サイババの御言葉:アヴァターの役割

日付:1990年8月14日・場所:プラシャーンティ マンディル
クリシュナ神降誕祭の御講話より

アヴァターの役割


飢えた人にとってのごちそうのごとく
干上がった大地にとっての雨のごとく
息子を欲する人にとっての子のごとく
主は、ダルマを守護するため、
そして、徳高き者と善人を救うために、降臨した


「サハッスラシールシャー プルシャハ サハッスラークシャッ サハッスラパート」――主は、無数の頭、無数の目、無数の足を有しています。全宇宙と、そこにいる生きとし生けるものは、すべて神の映し絵です。

聖なる神性が自分の中に存在していることに気づかずに、人は神を探しはじめます。人は、自分の家の裏庭にいる願望成就の牛を忘れて、隣の家に牛乳をもらいに行くような行いをしています。

アヴァター(神の化身)には二種類あります。一つはアムシャ アヴァター〔部分的な神の化身〕、二つ目はプールナ アヴァター〔完全な神の化身〕です。すべての人はアムシャ アヴァター〔部分的な神の化身〕です。

ママイヴァームショー ジーヴァローケー ジーヴァブータッ サナータナハ
(私の永遠の魂の一部が、
生きとし生けるものの世界において、個々の魂ジーヴァとなった)


クリシュナはギーターの中で以上のように述べました。その部分的なアヴァターたちが、マーヤー〔幻影、幻力、迷妄〕に囚われて、エゴと所有意識〔私と私のものという意識〕を持つようになり、世俗の暮らしを営んでいるのです。しかし、プールナ アヴァター〔完全な神の化身〕は、マーヤーを服従させてマーヤーを超越し、化身としての生涯の中で自らの完全な神性をはっきりと世に示しました。プールナ アヴァターは、状況に応じて、あたかもマーヤーに支配されているかのように振る舞うかもしれません。しかし、実際には、いかなる時にもマーヤーに囚われてはいません。

主はさまざまなアヴァターとなって顕現する

ラーマ アヴァターにおいては、たとえば、ラーマはマーヤーに支配されているかのような行動をとりながら、世界の安寧を促進するためにダルマを守りました。クリシュナアヴァターはそれとは異なります。クリシュナは、マーヤーを支配しながら、リーラー(不思議な御業)をはっきりと示しました。だからこそ、ヴィヤーサ仙は、自著である『バーガヴァタ』において、クリシュナを「リーラーマーヌシャ ヴィグラハ」(リーラーを行うために人間の姿をとって顕われた神)と特徴づけています。『バーガヴァタ』は、クリシュナのリーラーを詳しく述べて、クリシュナの栄光を世に宣言しました。

クリシュナ アヴァターにおいて、クリシュナは多くの不思議な御業を行ったのみならず、至高の英知を世に教えました。クリシュナはグナ(属性)を超越していましたが、世を正しく更生するために、グナの影響を受けているかのごとく振る舞って、自らの行為によって世の人々を喜ばせました。サンジャイ サハニ(先の講演者)は、クリシュナがしたことは何であれ世のためであったと語りました。クリシュナが何を語っても、何をしても、それらはすべて世のため、世の安寧のためでした。ところが、知力が限られていたためにその真理を理解できなかった一部の人々は、クリシュナの行いのいくつかを、悪意から行われたものだと考えました。そうした考えは、その人自身の感情の反映でした。

牧女たちのパラマ バクティ

愛(プレーマ)は、甘さにおける甘露です。バクティ(主への愛)は信愛の表現であり、ゴーピカー(ゴークラムの牧女)たちの間で最高に示されました。なぜなら、牧女たちは、神の愛の甘さにとっぷりと浸かっていたからです。牧女は解脱も高い知識も求めませんでした。牧女は、ただクリシュナを求めることによって法悦を得ました。それは他のどんなものから得たものでもありませんでした。ナーラダ仙は、牧女の信愛を表現するために「パラマ バクティ」(至高の信愛)という新しい言葉を作りました。最高の信者であった牧女たちは、主を同伴者であり何よりも尊い宝であると見なしました。そのあまりにも熱烈な信愛ゆえに、牧女たちは、よく、世間を気にすることもなく、酔いしれた人のように歩いていました。クリシュナの笛の音が聞こえるや、牧女たちは家を抜け出して、何もかも忘れてクリシュナを探しに森へ走りました。

牧女は、グニャーナ(最高の英知)とは神との一体感を味わうことにあるということ、そして、それ以外の知識はすべて俗世のものにすぎず、肉体と結びついたものだということを認識していました。牧女にとってクリシュナはすべてでした。神との一体感の中で、牧女は動くものと動かないもの〔生物と無生物〕を区別しませんでした。牧女たちは、あらゆるものに神を見ました。ポータナ(サンスクリット語の『バーガヴァタ』をテルグ語で著した詩人)は、クリシュナを探しに森へ行った時の牧女の感情を美しく描写しました。

(ここでバガヴァンは、牧女たちがクリシュナを描写して、クリシュナが茂みのどこかに隠れているかどうかをジャスミンの蔓に尋ねた詩を吟唱なさいました。)

クリシュナへの信愛の甘さを味わった牧女たちは、クリシュナ以外何も求めようとは思いませんでした。

クリシュナは牧女たちの家からバターを盗んだと言われています。クリシュナが盗んだバターというのは、純粋で乳のように真っ白な牧女たちのハートのことです。バターは純度が高く、柔らかいものです。牧女たちのハートはバターのようだったのです。

(ここでバガヴァンは、ヤショーダーがクリシュナに牧女からの苦情を話して聞かせ、よその家にバターを盗みに行かないようクリシュナに重い乳鉢に結わえつける、と言っている情景を描写した詩を吟唱なさいました。)

クリシュナがささいなことにもよく神の力を示していたにもかかわらず、ヤショーダーはクリシュナの神性に気づきませんでした。

ラーマとクリシュナからサテイヤ サイへ

トレーター ユガの時代には、サティヤ(真実/真理)とダルマの権化そのものとして、ラーマが降臨しました。ドワーパラ ユガには、主は平安(シャーンティ)と愛(プレーマ)の権化であるクリシュナとして降臨しました。現代のアヴァターは、以上の四つすべて、すなわち、サティヤ、ダルマ、平安、愛の権化として降臨しました。

世の人々は、愛の本質がいかに働くかを、なかなか理解することができません。『バーガヴァタ』は家庭生活(サムサーラ)と世間との結びつきを明確に詳述しています。家庭生活は、家族を養い、財産を手に入れ、快適さと物質的な他の恩恵を楽しむことと結びついています。自然は、人の必要とするものすべて、すなわち、呼吸するための空気、住むための土地、飲むための水、食べるための食物を供給しています。ところが、人間は、自然の法則に従って自然と調和して生きるための方法を忘れています。人間は、あらゆる類の人工的な快適さを渇望しています。これは、聖者シュカからパリークシット王への教え(『バーガヴァタ』の中にある)でした。

世の中は、エゴと所有意識、欲と憎悪にあふれています。人がこれらの悪い特質を取り除くために自然を活用しようと努力するなら、平安と愛を味わい忍耐力を得ることができるようになるでしょう。愛は愛によってのみ手に入ります。愛以外の手段によって愛を手に入れることはできません。ですから、霊性の求道者は神聖な愛を培わなければなりません。愛は神です。愛は見返りを求めません。愛の唯一の目的は神を悟ることです。

主はダルマを守護するために化身する

そのような愛を今の世の中で実践することなど可能かと、問われるかもしれません。ギーターの中でクリシュナが宣言したように、「主はダルマを守護するためにユガごとに化身する」のです。人間は誰もがダルマを果たすために生を受けます。人の体はダルマを果たすために与えられます。これに関連して、ダルマを守るためには、まず身体を守らなければならないということを考慮すべきです。身体に注意を払ってこそ、ダルマを守ることができるのです。これは「健康は富」という諺の根拠となるものです。

身体を守るのはダルマを守るためである、ということを認識しなければなりません。ダルマとは何ですか? ダルマとは思考と言葉と行いが一致していることです。これは真の人間のしるしです。考えていることと言っていることと行動が一致していない人は、一体どんな類の人間でしょう? 現代人は、この三つを一致させるために努力しなければなりません。

ダルマを滅ぼすことはできません。しかし、今、ダルマの実践の衰退が起こっています。現代では、ダルマの実践そのものがサーダナ〔霊性修行〕です。ダルマの実践のためには、三重の清らかさ、すなわち、思考と言葉と行為の清らかさが不可欠です。

クリシュナの降臨

神性の化身たちよ! クリシュナの降誕祭は何千年も前のドワーパラ ユガに起こったことをお祝いすることだなどと考えてはなりません。誰もが、いついかなる時にも絶えずクリシュナ意識をハートに抱いていなければなりません。

クリシュナとは誰ですか? クリシュナはいつ生まれたのですか? クリシュナはシラーヴァナ月の黒半月〔満月から新月へ向かう半月〕のアシュタミーの日〔満月の日を1と数えて8日目〕に、肌の黒い赤子となって、暗い部屋の中で生まれました。「シラーヴァナ」とは「耳を喜ばせるシラヴァナ(聴力)を与えるもの」という意味です。9つの信愛の形態の中で最初のものはシラヴァナ、主の栄光に耳を傾けることであり、最後のものはアートマニヴェーダナム、(神我への絶対の帰依全託)ですが、これには重要な意味があります。現代人は、ありとあらゆる悪いことを聞きたがりますが、清らかで神聖なことには耳を傾けようとしません。あなたが聴く(シラヴァナ)べきことは、神に関するすべてであって、それ以外のくだらないゴシップではありません。

不幸なことに、カリ ユガのしるしとして、人々は他人についての悪い話を聞きたがり、主の神聖な御名を聴くことを求めません。あなたに目が与えられているのは、カイラーサ山の主の御姿を見ようと努めるためです。あなたに足が与えられているのは、主を祀る寺社へ参詣するためであり、横道や裏通りを歩きまわるためではありません。人体の器官と四肢のすべては、主を崇めるために与えられているのです。

本質的に、ダルマとは手足を本来の目的である神聖な目的のために用いることを意味します。善いものを見て、善いことを考え、善いことを語り、善い場所へ行き、善い行いをしなさい。私たちは「善い」という言葉をどんな意味で使っているのでしょうか? あなたが誰か他の人からこうしたほうがよいと勧められたことが善なのではありません。神はどこか外にいるのではありません。神はあなたの内にいます。何が善であるかという意識は、あなたの内側から湧き上がってくるものでなければなりません。それは良心の声です。あなたの良心の指示に従いなさい。

「神はどこにいるのですか?」と問われたとき、(ギーターにおいて)次のような答えが与えられました。

アハム ヴァィシヴァーナロー ブートワー
プラーニナーム デーハマーシリタハ
プラーナーアパーナサマーユクタハ
パチャーミャンナム チャトゥルヴィダム

〔私は食物を消化する火となって、あらゆる生物の体内に入り、
吸気と呼気と結合して、四種の食物すべてを消化する〕


主は、このようにして、神は身体のあらゆる部分に栄養を補給する消化をもたらすものとしてすべての人の中に存在している、ということを宣言しているのです。神はすべての人の中に消化の火(ヴァイシュワーナラ)として存在しています。ですから、ものを食べるときには、まず次の詩節(シローカ)を唱えて、神にその食物を捧げなさい。

ブランマールパナム、ブランマ ハヴィヒ
ブランマーグナゥ、ブランマナー フタム
ブランマィヴァ テーナ ガンタッヴィヤム、ブランマ カルマサマーディナー

〔捧げる行為はブラフマン、供物はブラフマン
それはブラフマンによって、ブラフマンである祭火に捧げられる
ブラフマンに捧げる行為に専心する者は、まさにブラフマンに到達する〕

 

暗黒から光明へ

クリシュナは、クリシュナ パクシャ(黒半月)という、一ヶ月の半分を占める暗い時期に生まれました。主の光輝は、暗い時には、いっそう鮮やかに見えます。クリシュナは、秩序の乱れた世の中に秩序を確立するために生まれました。クリシュナは、アシュタミーの日〔8日目〕に生まれました。アシュタミーには、いざこざや困難が付きものです。いざこざは、どんなときに起きるのでしょう? 正義が忘れられたときです。クリシュナの降臨は、暗闇を振り払い、いざこざを取り除き、無知を拭い、人類に至高の英知を教えることを意味します。

クリシュナの主な役割は、教師でした。クリシュナはアルジュナにギーターを説きました。クリシュナはアルジュナに「ただ私の道具であれ!」と語りました。それについてクリシュナは、「君を道具として使い、私は全世界を改革しているのだ」と宣言しました。神の教えはすべて、ダルマとプレーマ(神の愛)と結び付いています。

牧女たちは、自分のハートにクリシュナを祀り、決してそこから出て行かないでくださいとクリシュナに祈りました。ミーラーもそれと同じ心情を歌いました。

私は深海に潜って一粒の真珠を見つけました
あなたはその真珠を私の手から滑り落とさせるのですか?


(スワミはこの歌をタミル語でお歌いになりました。)

サムサーラ(浮世の生活)は広大な海です。欲望はその海の波のようなものです。自分の感情によって海の深さが決まります。その深い海には、執着と憎悪という姿をとった鰐や鯨や鮫がいます。普通の人間がこの海を渡るのは容易なことではありません。牧女たちは、神の御名の助けがあって初めて人は自らを救うことができると明言しました。

人々は牧女の信愛を世俗的な目で見がちです。牧女たちの心は、決して五感が求める対象に向けられることはありませんでした。牧女たちは五感を悦ばす欲望とはまったく無縁でした。牧女たちの一切の願望は神に集中していました。牧女たちは全世界を神の現れとして見ました。

心の平安の鍵はあなたの中にある

牧女たちは、「神に属性はあるのか、ないのか?」などという問いには関心を持ちませんでした。それよりも、クリシュナの姿をとった神を崇めるほうを好み、自分の姿形を神に帰融させたいと望みました。「そうなれば、私たちも無形となる」と牧女たちは明言しました。

私たちが無形の神に帰融することができるのは、自分の姿形を忘れたときです。神は、瞑想やジャパ(神の御名を繰り返し唱えること)をしても体験できません。体験できたと思うのは錯覚です。ジャパや瞑想といった修行は束の間の心の安らぎを与えてくれるかもしれませんが、永久の歓喜とアートマの英知を体験するには、あなた自身の神性を発達させなければなりません。そのためには、環境もそれに適したものでなければなりません。そうした環境は、清らかで神聖な波動の場でのみ確保することができます。だからこそ、古代の聖者たちは、神性に満ちた空気の中で苦行するために、森での独居を求めたのです。彼らが森に行ったのは、村で起こることは心を清める助けにはならないと感じたからです。しかし、それは弱さのしるしです。もしハートに住まう神聖アートマに集中することができるなら、森に行く必要はありません。「forest 森」は人里離れた所にあります。ここ、あなたのハートには「for rest 安息のため」のものがあります。心の平安に到る鍵はあなたの内にあるのであって、外にはありません。神の御前の神聖な空気の中では、より効果的に平安の探求を進めていくことができます。

どのアヴァターも固有の意義を有している

アヴァターの果たす役割を理解するのに、最も簡単で、最も甘い方法は、クリシュナによって最大限に示されました。しかし、これはクリシュナ以外のアヴァターは重要でないということを意味しているのではありません。どのアヴァターも、それぞれ降臨した時代に適していました。このことは、小さな例からわかるでしょう。路上のちょっとした揉めごとであれば、巡査を連れてくれば十分です。暴動的な群衆には、警察署長が必要かもしれません。反乱が起きれば、警視総監が対処しなければならなくなるでしょう。

ダルマが衰退の兆候を示したときには、大地(ダラニー)と、ダルマを守る妻(ダルマパトニー、この場合はシーター妃)と、ダルマ(人の守るべき本分)を守護するために、ラーマが降臨しました。ラーマの降臨には三重の目的があったのです。

クリシュナ アヴァターが降臨するころには、悪の力はいっそう大きくなっていました。クリシュナは、大地や妻にはさほどかかわらず、主としてダルマにかかわりました。ダルマがしっかりと打ち立てられるとき、大地もダルマを守る妻も、しかるべき守護を受けるのです。

これに関連して、ラーマは「マーヤー マーヌシャ ヴィグラハ」(人の姿をとった幻影)と描写されています。ラーマの物語には、ラーマはシーターがいなくなったことを嘆いたと記されています。クリシュナ アヴァターの場合には様子は異なっていました。女性たちはクリシュナに悩まされました。

ラーマ アヴァターの場合には、ラーマは邪悪な行いをする者たちに対して武器を取るよう仕向けられました。クリシュナ アヴァターの場合には、クリシュナが争いを起こして、邪悪な行いをする者たちと戦いました。

ラーマ アヴァターの場合には、まずダルマがあり、歓喜はそのあとでした。クリシュナ アヴァターの場合には、まず歓喜があり、ダルマはそれからでした。

バガヴァンはいつでも至福の境地にある

このように眺めるならば、マーヤー アヴァター〔幻影の権化〕であるラーマと、リーラー アヴァター(遊戯の権化)であるクリシュナとの違いは明らかになるでしょう。クリシュナはつねに至福に浸っていました。そこが埋葬の場であれ、戦場であれ、平安の天国であれ、クリシュナはいつも同じでした。クリシュナは、互いに敵対し合う強大な両軍の間に立って、歌を歌いました。それがギーターです。「ギーター」とは「歌」という意味です。あのような状況の中で歌を歌える者などいるでしょうか? 人は幸せなときに歌うものです。クリシュナは歓喜の権化だったので、戦場でさえ歌うことができたのです。

私はあなた方がスワミの性質をわかっているかどうか知りません。誰かがスワミのもとに来て、とてもお腹が痛くてもう耐えられませんと訴えるとき、スワミは、「アーナンダム アーナンダム」(至福、至福)と言います。誰か女性が来て、夫が死んでしまったと悲しみ嘆くとき、スワミは、「チャーラ サントーシャム」(たいそう幸福です)と言います。スワミはいつでも至福の境地にあります。幸福は、まさしく神の性質です。

何であれ、そのことに対して嘆いても一体何になりますか? すべての物事は過ぎ行く雲です。永続するものは何一つありません。では、なぜ何かを失ったことを嘆き悲しむのですか? そんなことで心を乱すのはやめなさい。それがアヴァターの教えです。これから起こるかもしれないことについて悩むのはよしなさい。どんな苦痛も、その後には何か楽しいことがやって来ます。楽しみとは二つの苦痛の合間のことです。このことを念頭において生活を送るようにしなさい。

神のいるところに勝利あり

神聖な至福と束の間の快楽には、とてつもない違いがあります。幸福と称されるものは、状況に応じて偶発的であり、永続しません。けれども、アーナンダ(至福)は違います。アーナンダは永続します。あなた方は、お腹が空くと食堂へ行き、食事をして幸福な気分になります。けれども、その幸せは永くは続きません。永遠の幸福は神への信愛によってのみ得られます。もっぱら、アヴァターは人類に神聖な至福を授けるために降臨します。

日々の生活の中で遭遇するささいな困難は、愛によって乗り越えることができます。ひとたび愛を育めば、いかなる困難をも克服することができます。神の恩寵を得るために努力しなさい。しかし、神をあなたとは違うものと見なしてはなりません。神はあなたの内側にいます。神のいるところには勝利があります。これこそが、ギーターの最後の一節、

ヤトラ ヨーゲーシワラハ クルシノー
ヤトラ パールトー ダヌルダラハ
タトラ シリール ヴィジャヨー ブーティヒ
ドゥルヴァー ニーティヒ マティ(フ) ママ


の隠された意味です。この一節の深遠な意味は、「ヨーガの神の住まうハート、アルジュナの示す勇気と力のあるところ、そこには、あらゆる繁栄と成功が保証される」というものです。

「クリシュナ」という語の意味

クリシュナという語の意味を正しく理解しなくてはなりません。クリシュナという語には三つの意味があります。

一つの意味は、「クリシュナは耕す者」(クリシヤティ イティ クリシュナハ)というものです。耕さねばならないものとは何でしょうか? フルダヤ クシェートラ(ハートという土壌)です。クリシュナは、私たちのハートに生える悪い性質という雑草を抜いて、愛の水を注ぎ、サーダナ(霊性修行)という鍬で耕し、信愛という種を撒きます。これが、クリシュナが私たちのハートを耕す方法です。

二番目の意味は、「クリシュナは魅了する者」(カルシャティ イティ クリシュナハ)というものです。クリシュナは、目で、話す言葉で、神聖遊戯(リーラー)で、そして、すべての行為で、あなた方を魅了します。クリシュナは、話す言葉によって、憎しみに満ちた者のハートさえも和ませて静め、歓喜で満たします。クリシュナは小さな子供だったころでさえ、この性質を示しました。ある夜、クリシュナは、牧女の家に侵入し、天井から吊るしてあった壺に入ったバターを盗ろうと柱に登りました。牧女は目を覚まし、クリシュナを現行犯で捕まえて両足を掴むと、「今、母のヤショーダーのところに連れて行って悪事をばらしますよ」と言いました。牧女はクリシュナに、柱の上で何をしていたのかを尋ねました。クリシュナは、自分の家からいなくなった牛を捜していたのだと、この上なく無邪気に答えました。牧女はその答えに笑いを抑えることができませんでした。牧女は思わず吹き出して、クリシュナの足から手を放してしまったので、クリシュナはこれ幸いと跳び下りて逃げ出しました。

三番目の意味は、「クリシュナつねに至福に満ちている者」(クシヤティ イティ クリシュナハ)との意味です。クリシュナはつねに至福の境地にありました。

クリシュナがこうしたさまざまな特質を持っていたので、聖者ガールギャは彼をクリシュナと名付けたのです。「クリシュナ」という語の一般的な意味は、「肌の色の黒い者」というものです。人々はこの意味だけを考えて、この御名の持つ、もっと深遠で、もっと真実に則した意味を忘れています。

クリシュナはリーラーで世の人々を歓喜させた

クリシュナの一生の真髄は、クリシュナが世界に向けて真理を宣言し、その永遠の真理を広め、リーラーによって世の人々を歓喜させたことです。

「クリシュナが泥を食べているのを見た」とバララーマ〔クリシュナの兄〕から聞いたヤショーダーが、クリシュナにそのことについて尋ねたとき、クリシュナはこう答えました。

「ああ、お母さん、僕がいくら子供でも、泥を食べるような馬鹿や無鉄砲だと思いますか? 僕の口の中に泥が入っているかどうか、ご自分の目で見てください」

そう言ってクリシュナが口を開けたとき、ヤショーダーは神聖なクリシュナの口の中に大宇宙の14界〔サティヤ、タパ、ジャナ、マハル、スヴァル、ブヴァル、ブー、アタラ、ヴィタラ、スタラ、タラータラ、マハータラ、サラータラ、パタラと呼ばれるローカ〕を見て、畏敬の念に打たれました。ヤショーダーは我が目を疑い、驚嘆の声を上げました。

「これは夢? それとも、ヴィシュヌ神のマーヤー? 誰かが作り出した幻? これは本当なの? 私はヤショーダー、それとも他の誰かなの? まったくわけがわからない」

ヤショーダーは、自分を信じられず、そのために、クリシュナが神であることを信じることができませんでした。神性を認識するには、それ以前に自分自身を信じることが必要です。ヤショーダーの場合は、いつもクリシュナを自分の息子として見ていたために、肉親の執着が理解を曇らせたのでした。

クリシュナに関するエピソードはどれも、あっと驚くようなものです。それゆえ、ヴィヤーサ仙は、ヴィシュヌ神の化身に関係のある話はすべて、不思議と美に満ちていると言明したのです。

アヴァターは皆、驚くべき存在です。アヴァターをアヴァターと認識しないことは、それと同じくらい驚くべきことです。さらに驚くべきことは、アヴァターが目の前にいるのに、それを実感できないことです。最も驚くべきことは、主なる神が目の前にいるのに、みじめさを感じることです。アヴァターの近くにいて、アヴァターと共に動き回り、アヴァターと共に歌い、遊び、それでもなお、アヴァターの真実を理解できないというのは、実に驚くべきことです。アヴァターの本質を理解したとき、あなたは真の至福を体験します。

あなたが神を信じているなら、人生は勝利の旅となります。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会

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