サイババの御言葉:なぜシヴァムなのか?

日付:1972年10月25日・場所:ハイダラーバード
シヴァム建設中の御講話より

なぜシヴァムなのか?


シヴァムと名付けられた礼拝堂の建設は、バーギャナガラ〔アーンドラプラデーシュ州の州都ハイダラーバードの旧名〕の住民にとっての特別な霊性修行です。シヴァムの外観は類まれなものです。なぜなら、それはリンガ〔リンガム〕の形をしたものとなるからであり、リンガは無形なるもの、属性をもたない絶対者という概念に最も適した形であるからです。リンガは神の姿であり、無形なるものから有形なるものが生じたものです。他のあらゆる形状は、すべてリンガの形状に包含されています。プラクリティ、すなわち現象界がその土台です。それは、その神の顕れの中に神が宿っているということを表しています。そして、それは神の御業、神の潜在力、神のシャクティ(力)の具体的な表示です。それゆえ、主なる神は「シヴァ シャクティ アートマカ スワルーパム」、すなわち「シヴァとシャクティとなった至高者」と言われています。シヴァは潜在しているものであり、シャクティははっきりと目に見えるものです。

皆さんは、シヴァムの土台の上の構造物の平面の上に円筒状のリンガが置かれるのを見ることになるでしょう。土台はサッティヤム〔真〕であり、その上の構造物はシヴァム〔吉兆、善〕、リンガはスンダラム〔美〕です。一つが花、二つ目は芳香、三つ目は風です。風は芳香を運ぶ無形なるものです。芳香はマンガラム(吉兆)の象徴であるシヴァムです。サッティヤムは土台であり、その上に宇宙と、宇宙に含有される万物が置かれています。

  

その建物が示すメッセージは、人はサッティヤム、シヴァム、スンダラムの化身であるというものです。その建物は万人にその栄光に応えるような生き方をせよと呼びかけるでしょう。人は真理を認識し、真理こそは人間存在の土台であるということを、思考と言葉と行為によって身をもって示さなければいけません。真理を知りなさい。そうすれば、真理があなたを万人の強く変わらぬ親族にさせ、情欲と憎悪という足かせを外してくれるでしょう。人はシヴァムの教訓を学ばなければいけません。怒りと貪欲という毒を飲み、世界が毒の影響で害されることがないようにした、あの教訓〔シヴァ神の乳海攪拌神話〕です。言葉と行動を通じて慰めと安らぎを広めなさい。

人は自分はシヴァムであるということに気づかねばならない

シヴァ神は頭の上に三日月を身に着けています。それは巡礼者に神への道がわかるよう、穏やかな月光で照らして旅の苦労を減らすことができるようにするためです。シヴァ神は喜びと平安を広めます。その一方で、シヴァ神は自らの喉の青いあざの奥に烈火のごとき猛毒を隠しています。これは人間への教訓です。反社会的な性質と性癖、有毒な憎悪、競争心旺盛な貪欲を自分の中に監禁しておきなさい。シヴァムは、特定の神、すなわち三大神である神を意味しているわけではありません。シヴァムは全人類を含有しています、なぜなら、人は自分はシヴァムであるということに気づかなければいけないからです。

さらに、スンダラムも同様に、真理は美であり、美は神であるということを気づかせる存在です。その美は単なる身体的な美しさではなく、道徳的、精神的な美しさです。醜い思考、不快な言葉、人の気分を害する行為を手放しなさい。常に美の理想を心に抱いていなさい。

今しがた、アヴァダーニ〔先の講演者〕が、こうした建物はサイの時代のランドマークでありインド全国に建てられるべきだと述べました。私にそのような望みはありません。私がそういった石とセメントとブロックとモルタルの寄せ集めを高く評価したり奨励したりすることはありません。私は、純度の高い美徳、慈悲深い意思、思いやりに満ちた感情という線香の香りが漂う、あなた方のハートに住むことを切に望んでいます。それが私の望むシヴァムであり、真理と美と善でできた礼拝堂です。

内面の魅力こそが真の美です。シーターがランカー〔羅刹王ラーヴァナの国〕の無憂樹の庭園に監禁されていたとき、ふいに目の前に一匹の猿が現れました。その動物は、見た目はよくありませんでしたが、シーターが待ち焦がれていたラーマからの伝言を伝えたとき、美に満ち溢れた者という印象をシーターに与えました! 庭園の愛らしさ、魅力的な風景、ラーヴァナがシーターの目の前に広げたきらきらと輝く美しい品々は、シーターのハートを勝ち得ることができませんでした。ところが、ラーマという一言で、木の下で人喰い鬼女たちに囲まれていたシーターは、その木のこずえにうずくまっていた風変わりな猿を慕うようになったのでした。

憎しみと貪欲というスモッグが寺社の塔を曇らせている

自然界の美しさは神の美しさの反映にすぎません。しかし、あらゆる写像がそうであるように、それは実在しません。花は朽ち、雲は散り散りになって新しい形となり、身体的な美貌はほんの一瞬のものにすぎず即座に消えてなくなります。一方、神の美は永遠で、完全で、囚われることなく自由です。そのスンダラム〔美〕はサッティヤム〔真理、真実〕であり、時間の経過に影響されることも、場所と共に変化することもありません。そのスンダラム〔美〕は真のシヴァム〔吉兆、善〕であり、それは神のみです。下等な肉体美の追及は、人に道を誤らせます。それは取るに足らない喜びの追求と同様に、災難をもたらします。

シヴァムは善(Goodness)です。体は神性(Godness)を顕現させるためにあり、神性は完全な善です。しかし、体それ自体は善でも神性でもありません。体は道具であり、一瞬ごとに崩壊し、一瞬ごとに再構築されており、そのプロセスの中で衰えていきます。父親は自慢げに「私の息子は成長が早い」などと言いますが、それは裏を返せば、息子の命は早く衰えているということになります。体は神我を顕現させるために使うときにのみ価値を持ちます。ですから、それと同様に、シヴァムという礼拝堂も、あなた方がその中に宿る神を顕現させることができたときにのみ、価値を持つのです。寺院や礼拝堂のゴープラム(塔)は、神が疲労した巡礼者に向かって手を掲げて、一息ついて休みなさい、それから、己の求める到着地へ向かってより速く歩を進めなさい、と呼んでいるかのようなものです。たいていの場所では、そうした塔は近年周囲に乱立している工場の煙突の中に埋もれて隠れてしまっています。工場から出る煙と、派閥争いと貪欲から生じる憎しみというスモッグが、寺院の塔の空気を濁しています。

寺院も、入場料を見積もったり礼拝料を徴収したりすることによって汚されています。礼拝から湧き出る至福の流れは、金銭的な寄付を要求することによって遮られてしまいます。寺院は、社会意志に平安と喜びの流れがよどみなく流れるようにすることを許されなくなってしまっています。

  


「なぜ、この礼拝堂なのか?」

と皆さんは尋ねるかもしれません。それはいつでも私がハイダラーバードに来たときにそこに宿泊できるようにするためでしょうか? 私は、大きな建物も、家具も、あなた方がそこに取り付けましょうと申し出ている電気器具も要りません。私の後を追いかけて、私が行く先々の家々に来る人々が今必要としていることのために、私はさらに奉仕をするつもりです。私に定宿がないために、その人たちは、女性も子どもも、健康な人も病人も、どこに行けば私がいるかを知るのに大変苦労をしています。この建物はそういった人たちに私を待つことのできる場所を提供してくれます。さらにこの建物は、私がハイダラーバードにやって来るもう一つの言いわけにもなります。シヴァムが完成したら、私は必ずその竣工式をするためにここに来ますから。

  

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.11 C49

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