サイババの御言葉

日付:1988年11月9日・場所:プラシャーンティ・マンディール
ディーパーヴァリー祭の御講話より

お祭りの内なる意味


バーラタ(インド)人のお祭りや祝日は、インド文化の偉大さと清廉を明らかにすることを意図しています。この、太古よりの文化の内的意味と力を認識することができずに、この国は知らず知らずのうちに目的を欠いた存在へと陥りつつあります。インドのあらゆるお祭りには、深い意味と目的があります。けれども、それらの内的意味とより深い目的を理解するための真摯な努力が払われていません。

祝日やお祭りは、アヴァター〔神の化身〕と聖者たちの誕生日を祝い、邪悪な勢力が滅ぼされた日を記念することを意図しています。古代の人々は、偉大な魂の持ち主たちの思い出を偲(しの)び、いかにして悪の力が打ち負かされたかを思い出すために、祭典を祝いました。ダルマの化身、シュリ・ラーマの降臨はチャイトラ月のシュッダ ナヴァミー〔新月から九日目〕に起こりました。その日はラーマの神聖な誕生日として祝われています。シュラヴァナ月のバフラ アシュタミー〔満月から八日目〕は、シュリ・クリシュナがダルマを確立し、ギーターチャールヤ(「バガヴァッドギーター」を説く師)としてダルマを広めるために降臨を果たした、神聖な日として祝われています。

お祭りは悪魔の勢力を滅ぼしたことを祝う

ナヴァラートリー祭〔新月からヴィジャヤダシャミー前日までの九日祭〕、シヴァラートリー祭、サンクラーンティ祭(太陽神に捧げるお祭り)は、神が悪魔の勢力を滅ぼした記念日として祝われます。ヴィジャヤダシャミー〔勝利の十日目、ダシャラー祭〕は、あらゆる科学に通じ、非常に強力だった、ラーヴァナという邪悪な心の持ち主が倒された日です。アーシュヴァユジャ月のシュッダ パーディヤミー〔新月から一日目、ナヴァラートリー祭二日目〕は、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーの三女神の力が一体となって、マヒシャースラ(水牛の頭をした阿修羅マヒシャ)に象徴される邪悪な勢力に終焉(しゅうえん)をもたらした日です。また、ヴィジャヤダシャミーは、アスラの王ラーヴァナが滅ぼされてシュリ・ラーマがアヨーディヤーの都で王位に就いた日であり、偉大な皇帝ヴィクラマーディッティヤが神の恩恵として宝石のちりばめられた王冠を戴き即位した日でもあります。さらには、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラが往生(おうじょう)した日でもあります。バーラタ人は、こうして、アヴァターたちの誕生日や、悪が滅ぼされた日を記念する日を祝ってきました。

シュリ・クリシュナが悪者を征伐した後にマトゥラーに王を配したとき、邪悪な心のカムサ、すなわち、ナラカースラ〔阿修羅ナラカ〕は、何度も都に攻め入りました。都の住人が身の安全と保証を恐れると、クリシュナはドワーラカに都を作って彼らに避難のための地を与えました。

ナラカースラが都として構えていたのはプラーグジョーティシャプラムと呼ばれる都市でした。この都の名前は、「プラーグ」、「ジョーティ」、「シャ」、「プラム」という四つの音節から成っています。「プラーグ」は「以前の」、「ジョーティ」は「光」、「シャ」は「忘れる」、「プラム」は「体」を意味します。これらが合わさったこの語は、ハートを表しています。その内的意味は、体をまとったナラ(人間)は、光、すなわち自らの内なるアートマジョーティ〔真我の光〕を忘れている、というものです。「ナラ」にはさまざまな意味があります。一つは「アートマ」です。もう一つの意味は「永遠ではないもの」です。ナラであるがゆえ、人間は自らの真の霊的状態を忘れているのです。ナラの都に悪い性質が侵入すると、人間はナラカースラ(悪魔のような存在)となります。ナラカースラという語には、人々をナラカ(地獄)に運ぶ者という意味もあります。

ナラカ チャトルダシーの意味

ナラカースラの生涯の物語は、このアスラの悪がいかに大きかったかを暴いています。ナラカの王国はすべて暗黒に包まれていました。どの家にも、どの通りにも、明かりは灯されていませんでした。外ではどこにも女性は見当たりませんでした。ナラカは何千という姫君を幽閉し、数え切れないほどの女性を拷問していました。こうした恥辱に耐えかねて、女性たちはクリシュナに救いの手を求めました。女性に苦を負わせていたのですから、ナラカースラは女性から罰せられなければなりませんでした。この理由から、クリシュナは妃のサティヤバーマーを伴って戦い、ナラカースラを滅ぼしました。ヴィジャヤダシャミーは、クリシュナがナラカースラに勝ったことも祝います。この日はナラカ チャトゥルダシー〔ヴィジャヤダシャミー後の満月から十四日目〕とも呼ばれています。

その翌日はアマーヴァースヤ(新月の日)です。クリシュナは16,000人の女性を牢から出して、家に戻るようにと言いました。ところが、彼女たちゴーピカー〔牧女〕は皆、クリシュナの足元にひれ伏して、ナラカースラに幽閉されていた身では家に戻っても胸を張って生きてはいけない、家に帰るよりクリシュナの御足のもとで死にたい、と希(こいねが)いました。AAA

「貴方は宇宙の守護者であられるのですから、私たちを守護することもおできでしょう?」とゴーピカーたちは希いました。クリシュナは同意しました。

ゴーピカーたちを守る責任を負うという堅い約束を交わしたことから、クリシュナはバルタ(後ろ盾)と呼ばれました。このことは、クリシュナがゴーピカーたちの夫であるという間違った意味に解釈されています。クリシュナは16,000人のゴーピカーと結婚していた、と言うのはクリシュナへの侮辱です。

ディーパーヴァリー祭の日にランプが灯される理由

このアマーヴァースヤの日〔ディーパーヴァリー祭〕はゴーピカーにとっての解放の日です。それは月の出ない日で、夜は真っ暗闇です。ゴーピカーたちは、自由という光を得た日なのだから、この日は満月の光で祝われますように、そうすれば、誰もがその日を満月の夜と同じように喜ぶでしょうと、祈願しました。こうした理由から、その日にはランプと花火で照らして、新月の日を満月の夜に変えるのです。

この祝祭には科学的な根拠もあります。雨季の終わりと共に、多くの場所では水がよどみ、周囲に蚊や他の虫が大量発生します。クラッカーや花火の煙はそうした虫を駆除し、環境を殺菌します。

バーラタのお祭りの根底にある内的意味は正しく理解されるべきです。たとえば、ずらりと並んだランプの光は、一つのランプから火を移されたものであるということに注目してみなさい。一つ目のランプの火は神の至高の光輝を象徴しています。他のランプは人間の個我の光を象徴しています。ヴェーダが言及する、「一なるものが多になろうと意志した」という真理が、一つの炎から多のランプに火を灯していくことによって例証されるのです。このように、ディーパーヴァリーのお祭りは、最も深遠な霊的真理を実証するのです。

ランプはもう一つの意味深い事実を指摘しています。どこに置かれても、ランプの炎はひたすら上に向かって燃え、決して下に向くことはありません。同様に、グニャーナ(霊的英知)の炎は人を正義の道によって崇高な段階へと導きます。

内なるランプを灯すには四つの要素が必要

ランプに明かりを灯したければ、四つのものが必要です。一つ目は容器、二つ目はオイル、三つ目は芯、四つ目はマッチです。もしこれらのうちのどれか一つでも欠いていれば、ランプを灯すことはできません。しかしながら、こうしたランプは外の闇を払えるだけです。ハートの闇はどうやって追い払うことができるでしょう? それはグニャーナ ジョーティ(英知の光)によってのみ、追い払うことができます。それ以外のものでは追い払えません。その英知の火、その霊的な火は、どのようにして灯せばよいのでしょう? それには、同様に四つの要素が必要になります。ヴァイラーギャ(無執着、放棄)がその容器です。バクティ(信愛)がオイルです。エーカーグラター(一意専心)が芯です。グニャーナ(英知)がマッチ棒です。この四つがなければ、霊的英知という光を手に入れることはできません。

この四つの中でも、特になくてはならないものは、ヴァイラーギャ(無執着、放棄)です。この無執着がなければ、聖典の知識はすべて役に立ちません。無執着とは何でしょう? それは、体への執着がないことです。つねに人に「私が」と思わせる、そのエゴの感情を手放すようにしなさい。ママカーラ(所有感、我執)とエゴの感情が、ラーガ(執着)の原因です。この執着という病は、どうしたら根絶することができるでしょう? 自問のプロセス〔自己探求〕によってです。体も、五感で味わう一切のものも、永続するものではない、ということを悟ったとき、あなたはヴァイラーギャの感覚を得ます。そのためには、あなたはもっぱら、自分の義務を果たし、体をその目的のために神が授けてくれた道具として扱わなければなりません。

パローパカーラールタム イダム シャリーラム
〔人の体は人を助けるために作られている〕

体は自己中心的な目的のためだけに使われるべきではありません。

ディーパーヴァリー祭は、ナラカースラによって象徴される、私たちの内にあるあらゆる悪い性質を一掃する日として祝われるべきです。その日に自由の身となったゴーピカーたちは、私たちの内に幽閉されている善良な性質を象徴しています。それらを明るく顕現させるべきです。これがディーパーヴァリー祭の内なる意味です。自らの内に悪魔の性質が残っている限り、人は闇に沈んだたままでしょう。悪い性質と思考を共に追い払うようにしなさい。

私は、私たちの祭日と聖日が、内なる意味の理解と共に、正しい精神で祝われることを望みます。ナラカースラの滅亡は、悪の滅亡と善なるものの復興を象徴しているのです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.21 C30

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