サイババの御言葉:瞑想は集中とは異なるものである

日付:1973年・場所:ブリンダーヴァン(夏期講習)
瞑想に関する御講話より

瞑想は集中とは異なるものである


私はずっと探し続けてきた
私はずっと、そして、いつも探し続けてきた
私は昔も今も探し続けている
真の魂を持った人間はいないかと

人類には何も欠けているところはないが
人間たちの姿を見ても、私は神の真の性質を見つけられずにいる

野生の綿の実を見て、時としてそれをマンゴーと思い違いしてしまう
野生のキビを見て本物のサトウキビだと思い違いして噛んでしまう
大理石を見て飴だと思い込んでなめてしまう
人の外見を見て騙されてはならない
重要なのは外見ではなく、その人のグナ(属性)である

神聖アートマの化身である皆さん、学生の皆さん!

人間を特徴づける特質を知ることは重要です。その特質を得るには、集中、犠牲の精神、神への信仰を育てなくてはいけません。そうして獲得した英知は太陽のように輝きます。しかしながら、無知の状態ではその英知の輝きは利己心の雲で覆われています。利己心という雲を押しのけないかぎり、英知の太陽を見ることはできません。

涼しい影をもたらす木は、自分はその恩恵を旅人に与えているなどと考えることすらありません。一方、人間は、自分の体、自分の財産、自分の家族、自分の所有物、自分の妻、自分の子供のことを考えて、それらの所有物に執着します。私たちが「これは私の家」、「これは私のお金」、「これは私の父」、「これは私の体」などと言うとき、その「私」とはいったい誰なのかということを、探求して見いださなければいけません。それらの主張の一切をしているのは誰なのかを発見すべきです。主張しているのは体なのか、それとも体に内在する「私」なのかを見いださなくてはいけません。もし主張しているのが体だとすれば、「これは私の体」と言うことは意味をなしますか? ですから、体は自分ではなく、自分から切り離されたものです。体自体に生命はありません。自分の中に存在する生命が一切を主張しているのです。

体の中に存在する「私」を見つけ出す試みは、サーンキヤと呼ばれています。サーンキヤとは物質の性質を調べることを意味しますが、「私」の源を探求する場合、その探求はターラカと呼ばれます。ターラカの状態にあるとき、人は他のことは一切忘れて、神聖アートマの至福を楽しみます。それはアマナスカと呼ばれています。霊性修行は、あなたがサーンキヤ、ターラカ、アマナスカの意味を理解することを可能にします。

たとえば、クリームが分離されていない牛乳の中には、ギー〔精製バター〕の存在は見えません。一方、牛乳をカード〔凝乳〕にし、カードからバターミルクを取り出し、バターミルクからバターを取り出し、そのバターを溶かすと、ギーを目で見ることができます。牛乳から分離したギーは、もう二度と牛乳と混じることはありません。どんな努力を傾けても、どんな試みをしても、ギーは牛乳と混じることはなく、分離したままです。人生もそれと同じです。最初、ターラカと、サーンキヤと、アマナスカはまったく同じに見え、分けられずに体と混ざり合っていますが、霊性修行をしてそれらを分離すると、それらは分かれて、体と混ざり合いたいと望むことはなくなります。

「ソーハム」という言葉の「ソー」という文字はパラマートマ、神を表し、「アハム」はジーヴァ、人間を表しています。この二つを一緒に発音すると「ソーハム」という言葉になります。そのとき人は、ジーヴァ(人間)とパラマートマ(神)は一つになるという事実を認識します。私たちの国では、人間とブラフマン〔神〕の一体性と唯一性に気付くために「ソーハム」という言葉を瞑想することは一般的な修行です。

姿と名を持たず、唯一無二なるものであり、常に純粋であり続け、目撃者としてのみ存在しながら、神性はアートマの領域に留まって、二つの文字でできた「タット」〔??、あれ〕という言葉で呼ばれます。「タット」に集中して瞑想すると、瞑想から「トワム」〔これ、汝〕が生じます。「アスィ」〔同一なり〕という言葉は喜んで、すぐに「タット」と「トワム」を結び付けます。この三つの組み合わせは、

タットワマスィ
〔あれは汝なり、タット トワム アスィ〕

という神聖な宣言となります。この格言の意味をよく理解すべきです。

昨日、私は「タット エーヴァ トワム」は教師の地位を表し、「トワム エーヴァ タット」は学生の地位を表すと述べました。教師は学生に「タット」の意味を説明し、学生は「トワム」の身分になることで「タット」の側面を理解します。教師と教え子が一つになることが、学びの作業の目的です。ですから、私たちは外面的な様相と結びついた感情や考えを取り除かなければいけません。神の観念を育み、神と一つにならなくてはいけません。外面的な現れとは何でしょう? それは、肉体、微細体、原因体と結び付いています。

「アハム」〔アハン、私、我〕という音を発音するとき、そこには浄性、激性、鈍性という三つのグナ(属性)が含まれています。エゴ〔自我意識、アハンカーラ〕と同じものであるその音は、三グナと結びつくと体の三つの相の中を動き回り、世界の別々の相であるブラフマー〔創造神〕、ヴィシュヌ〔維持神〕、マヘーシュワラ〔破壊神〕として現れます。私たちが物質世界で見るもの、経験するものはすべて、ある種の働き、ヴリッティ〔心の働き〕であると考えられます。誰かに耳を傾けることもその作業であり、ヴリッティと呼ばれるものです。一方、神の御名を聞くこと、神聖な音を生み出すために神の御名を唱えることは、世俗的な仕事とは呼ばれません。それはプラヴリッティ〔外へ向かうこと〕とニヴリッティ〔内へ向かうこと〕の間にあるものであり、人がその二つを一つにすることを可能にします。プラヴリッティの世俗的な様相を、無私の行為であるニヴリッティに変えたいと思ったら、霊性修行と訓練が必要です。その霊性修行は、ディヤーナ、瞑想と呼ぶことができます。瞑想はどのように行うのでしょうか? 瞑想の内なる意味は何でしょうか? 私たちは瞑想へと続くさまざまな道を信じなければいけません。そうして初めて、瞑想の対象に到達し、瞑想の目的を理解することができます。

ディヤーナ(瞑想)という言葉は、多くの人によってさまざまに解釈されています。さらに、人々は種類の異なるいろいろな瞑想を指示し、求道者の心に多少の混乱を招いています。瞑想とは霊性修行を表しており、霊性修行者はそれによって神を瞑想し、それを行うことによって、三つの構成要素、すなわち、瞑想の対象――神、瞑想をしている人――私(人)、その作業――瞑想そのもの、を一つにします。この三つの組み合わせと一体性が瞑想です。近ごろでは、瞑想の作業と意味が誤って解釈され、瞑想が集中や一意専心と同じものと考えられています。集中力を得るためには瞑想する必要はありません。実際、私たちは四六時中、集中しています。飲むこと、食べること、書くこと、読むこと、歩くことには、集中を伴います。集中とは、さまざまな知覚器官、すなわち、シャブダ(聴覚)、スパルサ(触覚)、ルーパ(視覚)、ラサ(味覚)、ガンダ(嗅覚)に付随するものに起因します。

新聞を読まなくてはならないときには、目が新聞を見、手が新聞を持ち、最後に、知覚したものを頭が統合しなくてはなりません。集中によってこれらの行為がすべて一つになって、初めて新聞を読むことができます。道を歩かなければならないときには、交通に気をつけ、障害物がないか、穴がないか、蛇や蠍がいないかどうか注意しなくてはなりません。同様に、車を運転するときにも多大な集中力が必要となります。ですから、この種の、日常生活でなじみの集中は、瞑想とは言えません。神を自分の目標とすること、感覚より上に上がって、心を上手く感覚器官の上に置くことが、瞑想と呼ばれます。ですから、瞑想は感覚器官よりも優れたものであり、集中は感覚器官に付随したものです。

このことについての小さな例があります。薔薇が一本植えられています。薔薇には、葉、刺、枝、花が付いています。その刺、葉、枝、花を区別する能力を「集中力」と呼ぶことができます。それら各部を見た後に、あなたは花がどんなものかがわかります。ひとたび花の付いているところを見つけて花に集中することができれば、刺に触らずに花を摘むことができます。ひとたび花を摘んでしまえば、一方にある花と、もう一方にある刺や葉や枝には、何の関係もなくなります。そうした薔薇の木のさまざまな部分と花を分離することが「黙想」と呼ばれるものです。あなたは花を摘んで神に供えます。花を神に供えた後は、薔薇の木、枝、あなたの手、そして、花さえも、まったく存在しなくなります。そこでは神以外のすべてが消え去って神だけが存在する、このお供えが「瞑想」と呼ばれるものです。

人生は薔薇のようなものです。あなたのあらゆる人間関係は薔薇の木の枝です。あなたの性質(グナ)は葉であり、あなたの執着と欲望が刺を作っています。あなたの愛(プレーマ)が薔薇の花です。あなたの愛の花を執着という刺や人間関係という葉から遠ざけておく訓練を「黙想」と呼びます。

その愛を神に捧げた瞬間に、あなたは三つ〔神と人と瞑想〕の一体化を果たします。その愛は純粋な愛です。その理由は、愛を手に入れる過程であなたが花を刺や葉から分離したからです。ですから、あなたの手の中にあるのは純粋な愛の花です。あなたの中に物質的な欲望が潜んでいるかぎり、あなたの愛情は欲望と見なされます。本当の純粋な愛は、あなたの愛情の中から欲望が消えたときに自然と現われます。このタイプの愛は、無私無欲であるために、拡大していきます。契約的なタイプの愛は、利己心に基づいています。善い仲間の中にいること、ヴェーダやウパニシャッドの教えを実践に移すことによって、あなたは純粋な愛を育てることができます。自分の知性を鏡のようなものであると考えて、知性をきれいに保つよう努めなさい。人としてのあなたの本性は、知性という鏡の中でしか見ることはできません。この世界全体を自分の家だと考え、家の中のすべてのものを自分のものだと考えることによって、初めてあなたは、あなたの愛が「拡大する愛」となるように、あなたの愛を形作ることができます。

霊性修行には三つのタイプがあります。一つ目は猿が行う霊性修行で、猿の修行(マルカタ サーダナ)と呼ばれるものです。二つ目は鳥の修行(ヴィハンガ サーダナ)で、鳥が行う典型的な霊性修行です。三つ目は蟻の修行(ピッピーリカ サーダナ)、蟻が行う霊性修行と呼ばれるものです。

猿に関しては、猿は木に登って果実をもぎ取りますが、猿はその場では果実を食べません。猿は枝から枝へと飛び移ります。その過程で、猿はせっかく手に入れた果実を落とし、食べることができなくなってしまいます。これは、早急な結果を求める霊性修行の類です。人はすぐに神を見たがって、毎日のように霊性修行の目標を変え続け、猿のように一つの場所から別の場所へと移ります。

二番目の種類の霊性修行は、鳥の習性に喩えることができます。鳥は果実の上に急降下してきて、あまりにも強く果実つつくので、果実は地面に落ちてしまいます。その過程で、鳥は狙った果実を失ってしまいます。

三番目の種類の霊性修行は、蟻が行う典型的なものであり、蟻の修行(ピッピーリカ サーダナ)と呼ばれます。よく知られているように、蟻は自分が食べたいと思う物をすべて小さなかけらにして、そのかけらを一つずつ、ゆっくりと、着実に運んで、巣の中に持っていきます。蟻はいつも食べ物を得るのに成功します。霊性修行においても、ゆっくりと、着実でなければいけません。そうすることで、目標を達成することが可能になります。ちょうど蟻が食べ物を小さな断片にし、巣に持って帰って、恐れもなく、ゆっくりと時間をかけて食べるのと同じように、人も道からそれてはなりません。心に目的を持ち続けなければいけません。自分のヴィジョンが変わることを許してはなりません。このようにして、霊的進歩のために規律を守って心を制御し続けなさい。神の御名においてすべてを行うようにしなさい。

学生の皆さん!

今の年齢のときに神聖な考えを育まなければいけません。次のことを聞けば、その理由が明らかになるでしょう。

ヴェーダに従う者と二元論の支持者が、どちらの考えがより優れているかを主張して、長い議論の末に私のもとにやって来ました。そして、二人のうちのどちらが優れているか私に決めてほしいと言いました。愚かさと無知ゆえに、二元論に従うほうかいいのか、それとも、ヴェーダの教えに従うほうがいいのかを、私に尋ねたのです。私は、二元論の正当性はそれを支持する人によって決まるものではなく、ヴェーダーンタ〔ウパニシャッド〕とそれに定められている霊性修行の正当性もそれを支持する人によって決まるものではないと、二人に言いました。もし二元論を支持している人が自分の考えを変えたら、二元論は弱くなりますか? 同じように、ヴェーダの教えを支持する人が自分の考えを変えても、ヴェーダが弱くなることはありません。二元論とヴェーダーンタの力は、人々の議論ではなく、それぞれの内容によります。私は二人に、そのような議論は本質的に自己顕示であり、そんなことをしても、せいぜい自分が食べる物を確保できるくらいだと言いました。

現代では、善と悪は各自の態度と偏見によって色づけされます。自分の中の善い考えを促進したいのであれば、すべての場所に善を見ることを始めなさい。書物にあなたを支配させてはいけません。そうではなく、あなたのハートを愛で満たしなさい。そうできるよう、私はあなた方を祝福します。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1973 C24

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