サイババの御言葉:無私無欲はサット・チット・アーナンダ

日付:1972年7月8日・場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学新校舎落成1周年祭の御講話より

無私無欲はサット・チット・アーナンダ


神聖な人間としての生を適切に用いるために、人は五大元素を至高神からの恩恵として受け取らなくてはいけません。五大元素を正しい方法で役立てることは、人間の神聖な義務です。しかし、人はしかるべき方法で自分の義務を果たしているかどうかを熟考する必要があります。今日の世界では、どこを見ても、言語に絶する動揺、悲しみ、不安に遭遇します。そのことについて深く考えてみれば、利己心がそのすべての背後にある根本原因であることに気づくでしょう。

では、利己心を根絶できる方法は何でしょうか? 誠実に探求すれば、必ずその道を発見するでしょう。他者に危害を加えたり、苦痛を与えたり、罵ったりする手段に訴える者は、利己心からそうします。そればかりではなく、戦争でさえ利己心から起こります。ですから、利己心と貪欲さこそが、私たちのあらゆる悲しみの裏側にある原因であることは明らかです。この利己心を敬神の道(神への道)に沿わせることについてよく考えてみれば、バーラタ人は「サット・チット・アーナンダ」〔実在・純粋意識・至福〕は神の基本的な特質であると気づいていることが、わかるでしょう。しかも、これらの基本的な特質は、生まれつき人間に備わっています。ところが、人はこれら基本的な原理を実践に移すことができず、誤った認識のためにそれらを無駄にしています。それゆえ、「サット・チット・アーナンダ」という側面について熟考する必要があります。

「サット」〔実在〕は「真理」を意味します。この世界には真理について知らない者は誰もいません。「チット」〔純粋意識〕は「ヴィグニャーナ」(英知)を意味します。人は、「ヴィグニャーナ」(英知)を、サットサンガ(神を探求する仲間)や学習や他の種類の体験を通して認識することができます。「アーナンダ」〔至福〕はすべての人が熱望しているものです。万人は、幸福を手に入れ、悲しみを取り除くことを目標にしています。決意を固めて真理〔サット〕と知識〔チット〕の道を歩むなら、人はアーナンダ〔至福〕と呼ばれる境地に到達します。人生の成就を実現するためにこの種の努力をすることは、個人にとって必修の義務です。アーナンダ〔至福〕に関する探究を徹底的に行うなら、自らの内にこの至福を認識して味わうのは容易なことです。

今日、誰もが何らかの類の幸福を味わうことを熱望し、他の人々を誤った道に陥れようとしています。そして、そうすることで人間性を傷つけています。今、人間は人間らしく生きているでしょうか? 本当に人間らしく生きているのであれば、人の中に利己主義が入り込む余地はありません。利己主義のせいで、現代人は自分を神から遠ざけ、幸福を手に入れることができずに、多種多様な損失や困難にさらされています。では、どのようにして利己主義を滅ぼせばよいのでしょうか? どのようにして利己主義の道を捨て、神聖な道に入ればよいのでしょうか? これも私たちが熟考すべきことです。人生に希望を持ち続けるために、人は確固たる目標を心に焼き付けておかなければいけません。何も目標がないと、何が目的なのか、何が神聖なのかを見分けることができません。そして、そのせいで人は目を閉じてしまっています。そのような状況の下で、私たちはある程度、自分の利己主義を慎み、母国の神聖な文化を思い起こさなければいけません。

バクティの向上

こうした現状を踏まえて、私たちは自国の文化に、ある種の変化を起こし、若者たちが立派なバーラタの国民となるよう奨励すべきです。現時点では、満足できる方法で私心のない理想を広めることはできません。

皆さんは、他の国々がそれをすることは可能ですかと尋ねるかもしれません。それは私たちが関心を持つべきことではありません。個に関しては、自分の面倒が自分で見れるなら、完全な自由を獲得することができるでしょう。(本校の)理事会の第一の目的は、年長者たちが、自らの手本を通して若者たちの心を神聖なバーラタ文化で満たし、若者をこの種の完全な自由に恵まれた理想の国民にすることです。

1つの例があります。昔から、人は文化という面において、意味をよく理解しないまま、習慣に関して一定の概念を作り上げてきました。今、私たちは神を喜ばせるということについて、そして、それにつながる習慣について考えなくてはいけません。様々な類の有神論者たちが、確かに礼拝を実行しています。その礼拝はどのような方法でなされていますか? 有神論者たちは、ヴァンダナム(平伏)、ダースヤム(召し使い)、パーダセーヴァナム(神の御足に捧げる礼拝)、アートマ ニヴェーダナム(全託)等の方法によってのみ、礼拝をしています。また、バーラタ文化の一環として、お供えの花を摘んだり、花輪を捧げたり、礼拝の儀式を行ったりするといったことを考えます。これらは間違いなく正しいやり方です。しかし、あなた方はどれくらい同じ段階や同じ状態に留まったままでいるのですか? これらが進歩的な質のものでないことは明らかです。学生は、永遠に同じ学年に留まっていてはいけません。学生は毎年、上の学年に進級することを切望します。礼拝もこれとよく似ています。もし、始めた時と同じ心の状態にずっと留まり続けるなら、最後はどうなりますか? 私たちは目的地に関していったい何を学んできたのですか? このことを、もう一度よく考えなければいけません。

花を供える礼拝をしている限り、それは礼拝の第1段階にいることを意味します。花は、少しの間は活き活きしていますが、そのうち枯れてしまいます。一方で、神に好まれる花は、非暴力、感覚の抑制、慈悲、平安、忍耐、苦行、真理、そして、愛という花です。正しい道には、これら8種の花の意味を理解して、その花々で神を礼拝することが含まれます。8種の性質の象徴である花々は、いかなる時代にも氏族にも反目するものではなく、すべての宗教から是認されています。これらハートの花々は、実際、あらゆる宗教を1つにつなぐものです。ハートの花々と、善良な行動規範と、公正な富を捧げることにより、人生に成就がもたらされ、国に神聖さがもたらされると共に、人は神の恩寵を受けるにふさわしい者となります。したがって、前述の類の礼拝や儀式をする代わりに、善良な行動規範と習慣を育てる努力をすることは、人間にとって大変重要なのです。

ジャントゥーナーム ナラ ジャンマ ドゥルラバム
あらゆる生類の中で人間として生まれるのは最も稀なこと


わが国の聖典は、840万種の生類すべての中で人間は最も神聖であると、熱心に説いています。人間として生まれることは非常に稀なことであり、それほどの存在である人間が正道を踏み外した手段に頼るのは、極めて不適切です。今、何の教養も文化もなく、神聖な行為もしていない動物たちと、冷淡かつ横柄な態度で自分の教養や地位をひけらかす人間の間に、何の違いも見られません。学生の義務は学位や名声を獲得することだけではありません。社会への善良な奉仕を広め、私たちのバーラタ国に文化の復興を起こせるようになることも、学生の義務です。

善良な行為は善良な富

今は、誰もが、金銭、富、不浄の財、虚飾を好みます。しかし、こういったものは、本当は富の要素を成すものではありません。霊性という神聖な道においては、善い行いと人格が富です。善い奉仕は私たちの装身具です。こうした神聖なものは、三界のいたるところで、(その人がどんな状態にあっても)つねにその人を守ってくれます。したがって、教育の主要な目的は、神聖な特質の重要性を世間の人々に確信させることです。そうする代わりに、人は邪悪な原理と行為に訴えることにより、自らのハートを破壊しています。人はまた、アートマの原理は建設的であり、破壊的ではないという真理に気づくべきです。

バーラタ人は、愛情を込めて「ゴーヴィンダ」と声に出し、そうすることを楽しみます。「ゴーヴィンダ」〔という呼び名〕は何に由来するのでしょうか? 一般的に、ゴーヴィンダ〔クリシュナ神〕はゴー(牛)の世話をしていたので「ゴーヴィンダ」〔牛飼い〕と呼ばれていると信じられています。しかし、「ゴー」が本当に意味するものは何でしょうか? 「ゴー」は「生き物」を意味しています。「牛」と「生き物」の違いは何ですか? 牛には、ある1つの習性があることがわかるでしょう。手に草を持っていると、牛はそれに引きつけられて後を追ってくるのは周知の事実です。一方、手に棒を振りかざして脅すなら、牛は逃げていきます。同じように、もし、あなたが10ルピー紙幣を見せれば人は走りよって来ますが、虐待という手段に訴えるなら人は逃げていくでしょう。ですから、この点に関しては、牛と人間には何の違いもありません。自らの正当な義務を果たしつつ、自らの命を賭けてさえ真理を守り通すとき、初めて人間の真価は外に現れ、光り輝きます。

不機嫌な顔をして、気難しい態度を取っている、という私たちの現状と運命は、本来の純粋で快活な性質を閉じ込めて、人為的な生き方を発散させてまったことが原因であるように思われます。人の生命はとても神聖なものです。ところが、人々の90パーセントはその偉大な力を悟るための努力を何もしていません! 人間は神であり、神は人間であると述べる人々もいますが、それは単なる言葉にすぎず、人々は真の意味でそれを体験することができずにいます。もし、少なくともこの国の人口のほんの一握りの人がそれを理解しようと努めるなら、教育分野における古代からのバーラタの卓越性とその神聖さは明確に理解され得ます。

人はまた、母親への献身や神聖な生活様式といった自分たちの名高い文化の見解を、故意に軽視しています。この種の無関心は非常に嘆かわしいことです。中には、自分たちの文化を盲信や迷信じみた儀式だと愚弄するところまで及んでいるインド人もいます。もし、そのような人たちが盲信と真の信仰との違いを特定しようというのであれば、私は喜んでそれを受け入れます。しかし、それはいい加減な話にすぎません。それらは時間の価値を知らない者たちの言葉です。彼らは盲信だと言いますが、その盲信とはどのようなものであるかを定義づけることができません。そのような愚かな理屈に耳を傾けることにより、人々も愚か者になりつつあります。そして、犬やジャッカルのように他人の言いなりになって生き、その挙句に神性の道から押し流されてしまうのです。そのようなネガティブな態度には取り合わず、高潔な理想と習慣を育てるよう努めるなら、皆さんは「バーラタの息子」という名前に値します。これと正反対にあるものは、ぐずぐずとした無駄の多い生き方です。誰にも他人の善悪を判定する権利はありません。なぜなら、善悪は見る人自身の見解によるものだからです。

模範的な人生を送りなさい

ならば、どうして他人を判定することなどできますか? 自分の欠点も知らずに、他人の善について判定を下すのは愚か者だけです。実際、この点に関して人間には何の権利もありません。私たちは純粋な水を飲み、何十分か経つとそれを尿として外に出します。そのどちらが善で、どちらが悪であるかを、誰が決められますか? 私たちは美味しい食物を食べ、しばらく経つとそれを便として排泄します。それと同じように、いわゆる不純物は純粋物に変わり、その逆もあります。人々は、こういった識別の一切は、多様性を有さないものの欠陥ではなく、単に自分の見方に欠陥があるせいである、という真理に気づく立場に立っていません。誰かが他人に「良い」という評言を述べたとしても、それは単にその人の個人的な意見であり、それが必ずしも他の人々の意見や普遍的な意見であったりすることはありません。したがって、他人に判定を下すなら、それは自分の時間、そして人生をも無駄にしていることを意味します。ですから、人は自分自身の欠点を批判するよう懸命に努め、善い性質を育てるよう努力し、人生を有意義なもの、見習う価値のあるものにすべきです。

学生たちの敏感なハートに好ましからざる変化がある原因は、周りの空気です。しかし、それは学生たちが作ったものではありません。その病気の根本的な原因は親にあります。そして、ある程度までは教師たちにもあります。それゆえ、親と教師は子供を堕落させないよう注意すべきです。子供に教える前に、まず自分が理想を実践できれば、信頼を得ることでしょう。親たちの中には、子供たちに映画を見に行ってはいけないと命じていながら、夜、リキシャ(人力車)を雇って映画館へと向かう者もいます。親がそのような態度を取っていて、どうしてその子供たちが善良な国民に成長できますか? 教師たちも同じような態度を示しています。

この大学を創設した背景にある主要な目的は、人に説教する前に実践する女性を育てること、そして、自分の子供を賞賛に値する国民に育てようという女性の意欲を培うことにあります。

この国のほとんどの州にこの種のカレッジを供給すべきである、ということも決まりました。したがって、各州はそれを目的に1つの信託を組織すべきです。それにより、周辺の人々がその信託の理想に気づくようになり、その種の気づきが津々浦々に広がっていくことが望まれます。1つの新しい運営団体がアーンドラ・プラデーシュ州にできました。その団体には、高い教養を身に付けた立派なメンバーがいます。それゆえ、私はこの大学が速く成長することを望んでいます。このカレッジで教育を受けた後、少女たちは自らの家庭を明るく照らし、それから結婚して、「いったいどこの大学でこのような教育を身に付けたのか?」と、嫁ぎ先の両親が知りたがるようでなければいけません。義理の両親、そして夫となる人が、シュリ・サティヤ・サイ女子大学出身の花嫁を迎えたいと渇望することを、私は願っています。反対に、このカレッジを卒業した後、もし、義理の両親を軽視しはじめるなら、それは母校を冒涜するに等しいことを知るべきです。

この大学で良い教育を身に付けた後、皆さん全員が社会に出て、子供たちを立派なバーラタの国民に育てるために懸命に努力することへの希望と祝福をもって、私の講話を終わりにします。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C6

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