サイババの御言葉:美徳という財産

日付:1985年1月18日・場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学での御講話より

美徳という財産


プラスチックのボールは、決して水に沈まない
無知な人は、どれほど努力してみても
倫理的価値という真の教えを決して吸収することがない


融和した人生とは何か?

愛の化身である皆さん、女子学生の皆さん、教師の皆さん!

この世界は、私たちの思考と理智に沿った柵の中に私たち全員を閉じ込めています。人間は、五感がもたらす喜びと悲しみにどっぷりと浸っているために、自分の周囲の状況を超えてものを見ることができません。それは、ネズミが餌の匂いに引き付けられて、罠に掛かって自由を失っているのと同じです。

一人ひとりの人間は、「個人」(ヴィヤクティ)〔目に見えるもの〕と呼ばれます。ヴィヤクティは外側に表す人間です。これは、眠っている神性、すなわち内在している神性を表すことが、愛の権化たる人間の印であるという意味です! 人はまた、人間性は唯一性の不可分の側面であるという事実も悟らなくてはいけません。どの人も皆、それぞれの性格、すなわち独自性を持っています。なかには、かがり火のような性格を備えている人もいます。真の教育は個人の霊的知識を引き出さなければいけません。そうすれば、個人の性格が外に向かって光輝き、周囲の人々に光をもたらすことができます。

真の教育は個人を解脱させるものです。解脱した人は、今度は他の人々の解脱を助けます。ヴェーダは述べています。

スワヤム ティールトワー パラーム スターラヤティ


実際、教育は利己心の領域を超えています。個人とは利己的な人間という意味ではありません。どの個人も社会の一部です。それゆえ、社会の安寧は一人ひとりの個人の質にかかっています。

教育は知識だけを意味するものではありません。教育の最終目標は人格です。人生の目的は、楽しい家庭環境といった範囲に留まるものではありません。家庭は人生の一部にすぎず、人生の目的ではありません。人間性は、体とマインド〔心、思考〕とアートマ〔神我〕の三位一体です。ですから、誰にとっても、体や安楽と共に、心の平安とアートマの至福が不可欠です。それがあって、初めて人生は「融和した人生」と呼ばれ得ます。人生は挑戦に満ちています。

人生は挑戦、挑みなさい
人生はゲーム、プレイしなさい
人生は夢、それに気づきなさい
人生は愛、楽しみなさい


一体性とは、人間性と神性の一体化を意味しています。永遠の相はヴェーダの中で「アクシャラ」〔不滅〕と呼ばれています。アルファベットの一つひとつの文字もアクシャラと呼ばれています。アルファベットの様々な文字の組み合わせが、言葉、文、文章になります。これは多様性の中の一体性です。単語をつなげたりバラバラにしたりすることはできますが、一つの文字をバラバラにすることはできません。それゆえ、全能の神、パラマートマの破壊できない永遠なる原理は、アクシャラと呼ばれているのです。

個人の自己〔個我〕は普遍的な自己〔大我〕の一部です。教育には、物理学、化学、生物学など、様々な学科がありますが、霊性教育はすべての学科に共通する教育です。霊性教育は、サラスワティー川〔地下を流れる川〕のように、人生のあらゆる側面の内に流れる目に見えない流れです。

物質科学は、あらゆる安楽と喜びを得る手段として称賛されています。しかし、実際には、科学が世界にもたらしているものは、幸福よりも悲しみのほうが多いのです。あらゆる行為と物事は、反動し、反射し、反響することになります。物理科学は、物の性質について知り、それらの特質を利用する、という範囲内に留まっており、あらゆる存在物の背後にある原因、すなわち、この物質世界の創造者に関心を払っていません。その知識は霊性教育を通してのみ得ることが可能なものです。アートマ原理は、属性を持たず、超然とした、原初から存在する、理由なき、永遠で、真実で、全能の「知識」であり、独立した、純粋無垢なものです。これらの側面を把握するなら、物質世界の物事は取るに足りないものに見え、それに伴って、願わずとも世俗の物事を克服します。

ところが、今、人々はまさにその基盤を無視し、物質界を真実のものと考えて、それをくどくどと繰り返し説いています。私たちは夢の中で建物や他の様々な多くのものを見ます。けれども、目が覚めると、夢に出てきたものはすべて消えてしまいます。日中に目にするものは、自分が眠りに入るまでは、すべて真実であるように思えます。睡眠中は、そのすべてが姿を消してしまいます。再び目が覚めるまでそれらは見えません。

ヴェーダは、知覚できる肉体に付随する25の相を述べています。それは、5つの行動感覚、5つの知覚器官、5つの鞘、5つの機能(タンマートラ、微細元素〔音・感触・形・味・香り〕)、5つの元素です。また、肉体は、5つの元素、すなわち地、水、火、風、空が様々に結合した産物です。これら5つで一組のものは、同様に、5つの補助結合の混合物でもあります。つまりは、自然元素を基盤とする25の相が存在しているのです。そのため、人間が知覚できるものは、どれも皆、これら物理的元素の産物であり、変化と衰退と崩壊をまぬがれません。

肉体の内部には微細体があり、微細体には17の相があります。それは、5つの知覚器官、5つの機能、5つの鞘、マインド、理智です。これら17の相はどれも、夢を見ているときの状態に属しています。第3の体は原因体です。原因体は、2つの相、すなわちマインドと理智で形成されています。この2つの原因相が普遍的な因果律に溶け込むと、私たちはすべての肉体感覚を脱して、アートマの至福を体験します。アートマの至福は、サット、チット、アーナンダ(絶対実在、純粋意識、至福)という姿をしています。これが私たちの本当の姿です。永遠なるサット(絶対実在)とチット(純粋意識)がいっしょになって、一体性という至福を生み出します。これが私たちの目的地です。私たちはこの目的地に到達するよう努力しなければなりません。

神性は人間の中に潜んでおり、それは人間が自分で努力して引き出さなければなりません。すべての行為は体を通してなされます。ですから、体は永遠の至福に到達するための重要な道具なのです。体は神聖な方法で保っておく必要があります。人格を高めること、倫理的な生き方、規律が定められているのは、体を浄化するため、そして、神の栄光にまで高めるためです。

感謝は神聖な特質

イエス キリストに関して「ペルソナ」という表現が使われますが、その意味は、神性に満ちた人間というものです。実際、すべての人間の中には神性が存在しています。ところが、人々は安楽や名声という蜃気楼を追いかけて、その結果、絶え間ない気苦労に巻き込まれ、不満の中で人生を終えています。

人は、汚れた服を着てエリートたちの集まりに行くのは恥ずかしいと感じます。不浄な思考を抱いている人が敬虔な人々の中にいるのは、ふさわしくありません。そうであれば、どうしてそのような人が、純粋さの宝庫である神に到達するのを目指すことなどできますか? それほど純粋な神をハートに祀るつもりであるならば、私たちのハートはどれほど純粋であって然るべきでしょう? ですから、教育の主要な目的は、善悪を識別する機能を用いてハートを清めることにあります。英知は、泥棒に盗ませることも、火で焼くことも、水で溺れさせることも、兄弟で分け合うことも、できません。国家は、五感の制御、神聖な思考の育成、真理、愛、人格が、すべての人々によって培われたときにのみ繁栄します。

親愛なる学生の皆さん!

皆さんは全員、未来のリーダーとなる可能性を秘めています。素晴らしい未来のためには、現在の生活の中で適切に分かち合うことが必要です。まず大切なのは、自分の両親に感謝を示すことです。感謝のない生活は、野生動物の生活より悪いものです。食べる食物、発達した頭脳、体内を循環する血液、使っているお金――これらすべては両親のおかげです。ですから、私たちは皆、両親に計り知れない恩義があるのです。校長であるヘマラター女史は、スワミのことを「王の中の王」と述べました。それだけではありません。スワミは皆さんの父であり母でもあります! もしあなたが一人の母親の愛すらわからないなら、千人の母親を合わせたよりも大きなスワミの愛を理解することなどどうしてできるでしょう? 教育を身に付けていない親や、財産や地位を持っていない親もいるかもしれませんが、親は間違いなくあなたに対して善良であり、あなたに愛を抱いています。

人は皆、蝋燭や線香のように自分の利益を犠牲にしてでも、社会に人生を捧げなくてはなりません。そうして初めて、あなたは自分を「マーナヴァ」、すなわち「人間」と呼ぶ資格を持ちます。「マー」は「無知」、「ナ」は「〜なしに」、「ヴァ」は「行動する」という意味です。ですから、人間とは、無知を取り除いて行動する者のことです。人々は、教育を身に付けた人には尊敬を示します。しかし、人々が愛するのは、慈悲、愛、寛容といった健全な資質に恵まれている人です。人が享受するあらゆる富、安楽、名声は、すべて自分たちが住んでいる社会のおかげです。ですから、人は無私の奉仕という方法を用いて、その負債を社会に返さなくてはなりません。ところが、人々は、人助けをしている人たちに対して感謝を示す代わりに、その人たちの人間性と善行を気にも留めずに危害を加えようとします。こうした傾向は人々の地位を動物よりも下に落とします。これは完全に教育の概念に反することです。

社会の解放は、理想的な資質に恵まれた皆さんのような学生を通してのみ可能であることを、全員が心に留めておくべきです。学生は、変革をもたらすこと、平和と繁栄を成し遂げることができます。学生は莫大な力を内に秘めています。学生は両刃の剣のようなものであり、自分の才能を善悪どちらにも使うことができます。学生は、自分の肉体的な力と精神的な力を使って、社会を作ることも、壊すこともできるのです。

健全な社会の基盤は真理と愛

人は、兄弟愛の道の上に社会を築くことによって、人間性を示さなければなりません。もしもそれとは逆に、破壊行為に携わるなら、それはその人が悪魔のレベルに落ちていることを意味します。しかし、我らがサティヤ・サイ教育機関の学生たちは、高い理想と善い実践を見習おうと懸命に努力しています。人生はつねに、破壊的な追求ではなく建設的な行為に捧げるべきであることを、絶えず心に留めておかなくてはなりません。皆さんは人生の真理を理解しなければなりません。自分の愛を体や体の属性に限定すべきではありません。愛は、あらゆる生き物、生命を持ったあらゆる姿のものたちへ、拡大しなければなりません。愛が人生のモットーであるべきです。生きることとは、生きることを愛することです。通常、私たちは、生活するためにお金を稼いでいると考えます。しかし、お金を稼ぐのは人生の神聖な目的を果たすためである、ということを理解しなければなりません。

かつて、この地上には、権力を誇示し、尊大に振る舞った強力な王たちがいました。しかし、彼らは今どこにいますか? 同様に、大勢の億万長者、国王、統治者、指導者もいましたが、地上を去った彼らの痕跡は、今、何か残っているでしょうか? 彼らは、自らが地上で示した虚栄、人々に振りかざした権力を、自分の体といっしょに持っていってしまったのでしょうか? そうではありません。こういったことを、私たちは日々目にしています。エゴと細かい配慮と情熱を傾けて手入れをしている肉体でさえ、いつの日か消滅し、一握りの灰と化します。ですから、肉体をできる限り善いことに役立てることを身に付けるようにしなさい。自分の体が朽ち果てる前に、体に神聖さを添えなければいけません。

お高くとまった才能も、鸚鵡のようにお世辞をくり返すことも、虚栄を誇示することも、何の役にも立ちません。どれほど広くても、砂漠には一個の実もなりません。実がなるのは肥沃な土地だけです。私たちの人生は、社会の発展のための有益な道具とならなければいけません。この目的のために、サティヤ・サイ大学は、皆さんにあらゆる必要な知識と機会を提供しています。健全な社会を育成するために最も重要な2つの特質は、真理と愛です。愛に匹敵するものはありません。愛は神です。私たちの人格の印象は、大部分が自分の示す愛の特質にかかっています。愛は正しい道の上で育成されるべきです。ハートから悪い性質を取り除く必要があります。家の中に蛇が入ってきたことがわかったら、その夜、家の中で平安に過ごすことができますか? 悪い思考は平安をかき乱す蛇のようなものです。

シルンヴァントゥ ヴィシヴェー アムルタッスヤ プットラハ
〔聴きなさい、あなた方は皆、不滅の息子である〕


不滅の子供であるならば、皆さんは不滅の思考と甘美な態度を培うべきです。滅びゆく不健全な思考には、くつわをかけなければなりません。相手が誰であれ、会った人には愛を込めて話しかけなさい。愛はつねに与えるのみであり、いかなる報いも期待しません。純粋な愛に利己心はありません。愛にはエゴがありません。エゴ〔自我意識〕は神我への信頼が欠けている印です。神我への信頼が育てばエゴは滅びます。

私は、皆さん全員が、無価値なエゴ、虚飾、嫉妬を振り捨てて、愛と寛容と友好という性質で自分の人生に光輝を添えるよう祝福し、私の講話を終わりにします。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women’s Role C25

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