サイババの御言葉

日付:1980年3月25日
ラーマナヴァミー祭の御講話より

体はダルマを行うための道具


ラーマという名は、それだけでも、あるいは他のものと共に口にされても、自然界にあるどんな甘いものよりも甘い名前です。ラーマという名は、決して舌を飽きさせることも、心を飽きさせることもありません。ラーマという名には、人を高める神秘的で幽玄な力が備わっています。ですから、人は常にラーマという名を心に念じ続ける努力をしなければなりません。

ラーマの物語、ラーマーヤナは、ヴェーダ(古代に啓示された神聖な経典)の焼き直しにすぎません。実のところ、悪を滅ぼし、正しい生き方を復活させるという、主がラーマとしての生涯の中で自ら着手した仕事を助けるために、ヴェーダがラーマーヤナとなって生まれ変わったと言われています。なぜでしょう? ラーマと三人の弟たちは、ある意味、人の姿をとった四つのヴェーダであると言えます。ヤジュルヴェーダは人の権利と義務、すなわちダルマ(正義)を定めました。それは今生と来世の双方において、当人に平和と繁栄を約束するものです。だからこそ、ダルマはラーマ自身によって表わされたのです。ラーマは、ダルマを確立するため、そして、体現して手本を示すために、人としての姿をまといました。「ラーマハ ヴィグラハヴァーン ダルマハ」、すなわち、「ラーマはダルマの化身なり」というのは、ラーマーヤナがどのようにラーマを描写しているかということです。

人はラーマの生き方を見習わなければなりません。リグヴェーダには数々のマントラ(強力な神聖なる文言)が収められています。リグヴェーダは、「ラーマ」というマントラを頂点に、マントラの意味を明確にし、詳しく説明しています。弟のラクシュマナは、今生と来世におけるすべてのもののためにラーマというマントラを繰り返し、唱え、拠り所とした、まさにリグヴェーダの化身です。ラクシュマナは、ラーマというマントラは主を常にその場にいさせるということを人に教えています。

サーマヴェーダには、創造物と創造主を称える歌が収められており、歌へと高められた礼拝を通じて、神は恩寵という報いを与えます。すべての思考と言葉と行いをラーマへの賞賛と感謝を示す行為として捧げたバラタは、サーマヴェーダそのものでした。

それから、アタルヴァナヴェーダがあります。これは、医学と儀式の詳細、内外の敵を打ち負かすためのお守りや魔除けを集めたものです。シャトルグナは、名前それ自体に「敵を打ち負かす者」という意味があり、それゆえ、アタルヴァナヴェーダの化身というにふさわしいのです。アタルヴァナヴェーダは、人が悪い習慣や態度や傾向を克服することを可能にするものであり、すると人は、神の声に耳を傾け、神の言葉を喜んで日常生活の中で活かすことができるようになります。シャトルグナは、謙虚さと忠誠心と信愛によって自らのエゴと貪欲と怒りを克服することで得た勝利を、はっきりと示しました。

ラーマがやって来たのは人生の規範を定めるためであり、人々はラーマの生き方に倣い、それらを守らなければなりません。しかし、このことはしばしば忘れられています。これはたびたび犯される過ちです。ラーマは、すべての人が自らを高めるために得ることのできる特質と美徳を備えた、理想的な人間です。単なる礼拝、空虚な賞賛は、アヴァターが望んでいるものではありません。

ラーマは他の人間たちと同じように、災難、失望、困難に遭いましたが、それは、喜びとは二つの悲しみと悲しみの間のことであるということ、そして、悲しみとは挑戦であり、停滞であり、学びであるということを示すためのものでした。ラーマは、父と息子、夫と妻、兄と弟、友と友、敵と味方、さらには人間と動物との、理想的な関係を示して見せました。

さらにラーマは、人は自分が積んだカルマの報いとして、同じ母親から生まれた子供であっても正反対の性格、まったく異なった経歴をたどることがあるということを教えています。池は一つの水の中で睡蓮もヒルも育んでいます。ヴァーリとスグリーヴァは兄弟でした! ラーヴァナとヴィビーシャナも兄弟でした!

四人の兄弟は、四つのプルシャールタ〔人として生きる目的〕を象徴しています。別の観点から見ると、ラーマと弟たちは人としての根源的な目的であるプルシャールタの手本として捉えることができるのです。それらのうち、ラーマはダルマ(正義)、ラクシュマナはアルタ(繁栄)を、バラタはカーマ(願望成就)、シャトルグナはモークシャ(解脱)を象徴しています。

これら四つはすべての人が生み出すものです。ダシャラタ(10頭の馬に引かれる馬車の意)王は、五つの知覚器官と五つの行動器官を有しながら、難攻不落のアヨーディヤーの都(神の住むハート)を統治している人物です。人生の四つの目的は、ダルマとアルタ、そして、カーマとモークシャという、二組に集約されなければなりません。

人はダルマにかなった方法だけで繁栄を得る努力をしなければいけません。繁栄は、ダルマを成し遂げ、ダルマを守るために用いられるべきです。だからこそ、ラクシュマナはラーマの足跡をたどり、カバンダがラクシュマナを羽交い絞めにして殺そうとした時、その腕に掴まれたまま、ラーマに逃げて生きるようにと促したのです。ラクシュマナが戦場で意識を失って倒れ、息を吹き返さなかったのは、それが理由です。ラーマは大いに嘆きました。

「たとえシーターが亡くなったとしても、おそらくは、シーターの代わりとなる人を手に入れられるかもしれない。だが、おおラクシュマナ、お前の代わりとなるような弟はどこにも見い出すことはできない」

これはラーマの兄弟愛の表れでした。

ラクシュマナがラーマに心底注いだ愛を、ラーマはバラタとも共有していました。目に涙を浮かべて、君主としてアヨーディヤーの都へ帰還してほしいと懇願したバラタに、ラーマは言いました。

「だめだ。父上は私に、森を統治して、羅刹の大群の侵入から隠遁者や世捨て人たちを守り、助けるようにと命じた。父上はお前がアヨーディヤーの王国を治めるべきだと意志なさった。二人とも父上に忠実であろうではないか」

これはラーマの兄弟愛の表れでした。

プルシャールタの一対の二つ目、カーマとモークシャは、抱くべき、追及すべき価値のある唯一の欲望は、解脱への欲望であるというものです。バラタにはそれがありました。シャトルグナもそれを分かち合いました。

ラーマには、長い間バーラタの寺院や聖地の数々を巡礼した後、14歳になるまで、表向きには内観と孤高に見えた数年間がありました。ラーマは、食べることを嫌がり、王子らしい衣服を好みませんでした。物にも人にも関心がありませんでした。はっきりとした理由もなく指や手のひらを揺らしたり、空中に自分だけにわかるような文字を書いたりしました。ラーマは理由もなく笑いました。つまり、ラーマの行動と振る舞いは、私の十代前半のころとまったく同じでした。

ヴァシシュタ仙はラーマの心を普通の状態に戻そうとしましたが、それはアヴァターが自らが降臨した目的である任務に取り掛かる前に、すべてのアヴァターたちが通る時期にすぎませんでした。その間、アヴァターは自らのマスタープラン〔骨組みを定める基本計画/主の計画〕を立てていました。

その時期が終わるころ、ヴィシュワーミトラ仙が宮殿にやって来て、ヴェーダの儀式を汚す羅刹の一味から隠遁者たちを救うためにラーマ(およびラーマと切り離すことのできないラクシュマナ)を自分のところに送ってほしいと、ダシャラタ王に求めました。マスタープランが展開しはじめたのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.14 C49

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