サイババの御言葉:内なる光

日付:1987年8月31日・場所:アナンタプル市
サティヤ サイ女子大学教育学部開校式の御講話より

内なる光


人は、学術的な力で会衆を説き伏せるかもしれない
勇ましく戦争をするかもしれない
王族に生まれ、国を統治するかもしれない
黄金や雌牛を施しに与えたことがあるかもしれない
空の星を数えることができるかもしれない
生物の種を並べ立てることができるかもしれない
しかし、人は、肉体と感覚を制御すること、
落ち着いて心をしっかりと内面に向けることができずにいる
心を平静に保つことこそが正しい道
それは地上における偉大な力
心の平静は海の真珠のように養われるべし
この優れた格言を忘れることなかれ


神聖アートマの化身である皆さん、女子学生と教師の皆さん!

人生はとても貴重で神聖なものです。人は自分の切望を叶えるために様々な方法で努力奮闘します。人の性(さが)には満足という要素がありません。手に入れれば入れるほど、ますます欲しくなります。理想や儀式を切望することも同様に人生の一部です。インドではどんな儀式を始める前にもランプに火を灯すという習慣があります。光は暗闇を追い払います。インドにおいて火は太古から崇められています。この儀式は無知な行為でも迷信でもないということを心に留めておかねばなりません。火を灯すことには深い暗示的な意味があるのです。

炎は常に上に向かうということに皆さんも気づいているでしょう。これは英知への渇望や神性の探求と同じです。上に向かうことは、より高い願望や、より高次の世界に向かうことを象徴しています。下に向かうことは、通常、より低い思考や低次の世界に向かうことと解釈されます。ランプに火を灯すことは、もう一つ別のことを象徴しています。ランプに火を灯すには、容器や入れ物となるような皿、いくらかの油、芯、点火する道具がなくてはなりません。この種のランプは外側の暗闇を追い払うことができるだけです。無知を追い払うためには内なる光を灯す必要があります。この目的のためには、容器となる無執着が必要です。バクティ〔神への愛、信愛〕はランプの油のようなものです。感覚の制御がランプの芯、霊的知識がライターです。これら四つはどれも内なる光を灯すための必要条件です。これらのうち一つでも欠けるなら、他のすべては役に立ちません。アートマの光輝を明るく照らすためには、これら四つすべてを絶えず育んでいなければなりません。

錆(さび)は容易に磨き落とすことができる
殻は種から剥ぎ落とすことができる
しかし、愚か者にやる気を起こさせることは不可能である


激情と憎しみは悲運へとつながる

人間の愚かさは利己心と自己中心的な態度にあります。これらは人間の進歩の道をふさぐ主な障害物です。何を見ても、何を話しても、何をしても、そこには利己心という避けがたい要素があります。これは私たちのゴールとされるものでしょうか? いいえ、違います。私たちのゴールは卓越性と神聖さの道の先にあります。これが人生の真の要素です。

ランカー島は、ハヌマーンが全土に火をつけた時、赤々と燃え上がりました。しかし、ラーヴァナの目にはすべてが暗く見えました。実は、この暗闇は人の内にある中核と結びついています。ハートが欲望と怒りに満ちていれば、ハートには暗闇しか存在しません。ラーヴァナは欲望と怒りの権化でした。さらに、ラーヴァナには10の頭がありました。ラーヴァナの10の頭とは、欲望、怒り、貪欲、執着、高慢、嫉妬、心(マナス、マインド)、知性、チッタ(心の要素である気紛れな面)、アハンカーラ(利己的な自我意識)です。実は、すべての人がラーヴァナです。なぜなら、人は根本的にこれら10の性質と結びついているからです。ラーヴァナはブラフマー神の一族出身であることが知られています。クムバカルナ〔怪力の羅刹〕はラーヴァナの弟です。ラーヴァナはインドラ神に勝利しました。ラーヴァナにはインドラジットと呼ばれる恐るべき息子もいました。これほど大きな力と威厳があったにもかかわらず、ラーヴァナは自分の激情(ラーガ)と憎悪(ドウェーシャ)という性質に屈服し、完全に滅ぼされてしまいました。

人間性という威厳を維持するには、神聖な思考と神聖な特質を育てることが必要です。古代の偉大な価値と習慣を注意深く守らなくてはなりません。現代では真実と正義が軽視されています。不正と不法が増大し、その結果、人間性よりも動物性のほうが優勢になりつつあります。人間性は、すべての側面、すなわち、神性、人間性、獣性、魔性が混じり合ったものです。これら四つの側面の様々な組み合わせが、人間+神、人間+悪魔、動物+人間、人間+人間、等々といった複合した人格という結果をもたらします。どのケースでも、人間はこの種の逸脱ゆえに自らの真実に気づくことができません。同一人物が、幼年期、青年期、老年期といった、人生の様々な段階を経ます。体は絶え間なく変化していてますが、人の神我は変化しません。人間はこうした自らの人生の事実を常に目の当たりにしています。

肉体は五つの物質元素の産物です。そのため、肉体は病気と消滅に直面する運命にあります。しかし、内在者(魂)には病気も消滅もありません。したがって、教育は外側の肉体に向けられると、外側の肉体と同じ運命をたどることになります。先ほど校長が述べたように、教育は人生のためにあるのであって、生計を立てるためにあるのではありません。教育というものは、心(マインド)のあり方を修正すること、心の態度を育成すること、心の癖を正すこと、心に集中する能力を教え込むものです。単に事実を寄せ集めることが教育なのではありません。この世界で起こっている一切についての情報を集めることは、道端からゴミを集めるようなものです。そうする代わりに、自分の中で何が起きているかを知る必要があります。人は自分の内側からの善い知らせを楽しみに待たなければなりません。今日の新聞は明日の紙屑です。毎日同じニュースを読みたい人はいません。何度も何度も繰り返し生まれ変わってくることを望むのは、毎日同じ新聞を読むのと似たようなものです。それが私たちの目標であってはなりません。私たちは自分の未来とゴールに関する正しいヴィジョンを持つべきです。

女子学生の皆さん!

もし将来に向けてきちんとした基盤を据えたいと願うなら、過去をあれこれ気に病んで思案にふけるのは正しいやり方ではありません。「現在」の重要性を悟らなければなりません。「遍在」(omnipresent)に関する真実は「現在」(present)の中にあります。将来に幸せな生活を送ることを望むなら、誰であれ現在を無視するわけにはいきません。「現在」に関して、二つのことを心に留めておかなければなりません。何をするにせよ、義務感と、その仕事に関わる喜びの気持ちをもって、その仕事を行わなければなりません。義務は神であり、仕事は礼拝です。礼拝であるという感覚をもって、自分の教養と人生を義務と仕事に捧げるべきです。過去をあれこれ思い悩んではなりません。将来について夢見てはなりません。現在を生きなさい。自分の義務を、注意深く、喜んで果たしなさい。

感謝は、昨今ではめったに見られない高潔な特質です。自分が受けた善に対して悪を返す人々がいます。人々はまさに自分を助けてくれた人を傷つけています。神性は、あなたを傷つけようとした人に善を為すことによって表されなくてはなりません。すべての人は神性の火花です。万人は神の子供たちです。私たちは、人類は兄弟であり神は父である、という気持ちを育てなくてはなりません。

ただ一つのカーストがあるのみ、それは人類というカースト
ただ一つの言語があるのみ、それはハートという言語
ただ一つの宗教があるのみ、それは愛という宗教


心が善良であれば、どの宗教が悪い宗教となり得るでしょう? 人々は宗教の名の下に狂気に走っています。狭い心を避けなさい。地域やカーストや共同体に関する狭い気持ちは手放さなければなりません。すべての人は一つです。万人に等しくありなさい。国の名誉と信頼と高潔さが守られないなら、教養は何の役に立つでしょう? 学のある人々は、学位を托鉢の椀に使うような、物乞いのレベルに身を落とすべきではありません。

木を育てるには根に水を与えよ

人間は自分の内に偉大な力を授かっています。人は、悪いものを見ること、悪いことを聞くこと、悪い話をすること、悪い思考を抱くこと、悪い行いをすることによって、この力を無駄にしています。悪いものを見ることで、たくさんのエネルギーが浪費されています。この点に関しては、盲人のほうが優れています。同様に、聾唖者のほうが優れています。知識は平静さと結びついているべきです。この結びつきは、人を至高の英知(プラグニャーナ)という大変高度な段階へと連れていってくれます。一方、知識がエゴに結びつくと、破滅へとつながります。それがある種の見せかけの生活であるのに対し、アート(芸術)はハートから生じます。

今どきの学生はキリンに喩えられます。キリンはとても長い首をもっています。キリンの頭は心臓からかなり離れています。今どきの学生は、まるで頭とハートがぞれぞれ独立して存在するかのように振る舞っています。頭はどこか別のところにあり、ハートはまた別の場所にあります。今どきの学生は、考えていることと別のことをします。この種の態度は人間性の崩壊へとつながります。

マナッスィエーカム ヴァチャッスィエーカム カルマンニェーカム マハートマナム
思いと言葉と行動が完全に一致している人は高潔な人である


人間の真の研究対象は人間です。学生は人格者(マハートマ)や高潔な人々の伝記を学ばなければいけません。そして、その人たちの特性を見習うよう努力しなければなりません。人間は世俗の知識と超越的な知識の両方を必要とします。これらは、鳥の二枚の翼、荷車の二つの車輪のようなものです。

「絶対者(パラム、神)を見ることもできないのに、なぜ超越的な面について頭を悩ます必要がありますか?」と皆さんは尋ねるかもしれません。木の枝や葉は目に見えても、根っこは目に見えない、という事実を知っていますね。しかし、木は根っこにきちんと水をやってこそ、生き延びるのです。人生という木も同じです。肉体は地上で操り人形のように踊っていますが、その根っこはどこか別の場所にあります。人は自分自身の根っこについて理解するために教育を役立てなくてはなりません。

万人の内には三種の力が存在しています。それらは、意志力(イッチャ シャクティ)、知力(グニャーナ シャクティ)、行動力(クリヤー シャクティ)として知られています。幸運な人生を送るためには、これらの力を統合しなければいけません。製品は、ただ考えるだけでは作れません。原材料を生み出し、加工処理をし、改良を施さなければなりません。そうして、やっと製品はきちんとした形に仕上がります。これは行動力(クリヤー シャクティ)です。望んだとおりに形作ったり設計したりするのは意志力(イッチャ シャクティ)です。製作に関与する技術は知力(グニャーナ シャクティ)に関連しています。このすべての種類の力が統合された時、要求される作業や仕事は初めて実を結びます。

ハートの原野には願望成就の木(カルパ タル)が生えています。木の周りには、たくさんの雑草が生い茂っています。木に近づくには、辺りの雑草や野生の茂みを伐採しなければなりません。教育に方向付けをし、ゴールに向けて正しく狙いを定めなくてはなりません。教育は、道を明らかにし、人の振る舞いを改善し、正しい目的地に向けて人を導くものでなければなりません。

人の振る舞いは、一定の原理と道徳律を守る時、初めて改善します。社会のイメージはこの二つにかかっています。これらを日々の仕事や雑事に適用させるための基盤を築くのは、ハートの清らかさです。道徳のない社会は狂った猿のようなものです。教養は道徳的な生活を送るための必要条件ではありません。わが子が必要な適性や成熟度を持っているかどうか考えもせず、工学や医学のような専門課程に進むことを奨励している親たちがいます。人々はお金を追いかけて盲目になっているのです。親はもっと子供たちの素行に目を向けなければいけません。

お金は生じては出て行きますが、道徳心は生じると大きくなります。ですから、親は家庭で規律正しい生活習慣を育くむのに相応しい環境を提供しなくてはなりません。ひとたびこれが果たされれば、学生がどんな類の職業に就こうと問題はありません。職業的知識と共に、一般的知識と社会的知識も持たなければいけません。基本的に、学生は社会の産物です。ですから、本質と行為において社会に感謝を示すことは、すべての学生の義務です。学生たちが、自分の関心事に留まって象牙の塔に立てこもって暮らすなら、どうやって社会に奉仕することができるでしょう。

皆さんは、自分のきれいな服が汚れることや尊厳を損なうことを恐れて奉仕活動を避ける姿勢をとってはなりません。真の幸福と尊厳は無私の奉仕を通して得られることを知るべきです。私たちの学生は、謙虚な無私の奉仕を行う中で、他の人々が追従するような理想的な模範として際立っています。

人々は、奉仕に関して延々と講義する
ところが、実際には困窮者たちに背を向ける
人生は挑戦、受けて立ちなさい
人生はゲーム、プレーしなさい
人生は夢、そのことを悟りなさい
人生は愛、楽しみなさい


私たちは自分の考えていることを発展させて、広げなくてはなりません。エゴとプライドを捨て去り、皆は兄弟姉妹であるという気持ちですべての人と接しなさい。五感と心(マインド)の奴隷となってはなりません。そうではなく、五感と心の主人となりなさい。自分の五感と心に指示を出せるほどの強い知性と意志力を持たなくてはなりません。

私たちの国の文化は女性に高い地位を授けてきました。私たちが夫婦に言及する時、つねに、ラクシュミー ナーラーヤナ、パールヴァティー パラメーシュワラ、シーター ラーマ、ルクミニー クリシュナ等々と言うのを知っていますね。女性の名前が先に来ます。その理由は、女性は自然の象徴だからです。自然(プラクリティ、原質)と至高の魂(パラマートマ)は、不活性な物質と純粋意識という二つの姿です。

私たちがラクシュミー ナーラーヤナと言うとき、通常それは、ラクシュミー女神はナーラーヤナ神の妻であると解釈されます。実際には、ラクシュミーは自然であり、ナーラーヤナは力です。人は、まず自然へと避難します。その後で、至高の実在(パラマートマ)に到達します。この世界は自然(プラクリティ、原質)と至高の実在(パラマートマ)が結合した姿です。世界(ジャガト)は物質であり、実在は真実であり永遠です。実在と共にある物質は神です。それゆえ私たちは、物質にはエネルギーが存在すると言うのです。神の力と結びついていない物質はありません。神の力は物質がなければ知覚できません。女性は自然を象徴しています。基盤となる五つの元素(パンチャ ブータ)、五つの生気(パンチャ プラーナ)、五つの鞘(パンチャ コーシャ)は、すべて自然の中に存在します。ですから、自然を忘れて神を覚えているという賢者はおらず、神の力(神)を忘れて自然に避難するという賢者もいません。人は自然を通して、言い換えれば、肉体を通して、神に到達しなければなりません。

アクシャラ(文字)というものは、単に文字であるだけではありません。アクシャラは「クシャラ」〔滅びるもの〕と「アクシャラ」〔不滅なるもの〕が結合したものです。「アクシャラ」は永遠性を表しています。「クシャラ」は一時性、すなわち永遠でないことを表しています。しかし、アクシャラの中には永遠性と一時性の両方が存在しているのです。アクシャラはアートマ(魂)として知られています。クシャラは滅びゆく肉体です。滅びゆく肉体(クシャラ)が不滅のアートマ(アクシャラ)と結びつくと、アクシャラが形成されます。したがって、人間はアクシャラの姿なのです。実際、私たちは自らの内にあらゆる種類の英知を有しています。不滅の英知(アクシャラ グニャーナ)、至高の英知(パラ グニャーナ)、その他の英知(グニャーナ)も有しています。人間性は、これらの種類の英知を通じて正しい見方をすることにおいて理解されます。ですから、人間性は一つの無類の体系なのです。

人間は新しいものではない

人間にとって、謙虚さはあらゆる成就と達成の基盤です。そして、謙虚さは教育を通じて学ばれるものです。傲慢な人は怠慢な生活にだらだらと引きずられ、それがその人を社会に適応できない人間にします。人は一生懸命働いて自分の生計を立てなくてはなりません。もしあなたが試験で良い点数を取れなくてもかまいません。それよりも最も重要なことは、生きていく上で他人から批判されてはならない、ということです。信仰をあなたの命の息吹と見なしなさい。信仰はどんな試みにおいても必要です。信仰というのは盲信や教条主義のことではありません。人々は神に信仰を置く代わりに、儀式や学者が作成した暦に信仰を置いています。人々は新月やエーカーダシーの日〔ヴィシュヌ神への礼拝日である月相11日目〕や他の行事の際にお供えをします。ヴェーダはきっぱりと宣言しています。

タットワマスィ
〔あれは汝である〕

プラグニャーナム ブラフマー
〔覚醒意識はブラフマンである〕

アヤム アートマ ブラフマー
〔これはアートマでありブラフマンである〕

アハム ブラフマースミ
〔私はブラフマンである〕


人はこれらの大格言を放り出して、一時的な側面を信じています。人は永続する真理をおざなりにしているのです。人は、執着、激情、憎悪といった自分の弱さを認識して、それらを取り除くようきちんと努力しなければいけません。

アートマの力を強めなければ、それ以外のどんな力を育てても役には立ちません。自己信頼〔アートマを信頼すること〕は、自己満足〔アートマを満足させること〕と自己犠牲〔アートマに犠牲を捧げること〕の能力をもたらします。私たちの肉体は行為(カルマ)を行うように創られています。私たちの義務は社会に奉仕することです。私たちの肉体を使う時、ダルマは維持されます。

皆さんは真に「人間」(マーナヴァ)らしくあらねばなりません。「マーナヴァ」の「マー」は「〜ではない」、「ナヴァ」は「新しい」を意味します。ですから、「マーナヴァ」(人間)には「新しくない」という意味があるのです。魂は生死の輪廻の中で様々な肉体をまとってきました。肉体をまとうという今生での体験は、新しいものではありません。にもかかわらず、人間は激情と無知ゆえに、自然分解してしまう肉体にしがみついています。

女子学生の皆さん!

この大学に入ったからには、皆さんの第一の義務は謙虚さを培うことです。私たちの大学では教育は手段にすぎない、ということを知らなくてはなりません。皆さんの本当の使命は、両親や社会が皆さんを誇りとするような、申し分のない人格と高潔さを養うことです。私たちの大学はビジネスや商業主義に基づいて運営されてはいません。秩序ある社会の理想的な先駆者となるために、そして、美徳の権化となるために、皆さんは生きる技法を身に付けなければなりません。その技法は、あらゆる技法の王冠です。理想的な生活の技法とは何でしょうか? それは、基本的な美徳である、真理、正義、平安、愛、非暴力に満ちた生活のことです。これらはまさに私たちの命の息吹です。生きる技法には、暴力的傾向や扇動的な方法を避ける才覚も含まれています。

学生として、皆さんは、手にすることのできる富をどう活用するか、また、ネガティブな情報源や悪い仲間からの勧誘をどう避けるかを知らなくてはなりません。皆さんは愛を錨(いかり)として、平和な生活を送らなくてはなりません。今日、私たちは、価値を教えることのできる女性教師を育成する目的で、教育学部を設立しました。

この大学は世界的に脚光を浴びていますから、社会は皆さんに注目している、そして、人は皆さんの振る舞いを批判的に伝える、ということを常に心に留めておくようにしなさい。華やかさを追いかけてはなりません。どんな時でも自分の純粋な意識に従わなくてはなりません。あなたが善い行いをしていれば、何も、誰も、恐れる必要はありません。自分が間違った道にいる時にだけ、人は恐れを抱くのです。

あなた方全員がこのトレーニングを成功裏に修業し、少女たちを正しい方法で教育するという使命に乗り出すことを祝福して、私の講話を終わります。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Women’s Role C28

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