サイババの御言葉:人が一つになることを目指して

日付:1988年10月20日・場所:プールナチャンドラ講堂

人が一つになることを目指して


誰が人に消化器官を与えたのか?
誰が誕生と死を創り出したのか?
彼を知ることが最高の英知
この真理を忘れるなかれ、おお、人よ!


詩人バルトルハリは、「万物を動かしている時間の主に帰命いたします」と言いました。時間は全権を有しています。人は貴重な時間の一瞬をも無駄にしてはなりません。誰もが時間の命令に従わなければなりません。なぜなら、時間は誰にも支配されないからです。神は時間の権化です。人は善い行いを通して神の恩寵を得て人生を購うべきです。

バーラタ文化〔インド文化〕は世界に名高く、そのメッセージは世界の隅々にまで届いています。バーラタ文化は、時間と状況の変化に持ちこたえ、創造世界の始まり以来、永遠の真理の証を保ちつつ、非常に長い間変わることなくあり続けています。ヤーガ(供養)とヤグニャ(供犠)はバーラタ文化の概念を反映しています。

ヤグニャとは何でしょう? ヤグニャとは、単にルットウィック(供犠を行う学僧)たちを集め、四つのヴェーダを唱えさせ、ホーマ(護摩壇の供犠の火の中に神々への供物を投じること)を行うことではありません。神への捧げものとして人が行うすべての行為、つまりその行為の報いをすべて捧げることが、ヤグニャです。どんな行為をするとしても、それがどれほど大きな行為であれ小さな行為であれ、それは神に喜んでもらうためにする行為であるとして行うべきです。それは神聖な行為かもしれませんし、世俗的な行為かもしれません。それは世界のため、あるいは、将来のためになるものかもしれません。その行為は人を縛り付けるものかもしれませんし、人を自由にするものかもしれません。その行為は物質的かもしれませんし、霊的かもしれません。行為の性質がどのようなものであろうとも、行為は神に捧げなければなりません。

宇宙の万物には神が浸透している

人は誰もが教師です。どの人もルットウィックです。すべての人がブラフマンの化身です。宇宙の万物には神が浸透しています。この真実こそが、ヴェーダによって宣言されていることです。

アンタル バヒシチャ タット サルヴァム ヴィヤーピャ ナーラーヤナッ スティタハ
ナーラーヤナ神は宇宙の万物の内外に存在している


では、なぜ、人間は遍在の神を認識することができないのでしょうか? ウパニシャッドは、神を実感認識する方法として、人に自分の行うすべての行為の報いを神に捧げるよう指示しています。神はどのような姿形で体験され得るのでしょう? その答えはこうです。

サッティヤム グニャーナム アナンタム ブランマー
ブラフマンは真実であり英知であり無限である


真実(サティヤ/真理)とは、単に何らかの出来事や物事に関して事実上間違いがないということではありません。これは世俗の意味における真実です。一方、霊的な意味での真理は、時間と空間の範疇を超えており、常に変わらずに存在します。この超越した真実がハートの中に刻み込まれていなければなりません。この真実の光の中でこそ、人は世の中で人生という旅を進めていくべきなのです。

グニャーナ(霊的な知識、英知)とは何でしょう? グニャーナはチャイタンニャ(高次の意識)のことを指しているのであって、さまざまな類の知識を指しているのではありません。グニャーナは人をインスパイアする意識であり、木にも、動物にも、最も小さな虫にさえ浸透しています。聖者ティヤーガラージャは、蟻にもブラフマンにも、シヴァ神にもヴィシュヌ神にも、至高の愛という姿形で内在しているその宇宙意識について歌いました。そのすべてに遍満している意識を経験することは、神を経験することです。

神は人が想い描く姿形で人の前に現れる

その意識はアナンタム(無限)です。その意識は遍在です。神は、どんな姿形として礼拝されようとも、どんな概念を持たれようとも、どんな感情を向けられようとも、それに応じた姿形をまとって信者に歓喜を授けます。「おお、主よ、私のそばにいて、私といっしょに歩いてください。私の後ろに、私の周りにいてください」と信者が祈るとき、主はその信者に同行します。その信者が体験できるのは主の足音だけです。もし信者が、「おお主よ! 私の哀れなありさまが見えないのですか? 私の問題を見る目をお持ちでないのですか?」と叫び声を上げるなら、主の目だけがその信者の前に現れるでしょう。信者が「私の嘆きが聞こえないのですか? おお、主よ!」と祈るとき、神は耳としてのみ、その信者の前に現れます。あなたの神の体験は、あなたの感情と神へのアプローチの仕方によって決まります。主はあらゆる場所に自らの足、手、目、耳を持っており、各人が心に描いた姿形で各人の前に現れます。

霊性の求道者は至福の権化

四つ目はアーナンダ(至福)です。どの人も至福を求めます。求道者たちは至福の権化と呼ばれてきました。その至福は、永遠の至福、至高の至福、ヨーガの至福(神と一つになること)、ブラフマーナンダ(神の至福)、アートマーナンダ(霊的な至福)等々、多種多様に称されてきました。しかし、こうした至福の形はすべて、一つの至福に融合します。それはハートの至福(フリダヤーナンダ)です。自分が行う行為がどれほど小さなものであれ、人はその行為から歓喜を引き出すことを欲します。その歓喜は人の内にあります。

「サッティヤム グニャーナム アナンタム ブランマー」という宣言における至高の真理、英知、無限としてのブラフマーは、至福の権化です。ブラフマーは、充満、いたる所に存在していること、を意味します。ブラフマーがいない場所がないなら、どこにブラフマーを探す必要があるでしょう? 神の至福に満ちた姿を見ることができるのは、ハートの扉が開いているときです。これはまさにゴーピカー(牧女)たちが体験したことです。

全宇宙は主の邸宅
であれば、その館へと続く道、その館の扉はどこにある?
自分の体の命の糸を操って、
信愛の涙を流し、自分の魂を捧げ、
その体験の中に天国を見る
それが道であり、扉なり!


自分の人生、エネルギー、力の一切を神に捧げるとき、あなたは言葉では表現できないほどの至福を体験します。私たちは今日、それほどの至福を探し求めていますか? 私たちはそれに気づいていますか? いいえ、気づいていません。あらゆる至福の座席はハートです。振動はハートから生じます。その振動は主の御名を唱えます。もし主の御名の力を理解するならば、どんなサーダナ(霊性修行)にも従事する必要はありません。

ラーマの御名に含まれる三つの力

トゥラスィーダースは、世界で重要なのはクルサーヌ、バーヌ、ヒマカラテーという三つの力、すなわちアグニ(火)、スーリヤ(太陽)、チャンドラ(月)のみである、と言明しました。この三つは永遠の照覧者です。これらは、有神論者であれ、無神論者であれ、ヨーギであれ、美食家であれ、出家であれ、快楽主義者であれ、誰にとっても不可欠です。火がなければ、体は冷たくなって朽ち果てます。太陽からの放射がなければ、人の中のエネルギーすなわち活力は存在できません。太陽光線は植物や人類が生存するのに不可欠です。同様に、月も存続に不可欠です。

人間として生まれるのは、過去での罪と無知の結果です。罪を滅ぼし、無知を取り除くことによって、人生で平安と平穏を獲得することが必要です。アグニ(火の神)は私たちの罪を燃やして灰にしてくれます。太陽神は私たちの無知を滅ぼしてくれます。月はハートの興奮を冷ましてくれます。この三つはラーマの御名の中に含まれています。ラーマの「ラ」はアグニ(火神)を表しています。「アー」(「ー」)はスーリヤ(太陽神)を表しています。「マ」はチャンドラ(月神)を表しています。ラーマという御名は、この三神、アグニとスーリヤとチャンドラを含んでいるのです。さらに、ラーマという御名は、「タットワマスィ」(タット トワム アスィ、あれは汝なり)というヴェーダの宣言の具現でもあります。「ラー」はタット(あれ)であり、「マ」はトワム(汝)です。ヴェーダとシャーストラの真髄がこの神の御名の中に含まれているのです。ラーマという御名のこの上ない意味は、「サーンキヤ シャーストラ」(数秘学)によっても裏づけられています。この科学によると、数秘学的には、「ラ」+「ー」(アー)+「マ」で七になります。七聖仙(サプタリシ)、虹の七色、七つのスワラ(インド音楽の七音階)、一週間の七日の神聖さにおいても明らかなように、七は神聖な数です。

七日供犠の意味

今日、私たちは「ヴェーダ プルシャ サプターハ グニャーナ ヤグニャ」〔ヴェーダの神性と英知に捧げる七日間(サプターハ)の供犠(ヤグニャ)〕を完了しました。七日間の供犠とは何を意味するのでしょうか? それは、私たちの内にある七つの音を神に捧げることです。供犠の完了はサマープティと呼ばれています。サマープティはプラープティ(ブラフマーの意識に達すること)を意味します。七日間の供犠はこの目的のために行われます。

この七日間は瞬く間に過ぎていきました! その理由は何でしょう? それは、この七日の間、時間を超越した神を思って過ごし、その行為を時間を超越した神に捧げ、私たちも同様に時間の限界を超越したからです。もし私たちがすべての時間を神の憶念に費やすなら、時間は重荷ではなくなるのです。

カーラカーラ プラパンナーナーム カーラ キムカリシャティ?
(時間の征服者のもとに避難するなら、時間はいったい私たちに何ができるだろう?)


ハート中にカーラ(時間の神)を祀るなら、私たちは時間の支配者になります。

どうすればそれができるでしょう? 一番やさしい方法は神の御名を唱えることです。さらに好ましいのは、帰依者たちが集まって歌うバジャンです。これはサンキールタン(主の栄光を共に歌うもの)と呼ばれています。サンキールタンには四つの形式があります。「グナ サンキールタン」〔神の属性を歌うもの〕、「リーラー サンキールタン」(神聖遊戯を歌うもの)、「バーヴァ サンキールタン」〔神への感情を歌うもの〕、「ナーマ サンキールタン」(神の御名を歌うもの)です。

「グナ サンキールタン」〔属性のバジャン〕とは、神の特質を歌うこと、神のおびただしい吉兆の性質に浸ることです。ある帰依者は次のように歌ってクリシュナ神の性質を表しました。

あなたを理解することなどできるでしょうか、ああ クリシュナ!
あなたは原子よりも小さく、最も巨大なものよりも大きいお方です
あなたは840万の種に内在し、それらの維持者であられます
数限りない御姿をお持ちのあなた
そのあなたを知ることなど、どうしてできましょう?


このようにして神を述べ描いていても、時折、疑いが湧き起こってくることがあります。微小な原子の中にも、宇宙の広大さの中にも神がいるのであれば、いったいどうして自分は神を見ることができないのか? と。地球を旋回した宇宙飛行士は神の存在を疑ったことがあるかもしれません。しかし、宇宙飛行士が宇宙を探索するのに使う器具と、それを通して神を体験するマントラには違いがあります。神はマントラの具現であって、ヤントラ(機械的な装置)ではありません。

「リーラー サンキールタン」と「バーヴァ サンキールタン」

「リーラー サンキールタン」〔神聖遊戯のバジャン〕における信愛の歌は、リーラー(神の驚くべき遊戯や奇跡的な御業)や、神が帰依者を喜ばせたり試したりするさまざまな方法を賛美します。神のやり方はたやすく理解できるものではありません。神は、ある帰依者を泣かせたかと思うと別の帰依者の涙をぬぐい、禁欲主義者を悦楽主義者に、放蕩者を聖者に変えます。神は、ある者に狂気を引き起こしたかと思えば、別の者の狂気を取り除きます。こうした不可解な神の遊戯が「リーラー サンキールタン」の歌のテーマです。

「バーヴァ サンキールタン」〔感情のバジャン〕では、帰依者の心の奥底にある感情が歌に現れます。そうした感情にはさまざまな種類があります。ビーシュマは「平安と満足のバーヴァ(感情)」の体現者です。アルジュナは「サキーヤ バーヴァ」(友情)の模範です。ハヌマーンは「ダースヤ バーヴァ」(召し使いの感情/奉仕の精神)の手本です。ヤショーダーは「ヴァーッツァルヤ バーヴァ」(母性愛)を示しています。ゴーピー(牧女)たちは「アヌラーガ バーヴァ」(愛情)の好例であり、ラーダーは「マドゥラ バーヴァ」(神の甘さを楽しむこと)を明らかにしました。さまざまなバーヴァ(感情)の中で、「マドゥラ バーヴァ」〔甘い感情〕は、神の御名と御姿の持つあらゆる甘さを味わい恍惚の歓喜に浸っている状態、という最高の地位を占めています。

キールタンと「ナーマ サンキールタン」の違い

「ナーマ サンキールタン」〔神の御名を歌うもの〕以外のサンキールタンの形式は、疑いや問題を引き起こしがちです。それゆえ、今のカリユガ〔暗黒の時代、末世〕において一番簡単で安全なサンキールタンの形式は、「ナーマ サンキールタン」、つまり、みんなで神の御名を歌うことです。「ナーマ サンキールタン」は、疑いを引き起こしたり、情緒の混乱を刺激したりすることがありません。神の御名を歌い続けていると、人は内なる歓喜を味わいます。そのとき、賞賛も非難もまったく気になりません。神の御名を絶えず繰り返している結果として、神の御名がハートに刻まれます。神の愛によってハートが柔らかくなって、初めて神の御名を刻むことができるのです。

キールタンとサンキールタンの違いは、キールタンが個人が私的に歌うことを指すのに対し、サンキールタンはグループで歌うことを指すことです。サンキールタンでは参加者全員が共に喜びを体験します。それゆえ、喜びが一個人に限られてしまうキールタンよりも、サンキールタンのほうが優れているのです。思い切って大きな声で歌うことのできない多くの帰依者たちも、グループで歌うのであれば気がねなく自発的に参加してくるでしょう。

ダールワールでの奇跡

サンキールタンに関連して、ずっと以前、私がカルナータカ大学を訪問した際に、ダールワールで起こった出来事を思い出しました。カルナータカ大学ではシヴァ原理主義者が完全に多数派を占めていました。彼らは決してシヴァ神以外の神の御名を聞こうとはしませんでした。私はカンナダ語で講話を始めました。私のカンナダ語はダールワールで話されているカンナダ語よりも甘美でした。私が耳慣れたカンナダ語で話したので、彼らはたいへん喜びました。私はみんなでバジャンを歌って講話を終えることを習わしとしています。私は集まった聴衆を眺めて彼らの心(マインド)の状態を調べ直しました。私は聴衆がヴィシュヌ神の御名をひどく嫌っていたことを知っていました。もし「ナーラーヤナ」〔ヴィシュヌ神の別名〕と言おうものなら、聴衆は耳をふさいだでしょうし、クリシュナ〔ヴィシュヌ神の化身〕の御名が語られたなら、そっぽを向いたことでしょう。

そのような状況の中、私は「ゴーヴィンダ クリシュナ ジェイ! ゴーパーラ クリシュナ ジェイ!」というバジャンを歌いました。すると聴衆全員が、すぐさま「ゴーヴィンダ クリシュナ ジェイ!」と返してきたのです。聴衆の中にはシヴァ原理主義派のグル(導師)もいました。そのグルでさえ「ゴーヴィンダ クリシュナ ジェイ! ゴーパーラ クリシュナ ジェイ!」と歌ってバジャンに加わったのです。その集会の最後に、副学長であったアドケー氏が私の所に走り寄ってきてこう言いました。

「私たちはこれまでサイ ババ様の奇跡とはいかなるものか、私たちなりの考えを持っておりました。今日、サイ ババ様は、生涯一度もクリシュナの御名を唱えたことのなかった人々にクリシュナの御名を歌わせました。これはたいへんな奇跡です!」

このエピソードの内なる意味は何でしょうか? それは、誰であろうとも、その人がどんな素性であろうとも、サンキールタン〔神の御名や栄光を集団で歌うこと〕には我を忘れて参加するということです。神の御名だけが、人にすべてを忘れさせ、御名を歌う歓喜にどっぷりと浸らせることができるのです。唇に神の御名を乗せて人生の諸問題を切り抜けることを覚えなさい。

違いを超えなさい

神の化身たちよ!

ここに来たからには、一つだけ、あなた方全員が認識して理解すべき最も肝要なことがあります。人種、宗教、カースト、信条といったあらゆる違いを忘れ、属する階級や社会を考慮することをやめて、自分たちは皆、一なる神の子供たちであると感じなければいけません。

私たちの人種はただ一つ、それは人類という人種
私たちが礼拝しているのは一つ、それは神
私たちのカーストはただ一つ、それは愛というカースト
私たちの言語はただ一つ、それはハートという言語


この単一性を認識し、あらゆる違いを避け、あなた方のハートを愛で満たしたとき、あなた方は、絶えず神の御名を唱えることによって自分の人生をあがなうことができるようになります。神の御名は、あなたが何を達成するにも助けとなるでしょう。神の御名はあなたの生活を平安と幸せで満たすでしょう。神の御名はあなたが好き嫌いを捨てられるようにしてくれるでしょう。人間の最高の性質は、愛です。愛を育みなさい。そうすれば、執着と嫌悪を追い出すことができるでしょう。そうすることによって、あなた方は自分の人生を聖化することになるでしょう!

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.21 C29

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