サイババの御言葉

日付:1973年4月4日・場所:ハイデラバード
テルグ正月(ウガーディ)の御講話より

バーラティー バーラタム



本来、カルマ(行い)とは動きであり運動です。動きはエネルギーをもたらし、物質は凝結したエネルギーにほかなりません。空、風、火、地、水 ―― これらはすべて、この絶えることのない動きの結果であり、原因です。動くものはすべて活動しており、カルマに従事しています。生きることは、変化すること、動くことです。あなたは、体全部、あるいは、体の一部は動かさないかもしれませんが、それでも、あなたの中では動きが生じています。食べ物が消化され、血液が流され、空気が吸い込まれ、分解され、吸収され、吐き出され、外界からの印象が喜んで受け入れられたり拒まれたり、伝えられたり否定されたりしています。人生はカルマです。体は行為の場(カルマ クシェートラ)です。生きているものはすべてカルマに従事し、絶えることのない行為という供犠に自らを捧げています。その犠牲の果報は神我顕現です。

あなたが目を開けると、ここに大勢の人がいるのが見えます。目を閉じると、誰もいません! あるいは、あなたの視覚が正常に機能しなければ、誰も見えません。ですから、あなたは、この人たちは存在しないと言うことはできません。あなたの視覚が、疑いや、慢心や、偏見によって壊れていたら、あなたの中にも外にもいる神が、あなたには見えません。あなたは存在しないものを切望し、自分の手の中にある宝を無視しています。あなたは自分の手の中に青い鳥はいないと断言し、鳥は茂みの中にいて自分を待っていると信じ、懸命になってそれを探しています。茂みの中の鳥は、あなたの手の中にいる鳥の写しにすぎませんが、あなたはその真実に気づいていません。

あなたは、五感と五感が得る知識を信用しています。自分の心の想像と空想を信用しています。自分の理性の推論を信用しています。ところが、これらによっては縛ることも見つけることもできない神は、信用していません。だから、あなたは恐れ、深く悲しみ、疑うのです。

人に非難を浴びせるのは間違い

あなたの周囲に「神への思い」という蚊帳を取り付けなさい。そうすれば、欲望と疑心いう、死をもたらすかもしれない蚊があなたを害することはなくなります。その蚊帳は、病気を免れさせることで、あなたに健康を授けてくれるでしょう。あなたは欲しいものも、恐れるものもなくなって、邪魔されることのない安らぎを得るでしょう。あなたは神の創造物の一切を愛し、人に奉仕する機会、人の苦痛を和らげる機会を歓迎するようになるでしょう。

今朝、あるグループの人たちと会話していたとき、苦しみという問題について分析しました。苦しみは、自分自身の過去の行いと、自分自身の心の傾向に原因があります。ですから、人に非難を浴びせるのは間違いです。けれども、喜びと苦しみはどちらもその大元は神であり、神の意志がなければ一本の草さえ風になびくことはできません。そうです。もしこの真実がしっかりとハートに根付くなら、人は解脱という比類なき至福を得ます。すべてのものは神が与えるものであり、何であれ私たちが得るものは神の恵みです。あなたが得たものが良いものか悪いものかを判定する権利は、あなたにはありません。

神をそのようにしっかりと据えるには、神の像や絵や写真を礼拝すること、神の栄光を瞑想すること、神の御名を唱えることは、どれも予備的なサーダナ(霊的努力)として役に立ちます。私は、寺院や礼拝堂、祭壇や神社で神に祈願したり崇めたりするのは間違っている、無駄である、とは言いません。文字を覚えるまでは、入門書の挿絵が必要です。Aという文字は、その上に描かれたApple(リンゴ)の絵といっしょに覚えます。そうすることで、Aはどのような文字であったかを思い出さなければならない時、いつも自然とそのリンゴが思い浮かぶようになります。

絶えず神とつながっていなさい

すべては神の中で一つであるということ、そして、自分と神は一つであることを悟るためのサーダナとして、私は常に奉仕の重要性を強調しています。私はカルマを放棄するようにとは勧めません。なぜなら、それは不可能だからです。カルマ サンニャーサ(行いの放棄)の一般的な意味は、経典に定められている儀式と儀式の形式を放棄するというものです。私は、新しい儀式としてセヴァ(無私の奉仕)を、新しいヤグニャ(供犠)としてエゴ(我執)を犠牲に捧げることを、新しい礼拝の形式としてシャラナーガティ(愛に満ちた帰依全託)、すなわち、思考と言葉と行いのすべて主の蓮華の御足に献じ、起こることすべてを神の恩寵の贈り物として受け入れることを、固守するようあなた方に呼びかけます。

絶えず神と接触を保っていなさい。神の恩寵の貯水池から、あなたという蛇口にパイプが繋がっているようにしなさい。そうすれば、あなたの人生は揺らぐことのない満足感で満たされます。神の存在を絶えず感じていなければ、あなたが人に行うどんな奉仕も、干からびて味気のないものになってしまいます。神の存在を絶えず感じていなさい。そうすれば、どんなに小さな奉仕の行いも、豊かな実りをもたらすでしょう。

サルヴァタッ パーニパーダム
神の手足は、一切の場所にある

サルヴァトークシ スィロームカム
神の眼、頭、顔は、一切の場所にある

サルヴァタッ シルティマローケー
神の耳は、宇宙に遍満している

サルヴァマヴルッティヤ ティシタティ
神は、一切を包み込んで存在し続けている


あなたが御足のヴィジョンを得たいと祈る時、それは応じられます。あなたが苦しみのうちに泣き叫び、私の苦悩に耳を傾けてくださいと神を呼ぶ時、神の耳はそれに応じるためにそこにあります。あなたが真摯に神に、来てくださいと懇願する時、神は来ます。与えてくださいと懇願する時、神は与えます。けれども、一番のサーダナは、本の小包を受け取る時にあなたが行う振る舞いをすることです。本を手にするには、小包の包みを外し、本の梱包に使われている梱包材を取り除きます。今、最も深遠で意味深い祈りを例にあげましょう。それは「私は平安を請い求めます」(ナーク シャーンティ カーヴァーリ)というものです。そこから「私」(エゴ)という包みと、「請い求めます」(欲望)を外して、小包の中に入っている「平安」シャーンティを手に入れなさい。あなたがエゴと欲望という重い荷物を背負っている時、どうやって平安にたどり着くことができますか? ですから、荷物を捨てて、包みの中にあって包みによって保護されているものを、しっかりとつかみ取りなさい。

霊的な生活には三つの段階がある

人は、神が人間化したものです。人の中には莫大な力が集められていて、顕現するのを待っています。ところが、人は自分に貧困や病気や絶望を強いています。人は、相手かまわず誰にでも物乞いの手を伸ばし、自分の内にいる主を卑しめています。神は遠くにいる、手の届かない天界にいる、と自分で自分に言い聞かせています。人は、自分が受け継いだ正当な財産である王国から自分で自分を追放しています。人は、感じ、考え、話し、行動しているのは自分だと信じ込み、自分で自分を惑わせています。このようなあらゆる呪いの言葉と共に、自分は愚か者であり、運命の犠牲者で、過ちを犯しているといって、人は自分で自分を呪っています! あなた方一人ひとりが自分の心を調べ、自分の生まれ持った権利を否定するこうした臆病に陥らないようにしなさい。

人は、師から物事を習得することと勉学に何年か費やし、それから、職業を通じて実際に社会の発展の構築や維持に携わって何年かを過ごし、その後、晩年には、これまでの稼ぎや年金、家賃収入や利子で、生計を立てます。それと同じように、霊的な生活にも三つの段階があります。最初は、ジグニャース、すなわち、知りたがりで、質問好きで、真面目で、渇望を持ち、熱心な、求道者としての生活です。それから、ムムクシュ、すなわち、堅固で、まっすぐで、冒険好きで、たくましい、サーダカ(霊性修行者)としての生活です。最後が、アビムカ、すなわち、実在と顔を合わせた、強く、知的で、善良で、すべてのものに愛を示す、悟った人物としての生活です。鈍い、無気力な気質は、人を怠惰と隷属に追いやります。激しい気質は、人を派閥争いや競争、争いへとおびき寄せます。安定した、ぐらつかない、落ち着いた気質は、人を平安、正義、愛、真理へと導きます。人は、霊性修行を深めることで気質を克服し、自分自身と他人の真実、すなわち、神を、発見しなければなりません。

深い悲しみに襲われた時も幸せでいなさい


ヤン ナ バーラティー タン ナ バーラタム
インドのものではないものは知識ではなく、すべての知識はインドの理智の領域にある


さらに、すべての知識は、至高の英知に統合され、至高の英知と調和し、至高の英知に要約されます。ですから、ここではその錬金術を体験することができるのです。では、その英知とは何でしょう? 一人ひとりは神の光輝の火花です。神は万物のすべての細胞の中で踊っています。このことを疑ったり、無視したり、論議してはいけません。それが真実であり、それが真実の全容であり、唯一の真実です。世界は神(ローカはローケーシャ)です。このすべては神であり、神の身体なのです。

自分が配置された場所から逃げ出すのは臆病者です。それは愚かで無益なことです。そのような人を英雄と見なして持ち上げてはなりません。あなたはどんな専門職を身につけることも、どんな職業にも就くこともできます。なぜなら、すべての専門職は神のもの、すべての職業は神のものだからです。神は全世界の主人であり、全世界の扶養者です。ですから、問題が積み重なったり、あなたの前に失望が立ちはだかったりした時には、あなたの人格を鍛えるために与えられたその試験に取り組む特権を得たことに、感謝しなさい。あなたは冷却剤の力を借りて灼熱の苦しみに打ち勝ち、歓喜の力を借りて凍てつく寒さの苦しみに打ち勝ちます。深い悲しみに襲われた時も幸せでいなさい。怒りに火をつけられそうになった時も平静でいなさい。火で火を消すことができますか? 寛容と忍耐、愛と優しさだけが、あなた自身と社会に平安を確保することができる、という結論を導き出し、それを自分に言い聞かせなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C12

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