サイババの御言葉:神の体の細胞

日付:1974年3月1日・場所:ブリンダーヴァン
社会の変革に関する御講話より

神の体の細胞


社会学や社会科学は、精神科学や人間の精神の探求をどう扱ったらよいのか? これはよく上がる質問です。同様に、多くの人が、霊性を学ぶ者やサーダカ(霊性の求道者)は、社会と社会問題をどう扱ったらよいのか? と尋ねます。こうした態度はどちらも間違っている、と言わざるをえません。

人の精神が開花しなければ、社会は成就を見出せず、社会的理想は実を結びません。人類は神性が自らを表現した存在であり、精神を育むことに対して絶えず細かな注意を向けていなければ、人類が神性を顕現させることはできません。神性は、人の内や人を通じて以外に、どうやって自らを表現することができるでしょう? 私たちに理解できるのは、このつねに動いている気まぐれな幻想であるジャガト(流転の世界)だけであり、その幻想世界の監督である神を見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったりすることはできません。それと同じように、私たちは人を理解することはできますが、社会という名の付いた存在を理解することはできません。というのも、社会は、五元素でできた、個別の、はっきりりと知覚できる複合体ではないからです。社会は神が拡散しているものであり、至高の意志によって創られたものです。

愛の態度で考え、話し、行動せよ

人は死にゆくものです。人は灰であり、灰に帰するものです。しかし、人の内には不滅の炎の火花であるアートマが輝いています。これはヴェーダの哲人が考えたお世辞ではありません。アートマは、すべての存在とすべての有機体の源であり、糧です。アートマは、唯一無二の源であり、実体であり、糧です。アートマは神です。その特徴は、まさに普遍的なものです。ですから、それぞれの存在、それぞれの人を、神の子である兄弟であると見なして、身分、肌の色、階級、出生、カーストに基づくあらゆる制限的思考や偏見を無視しなさい。サイはいつも、あなたがこうした愛の態度で考え、話し、行動できるよう、あなたに警告し、あなたを導いています。

社会は、自然から強奪したものを均等あるいは不均等に分配する計画を立てることによって自らの正当な存在理由を示すことはできません。社会を鼓舞すべきその完成形は、普遍にして一なるアートマに関する知識、および、その知識が授けてくれる至福を、あらゆる社会的行為と決断の中でもたらすこと、苦心して作り出すことでなければなりません。サイ〔サイ ババ〕は、「アートマは不死であり、それゆえ、物理的な鞘である体は殺してしまいなさい」とは指示しません。とんでもありません。サイは戦争を奨励しません。サイはあなたに、アートマをあなたの家族の一員よりも、血縁よりも、最愛の孫たちよりも最も親密な親族と見なすよう指示します。そうすれば、あなたはもう決して正義の道から外れることはないでしょう。そして、正義の道こそが、そのアートマとの親族関係を維持できるのです。

家族への執着は、人が正当な義務を遂行するのを妨げる働きさえするものです。一方、神への執着は、その義務を喜びと成功の両方を保証する心新たな献身で満たします。神への執着ほど人を活動的にすることのできるものはありません。神への執着は、人が自分の義務を行っているプロセスの最中に、最高の知恵を授けてくれるのです。ですから、アドバイスはこうです。アートマを顕現させたいと望みつつ物質世界(プラクリティ)に入ってはなりません。アートマを悟ってから物質世界に入りなさい。なぜなら、そうすれば、あなたは新たな光の中で自然界を見て、あなたの人生そのものが長きにわたる愛の祝祭となるからです。

自分の学識や知性、さらにはヴェーダの学識すらも激しい論争や競争のために使っている大勢の人々がいます。彼らはちっぽけな勝利を得ることに夢中になっています。彼らは、社会はそうした勝利を勝ち取るための場であると断言します。しかし、サイはあなたに、そのようなつまらない欲求の余地のない、別の類の社会を得ようと努めること、そして、その社会を強化するよう求めます。

人は弱すぎて自分の欲求を抑えられない

議論したがるヴェーダ学者たちは、儀式を通じて自分の努力や尽力の成果を得ることを望みます。自然はそうは望みません。雲は、主である神への敬意として雨を降らせます。一方、ヴェーダ学者たちは、雨が降ったのは自分たちが行った儀式のご利益だといって、エゴを膨らませます。彼らは、大きく枝を広げた欲望の木の枝にぶら下がって遊び回っているのです。彼らは三本の「縄」である鈍性、激性、浄性(無知の性質、エゴの性質、善の性質)のとぐろに巻かれているのです。

あなたはその三本の縄、すなわち三つの足かせを、越えて行かなければなりません。あなたは、ずっと、変わることのない永遠の真理の中にいなければいけません。あなたは一切の二元の感覚をなくして、一なる者の中に、一なる者として、しっかりと身を置かねばなりません。手に入れること、蓄えることに心引かれず、ヨーガ〔神との合一を獲得すること〕とクシェーマ〔獲得したその幸福を保持すること〕の追求にもとらわれてはなりません。というのも、あなたはすでに「満」(まん)であり、何の不足もないからです。

高度な生き方の代わりに、高い生活水準という理想が人類社会をむしばんでいます。高度な生き方は、道徳、謙虚さ、無執着、思いやりを強く求めます。ですから、贅沢や顕示的消費を求める競争心旺盛な貪欲は、奨励されずに滅ぼされます。今、人は自分の欲の奴隷です。人は、喜びと贅沢への渇望を征するには自分は無力であり、自分の欲求を抑えるには弱すぎるということを知りました。人は、自分の中に潜んでいる神聖意識を呼び覚ます方法がわからずにいるのです。

心の気まぐれの言いなりになるのはやめなさい

単なる道徳の実践や教示は、あなたが神聖意識を呼び覚ますことを達成する助けにはなれません。それは霊性修行によってのみ達成可能です。というのは、それは根本的に変わることだからです。それには、その道の悪賢い障害物である心を消去することが含まれます。もし神の恩寵を呼び求めて勝ち得るならば、力を授かることができます。その恩寵はあなたの中の、手の届くところにあって、あなたに呼び求められるのを待っています。

人は、心の気まぐれの言いなりになるのをやめなければいけません。人はいつも、生来備わっている神性を意識して行動しなければなりません。それが行われる時、人の三重の性質(三属性である鈍性、激性、浄性で構成されている性質)は、自動的に聖なる道筋を通って自らを表すでしょう。それが本当の顕現です。

別のポイントです。次のような議論が起こるかもしれません。

「もし人が快適さや贅沢や喜びへの欲を手放さなければならないのであれば、なぜ人は社会に巻き込まれてる必要があるのですか?」

これは、社会はそうした世俗的な喜びを提供することによってのみ正当化される、という信条を前提としています。しかし、そのような脆弱な基盤の上に築くことのできる社会とは、どのような類の社会ですか? もし築けても、それは名前だけの社会、お互いの愛と協力によって結ばれていないものとなるでしょう。強者が弱者を押しつぶすでしょう。社会的な関係は不満によって損なわれるでしょう。たとえ天然資源を万人に平等に分配しよういう試みがなされたとしても、活気づくのは表層だけになるでしょう。それは自然に起こるものではないでしょう。

利用可能な資源を制限することはできますが、貪欲や欲望や渇望を制限することはできません。欲望には、可能性の限界を超えて求めることが含まれます。やらなければならないことは、欲望を根元からなくすことです。人は、世界は多であり、多様であり、多色である等の幻想に基づいた物質的な喜びへの欲望、そして、世界、自然、創造物の一切は一つであるという真理に基づいていない欲望を、捨てなければいけません。一つであるということだけを意識している時、誰がどれを欲するでしょう? 何が第二者によって得られ、享受されうるでしょう? アートマの目は、物質的な快楽を求める欲望を破壊します。なぜなら、主体とは別の客体は存在しないからです。

「全世界は一つの家族」という一体性を経験しなさい

社会が持っている真の機能は、社会の一員である皆にそうしたアートマの目を開眼させることです。社会でお互いの利益によって結び付いている男性と女性は、単なる家族やカースト、階級や集団、あるいは男の親族、女の親族なのではなく、一つのアートマなのです。人々は最も近しい家族の絆で結ばれているのです。人々は、自分が結び付いていると感じている一つの社会と結ばれているだけではありません。人類は皆、一つなのです。「ヴァースダイヴァ クトゥンバカン」〔神は家の主人なり〕とシャーストラ〔論書や法典〕が宣言しているように、「全世界は一つの家族」です。すべての人がこの一体性を経験しなければなりません。

天然資源と富は、今や、人のエゴを膨らませるために誤用されています。しかし、アートマは一つであるということがわかれば、人は愛を通して新しい生き方を促進するでしょう。そうすれば、今の「慈悲」すなわち法的に強制されている相互の「援助」は、「神の愛」へと変わるでしょう。それは受け手と与え手を効果的に浄化することができます。この完成形は、一般的な政治や倫理や経済学の領域を超えるものです。政治や倫理や経済学は、いくら人々を平等にしようと試みても、受け手を変えさせることや与え手を感動させることはできません。それらには訴えかける力はなく、支える力もありません。それらが確立する平等は、影、つまり、エゴの影に悩まされるでしょう。その影は、一なるものを知り、感じた時に、初めて消えることができます。

すべての欲が悪いわけではない、他人を傷つけ、他人を悪用する激性の欲を非難することはできるが、浄性の欲も捨てるべきなのか? と言われるかもしれません。欲の対象が有益で清らかであったとしても、欲は欲です。努力の果報、果報を求める心、心を活気づける活力、人生そのもの――これらのどれもが、一なるものを見る目から生まれる信愛によって、主に向けられなければなりません。

神への信愛は他人に向ける憎悪によって悪となる

霊性の道は個人のためだけのものであり、社会がそれにかかわってはならないと主張する人は、大きな過ちを犯しています。それは、家の中は明るくなければと主張して、外が暗いかどうかはどうでもいいと言っているようなものです。神への信愛は、人類同胞に憎悪を向けることによって悪となります。人類同胞と世界はいつも、サット・チット・アーナンダ(実在・純粋意識・至福)の鏡で見なければなりません。この認識に基づいた親族関係だけが存続します。それがサイの親族関係です。あなたが親族関係を深める時、本当にいること、サティヤ サイがいつもあなたの目の前にいることが、あなたのものとなるでしょう。あなたの幻想があなたを言葉と感情のジャングルの中に連れ去っていくことを許してはなりません。ぐらつかず、あなたの最も内にある本性に忠実でありなさい。

善悪は個人の反応に基づくものです。善悪は物や出来事に元々あるものではありません。ヴェーダーンタ(ヴェーダ哲学)や無神論は、人がそれを好むか嫌うかで、受け入れられるか拒否されるかします。それは論理的な受容や拒否によって決まるのではありません。その妥当性を証明できるのは、経験だけです。誰が至高神を正確にこうだああだと叙述することなどできるでしょう。そのようなことをする人たちは無駄なことをしているのです。彼らにそれを断言する権利はありません。もしその権利を主張するなら、その人は自分の限られた知性に頼る自惚れ屋です。

神性はどの人の中にも100%存在しています。それは、はっきりと深く見ることのできる目には明らかです。これを否定する人は皆、ただ自分の実体を否定しているのです。それを否定しても、自分からも他人からも実体を追い出すことはできません。

ですから、社会の中に神の表れを見ること、そして、自分の技能と努力の一切を社会の福利と繁栄のために用いることは人間の義務である、という結論に至ることは避けられません。人はそういった(1)広く豊かな気持ち、(2)包括的な考え、(3)直感的な見方、を培わねばなりません。この三つがなければ人間は単なる不活性な存在であり、もしこの三つを否定するなら人は人間という肩書きを失います。

すべての人は神の一族

放棄の精神、徳を固く守ること、協力しようという意欲、親族であるいう感覚――これらは人間の印である特徴です。これらを邪魔なものだと考える人生は、「人生」として評価できません。

人は皆兄弟である、すなわちそれが人生であると言えるのは、もっぱらアートマの目に基づいてこそです。人は皆、平安と幸せと至福を渇望しています。それらはこれまで受け継いできた貴重な財産であり、すべての人の権利です。なぜなら、それらは神の財宝だからです。それらは、人と人を結びつけている絆を知ることによってのみ、手に入れることができます。すべての人は一族です。すべての人は神の一族です。

すべての人は、一なる神という有機体の細胞、神の体の細胞です。このことは、あなたの信念、あなたの富、あなたの強み、あなたの充足であるべきです。それを意識することだけで、あなたに自分を人と呼ぶ権利が与えられます。人として生きることを身につけなさい。それがサーダナ〔修行〕であり、それがサイのメッセージです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C29

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