サイババの御言葉

日付:1983年7月24日・場所:プラシャーンティ ニラヤムのプールナチャンドラ講堂
グルプールニマー祭の御講話(下)より

神をあなたのグルとしなさい


人間が生まれてきた究極の目的は、自分の本性を悟ることです。本当の自分を悟ることが不死への道です。人生はこの世と神の間の架け橋です。アートマ(神なる自己)と対話するための唯一の手段はプラナヴァ(オーム)という言語です。純粋で永遠なるアートマが入っている、肉体という骨と肉から成る衣服を着ているせいで、人は自分の幸福は物理的な環境の中にあるものと想像しています。これは妄想です。人間が幸福の探求において求めることのできる知識には二種類あります。一つはローカ・グニャーナ(世俗の知識)です。これは、音楽や美術、物理的な宇宙、植物学、化学、物理といったようなものの知識に関連しています。これらの知識はすべて、生計を立てるのに役立つのみです。その知識のすべては、常に移り変わっている、滅びやすいものに関連しています。

もう一種の知識はブラフマ・グニャーナ(至高なるものの知識)です。この知識は、宇宙の起源、発展、消滅がブラフマン(至高の実在)に起因することを明らかにします。ウパニシャッドは、それをアクシャヤヤ・ブラフマン(不滅なるブラフマン)と述べています。今日、人間はこの至高の知識を必要としています。この知識へと到るには三つの段階があります。一つ目は「バーヴァム」〔バーヴァ、思考、思い〕、二番目は「サーダナ」(霊性修行)、三番目は「ウパーサナ」〔礼拝〕です。

全宇宙を神の寺院と見なしなさい

第一段階では、ブラフマンへの思いをハートの中に堅く確立すべきです。これを行うとき、人は全宇宙を神の顕現と見なさなければなりません。人は、五大元素(空、風、火、水、土)、五つのプラーナ(五つの生気であるプラーナ、ヴィヤーナ、アパーナ、サマーナ、ウダーナ)、五つの感覚器官、心(マインド)と話す言葉――このすべてがブラフマンから生じたことを悟らなければなりません。自然の中にある美しいものや偉大なものすべて――そびえ立つ山々、広大な海、空の星の数々は、神の栄光と力の宣言と見なさなければなりません。花々の甘い香り、果物の美味しい汁は、神の愛と慈悲の印と見なすべきです。全宇宙は神の寺院と見なされなくてはなりません。

外界はあなたの思考を反映します。愛をもって世界を見るなら、世界は愛に満ちて見えるでしょう。憎しみを持って世界を見るなら、すべてはあなたに敵対して見えるでしょう。愛に満ちた目は、明るさと快活さで輝いています。憎しみに満ちた目は、血走って恐ろしく見えます。自分の思考が自分の善悪の行為を決定するのです。

カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟は従兄弟同士でした。しかし、カウラヴァ兄弟は、パーンダヴァ兄弟に敵意を持っていたので、パーンダヴァ兄弟を自分たちの敵と見なしました。一方、カルナのことは友好的な目で見ていたため、カルナをアンガ国の統治者にしました。神に対する人間の態度も、似たような好き嫌いに左右されます。一時の間、神に信愛を持って礼拝しても、後に神に背く帰依者もいます。この心変わりの理由は、神に関する考えに起因しています。自分の祈りが応えられ、願望が叶えられると感じれば、彼らは神を崇めます。しかし、願望が叶えられないと感じれば、ありとあらゆる言葉で神を非難するのです。この種の信愛は私利私欲に基づいており、そこに神聖なものは何もありません。純粋な信愛は、環境や運命の変化によって影響を受けることはありません。真の愛は、いかなる条件に基づくものでもありません。真の愛は、幸福な時も不幸な時も同一であり、運命の浮き沈みによって影響されるものではないのです。

自分の苦境を神のせいにして神を非難すべきではない

ウパニシャッドは、愛(プレーマ)を永遠なるものの特質、悪魔の性質(アスラットワム)を憎しみの特質、と見なしています。人は、神への愛を神聖な特質と見なして、神への愛を培い、強めるべきです。人は、自分の幸福と不幸の責任は自分だけにあることを悟るべきです。自分の苦境を神のせいにして神を非難してはなりません。神に好き嫌いはありません。思考は本人の態度や行為を決定する最も重要な要因であるがゆえ、善良で神聖な思いだけを抱くべきです。

第二段階はサーダナです。サーダナとは、単にバジャン〔複数で歌う信愛の歌〕、キールタン〔一人で歌う信愛の歌〕、ジャパ〔唱名〕、瞑想(ディヤーナ)から成るものではありません。これらはどれも補助的なものです。第一に必要なのは、プラナヴァ(オーム)に集中することです。あらゆるサーダナはプラナヴァを土台とすべきです。神の御名は七千万ありますが、どれも最初にプラナヴァを唱えなければなりません。

オーム、ナーラーヤナーヤ ナマハ
オーム、マーダヴァーヤ ナマハ
オーム、ケーシャヴァーヤ ナマハ

神の御名はこのように唱えるべきです。プラナヴァを唱えずに御名を唱えるのは、弾薬を入れずにリボルバー〔連発拳銃〕を撃つようなものです。ウパニシャッドによれば、プラナヴァを黙想することによって、人は至高の実在の本性を垣間見ることができます。

ハートが清められて初めて神を悟ることができる

第三段階はウパーサナ〔礼拝〕です。ウパーサナは神のそばに近づくことを意味します。ウパーサナとは断食のことだとよく思われていますが、これは正しくありません。食べ物よりも大きな至福があるのです。その至福、ブラフマ アーナンダ(ブラフマーナンダ、恍惚なる神の至福)に浸っていると、人は自然に食べ物を摂らなくなります。真のウパーサナは、そのような食べ物の放棄に相当するものです。義務的な摂生規則としての断食は、単なる飢餓であってウパーサナではありません。たとえば、シヴァラートリーの夜、映画を見たりトランプをしたりして寝ずに起きていることは、人がその日に守るよう要求されている神聖な徹夜の下手な真似事にすぎません。

ウパニシャッドはアーナンダ〔至福〕の七段階を述べています。第一段階は、この世のもの、健康や体を快適にするものから得る幸福です。これはマーヌシャ・アーナンダ(人間の至福)と呼ばれています。ピトゥルデーヴァ・アーナンダ〔祖霊の至福〕はマーヌシャ・アーナンダの100倍です。デーヴァ・アーナンダ〔半神の至福〕は祖霊の至福の100倍です。その100倍の至福がプラジャーパティ・アーナンダです。その100倍がヴィラートプルシャ・アーナンダです。その至福の100倍がヒランニャガルヴァ・アーナンダです。この100倍がブラフマ・アーナンダ〔ブラフマーナンダ〕です。皆さんは、これでブラフマ・アーナンダがマーヌシャヤ・アーナンダよりどれ位大きいか計算できますね。

ブラフマ・アーナンダという言葉は、近ごろ、ありとあらゆる種類の楽しみを表すために無造作に口にされています。

「今日、息子が生まれたので、私はブラフマ・アーナンダに満たされています」

「僕はクラスで一番になりました。僕はこの上なく幸福です」

そのような幸福の表現はブラフマ・アーナンダからかけ離れています。ブラフマ・アーナンダの体験は解脱(モークシャ)にも等しいものです。ブラフマンの体験は、さまざまなサーダナを修得することで手に入るものではありません。神性は、ハートが純粋になって初めて悟ることができるものです。利己主義や高慢や憎しみに満ちたハートには、神性の余地はありません。

完全性に到達するためには愛を育てよ

人間の姿をとって神が現れ、自由に人々の間を歩き回り、さまざまな方法で人々に近づいても、肉体の姿をとった神に気づく人はほとんどいません。肉体の姿だけを通して神の本性に気付くことは容易ではありません。真のグル(霊性の師)は、神性の本性を明らかにすることが必要とされます。それほどのグルは、三位一体なるブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァと同等と見なされます。神をグルと見なす信者は、いかなる困難に遭遇することもありません。今日、グルと見られている多くの者は、耳元でマントラをささやいて、お金を支払うよう手を伸ばしてきます。彼らは何をするにもお金を要求してきます。そのようなグルは害(バーダ)を及ぼすグルであり、教え導く(ボーダ)グルではありません。

真のグルは眼の手術をする医者のようなものです。医者は患者の目から濁りを取り除き、自然な視力を回復させます。同様に、グルは弟子の視力を曇らせている無知と執着のベールを取り除き、本来の霊的な視力を取り戻させるべきなのです。

人はそのようなグルに何を返せばよいのでしょう? グルプールニマーの日には、御足への礼拝(パーダプージャー)を申し出て、謝礼(ダクシナー)をするのが弟子たちの習慣です。満月の意味も理解されなければなりません。その日は、月が何ら欠けることなく完全に満ちて輝く日です。その日は純粋さの日です。月は冷涼な光を地球に降り注ぎます。月は心(マインド)を支配する神です。心から無知の暗闇が取り除かれ、完全な明るさに到るとき、初めてその日は人間にとって真のグルプールニマーとなります。空の満月を眺めるだけで、それをグルプールニマーなどと呼ぶのは表面的な礼拝にすぎず、その中身は空っぽです。あなたのハートから、無知、悲しみ、心配、貪欲、嫉妬を取り除いて浄化したときにだけ、あなたはグルプールニマー祭を祝い、あなたの実体という完全性を悟ることができるのです。

神の体験を持ち帰り、それを大きくしなさい

この完全性(プールナットワ)に到達するには愛(プレーマ)を育てなければなりません。人生のゴールに到達するためには、聴聞(シュラヴァナ)、反芻(マナナ)、実践(ニディディヤーサ)という三つ段階すべてを経なければなりません。

あなたは、あなたと私との関係は、肉体のみに関係するものではないことに気づかなければなりません。肉体上の関係だけを考えて、人生を無駄にすべきではありません。肉体は過ぎゆくものです。永続し、時間と空間の制限を越えているものに到達することに集中しなければなりません。あなたはここで、自分で確かめ、神を体験しました。その体験を持ち帰り、自分の内でそれを熟考することによって、それを大きくしなくてはなりません。

一例があります。このプールナチャンドラ講堂には、何千人もの人々が集まっています。私は皆さんと話をしてきましたが、これはどのくらいの間、持続できるでしょう? おそらく二、三時間でしょう。明日になれば、皆さんはそれぞれの故郷へ帰ることでしょう。故郷へ帰った後、この日を思い出そうとするたびに、ここで体験した思い出、皆さんに向けたスワミの講話、プールナチャンドラ講堂に集まった何千人もの信者たちが、皆さんの心の中に焼き付けられるでしょう。それは皆さんの一生の財産になります。その理由は、皆さんが心の中に私を持ち帰るからです。

テストは信仰を強めることを目的とする

物事を外面的に見るなら、プールナチャンドラ講堂が皆さんの前に存在するのは少しの間だけです。しかし、皆さんは外側の目で見ているものを、永遠に保持するようにしなければなりません。外面的に見ているものは重荷ですが、それを自分自身の一部にするなら、重荷ではなくなります。それは、旅人が道中で食べるために頭に載せて運んでいる食物のようなものです。外に食物がある限り、それは重荷です。しかし、食べてしまえば旅人は元気になり、頭に載せる重荷もなくなります。

外部に現れたものと関わる限り、疑いや信仰の弱さという重荷を運ばなければなりません。〔そうであれば〕不必要な物事に巻き込まれるのを避けることはできないでしょう。信仰心は活火山のようなものです。活発な火山で発芽する種子はありません。疑いは種子のようなものです。疑いが増えるなら、それはあなたの信仰心が弱く、不安定であることを意味しています。そのような信仰心は死火山のようなものです。信仰心が強ければ、どんな疑いも生じることはありません。疑いのあるところに信仰心はありません。

疑いを持つ原因は、自分にあるのみです。神は目撃者としてのみ行動します。神はあなたに真我の悟り〔自己実現〕の道を示します。あなたの疑いは、あなたの過去のカルマ(行為)ゆえに生じたり消えたりします。神性を悟るには、まず一切の疑いを取り除かなければなりません。その時々に、神はあなたにさまざまなテストを受けさせます。それはあなたが想像しているような、懲罰を目的とするものではありません。その目的は、あなた信仰を強めることです。

神だけをあなたの真のグルと見なしなさい

クルクシェートラの戦争の前夜、アルジュナもクリシュナによってテストを受けさせられました。アルジュナは、自分の親族と戦う争いをどのように行うべきか、どのような戦略を取り入れるべきかと心配していました。夕方、クリシュナはアルジュナを森へ連れて行きました。それは夕暮れのことでした。叡智の光が沈み、無知の暗闇が生じました。クリシュナは、アルジュナが翌日ギートーパデーシャ(ギーターの霊的伝授)を受けるにふさわしいかを見極めたいと思いました。クリシュナはアルジュナに木の上にいた一羽の鳥を指差して、あれは孔雀かと尋ねました。アルジュナは言いました。

「はい、わが主よ」

「いや違う。あれは鳩だ」

と、クリシュナは言いました。アルジュナは即座に言いました。

「はい、あれは鳩です」

それから、クリシュナは言いました。

「君は愚かなやつだ。あれは鳩ではなくてカラスではないか!」

「はい、スワミ! あれはカラスです」

とアルジュナは言いました。するとクリシュナはアルジュナに言いました。

「君には識別力というものがまるでない。君はあれが孔雀か、鳩か、カラスかを決めることができず、私が何を言っても『はい』と言うだけだ。君にはこの程度の識別もないのか?」

アルジュナは答えました。

「クリシュナ、もし、あなたの本性を知らなければ、あなたに賛成しようとしたり、反対しようとしたりするかもしれません。しかし、私にはあなたに関する真実がわかっています。もし私が、それは孔雀ではない、鳩ではない、カラスではない、と断言しても、あなたにはそれを孔雀に変えたり、鳩に変えたり、カラスに変えたりする力をお持ちです。ですから、私にはあの鳥が何であるか調べる必要はないのです。私にとって重要なのは、あなたの言葉だけです。私には、あなたの言葉が十分信頼できる根拠なのです」

こうしてアルジュナがクリシュナへの絶対的な信心を表明したとき、クリシュナは、アルジュナはギーターのメッセージを受け取るにふさわしいと考えました。それゆえ、クリシュナはアルジュナに、

ニミッタ マートゥラム バーヴァ!
(私の道具となれ)

〔「バガヴァッドギーター」11章33節〕

と言ったのです。

したがって、第一に必要なのは、神の言葉への信心を深めることです。書物の知識や人間の知性によって神を知ることはできません。神が人間の姿をとって降臨するとき、神の計り知れない力は、神の年齢や体格や無邪気な振る舞いを見ることによって判断されることはありません。そのような判断は、神をさらに大きく誤解することにつながるだけでしょう。

幼子クリシュナが母親〔養母〕のヤショーダーのところへ連れて来られ、泥を食べたことで叱られた時、クリシュナは、自分は泥を食べるような幼子でも、悪戯小僧でも、無鉄砲者でもない、と母に抗議しました。それから、クリシュナは母に自分の神性を明かしました。アヴァターが年齢や行為に関することで判断されることはありません。

神聖な愛の化身(プレーマスワルーパ)である皆さん!

この神聖なグルプールニマーの日に、あなたのマインドを清めてハートの中に至高の神を祀る決意をしなさい。神だけをあなたの真のグルと見なしなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.16 C17

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