サイババの御言葉:すべては善い思い次第

日付:1982年2月・場所:アナンタプル市
サティヤ・サイ女子大学における御講話より

すべては善い思い次第


人は、あらゆる経典やプラーナ〔神話〕を学んでいるかもしれない
哲学者や博士や統治者であるかもしれない
夢のような大邸宅の贅沢な生活を満喫しているかもしれない
あらゆる敵を蹴散らす、無敵の戦士であるかもしれない
貧乏神に取り憑かれた、最も卑しい奴隷であるかもしれない

人は、愛がなければ役に立たない!
愛のある召し使いは 愛のない王よりも尊敬に値する
これ以上、私は何を説くべきか?
サイの言葉は、富の束
サイの一瞥は、願望成就の花(パーリジャータ)の雨
サイの手は、内なる平安を授ける母の愛
実に、私の語ることは真実なり!

樟脳は、白い
願望成就の牛(カーマデーヌ)は、白い
星は、白い
鷺の羽は、白い
サイの美しい微笑みは、白い
今、述べられたことは、真実なり


三種の人々

愛の化身たちよ!

生き物は3種類に分けられます。それは、「プシティ ジーヴィ」〔栄養豊富な者〕、「マルヤーダー ジーヴィ」〔限度を持つ者〕、「プラヴァーハ ジーヴィ」〔流れる者〕です。

「プシティ ジーヴィ」〔栄養豊富な者〕は、高潔な行為と神聖な修行に励む者です。この者は神の愛と恩寵に値するようになります。神はこの者たちを愛します。愛は愛を通して手に入れなくてはなりません。しかし今、人々のほとんどは世俗的な安楽を愛しているだけです。「プシティ ジーヴィ」は、神の創造物を愛する者、神聖な特質を愛する者です。この者たちの行為、言葉、表情は、神への愛に満ちています。牧女(ゴーピカー)たちはこの部類に入ります。牧女たちはクリシュナに次のように祈りました。

ああ、クリシュナ、愛の歓喜で笛を奏でてください
愛の小川を流れさせる 愛の甘露を降り注いでください
愛に渇いたハートに 愛を芽吹かせてください
ああ、クリシュナ、愛の歓喜で笛を奏でてください


牧女たちの生活は完全に愛に満たされていました。これは「プシティ ジーヴィ」の特徴です。この者たちは普通の人間に見えるかもしれませんが、自分のバクティ(信愛)や知識を誇示して歩き回るようなことはしないでしょう。こうした特質は、前世の数々で為した功徳によるものです。「プシティ ジーヴィ」は神にとって大変愛しい者たちです。

「マルヤーダー ジーヴィ」〔限度を持つ者〕は2番目の部類の人々です。この者たちは、礼拝や霊的学習、その他の善い行いに励みます。「マルヤーダー ジーヴィ」も神が愛する人々ですが、この者たちは神の愛を十分には得ていません。「神を愛すること」と「神から愛されること」には大きな違いがあります。神に愛してもらえないなら、あなたの愛は何にもなりません。相手に受話器を取ってもらえないのに(電話をかけて)呼び出し音を鳴らしても、何になりますか? 自分は神を愛していると言って満足していても、意味はありません。あなた方は、自分の愛の質について、よく考えてみなければいけません。そして、神が自分を愛してくれるであろう質を知ろうと努めなければなりません。行った礼拝の数や、瞑想に費やした時間の量は、重要ではありません。神は、あなたのハートが変容と、ハートの清らかさを期待しています。高い質と清らかな修行は神の愛を引きつけるでしょう。ハートが汚れたままであれば、どれほど霊性の勉強をしても助けにはなりません。それらは表面的なものにすぎません。

チッタスヤ シュッダィエー カルマハ
〔心は行為で清められる〕


という霊的格言は、「どのような行為をするにも心の清らかさが必須条件である」ということを意味しています。

心〔思考〕が清らかでなければ、バクティ〔信愛〕が何になる?
器が清らかでなければ、ごちそうが何になる?
ハートが清らかでなければ、修行が何になる?


ハートという器を清めるには、神聖な行いを始めなければなりません。人々は、目的も目的地も知らぬまま、何時間もジャパ〔唱名〕に費やしたり、何日間も瞑想に費やしたりしています。実を言えば、一人ひとりが神の御姿なのです。人の本性は神性です。聖書の中のペテロの話のように、大言壮語は親しい人たちがあなたの人格を見る目を変えてしまいます。悲しみと心配は人間にとって自然なことではありません。たとえば、道行く人が泣いているのを見かけたら、誰もが「なぜ泣いているのですか?」と理由を尋ねます。なぜ尋ねるのでしょう? それは、泣くこと(悲しみ)は人間にとって生来の性質ではないからです。泣くことは人間の通常の状態ではないので、誰もが泣いている理由を知ろうと関心を持つのです。反対に、誰かが楽しげに喜んでいるとき、「なぜ悲しんでいないのですか?」と尋ねる人はいません。なぜなら、幸せでいることは人間の本性だからです。言い換えれば、それはアートマ原理です。同様に、良心に従うことも同じことを意味します。良心に従うことは人間にとって当然の(あるいは正しい)道であり、外側の世界や自然界の特質に従うことは正しい道ではありません。何をするにも、それをする前にそれがあなたの良心を満足させるかどうか自問しなければいけません。他人が賞賛しようと、軽蔑しようと、批判しようと、悩む必要はありません。何であれすべては真我の満足のために行わなくてはいけません。世間の賞賛や非難は、流れ行く雲のようなものです。これは心(マインド、マナス)に付きものの原理です。

3番目の部類は「プラヴァーハ ジーヴィ」〔流れる者〕です。この者たちは完全に世俗の活動に浸りきっていて、世間の騒乱や下世話な話と結び付いているために、神を思うことに慣れていません。この者たちは、

プナラピ ジャナナム プナラピ マラナム
(生死の繰り返し)


を経験します。川はいつも流れていて、つねに新しい水が入ってきます。水がじっと静止していることはありません。人の生涯は川のようなもので、そこでは人が絶えず生まれ、死んでいきます。生まれてくる理由と行き先を知らないこの種の人間たちに、どんな進歩ができるでしょう?

神と結び付いている3つの力

愛の化身たちよ!

人間は、もう二度と再び生まれて来ないようにするために生まれてきます。この真理を肝に銘じなければいけません。二度と生まれて来ないためには、何をすべきなのでしょう? どんな植物にも、種という始まりがなくてはなりません。再生という苗木の種は、人の欲望です。この苗を引き抜くには、欲望を減らすよう努力しなければいけません。そのためには、自らの内にそれに必要な力を育てることが要されます。

神と結び付いている3つの力があります。それは、「パラ シャクティ」〔高次の力〕、「アパラ シャクティ」〔低次の力〕、「アヴィッディヤ シャクティ」〔無知の力〕と呼ばれています。

「パラ シャクティ」はヴィシュヌ神の力です。「ヴィシュヌ」は「遍在」を意味します。一般的に、「パラ シャクティ」はアムバー女神やラリター女神、その他、女性の神の姿をしていると考えられていますが、実際には、「パラ シャクティ」は無形であり、遍在です。

2番目は「アパラ シャクティ」です。これは万人に内在する良心の力であり、クシェートラグニャ〔場に住む者、場を知る者〕と呼ばれています。この力は個人に関係するものに限られます。「アパラ シャクティ」が個人的な力であるのに対して、「パラ シャクティ」は普遍的な力です。「パラ シャクティ」は、アートマの力、または生命力とも呼ばれています。

「アヴィッディヤ シャクティ」は、世俗的な人間の環境と、そのあらゆる願望、行為、欲求と結びついています。これは通常、自分自身を、

アハム デーホースミー
私は肉体である


と見なすとき、つまり人が自分を肉体と同一視する時に呼び覚まされます。「アヴィッディヤ シャクティ」は、安楽などの世俗的、利己的欲望の結果です。

「パラ シャクティ」は「英知の力」(グニャーナ シャクティ)として知られ、「アパラ シャクティ」は「肉体の力」(バーラ シャクティ)として知られ、「アヴィッディヤ シャクティ」は「行為の力」(クリヤー シャクティ)として知られています。これらの中で、「英知の力」が最も重要であることは明らかです。なぜなら、「英知の力」は他の2つの力を根本的に促進するものだからです。私たちの目的は、この「英知の力」を獲得するために努力することにあります。これは人生の目標です。実際、この3つの力は人間に生まれつき備わっています。3つの力と結びついた姿、原理、神性は、人間の体の中で手に入るのです。

神はどこか遠い場所に住んでいるのではありません。神はまさに体の中に宿っています。罪は外からやって来るものではありません。罪はあなたのあらゆる行為と結び付いています。罪や功徳は、あなたの思考と行為の応報であり、神の恩寵や神の怒りによるものではありません。神性は、いたるところに浸透している「英知の力」の中にあります。英知(グニャーナ)とは何ですか? 識別力(善悪を識別する力)が英知です。あなた自身の良心がその判定者です。

心(マインド、マナス)はめまぐるしく動き回る、と言われています。心がどこかへ移動するのですか? それとも、どこかの場所が心のほうにやって来るのですか? 心はどこにも移動しません。心が心の中にどこかの場所を連れて来るのです。仮に、あなたがバンガロールからプッタパルティへ移動しているとしましょう。あなたは「プッタパルティが近づいてきた」と言いますが、実際には、プッタパルティに到着したのはあなたのほうです。実際は、移動したのは体であって、心や真我ではありません。人々は、欲望があるゆえに、あらゆる類のものを心の中に連れきています。物質的なものへの欲望が少なくなれば、それらが心を悩ませることはなくなるでしょう。ウパニシャッドにはこうあります。

マナ エーヴァ マヌッシャーナーム カーラナム バンダ モー
(心こそが、人を束縛する原因であり、人を解脱させる原因でもある)


心の思考を制限する最善の方法は、瞑想です。瞑想を教えるのに望ましいのは、どのような人〔教師〕でしょう? 義務には3種類あります。それは、「ニヤミタ ヴィディ」、「アパーラ ヴィディ」、「パリプールナ ヴィディ」です。「アパーラ ヴィディ」の教師は、最も高潔な性質を授けられていなければなりません。それは、弟子たちに最高の種類の英知を教えるためです。「ニヤミタ ヴィディ」の教師は、善悪の識別を教えることができなければなりません。第3の種類は「パリプールナ ヴィディ」であり、行いの一切を注意深く観察する必要があります。私たちは、自分がここにいることの根本的な目的に注意していなければいけません。あなたの思考と言葉と行動は連携しているべきです。

善い性質と善い思考を携えていないとき、心が瞑想に没頭するだろうか?
煉瓦やセメントを用いずに、どうやって家を建てるのか?


純粋な心を欠いた瞑想は、まったく時間の無駄です。それは「インチキ瞑想」と呼ばれるでしょう。皆さん全員が善い性質を伸ばし、理想的な人生を送るよう祝福し、私の講話を終わりにします。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women's Role C23

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