サイババの御言葉

日付:1989年9月3日・場所:プラシャーンティ マンディール
ガネーシャ チャトゥルティーの御講話(上)より

精神修養


学識と地位と財産がどれほどのものであろうとも、もし、不屈の精神と平常心をもって人生の浮き沈みに立ち向かう力を持っていなければ、その一切は何の役にも立ちません。

古代バーラタ文化の永続する御教えを、教育の一部として現代のニーズに適合させるべきです。学生時代に人間的価値(ヒューマンバリューズ)を適切に吸収していないために、学生たちは堕落しています。人間的価値の意味は、ヤマとニヤマ〔戒律〕の概念を正しく理解して、初めて把握することができます。

ヤマは次の実践を含みます。すなわち、アヒムサー(非暴力)、サティヤ(真理)、アステーヤ(盗まないこと)、ブラフマチャリヤ(禁欲期、学生期)、そして、アパリグラハ(他人からものを受け取らないこと)です。

アヒムサー(非暴力)

アヒムサーは、思考と言葉と行為によって人に害をもたらすことを回避することを意味します。自分本位と利己心により、人はこの尊重すべき価値を実践していません。一切の悪は「私」と「私のもの」という感覚から生じます。この感覚は、思考と言葉と行為の純粋さを育むことによってのみ、除去することができます。

サティヤ(真理)

真理とは、事実上正しいことのみならず、すべての時において真実であるもののことを言います。さらに、真理に満ちた発言とは、人を喜ばせ、かつ、人に有益なものでなければなりません。感情を刺激したり、悪意を生むものであってはなりません。人を喜ばせようとして嘘を言ってはいけません。

アステーヤ(盗まないこと)

どんな状況に遭っても、どのような強迫を受けても、人は他人の財産を盗んではなりません。

ブラフマチャリヤ(禁欲期、学生期)

日常生活でこれを守るのは容易なことではないかもしれません。ブラフマチャリヤは、あらゆる悪い行いを完全に避け、絶えずブラフマンの中で生きること(絶対神を黙想していること)を必要とします。これは、実生活において、すべての思考、すべての発言、すべての行為を神に捧げることを意味します。すべてをブラフマンへの捧げものとして行うことがブラフマチャリヤです。ヴェーダ、ウパニシャッド、他の聖典の学習も、ブラフマチャリヤを占めています。ブラフマチャリヤは、人生の他の段階、すなわち、グリハスタ(家長期)、ヴァーナプラスタ(林住期)、サンニャーサ(遊行期)の土台です。

アパリグラハ(他人からものを受け取らないこと)

ウパニシャッドは、パリグラハ(他人からものを受け取ること)を罪深いことと見なしています。他人にどのような助けを施すにしても、見返りは一切期待せずに行わなければなりません。ウパニシャッド聖典は、自分の行為の結果を刈り取るのは人間にとって当然のことであると述べています。

人間には、自分の父親、母親、師、そして、神からは援助を受ける権利がありますが、他の人から援助を受ける権利はありません。

神は創造者であり、維持者であり、守護者なのですから、あなたは何でも神に求めることができます。

両親からは、両親の地位の許容量に応じたものを受け取ってかまいません。しかし、それ以上を求めてはなりません。

師からは、知識だけを受け取らなければなりません。何があなたの福利を促進するかを教える師に対しては、他の何ものでもなく、師を満足させる方法を見つけなければなりません。今の学生は、この能力に欠けています。その結果、さまざまに借りを作っています。それらの借りを返すために来世でどのような生を受けなければならないかを語ることは誰にもできません。

友人から受けるもてなしも、制限を守らなければなりません。親から独立している友人の家でさえ、長居しすぎることは間違っています。

それゆえ、他人からの申し出を遠慮する気持ちを育てることが必要不可欠です。客人に、果物や花、水や他のちょっとしたものを出す準備ができていなければなりませんが、他人から何かを受け取ることには慎重であれねばなりません。

ニヤマに含まれる戒律

第二の戒律群はニヤマという用語で扱われています。ニヤマは五つの戒律で成っています。すなわち、シャウチャ(清浄)、タパス(厳格さ)、サントーシャ(満足)、スワーディヤーヤ(聖典の学習)、イーシュワラ プラニダーナ(主なる神への奉献)です。

シャウチャ(清らかさ)

シャウチャには二種類あります。外的なものと内的なものです。外的な清らかさは水と洗浄剤で達成することができます。しかし、体の清らかさとは別に、日常生活では、自分が着る服、食べ物、住む場所、読む本等々の清らかさも確保しなければなりません。体の各部はすべて完全に清らかでなければなりません。これは完全な健康を保つために必要であるのみならず、至福の状態を楽しむためにも必要です。あなたの周囲の環境も清らかに保たれていなければなりません。

内的な清らかさに関しては、心(マインド)が悪い思考や悪い欲望、執着心や嫌悪感によって汚されていないかに注意しなければなりません。心を善良で神聖な思考で満たそうと努めなければなりません。否定的な思考、悪い思考から抜け出すためには、愛、親切心、慈悲、堪忍、同情心といった性質を現さねばなりません。

タパス(苦行)

タパスとは、単に一定の姿勢をとって瞑想することを意味するのではありません。本当の苦行は、思考と言葉と行為の清らかさを保つこと、一心に集中して目標を追い求めることにより、さらに高い目標を果たすために努力することにあります。「サタタム ヨーギナハ(永続するヨーガの境地に達せよ)」と言われています。あなたは無形の絶対実在を実現させたいと切望しなければなりません。その切望は次第に苦行へと姿を変えていきます。単に森に入って草の根や葉を食べて生きることが苦行なのではありません。悪い思考と激情を取り除いて心を神聖な感情で満たすことが、真の苦行なのです。

サントーシャ(満足)

人は、満足して、初めて歓喜と幸福を体験することができます。欲望が大きくなると不満も大きくなり、心配は倍増します。あなたは自分の状態に満足することを学ばなければなりません。大きな満足を得た人が、最も豊かな人です。

スワーディヤーヤ(聖典の学習)

スワーディヤーヤは、ヴェーダを学ぶことだけを意味しているのではありません。基本の三大聖典、すなわち、ウパニシャッド、ブラフマスートラ、バガヴァッドギーターも学ぶべきです。人は神聖な文献すべてを知っていなければなりません。それによって、心の不浄を取り除くことができます。

イーシュワラ プラニダーナ(主なる神への奉献)

私たちが行う行為の一切は、神を喜ばせるものであるべきです。どのような行為をなすときにも、こう問わなければなりません。「これは神を喜ばすか否か?」と。

神とは、実際のところ、あなたの良心を意味します。あなたは自分に満足感がもたらされないことをすべきではありません。あなたが何をしようとも、神を喜ばすなら、それは神聖です。

以上のようにしてヤマとニヤマを実践するなら、あなたは同時に、四つのプルシャールタ(人生の目的)、すなわち、ダルマ(正義)、アルタ(富等を得ること)、カーマ(正しい欲)、モークシャ(解脱)を追い求め、シャマとダマという霊的戒律を守るようになるでしょう。

シャマ〔寂静〕とは、五感と心と理智を操って、それらが道を誤らないようにすることを意味します。内側の感覚器官を制して、初めて目や耳等の外側の感覚器官を容易に制することができるのです。

ダマとは、グニャーネーンドリヤ(知覚器官、グニャーナ インドリヤ)とカルメーンドリヤ(行動器官、カルマ インドリヤ)を制することを言います。人間の霊的変容には、感覚器官を制することが要されます。

ヴィグネーシュワラ〔ガネーシャ神の別名、障害物を司る者の意〕は理性を司る神であり、信者に理性の清らかさと、正邪を識別する力、永遠なるものとはかないものを識別する力を授けます。

浮世の快楽は一時のもの、束の間のものです。あなたの目標は、霊的な至福という、恒久的で不変なるもの、地上と天上の快楽をしのぐものを求めることであるべきです。この究極の目標を視野に入れて、人はこの世での自らの義務をなし、正義にかなった生涯を送るべきです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol. 22 C26
サイ ラム ニュース140号(2011年9・10月号)p.2-6掲載

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