サイババの御言葉:神なる母

日付:1988年10月14日・場所:プールナチャンドラ講堂
ヴェーダ プルシャ サプターハ グニャーナ供犠 初日の御講話より

神なる母


人は皆、国や状況にかかわらず、今日の自分の第一の義務は母を神として崇敬し、母に奉仕することであると考えるべきです。もし、自分を九ヶ月間お腹で守り、この世に産声を上げさせ、何年も育ててくれた母を敬い、奉仕することができないというのなら、いったい他の誰を敬うというのでしょう? 果てしない宇宙を無数の方法で投影し、守護している創造主の愛と、母性愛は同類のものです。

ある人は、自分の好きな女神の姿をとった神を崇めることを選ぶかもしれません。ある人は、それとは別の姿をとった神を崇めて至福を得るかもしれません。一人ひとりが心に留めるべきことは、自分が選んだ神が自分にとって大切であるのと同じくらい、他の人々が神を内に崇めている御姿は彼らにとって大切であるということです。どれだけしっかり自分の礼拝を行っていたとしても、他人が崇めている神を批判したり、けなしたりするならば、重大な罪を犯すことになります。同様に、人は他の人の母親に対しても、自分の母親と同じように尊敬と敬愛を示さなければなりません。

母親の役割をなす原理

日々の生活の中で心に留めておくべき、母性の典型である神聖な性質の模範をいくつか挙げてみましょう。

雌牛は、人間にも滋養を摂らせるために、自分の血液を栄養のある牛乳へと変化させます。雌牛は母なる神の第一の模範です。

大地がその次に来ます。大地は神のごとく人を自らの胸に抱いて、さまざまな方法で人の面倒を見ます。ですから、大地も母なる神の具現です。

神性は、人間の体の中で神の甘露(ラサ)として手足の隅々にまでに流れ、体を維持します。この神の原理は、神の甘さの具現(ラサスワルーピニー)と呼ばれています。この原理のもう一つの名前はアンギーラサ〔四肢の甘露〕です。肉体に浸透し、肉体を維持しているこうした神聖原理も、母なる女神として崇拝されるべきです。

それから、善悪、正否、人間を向上させるものと堕落させるものに関する事柄を探求し、苦心と苦行の末に、霊的な道と世俗的な道、および、人が自らを救う方法を示す偉大な聖典の数々を人類に授けた、マハルシ(マハリシ)と呼ばれる大聖仙たちがいます。大聖仙たちも、同様に神なる母として崇敬されなければなりません。

雌牛、大地、体を司る神性、大聖仙、グル〔師〕は皆、神の母性の具現として崇拝するに値します。この五つは異なる姿形と名前を持っているように見えますが、どれも母親であるという一つの共通点があります。この五つは、人類を守護し、維持する役割を担っていることから、神なる母として敬われ、崇拝されるべきなのです。

逆に言えば、どの子供の母親も、子供との関わりの中で、これら五つが有する特性を表します。母は子を養い、子の発育に必要なものを与え、子が知るべきことと避けるべきことを教え、ダルマの道の上で子を導くのです。

ドゥルガーとラクシュミーとサラスワティーの力

それほど尊い母親を尊敬することも愛することもできない人の人生は、まったく無益です。自分の母親を、まさしく、あらゆる神の力の化身として認識し、母親に崇敬を示し、愛をもって接しなければなりません。これぞ、ナヴァラートリーという九夜祭が私たちに与えている真のメッセージです。

至高のシャクティ〔力〕は、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーの姿で顕れます。ドゥルガー女神は、身体的活力、精神的活力、霊的活力を授けます。ラクシュミー女神は、金銭的な富はもちろん、理知的な富、人格という富など、多くの種類の富を授けます。健康も富の一種です。ラクシュミー女神は言葉では言い尽くせないほどの富を授けます。サラスワティー女神は、知性、理知的な探求をする能力、識別力を授けます。ナヴァラートリー祭は三女神の力を世に示すために祝われます。母親は三女神の結合体です。母親は私たちに活力と富と知性を与えてくれます。母親はつねに私たちの人生の向上を願っています。このように、母親はナヴァラートリー祭の期間に私たちが崇める三女神を象徴しているのです。

パンーンダヴァ兄弟がクリシュナ神の寵愛を受けることができるようになり、クリシュナ神に奉仕することで自分たちの人生を価値あるものにしたのであれば、それは彼ら自身の功徳や修行によるものではありません。パーンダヴァ兄弟にそれほどの幸運をもたらしたのは、母であるクンティー妃のわが子への愛です。パーンダヴァ兄弟が森や蝋の館〔燃えやすい建材で作った家にパーンダヴァ兄弟を閉じ込めて暗殺するという企みのために作った家〕で生活しなければならなくなったときでさえ、クンティー妃はずっとパーンダヴァ兄弟と共にあり、わが子の幸福を祈っていました。パーンダヴァ兄弟もクンティー妃の愛に応え、それが彼らの最終的な勝利の主な原因となったのでした。

同様に、ラクシュマナは、ひとえに母のスミトラー妃の祝福のおかげで、兄のラーマといっしょに森に住み、ずっとラーマに奉仕をすることができたのでした。スミトラー妃は、ラーマのいないアヨーディヤーの都は森のようなものであり、ラーマが住めば森はラクシュマナにとってまぎれもなくアヨーディヤーとなると、息子に言いました。ラクシュマナが森で14年間、食事も睡眠もとらずに過ごすことができたのは、母親の心からの祝福のおかげです。

子は母の愛情深い恩寵を必要とする

私たちの叙事詩と神聖な書物はすべて、母の愛の力、母の祝福の力、母の恩寵の力を強調しています。ガーンダーリー妃とカウラヴァ兄弟の話を考えてごらんなさい。ガーンダーリー妃は、クルクシェートラの戦いの後にクリシュナが慰めに来たとき、パーンダヴァ兄弟に関することでクリシュナを責めました。

「あなたは神であるというのに、どうしてそんなにも不公平でいられるのですか? なぜあなたは全面的にパーンダヴァ兄弟を支持して、私の息子全員を滅ぼすことをお許しになったのですか?」

とガーンダーリー妃は尋ねました。クリシュナは、息子たちの死について非難されるべきはガーンダーリー妃のほうであると答えました。百人の息子を産んだにもかかわらず、彼女はただの一度も、一人の息子にさえも、愛のこもった眼差しを向けたことがなかったということを、クリシュナはガンーンダーリー妃に思い出させました。ガーンダーリー妃は〔夫が盲目だったために自分も〕ずっと目隠しをして生きることを選んだために、深い思いやりや、気づかいや、愛情をもって息子のことを見たことが一度もなかったのです。

「実の母の温かい愛情を味わったこともないような罪人が、どうして立派に育って繁栄することなどできますか?」

とクリシュナは尋ねました。

活力や、物質的な繁栄や、世俗的な知識を求めて、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーの機嫌をとる必要はありません。もし母親を愛し、敬うなら、それがすべての女神たちに自分の愛と信愛を示していることになるのです。

最初に母親が来る

母は天国よりも偉大です。シュリ ラーマは、母親と母国は天国よりも偉大であると宣言しました。ナヴァラートリー祭は、この深い真理を教えています。自分の母親を敬うことは人間の最高の義務である、ということを覚えておかなければなりません。もし母親が幸せでなかったら、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーの名のもとにナヴァラートリー祭の期間にかけた費用の一切、捧げた礼拝の一切は、実を結ばないでしょう。

神として崇敬すべき人たちである、母親、父親、師、客人についての古代の教えにおいても、最初に「マートゥル デーヴォー バヴァ」〔母親を神として崇めよ〕と言うように、母親に順番の最初が与えられています。くだけた会話の中でさえ、私たちは、お母さん、お父さん、先生、神様という順で言います。神は最後に追いやられ、母親が最初の順番を与えられているのです。このことは、女性一般、とりわけ母親に対するバーラタ文化の姿勢を明らかにしています。

子供の手を取って歩き方を教えるのは母親です。子供に食事を与えて食べ方を教えるのは母親です。さらには、意味を持つ音の発音と言葉を話すことを教えるのも母親です。ですから、母親は最初の教師です。ヴェーマナ〔テルグの詩人〕は、両親のことを大事に思わない息子は蟻塚で生まれ死ぬ虫にも劣ると述べました。

自分の両親をイーシュワラ神とパールヴァティー女神〔シヴァ神と妃〕と考えて、心を尽くして両親に奉仕するようにしなさい。両親を喜ばせることもできないのであれば、どうやって神を喜ばせることが望めるでしょう? ラヴァとクシャ〔ラーマの双子の息子〕の話を考えてみなさい。シーターは聖賢ヴァールミーキの庵で二人を産み落としました。二人はヴァールミーキから多岐に渡る知識を教わりました。シーターも多くの教えを授け、多くの技能を身に付けさせました。シュリ ラーマが二人と戦いをしにやって来たとき、どうなりましたか? ラヴァとクシャは深い敬意をもって母を念じ、それからラーマに矢を放ちました。その矢を打たれたラーマは気を失って倒れてしまいました。母の祝福にはそれほどの力があるのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.21 C28

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