サイババの御言葉:新年に着る服

日付:1971年3月27日
ユガーディ祭(ウガーディ)の御講話より

新年に着る服


新年は、霊性修行の新しい一歩を導くべきものであるべきです。鐘を鳴らして旧年を送り出し、新年を迎え入れなければいけません。私たちは新年をどうお祝いしたらよいのでしょう? 私たちは、掃き掃除や拭き掃除をし、蜘蛛の巣を払い、壁を塗り、花と緑の綱を掛け、花輪とクロトンの葉を吊るします。新しい服を着て、目新しいご馳走を楽しみます。その日一日、すがすがしく、生まれ変わったような気がします。一年のこの時期には、自然も新緑をまとい、装いを新たにします。どの木にも花が咲き誇り、見目鮮やかです。大地の緑の絨緞には、点々と多彩な花の水玉模様ができます。この新生のお祭りで、人間だけが、古びた先入観、古びた性向、古臭い習慣、虫に喰われてボロボロになった主義主張を持ち続けています。人も心の蜘蛛の巣を払い落とすべきではありませんか? 色あせて質が落ちてしまった考えや動機を取り除くべきではありませんか?

「ユガーディ」〔テルグ正月〕という言葉は、「ユガ(時代)の始まりの日」を意味します。聖典〔ヴィシュヌプラーナ〕は各ユガにふさわしい霊性修行を定めています。クリタユガ〔正の時代の意。正法の時代、黄金時代〕には、瞑想です。次のトレーターユガ〔三なる時代の意。正法の4分の1が欠ける時代、銀の時代〕には、ダルマです。三番目のドワーパラユガ〔疑いの時代の意。正法が半分欠ける時代〕には、儀式礼拝です。そして、現代のカリユガ〔最悪の時代の意。正法の4分の3が欠ける時代〕には、ナーマスマラナ、すなわち、神の御名を憶念することです。ですから、ユガーディの日には、それを受け入れて、自分は精一杯ナーマスマラナをやろうと決意しなければいけません。これには、とぎれることなく神を憶念することを邪魔する、あらゆる習慣を手放すことが含まれます。

苦しみがなければ喜びを味わうことはない

実に、人生というものは、受容と拒否、執着と無執着、喜びと苦しみ、利得と損失の連続です。今年には、いささか不気味で不吉な名前が付いています。それは、「敵を作る年」という意味の「ヴィローディクリティ」という名前です。不安を抱くことはありません。あなたが直面する唯一の敵は、あなたが手放そうとしている悪い習慣と無意味な追求です。

あなたに起こることすべてを、神の恩寵の贈り物として受け取りなさい。当然、あなたは自分の歩む道の上で、能力と信愛の限りを尽くして行動しなければいけません。それを、あなたが神を礼拝するのと同じ誠実さで行いなさい。そして、その結果を、全知全能にして、すべてに慈悲深い神に委ねなさい。どんな結果になろうとも、なるがままに任せなさい。どうしてあなた自身が責任を追うことがありますか? 神が促し、神があなたを通じて行ったのです。神は、何であれ神自らがそうしなければならないと思う結果を与えるでしょう。

苦しむことがなければ、喜びを味わうことはありません。オレンジには苦い皮が付いています。その苦味が、甘い果汁を略奪者から守っているのです。甘い果物は砂糖のように甘い皮は持てません。なぜなら、皮が甘かったら、誰にも彼にも、その場であっという間に食べ尽くされてしまうでしょう。果物には、親である木の下の日陰に落ちるのではなく遠くの広々とした場所に行かなければ、という本能があります。そうすれば、種が芽吹いて木に成長することができるからです。木は自分の子孫が遠くまで広く分散することを欲します。そのため、もし皮が苦ければ、果物を食べようとする者は、果物を持って歩きながら皮をむき、何歩も離れた場所でやっと種を吐き出すことになるというわけです。純金は、純金でできた箱に入れても安全に保管することはできません。鉄でできた金庫を用意しなければいけません。喜びという贈り物は、苦しみという皮に包まれてやって来ます。喜びだけをくださいなどと神に祈ってはなりません。それは愚かなことです。苦しみと喜びは一枚のコインの裏表にすぎないということを悟るための、不屈の精神を与えてくださいと祈りなさい。

神の恩寵を勝ち得るには努力が必要

今日は、どの家庭でも、僧侶が「五肢」(パーンチャンガ)と呼ばれる新年の暦を読みます〔ヴェーダ占星暦で五つの要素から成る予言の方法〕。その「五肢」とは何でしょう? それは通常解釈されているような、太陽と月と星などの位置のことではありません。それは人間の五感のことです。五感は人に、音と感触と見ることと味わうことと匂いを通じて集めた知識を与えます。その知識が真に純正なものになることができるよう、五感は清らかでなければいけません。

一時一瞬が吉兆でなければいけません。そうすれば、結果も吉兆に終わります。それゆえ、慎重に暦を学ぶよう定められているのです。星が神の恩寵に打ち勝つことはできません。神の恩寵は、人を守り導くための最も強い影響力を有しています。ティヤーガラージャは、「ラーマの恩寵は最悪の星並びの影響を無効にできる」と歌いました。人々は、星がもたらす悪を回避することを願い、その手段として、誓いを立てたり儀式をしたりします。けれども、神の恩寵を勝ち得るための努力はしていません。礼拝の儀式(プージャー)の仰々しさも、その用具一式も、表面的なものです。それらが永続する利益をもたらすことはありません。それらはせいぜい、あなたが時間とお金を有害なことに使うのを防ぐくらいです。大事なのは、そうした儀式を「なぜ」するのかであって、「どうやって」するのかは、さほど問題ではありません。人の実体、すなわち遍在者の実体でもあるものを悟ることが、その「なぜ」です。

遍在者に委ねなさい。「あれ」〔タット〕になることを熱望しなさい。職や息子や賞を求めて神に祈るとき、あなたは神に委ねるのではなく、職や息子や賞に委ねているのです。神には神を求めて祈りなさい。愛しなさい。なぜなら、愛することはあなたの本性だからです。なぜなら、あなたは愛にほかならないからです。なぜなら、あなたは愛以外の行為はできないからです。あなた自身を拡大して、すべてのものの中に入れなさい。愛をまとって成長しなさい。それこそが、今日あなたが着なければいけない新しい服であり、それをまとって輝かなければいけない新しい服です。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sahtya Sai Speaks Vol.11 C18

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