したがっているといった印象を広めたくないのです。私は新しい宗派を始めるために来たのではありません。私は人々にこの点を誤解してほしくないのです。私は断言します。このサイの姿は人々が神を崇拝するために用いるさまざまな御名の姿です。だからこそ、私はラーマ、クリシュナ、イーシュワラ、サイといった名前の間に何の区別も設けるべきではないと教えているのです。それらはすべて、私の名前なのですから。

私は自分がさまざまな電球をすべて輝かせる電流であることを知っていますから、皆さんが重要だと考えている電球を区別しません。電球に重点を置くなら、内輪もめが起こり、派閥が生まれます。サティヤ サイ セヴァ サミティ〔サティヤ サイ オーガニゼーションのインド名〕は、不和や相違を助長してはなりません。サミティは、すべての電球を輝かせる根源的な神性、多として現れた一なるものを、崇めなければなりません。

促し手としての神の存在を意識しなさい

私には、私の名前を広めたり、私の名前に敬意を払ってもらうためにセヴァ サミティを利用するというような意図は、少しもありません。決してありません! 人を浄化させ、向上させるための、霊的な努力と修行があらゆる場所でなされていれば、私は満足です。私の普遍なる実体は、それらを通してのみ、明かされるでしょう。ですから、何か一つの御名や御姿という境界線に私を閉じ込めてはなりません。皆さんの目的は、礼拝されるあらゆる御姿の内に同一の神を見ること、すべての御名の内に同一の神を想い描くことであるべきです。いや、それどころか、すべての生き物、すべての物質の粒子の内なる促し手として神が存在していることに気づくことであるべきです。ある人は尊敬に値し、ある人は尊敬に値しないと考えるような過ちを犯してはなりません。サイはすべての人の内にいます。したがって、すべての人は、敬い、奉仕する価値があります。この真理を広めなさい。それが、私がセヴァ サミティに課す役割です。

皆さんは私と私の行動を観察することができます。私が、正義、道徳的規律、真理、そして、普遍的な慈悲をどれほど固守しているかに注目しなさい。それこそ、皆さんが私から学んで欲しいことです。あなた方の多くが、自分の所属するサミティに伝えるために、私からのメッセージを欲しがっています。いいでしょう。私の人生が私のメッセージです。あなたが私のメッセージに忠実に従うようになり、そのように生きるなら、あなたの人生は、私の人生があなたに激情に駆られない平静さ、勇気、自信、苦悩している人々に奉仕することへの熱望を鼓吹した証拠です。

神は世界に内在しています。ですから、あなたが主人をもてなすように、愛をもって世界を扱いなさい。クリシュナはパーンダヴァ兄弟に仕えました。クリシュナはアルジュナの馬車を御しました。それゆえ、クリシュナは王ではなかったにもかかわらず、王以上に実権をもつ者となりました! 奉仕しなさい、いかなる障害があろうとも、いかなる皮肉な嘲笑を浴びようとも。人が良いことを熱心に行うとき、そのような反応は避けられません。私がよい例です。いつの時代も、賞賛と誹謗中傷は私に付いてまわりました。反感と妨害は、善良さを強調し、決意を強めることになるだけです。

奇跡の重要性を誇張してはいけない

神から心を逸らせようと父が苦しめたことは、プラフラーダに不退転の帰依心が生まれるのに役立ちました。ラーヴァナの悪意は、ラーマの弓の力を明らかにするのに役に立ちました。シシュパーラ、ダンタヴァクトラ、ラーヴァナ、カムサのような中傷者は、すべての化身にお決まりのアクセサリーです。このサイ ラーマにも、同様に、古くからの付属品を持っています。今でも、彼ら一族は明白です。片側には崇拝と尊敬が頂点まで高く積まれている一方で、もう片側には信仰の放棄と中傷も同じように高く積まれています。私はその間に立って、両手を挙げて両方を祝福します。なぜなら、私は尊敬されて得意になることも、中傷されて落胆することもないからです。なぜなら、中傷する人々はそれ相応の報いを受けるからです。私は自らの栄光をもって報われるでしょう。

私が持つサマットワ(すべての者への等しい愛)、私のシャーンティ(波立たつことのない平静さ)、私のプレーマ(愛)、私のサハナ(忍耐と不屈の精神)、私のアーナンダ(常に至福に満ちた性質)を〔自らの内に〕育もうとせずに、単に私の名前と姿を崇めるだけなら、それがいったい何の役に立つでしょう?

皆さんは講演の中で、サイの無比なる力、何人かの人が私について綴った本に「奇跡」として記された出来事を詳しく述べました。しかし、私は皆さんに、それらを重視しないよう求めます。奇跡の重要性を誇張してはいけません。言っておきますが、最も重要で意味のある力は、私のプレーマ(愛)です。私は空を大地に、大地を空に変えることもできます。けれども、それは神の力の印ではありません。プレーマ、サハナ、有効な普遍的特性、遍在性――これこそが、神に特有の印なのです。

初めて開かれた無比の世界会議

あなたが愛と不屈の精神を育み、広めようとするとき、困難と苦労があなたの歩みに付きまとってくるでしょう。あなたはそれらを歓迎しなければなりません。それなしでは、あなたの内にある最良のものは引き出され得ません。金が塵ほど多く、ダイヤモンドが小石ほど手に入りやすければ、誰もそれらに関心をもたないでしょう。金もダイヤも莫大な労力と犠牲を経た後に得られます。だからこそ、それらは懸命に捜し求められるのです。

この場所に、帰依心をもつ人々が集まり、あらゆる国の人々が来ているので、私は皆さんに一つの事実を告げることにします。過去において、いくつかの世界的な会議が開かれました。それは確かに宗教や霊性の問題に貢献してきました。それと同じように、各宗派の信者たちによる会議も個別に開かれてきました。けれども、そうした会議が開かれたのは、それぞれの宗祖や宗教家が亡くなった後でした。本会議は、神の化身が、その目的のためにまとった肉体と自ら選んだ名をもって万人の前に在るうちに、信心深い人々によって開かれる初めての世界会議です。

私がこの事実を告げなければならないのは、皆さんの100人中99人が、私の実体を知らないからです。あなた方は、霊的なことを味わうためであるとか、自分が所属している団体を発展させたいという意気込みから、感嘆や親愛の情から、愛や敬意から、あるいは、他の人々と交わって他の人の歓喜と自分の歓喜を分かち合いたいという熱意がわいてきたから、といった多種多様な必要によってここに引き寄せられてきました。

疑念が私の神性からあなたの気をそらさせることを許してはならない

実際のところ、今日であれ、あるいは数千年かけて、着実な苦行や熱心な探求をした後であれ、たとえ全人類がその努力を共にしたとしても、私の実体の本質を理解することはできません。けれども、皆さんは近いうちに、この神聖な名と神聖な姿をまとった神の本質によって降り注がれた至福を、認識することになるでしょう。皆さんにそのチャンスをもたらしてくれる幸運は、隠者や僧侶、聖賢や聖者、さらには、神の栄光の一面の体現者たちに手が届くものよりも、はるかに大きいものなのです。

私が皆さんと共に動き回り、皆さんのように食べ、皆さんと話をするために、皆さんはそれを私が普通の人間であるほんの例証だと信じて惑わされています。そうした間違いを犯さないよう警戒していなさい。私はまた、皆さんと共に歌い、皆さんと共に話し、皆さんと共に行動することで、皆さんを惑わしています。けれども、いついかなる瞬間に私の神性が顔を出すかもしれません。皆さんはその瞬間に備え、準備を整えておかなければなりません。神性は人間性という覆いに包まれています。ですから、皆さんは、神性が皆さんの目に触れないように隠しているマーヤー(迷妄)を克服しようと努めなければなりません。

サルヴァダイヴァットワ サルヴァルーパーラヌ
ダリンチンナ マーナヴァーカーラメー イー アーカーラム

この、人としての姿の内には、あらゆる神の実在、あらゆる神の本質、
言い換えるなら、人が神のものと見なす、あらゆる名と姿が顕現している

疑いがあなたの気をそらせるのを許してはなりません。あなたの心の祭壇に、私の神性に対する固い信心を据えさえすれば、私の実体を見ることを勝ち得ることができます。そうする代わりに、もし、時計の振り子のように揺れ動き、あるときは信じ、あるときは信じないなら、決して真理を理解することも、至福を得ることもできません。あなた方は、今、今生で、サルヴァダイヴァットワ スワルーパ〔すべての神のすべての姿の化身〕を見るという至福を味わうチャンスを得たのですから、大変幸運なのです。

もう一つ、皆さんに注目してもらいたい事実があります。これまで神が地上に化身したときには、明らかにそれは神の恩寵だとわかる証拠の数々にもかかわらず、その化身が神であることを知る喜びは、化身の肉体がこの世を去って初めて与えられました。化身たちが集めた、人々の忠誠心や信愛は、化身たちの超人的な力や御業、あるいは厳格な最高の権威に対する、恐怖や畏敬を通して生まれたものでした。一方、このサティヤ サイの化身についてしばし考えてみてごらんなさい。物質主義がはびこる、強い不信と不敬の時代に、この化身の何が、世界中から数百万もの人々の崇敬を集めているのでしょう? その根本的な理由は、人の姿の内にあるこの世を超越した神性にあるという事実に、皆さんも納得することでしょう。

ヴェーダのダルマの復興はサイのサンカルパ

その上、世界のすべての国々がバーラタに敬意を表するのを目にすることができる皆さんは、何と幸運でしょう! しかも皆さんは、来たるべき将来ではなく、この肉体が皆さんと共に、皆さんの目の前にあるうちに、サティヤ サイという名への崇敬が世界中で響き渡るのを耳にすることができるのです。また、皆さんはやがて、サナータナ ダルマ〔太古よりの永遠の法〕、すなわち、世界のすべての人々のためにヴェーダに定められているダルマの、正当な本来の地位の復興を目の当たりにすることができます。人々を私のほうに引き寄せ、私のシャクティ(力)とサーマルティヤ(能力)を顕示することによって人々を魅了することだけでなく、ヴェーダのダルマを復興することも、サイのサンカルパ(サイが決意したこと)なのです。それはバラマ タットワム(迷妄の現象)ではありません。そのタットワム(現象)は、真理を支え、非真理を根こそぎにし、その勝利において、あなた方すべてを忘我の歓喜に浸らせます。これはサイのサンカルパ〔意志〕です。

ヴェーダの真理は売り物ではない

人々の中には、指導層や権威のある段階に到達した人たちであっても、現にヴェーダのマントラやバーラタの文化の本質をお金儲けのために交換すること、すなわち、売りはじめた人たちがいます。西洋人たちもまたそれを買おうとしています! そうした真理や発見は売買される商品ではありません。それゆえ、私は、それらの真の価値を知らせて売買をやめさせるために、近々西洋諸国を訪問するつもりです。すでに、アメリカ合衆国の大学当局、および学生のリーダーたちは、ぜひとも私を歓迎したく、私のためのプログラムも作成済みであると、書いてよこしています。ちょうど昨日、私のアフリカ訪問のためのパスポートが届けられました。それは私が近いうちにアフリカ諸国を訪問することを願ってのことです。私は6月より前にアフリカへ行く予定です。

このように、私と親交をもつチャンスをできるだけ多く利用しなさい。そして、私が与えている指示に、できるだけ速く、そして最善の形で従うことができるよう努力しなさい。私の教えに従うことで十分です。それは、極めて厳しい苦行をすることよりも、あなたのためになるでしょう。サティヤ(真理)、ダルマ(正義)、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)を実践しなさい。これらは私にとって大切なものです。これらの理想を、いつも自分の目の前に、あらゆる思いと言葉と行動の中に、留めておく決意をしなさい。それは、あなたに神性なる至高の実在との融合という、最高善を授けることができます。

翻訳:サティア・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C19

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