サイババの御言葉

日付:1974年8月30日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
オーナム祭の御講話より

バナナの皮


トゥルスィー ダースは、自著である『ラーマチャリタマーナサ』〔ラーマの御業の湖〕の中で「私がこのラグナータ〔ラグ王朝の主ラーマ〕の物語を描いた偉大な叙事詩を作ったのは、自分のスカ(スワーンタスカーヤ)、すなわち私自身の幸せや喜びのためである」と述べています。トゥルスィー ダースがその自ら課した課題に従事したのは、誰のためでもなく、ラーマのためですらなく、自分の喜びのためだったのです。トゥルスィー ダースは、それを書いている間、そして、それを書き終えた時、大きなアーナンダ(神聖な至福)を得ました。その至福こそが、トゥルスィー ダースを動かしたものでした。

実際、人が行うことはすべて、結局はそうした衝動、すなわち自己満足を得たいという衝動に因を発しています。人は家を建てたり、本を書いたり、仕事に加わったり、計画を実行したりしますが、その一切は、そうすることで喜びが得られるから、するのです。カッコーは美しい声で鳴き、それによって喜びを得ますが、たまたまその鳴き声を耳にした人よりもカッコー自身が得る喜びのほうがずっと大きいものです。薔薇が花開くのは、内なる促しによるものであり、外から促されてのものではありません。父親が自分の赤ちゃんを愛撫し、それによって得る喜びは、父親が与えた喜びよりも大きなものです。サーダカ(霊性修行者)や僧侶、苦行者や神我の知識の道を歩む者たちが耐え忍んでいるさまざまな規律が、どれも受け入れられ、信奉されているのは、その規律が彼らに喜びを与え、内なる要求を満たしてくれるからです。

犠牲は至福の基盤

今日は、バリ王がヴァーマナ〔小人〕の姿をとった神によって辱められ、かつ、祝福されたことが、祝われています。それまでバリ王は、自分は三界の王であり、それゆえ、自分は誰よりも力(バラ)があると言っていました。バリ王はエゴでいっぱいだったのです。神は、バリ王がヤーガ(供犠)で忙しくしているところに、ブラフミンの少年の姿に変じてやって来て、ほんの三歩分の土地の贈与を求めました。バリ王は少年に、そんなものとは比べものにならないくらい多くの財産や土地を要求してもよいのですよ、と言いました。しかし、少年はそのわずかな贈り物だけでいいと主張しました。バリ王の導師は、この不思議な托鉢僧は実は神かもしれないと、バリ王に忠告しました。その言葉はバリ王をさらに喜ばせました。なぜなら、もしそれが事実であれば、自分は神が自宅の玄関に托鉢にやって来るほど力を持ったということだ、と。バリ王の自惚れはそれほどのものだったのです。

ところが、ヴァーマナが宇宙ほどに身を大きくして、すべての大地を一歩でまたぎ、広大な天空を二歩目でまたいだ時、バリ王は謙虚にさせられました。バリ王はヴァーマナが三歩目を置く場所として自分の頭を差し出して、冥界へと踏み落とされることに甘んじたのです。今日は、慢心は破滅を招くという教訓を説くために神の化身ヴァーマナが現れた記念日です。ひとたびエゴが鎮圧されるや、バリ王は清らかになり、神はさまざまな恵みでバリ王を祝福しました。神はバリ王に、これからずっと自らがバリ王の守護者となると請け合いました。それから、神はバリ王に、毎年オーナムの日に地上に上ってきて、自らの帝国を自分の目で見て確かめること、そして、国民の敬意を受けることを許しました。ですから、これは、ヴァーマナの降臨とバリの変容を祝うお祭りなのです。

さらに今日は、いくら小さなものであれ、誰かに与えることや、手放すことや、慈善を施すことの功徳を称える日です。なぜなら、すべての人は神の映しだからです。ティヤーガ(手放すこと、犠牲)は、至福の基盤であり、恩寵の基盤であり、不死の基盤です。

ナ メーダーヤー ナ プラジャヤー ダネーナ
ティヤーゲーナィケー アムルタットワ マーナシュフ
(知性によっても、子孫によっても、富によってでもなく、
手放すことによってのみ不死の恵みを得ることができる)


とヴェーダは述べています。オーナムは、この教えの内的意味を片目でしか見ていない人に、この教えを植え付けるためのお祭りです。

障害の一つひとつは至福へと導いてくれる一歩

ケーララ州は、ヴェーダの文化の保護とサンスクリット語の学習に大きな貢献をしています。ケーララ人は、信心深く献身的だという評判を得ています。ケーララ州で古くから特権を与えられているナンブーディリと呼ばれるブラフミンたちが、ヒマラヤのバドリーナートといったような、何千キロも離れた土地のヴィシュヌ派の大寺院の僧職を享受しているのを見てごらんなさい。

もちろん、どこであれ神への信心と献身が明白な所には、それをあざ笑い、その強さを減じさせようとする勢力がいます。信心深い人(アースティカ)のいる所には、無神論者(ナースティカ)が頭をもたげてくるものです。しかし、神や至高の御心を信じていないというのは、自分を大きく見せるため、自分を宣伝するためのポーズにすぎないといえるでしょう。無神論者は知性や体験の光に抗えません。いわいる無神論者と呼ばれる人たちでさえ、自分のハートに愛を持ち、社会とかかわっている時には真実を敬い、何らかの不変的な公正の基本原則を基に生きています。ですから、彼らはサット・チット・アーナンダ(実在・気づき・至福)を信じる人たちなのです。

あなた方には、失意、苦悩、敗北、誹謗中傷、その他、無神論者が楯にする災難に直面した時、本物の霊性と信仰心が人に授けることのできる勇気、喜び、力、度量、謙虚さの生き証人となる義務があります。金は、るつぼで熔かされて価値を得ます。ダイヤモンドは、何面にもカットされて輝きを増し、高値が付けられます。なまくらな石ころは誰にも求められません。バリ王の祖父のプラフラーダは、怒った父親から拷問を受けましたが、それはプラフラーダに輝きを加えただけでした。バリ王も、慈悲深い神から罰を受けたことで、より明るく輝きました。これはあなた方が今日得なければならない教訓です。一つひとつの障害は、あなたを決して壊れることのない、決して奪われることのない至福へと導いてくれる一歩なのです。

自分を向上させることは人間にとって自然なこと

あなたが自分に負わせなければならないもう一つの義務があります。今日あなた方はそれを認識しなければなりません。世界はナラ(人間)とナーラーヤナ(神)の遊び場です。ナラは自分をナーラーヤナに変え、ナーラーヤナは自分をナラに変えて、自分たちの役を同時に演じています。あなた方は、ナーラーヤナが、世界にダルマを打ちたてるため、神への信仰の根を養うため、そして、人に神というものを説明するために、人間の姿をとって降臨したことをよく知っています。あなた方は、霊的規律、道徳心を高めること、愛を拡大すること、その他、ナーラーヤナとなるための方法によって自分を向上させることは人間にとって自然なことだということを、確信しなければいけません。けれども、人はこの高尚な運命に気づいていません。人は、自分の技能や力を誤って解釈し、あまりにも心ここにあらずで、魔物や猿の段階に滑り落ちてしまいます。もちろん、そうした下に引きずられる癖と格闘し、上に上がろうと努力する人も大勢いますが、ほとんどの場合、暗闇の中で手探りし、悪い方に連れていかれます。

信愛は時にかかわらず花を咲かせていなければならない

巡礼者や信者の誰もが受け入れなければならない、二つの真実があります。それは、

  1. 信愛は完全で、自由で、包括的なものでなければならない。
  2. 神性は完全で、自由で、包括的なものであると考えられなければならない。

というものです。反対に、現代の信愛は、ほとんどが常に「パートタイム」です。つまり、あなた方は、病気や挫折や失望に襲われると、いつも神の方を向いて神の恩寵を祈りますが、自分が幸せで、上手くいっていて、健康で、調子が良い時には、神をないがしろにし、それらはすべて自分の能力と偉業によるものだと言ってのけます。神は、太陽の下ではないがしろにされ、夜にだけ求められているのです。信愛は、時や場所や状況にかかわらず、あり続け、花を咲かせていなければいけません。

神も完全な姿で体験されなければいけません。そして、人はその体験の至福を永遠に所有していなければいけません。カストゥーリは詩を詠みましたが、それは耳に心地よく、サンスクリットの言葉であふれていました。けれども、言葉が実体験から生まれることはめったにありません。神を体験することは不可能であり、神について話すことも不可能です。人々は、「すべてを知っている者」、「あらゆる所にいる者」という意味の「サルヴァグニャーナ」、「サルヴァヴィヤーピ」といった言葉を使いますが、それは古代から年長者や聖者たちがその言葉を使ってきたからです。神のそうした特質を、完全に、最も包括的に体験すること、そして、その体験について語ることは、誰にも不可能です。

ギーターは、神を「アチャラム チャラム エーヴァチャ」、すなわち「動かせないものであり、動かせるものでもある」と語っています。それは人にはあり得ないものに思えます。神は、動き、行い、祝福し、救い、テストするために現れますが、基本的にそれらに無頓着です。木を見てごらんなさい。木の枝、葉、等々は風で動くでしょうが、木の幹はどっしりとして動きません。神はいますが、いないように見えます。体は動き、知性も動き、心も動きますが、アートマは動じません。アートマは、安定していて、揺るぎなく、不変です。湖は動きませんが、湖の水面は風が吹くたびに揺れて、さざ波を立てます。無色の固定された緞帳やスクリーンが、その表面に本物のように現れる火事や紛争、洪水や氷河の映像の影響を被ることはありません。映像が見られている時にはスクリーンは見られていません。スクリーンが見られている時には映像は見られていません。けれども、スクリーン(ブラフマン)がなければ映像は意味を持たず、何のメッセージも伝えず、何の話も語りません。それが至福を授けることはありません。

神はハートを盗む者

あなたがポケットにマッチ箱を入れていても、マッチ棒は箱の中に入っているので発火の危険はありません。それと同じように、あなたの中には神性の入った箱があるだけで、箱は開いておらず、表に現れていません。マッチ棒を取り出して、マッチ棒の頭をマッチ箱の側面の化学塗材で擦ると、パッと瞬時に火が手に入ります。それと同じように、ジーヴァ(個々人)を取り出して、全世界に内在しているブラフマンの原理で擦れば、つまり、個人にそれを気づかせれば、個人も自らの内にある神性を表に現すことができます。木は個人であり、森はブラフマンです。多数の木から離れた一本が個人です。多と多様性がブラフマンです。一人で離れて立っているカストゥーリは、個人(ヴィヤシティ)です。カストゥーリが移動して、あなた方、オーナム祭のためにここに来ている何千という人たちの間に座ると、カストゥーリは社会(サマシティ)に融合します。社会はブラフマンであり、個人はジーヴァートマ(個々人のアートマ)です。

今日、あなた方が敬意を表しているプラフラーダの孫のバリ王は、目の前に立っていた主を、全宇宙の支配者、泥棒の中の泥棒の頭領(ドーンガラロー ガジャドーンガ)であると褒め称えました。なぜなら、神は人の最も貴重な所持品を、所有者が起きている時でさえ盗んでしまうからです。神はチッタ(ハート)を盗みます。神はチッタ アパハーリ、ハートを盗む者です。私はあなた方にすまないことをしました。私はあなた方に、自分の家から離れてそんなに遠くからこのお祭りにやって来ないようにと頼みましたが、あなた方のハートは私によって盗まれてしまい、そのために、あなた方は来ずにはいられなかったからです。

オーナムは、あなた方ケーララ人がバナナを味わう日です。バナナを食べる時にはバナナの皮をむきます。同様に、マンゴーやライムを食べたいと思ったら、苦い皮を取り除いて中の果実を手に入れなければなりません。バリ王が神に受け取られ、受け入れられるためには、権力への執着とエゴという苦い皮を取り除かなければなりませんでした。無知、マーヤー(迷妄)、幻想、慢心は、すべて皮の成分です。オーナムは来ては去りますが、人々は依然として目的地に近づいていません。なぜならば、オーナムは心を込めて見送られていますが、気前のよさや放棄、愛、奉仕の精神は、それと同様には歓迎されていないからです。あなた方は次のことを、このオーナムのメッセージとして受け取らなければなりません。愛を表に出し、育み、表現するよう努めなさい。そして、慢心とエゴを抑えなさい。そうすれば、神の恩寵を勝ち得ることができます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.12 C45

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