サイババの御言葉:驚くべき盲腸

日付:1970年12月12日・場所:ゴアのカボー ラージ ナヴァス
ゴアで帰依者の身代わりになったときの御講話(1)より

驚くべき盲腸


〔1970年12月、ゴアを訪れた際、ババはある男性帰依者の身代わりとなって、酷い状態になった盲腸を肩代わりしました。ババが何日も姿を見せなかったため、亡くなったという噂さえ広まりました。激痛に耐える姿はとても辛そうで、帰依者たちはたいそう心配し、深く悲しみました。(詳細は書籍『追憶』p137〜p140を参照のこと。)この御講話とその後の2つの御講話において、ババ御自身がその時のことを語りつつ人類に教えを垂れています。〕

人は皆、自分の源からはぐれて荒野をさまよっています。そして、その源へと戻る帰り道を見つけるために、肉体をまとって、この、喜びと悲しみ、成長と衰え、希望と失望の世界にやって来るのです。それは決められた滞在時間内で果たさなければなりません。一日ごとに、太陽は、こっそりと、ほんの少しずつその期間を盗んでいきます。けれども、幻の明かりと荒野のざわめき、そして、それらの強い印象の見せかけの甘さに心引かれて、人は運命の神の呼び声をないがしろにしています。五感は人をだまし続け、迷路の奥へ奥へと連れていきます。これは人が笑顔と感謝の身振りをしながら死んでいく代わりに、うめき声と嗚咽を上げながら死んでいく時まで続けられます。生まれてから死ぬまでの年月は、無駄なものを手に入れること、価値のないことを達成することに費やされています。なぜなら、満たされない欲望と不健康な感情でハートがいつもチクチク痛み、それが人の本性である平安に影響を及ぼしているからです。これがずっと人につきまとっている迷妄、マーヤー(幻力)であり、それが人の神髄である神性を影に隠しているのです。

無執着を育てること、五感と五感が渇望する興奮を否定すること、自分の存在のもっと深いところに飛び込むこと、探索の報酬として深遠な知識が得られると信じることによって、人は平安の至福を獲得することができます。これは最も気高い道徳です。なぜなら、それが為されると、人は愛に満たされ、ほんのわずかな悪意も、憎悪も、貪欲も、色欲もなくなるからです。ヴィジョンは、万物は一つであるという理想、一つが万物となったという理想によって清められます。個人間や社会の争いと複雑化を招いている、憎悪、悪意、貪欲へと向かう傾向は、ヨーガ(神との合一)とティヤーガ(放棄、犠牲)、すなわち、感情的にならずに容易に動じないという行を積むこと、そして、欲望と心の渇望を減らすことによって、克服することができます。これは、明瞭で説得力のある金言と、数え切れないほどの非の打ちどころのない手本を通して、何世紀にもわたって語り継がれ、身をもって示されててきたバーラタ〔インド〕のメッセージです。

神は各人が何を最も受けるに値するかを知っている

行為を「自分のもの」だと思うこと、行為は何らかの利益を得るためにするものであり、その利益は「自分が」獲得するものだと思うこと――これこそが、悪い感情、悲しみ、病気を引き起こしているものです。エゴ(自我意識、アハンカーラ)は狂喜したり悲しみに沈んだりします。エゴは笑ったり泣いたりします。エゴは競い、鬱になります。エゴは喜びと悲しみを行ったり来たりする振り子のように揺れます。エゴは人に休息の時や安らぎの時を与えません。エゴは、行為の報酬が期待より少ない時、あるいは期待より多かった時でさえ、あるいは期待と違った時、期待を歪められた時、激しく動揺します。それゆえ、シュルティ〔ヴェーダ等の経典〕は、人は皆、自分の行為の一切を神に捧げるべしと定めているのです。なぜなら、神は一人ひとりが何を最も受けるに値するかを知っており、神自らが意志することでその報いを施す者であるからです。

知性、活力、功徳、行為の根底にある衝動の一切を、礼拝の行為として神に捧げるべきです。ところが、神の存在そのものを疑い、疑問視する者が大勢います。そのような人たちのために、時たま神は本質的な恩寵により、人間の限界を上回る驚くべき栄光を示すことによって自らを明かします。疑い深い者たちは求めずして受け取り、扉は一度も叩かずともおのずと開き、答えは万人が聞けるよう高らかに宣言されます。

ある帰依者を救うために引き受けた病

たとえば、この体がかかった病気を例にあげましょう。よくない食べ物を食べることや愚かな習慣によって、人間の体に病気が生じるのは自然なことです。しかし、それは一般人の病気についてのことであり、皆さんがこの二日間に目撃した病気のことを言っているのではありません。あれは、ある人物を救うために私の意志で肩代わりした病気です。その人物には、あれを乗り越えることはできませんでしたし、混乱せずに耐えることもできませんでした。あれは神の仕事の一つであり、そのために神は降臨しているのです。つまり、帰依者に恩寵を注ぐために、です。

盲腸が真っ赤に腫れ上がって膿瘍になり、医者たちは「すぐに手術をしなければ助からない」と言いました。その帰依者はそのすさまじい痛みに耐えられませんでした。そういった他の体を痛みと苦しみから救うために、私はこの体を伴ってやって来ました。この体が病気になることも、この体に痛みが生じることも、決してありません。この体を病気が襲うことは決してありません。これはまったき真実です。

ある日、クリシュナがひどい腹痛に襲われたことがありました。偶然そこに聖者ナーラダが居合わせ、主が苦しんでいるのを目にしました。ナーラダは狼狽し、痛みを治す薬を持ってくるよう命じて欲しいとクリシュナに懇願しました。クリシュナは尋ねました。

「この痛みを和らげる薬は一つしかないのだが、そなたはそれを私のために持ってくることができるか?」

「言ってください。持ってまいります!」とナーラダは言いました。

「誰でもいいから真の帰依者の足に付いている塵を持ってきておくれ。それがこの痛みを止めてくれる」とクリシュナは返答しました。

ナーラダは即刻それを手に入れるために出かけていきましたが、自分も最も真摯で誠実な帰依者だということを扉のところで思い出しました。そこで、ナーラダは引き返し、自分の足の塵を使うことはできないかどうかをクリシュナに尋ねました。すると、クリシュナは、「いいや、だめだ。そなたのものはエゴによって汚れているので、薬にはならない」言いました。

そのため、ナーラダは自分の知っている偉大な帰依者たちの足の塵を探しに行かざるを得ませんでした。けれども、自分の足の塵をくれる帰依者は誰もいませんでした。ある者は恐縮し、ある者は恥ずかしがり、ある者は神聖冒涜だと恐れをなし、ある者は自分は帰依者などではなく、恩寵を求めるただの求道者であると主張しました。

判断を神に託しなさい

それからナーラダは、純朴なゴーピー〔牧女〕たちのいるブリンダーヴァンに行きました。ナーラダはゴーピーたちに、自分が窮地に立たされていることと、クリシュナの痛みの激しさを話しました。その話を聞き終るか終わらないうちに、ゴーピーたちは皆すぐさま自分の足の塵をかき集めました。ナーラダの両手はその塵を入れた包みでいっぱいになりました。

「急いでそれを持っていってください。どうか痛みが止まりますように!」とゴーピーたちは応じました。

ゴーピーたちの心には、優れているとか劣っているとか、傲慢であるとか謙遜であるとか、恥ずかしいとか畏れ多いとかいう考えが入り込むことは、ほんの少しもありませんでした。

ゴーピーたちが知っていたこと、そして、知りたいと思ったことは、「クリシュナが痛がっている。痛みを治さなければいけない」ということだけでした。ゴーピーたちには、「クリシュナは本当に苦しんでいるのだろうか?」、「自分の足の塵が本当にそれを治せるのだろうか?」、「ナーラダがやって来た使命の裏には自分にとって、あるいは世界にとって、もっと深い意味があるのではないか?」などと、立ち止まって問うことはありませんでした。ゴーピーたちは、聞き、差し出し、祈り、喜びました。ゴーピーたちは、クリシュナの感じていた痛みを感じ、クリシュナの指示に応じました。ゴーピーたちは皆、一様に心を動かされ、ゴーピーたちの反応は皆、一様に素早く、誠実でした。

あなたは判断を神に託さなければいけません。そうすれば、神が全責任を負い、守護者となり、導き手となり、原動力となります。私にすべてを託す人、自分の判断さえも託す人、そのような帰依者は、私が病気を引き受けて、身代わりとなって、救わなければなりません。あの病気の兆候は、今はもう消えています。再発することはありません。

あのエピソードの裏には、もう一つ別の理由がありました。恵まれた人々は、神を広大なる者、壮大なる者、美しき者、強力な者、威厳ある者、畏敬の念を起こさせる者として認識します。しかし、人類の大多数には、人間一人ひとりは神によって維持されている奇跡であるという意識、呼吸の一つひとつは神の摂理の証であるという意識、出来事の一つひとつは神の存在の証拠であるという意識が生涯のうちに生じることは滅多にありません。見たところ明らかに人間のものであるこの体が、人間を上回る潜在的な力で満ちているかのように振る舞う時、その事への驚愕が万人の注意を本来の性質である神性のほうへと向けさせます。時折、この教訓を人類に与えることが必要になります。そうすれば、人間の能力に神への信仰と神性を認識する力を加えることができるからです。そうして初めて、人の心(マインド)を世界ではなく世界の主へと向けることができるのです。

私の話を聞くために火曜日にこの市に集まった何千人ものゴアの人たちは、とてもがっかりしました。私はその人たちに、帰依者を救うことは私の使命の中で最優先すべきことであるということを伝えなければなりませんでした。このように、私は人々ががっかりして帰るしかなかったということを知っています。けれども、私は近いうちに、もう一度ゴアの人たちに会って、彼らが渇望している至福を与えるつもりです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.10 C37

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