サイババの御言葉:ディヤーナ ヨーガ

日付:1979年・場所:夏期講習
第7回夏期講習における瞑想に関する御講話より

ディヤーナ ヨーガ


内にいる敵に降伏している者に、
どうやって外にいる敵を滅ぼすことなどできようか?
真理を知るとき、人は祝福された者となる

心(マインド)は、サンスクリット語では「マナス」という名前です。なぜなら、心はいつも、「マナナ」すなわち「思考する」作業に携わっているからです。衝動は心で生まれます。しかしながら、心は自らの中で生じる矛盾した衝動によって、頻繁に道を誤ります。心の落ち着きのない性質は、人の霊性の進歩の障害として作用します。そのため、もし魂の歓喜に浸りたければ、心を制御することはどの求道者にとっても避けられません。

心は風よりも速く動きます。ちょうど、スピードを出して走っている車を止めるためにブレーキを使うように、絶え間なく流れ出てくる思考にくつわを掛けなければいけません。

アルジュナはクリシュナに心を制御するこつを教えてほしいと懇願しました。それに答えて、クリシュナはその課題について詳しく述べました。心は強力で強大です。心は数え切れないほどの過去生で積み重ねてきた傾向を携えています。そのため、魂に対して支配的な立場を得ようとします。しかし、そのように欲を持って暴れまわる心を持っていては、人が神性に到達するのは不可能です。

心は蜂のようなものです。体は小さくとも、蜂は分厚い木にも、さらには、カルナにしたように〔ブラフミンを装ってパラシュラーマから武術を習っていたカルナは、蜂に刺された痛みに耐えることができたためクシャトリヤであることを見破られ、ここ一番というときに武術を忘れてしまうという呪いをかけられた〕人の体にさえも、針を刺すことができます。しかしながら、そんな蜂でも、蓮の花に止まって甘い蜜を吸っているときに蓮のやわらかな花びらが閉じたなら、逃げることができずに花の中に捕らえられてしまいます。それと同じように、心を制服するための努力は、蜂を永遠に捕らえておける蓮の花にも似た神の姿形へと心を連れて行かなければ無駄に終わる、ということを証明する結果にならざるを得ません。

『バガヴァッドギーター』の第6章は、「アートマサムヤマ ヨーガ」、すなわち「アートマを制御するヨーガ」と名付けられています。これは誤った名称です。汚れなき永遠なる真理の具現であるアートマを制御することなど、不要であり不可能なのですから。ギーターのこの章に出てくるアートマという言葉は、心を意味するものとして使われています。この「アートマサムヤマ ヨーガ」には、心を制御するこつが微に入り細に入り論じられています。そこでは、心の制御に到達するための主要な方法として瞑想(ディヤーナ)が言及されています。

「アートマサムヤマ ヨーガ」の中で、クリシュナは、瞑想を行う場所をいつも完全に清浄に保っていることの必要性を強調しています。清浄に保つべき場所は、自宅でも森でもありません。瞑想を行う場所のすぐ近くの周囲を清浄にしておくようにということです。ジーヴァ〔個々の魂〕は体に宿っていますが、神はハートに宿っています。ですから、瞑想は、外の環境でなされるというよりも、ハートの中でなされるものです。瞑想が内的な作業であるならば、ハートからあらゆる不純物を取り除いて神の住まいにふさわしいものにすることは、さらに不可欠です。日常でも、どこかに座らなければならなくなったら、清潔な場所を選んで地べたにハンカチや新聞などを敷きます。自分が座る場所をきれいにするのであれば、神に座ってもらうため、そして、瞑想の目的を果たすためにハートをきれいに保つ必要性は、なおいっそう重要です。ハートをきれいにする必要は、人には鈍性と激性の汚れがあるために生じるものであり、それらは各人の数々の過去生と関係しています。

心と関係のある状態には3つあります。それは、シューンヤットワ(うつろな状態)、アネーカグラター(多様な思考に同時に引っ張られる状態)、エーカグラター(一意専心)です。この3つの状態は、人の中にある三つのグナ〔鈍性、激性、浄性〕に起因するものであり、三つのグナから生じます。鈍性は心をうつろにし、激性は心をあちこちさまよわせます。浄性は心を一意専心の黙想の中に静止させます。ですから、浄性を育んだ者だけが、安らかに瞑想に取り掛かることができるのです。

瞑想について考えるとき、3つのものが関係してきます。第1に瞑想をする人物(ディヤータ)、第2に瞑想の対象(ディイェーヤ)、第3に瞑想の作業(ディヤーナ)です。本当の瞑想では、当然この3つが融合していなければなりません。瞑想している人物は、瞑想の対象と自分とを完全に一体化させ、自分は瞑想をしているという事実さえ意識していないはずです。瞑想しているときには、あまりにも瞑想に注意が固定しているために、自分の個別性を失い、その行為(瞑想)をしているということも忘れているものです。

瞑想はよく集中と同じものだと誤解されます。集中は、日常の五感による知覚に必要なものであり、最も日常的な日々の行為を行うときに用いて働かせるものです。たとえば、本を読むとき、手紙を書くとき、車を運転するとき、ものを食べるときには、集中します。集中力は、五感を通して知覚する作業の中で自然と生じるものであり、集中するのに特別な努力や訓練は必要ありません。ですから、霊性の達人だけが秀でることのできる瞑想を、集中と同等のものと見なすのは間違っています。

瞑想は、人間の五感による知覚よりも、ずっと高い次元に到達する作業です。集中は、五感を通して理解することに携わる心の作業ですから、五感の領域よりも下、もしくは、五感の領域の中のものと見なすことができます。一方、瞑想は、五感の世界を超えたところ、その上にあるものです。もし瞑想が集中と同じくらい容易なものであれば、昔の偉大な聖賢たちは、様々な苦行を積むことも、深い森の中で数え切れないほどの困難に身を置くこともなかったでしょう。

しかしながら、不幸なことに、現代ではカリの時代〔末世〕の影響で、神との結合に到る神聖な手段である瞑想が、頭痛を治すアスピリンの代用品と考えられてます! インド文化を何と思っているのでしょう!

瞑想(ディヤーナ)をしたいと思っている人は、ラーマやクリシュナやイーシュワラといった神の姿ではなく、ジョーティ(光)を瞑想の対象(ディイェーヤ)にするのが賢明です。というのは、神の姿も変化をこうむるものであり、最終的には消滅してしまうものだからです。光(ジョーティ)は消滅することも変化することもありません。さらには、一つの炎で百万の炎を灯すことができ、元の炎が消えることもありません。このように、炎は尽きることがありません。

光を瞑想する作業では、落ち着きのない状態から平穏へ、平穏から神聖な光輝へと進んで行かなければなりません。足を組んで座り、神聖な力が、スシュムナー ナーディー〔生命エネルギーが流れる体内の気道(ナーディー)のうち最も重要な気道〕を通って、ムーラーダーラ チャクラ〔会陰部にあるエネルギーの中枢〕からサハッスラーラ チャクラ〔頭部にあるエネルギーの中枢〕へと流れやすくなるように、背筋をまっすぐに伸ばすようにします。求道者は、静かな炎をじっと見つめ、それから、ゆっくりと目を閉じて、心の中でその炎をハートの中に移すか、あるいは言い換えるなら、吸い込むかします。

それから、霊的なハートである蓮の花が、光輝の美をまとい、命の闇の力に光を放ちながら開いていくのを思い浮かべます。次に、明るく照らされたハートから光がゆっくりと体の各部へと向かっていって、すべてのものが光で覆われ、いたるところに神聖さと純粋さが浸み込んでいくのを思い浮かべます。光が手に届いたので、あなたは悪い行いはしないはずです。光が目の中で輝いているので、あなたは望ましくないものを見ることはできません。同様に、光(ジョーティ)が耳を満たしたので、あなたは悪い話に耳を傾けないはずです。足も光で満たされたので、あなたは神聖でない道を歩かないはずです。このように、この型の瞑想は、人を高尚にさせ、人がしっかりと着実に大いなる霊的な高みへと登っていくことを助けます。

このようにして、体の各部に光を運ぶ作業で心を忙しくさせておけば、心はさまよわず、じっとしているでしょう。全部の作業を終えるには20分から30分かかります。この種の瞑想を空想にふけるエクササイズと見なしてはなりません。当然ながら初めのうちは想像力を必要としますが、コンスタントに行っていくことで、それは強力な思考の波へと変化して、消えることのない印象をハートに刻み、神との結合へと導きます。

この瞑想は、自分の中に光を思い浮かべることで終わってはいけません。友人、親戚、さらには、敵対する人の中にも光を見るようにします。宇宙全体がまばゆい神性の光を浴びているのを見るようにします。これは、あなたを愛と幸福に満ちた人生を生きるようにさせてくれるでしょう。

もしあなたが望むなら、行程の最初に、瞑想する炎の中に、あなたが敬愛する神の姿を思い描いてもよいでしょう。しかしながら、神の姿は遅かれ早かれ光の中に溶けてく必要にあることに気づかねばいけません。神性はあらゆる神聖な存在のハートに宿るものなのですから、それを一つの特定の姿に限定しようとしてはなりません。

ラーマと、クリシュナと、サイ ババだけが神だと信じている者もいますが、それは実にまったくの無知によるものです。あなたも神です。生きとし生けるものはすべて神であり、すべてのものは至高の実在の具現であるということをあなた方に気づかせるために、神は化身となって降臨します。あなた方皆に生来持っている神性を気づかせるために、私はこの姿をとりました。あなた方は、その目的を理解し、アヴァターが降臨した目的が果たされるように、情熱と熱意を持って霊的な生活を始めるべきです。

恍惚となって、神がかったように装って、自分は超越的なサマーディ〔三昧〕の状態の際にいるという印象を与える人たちがいます。しかし、自分の体に蟻や蚊が止まるや、彼らは反射的にその哀れな昆虫を殺そうとします! 少しの間おとなしく瞑想に座っていたかと思うと、急に使用人のちょっとした誤りに大声で怒鳴る者もいます! これらは真摯に瞑想をすることを望む者の態度ではありません。あるとき、人は毎日どのくらい瞑想すればいいかを問われたラマナ・マハルシは、にっこりと微笑んで、自分が瞑想をしていることを忘れるまで瞑想すべしと答えました。

瞑想(ディヤーナ)は、人目を引かないよう、人に気づかれないように行うべきです。魚は魚市場で山積にされて売られますが、ダイヤモンドは宝石店で注意深く保管され、上客のためだけに陳列されます。それと同じように、無分別にあたりかまわず瞑想に座るなら、公衆の目を引いて、瞑想を安っぽい見世物におとしめることになります。

クリシュナはアルジュナに、瞑想中は一人でいるようにと言いました。体が地面に触れたり、他の人に触れたりしないようにしなさい。地面に触れると、瞑想中に自分の中から生じる神聖な電流を失ってしまうからです。

欲望が減れば、瞑想はさらに意味深いものとなります。荷物が少なければ、身軽になって、旅は楽しいものとなります。欲が少なければ少ないほど、人生という旅は、もっと容易く、もっと幸せなものになります。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1979 C15

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