サイババの御言葉
2002年7月24日
グル プールニマ御講話
広い心を養って神を体験しなさい

『月は夜の間、太陽は昼の間に、世界を照らします。
正義は三界を照らし、気高い息子は、親族全体を照らします。』

(テルグ語の詩)

 日中は太陽がまぶしく輝き、人々が世界を見ることができるようにします。夜には、月があたりを照らします。三界に住むあらゆる生き物に理想的な道を示すものはダルマ(正しい行い)です。同様に、気高い息子は、見本的な行動によって親族全体を照らします。これらはすべて、一時的で移ろい往く世界に関係することです。

 カーナーダは、神がすべてに遍満しているという真理を体験し、それを伝えた人でした。「神は最も小さい物よりも小さく、最も大きな物より大きい」のです。カーナーダは、あらゆる原子の中に存在している神に気づきました。彼は、神をアヌスワルーパ(原子の姿そのもの)であるとさえ説明しました。この世は、原子が無ければ存在しません。その昔、宇宙には何も存在していませんでした。最初は、太陽も月も地球も空も存在していませんでした。あるのは完全な暗闇のみでした。原子が組み合わさって、非常に密度の高い硬い物質が生まれました。その結果 、大量の熱が発生しました。そして突然、その硬い物質が「巨大な音(ビッグ・バン)」とともに大爆発を起こし、破片が辺り一面 に飛び散りました。これが宇宙創造の原因です。カーナーダはこのことも体験しました。ビッグバンが起きたときに発生した音が「プラナヴァ」です。それはオームという音(オームカーラ)であり、「原初の音」です。このプラナヴァの音は、あらゆるところに浸透しています。それは、最も小さな原子(パラマアヌ)から生まれました。この宇宙には、原子以外のものは存在していません。「人はどうすれば、このことを理解し、また実際にそれを知ることができるだろうか?」と考えて、カーナーダは答えを求め続けました。最終的に彼は、プラナヴァの原理に気づきました。人は解脱を得るためには、この原初の音を瞑想しなければなりません。

「まことに、原初の音であるプラナヴァは、
最も小さな物より小さく最も大きな物より大きい神そのものである。
それは万物に浸透しており、永遠の照覧者として存在している。」

(テルグ語の詩)

 カーナーダは、この真理を広めました。太陽や月や地球や空等々は、このプラナヴァから生まれたのです。原子は宇宙全体の根本的な基盤です。すべての人は、原子の組合せにほかなりません。原子が無ければ、いかなる物質も存在しません。しかし、今の人間は原子の神秘を理解することができません。現代人は、太古の聖賢たちの教えを単なる物語とみなして、それを馬鹿にしています。彼らは、太古のバラティヤ文化(インド文化)の神聖さを理解する能力を持ち合わせていません。現代人は、自分に内在する真実を理解することができないのです。また、太古の聖賢や尊い魂たちに対する尊敬の印として、彼らの像を安置しますが、その教えを理解することも実践することもできないでいます。人は、外側にではなく、自分の心の中の祭壇に彼らの神聖な姿を祀り、その教えに従わなければなりません。

 カーナーダはいつの時代の人だったのでしょうか? 二万年前には、人は皆カーナーダを讃え、その教えを尊んでいました。カーナーダは、水素と酸素の原理を知っていました。科学者たちは、水素は水の原理を表し、酸素は火の原理を表すということに気がつきました。今日人々は、科学者の行った観察を大変価値のあるものと考えていますが、聖賢たちが経験から引き出して人々に教えた偉大な真理を理解することも、その素晴らしさを評価することもできません。

 人は、どうすれば原子の力を理解することができるでしょうか。原子は、肉眼には見えませんが至る所に存在しています。私たちが飲む水、食べる食物、語る言葉、聞く音、すべての物に原子が浸透しています。人間は、原子の上を歩き、原子を食べ、原子を飲んでいるにも関わらず、原子の神秘を理解することができません。人は、科学者だけが原子の性質を探ることができると考えています。原子のプロセスは、非常に神聖です。このことを正しく調べることによって、人は神を理解することができます。これがカーナーダの教えでした。しかし、今日誰も原子のプロセスを体験するための正しい探求を行っていません。人々は物質的な見解にしたがって生活しています。

 ある時、シヴァジ皇帝とその大臣が夕方の散歩をしていました。その途中で、二人は仏教の修行僧に出会いました。シヴァジはすぐに王冠を脱いで、僧の足下に平伏(ひれふ)しました。大臣はそれを嫌いました。彼は、シヴァジ皇帝が普通 の仏教僧の足下に頭を着けることによって、皇帝の身分をおとしめたと想いました。皇帝はすぐに大臣の感情を読み取り、教訓を与えようと想いました。シヴァジは正義と犠牲の道を歩いて、人類に手本を示した人でした。

 ある日皇帝は、その大臣に、ヤギとヒツジと人間の頭を持って来るように言いました。大臣はヤギとヒツジの頭を集めました。そして、墓場に行って人の死体から頭を切り落としました。彼はそれを皇帝に持っていきました。シヴァジは、三つの頭を市場で売って来なさいと命じました。ヒツジの頭とヤギの頭はすぐに売れましたが、人間の頭を買いに来る人はいませんでした。このことを皇帝に報告すると、皇帝はそれをただで誰に与えても良いと言いました。大臣は人間の頭を持って市場に行き、二日間待ちました。いくら努力しても、誰もそれを受取ろうとはしませんでした。そのことが皇帝に伝えられると、シヴァジは「おお大臣よ、お前は私が僧侶の足下に頭を着けた時、非常に悲しい想いをした。お前は、我々が肉体を離れれば、我々の頭もその頭と同じ運命を辿ることに気づいただろうか? それは全く何の価値も無いものになってしまうだろう。だから我々は、高貴な魂の前に平伏すことによって人生を神聖なものにしなければならないのだ」と言いました。物質的な富や地位 は一時的なものです。真実と正しい行いのみが人と共に残り、その命を救うのです。

 肉体はその中にソーハム(呼吸)がある限り尊重されます。「ソーハム」はプラナヴァの音に他なりません。それは原子に含まれているエネルギーです。このエネルギーは神を起源としています。誰もそれを創ることは出来ません。この真理はカーナーダによって広められました。原子の力を理解することは非常に困難です。神は原子の形をしています。全世界は原子が顕現したものであり、空間と音は原子の表現です。ですから原子の原理を無視してはなりません。原子には偉大な力が備わっています。科学者たちは、昔からこの原理に関する実験を続けて来ました。原子が最初の状態に戻るには2200億年という時間が掛かります。原子の背後にある神秘を人間が解明できないのはむしろ不思議なことです。

 地球は地軸を中心として自転しており、太陽の周りを公転しています。これらの現象は誰が引き起こしているのでしょう? 誰もこれを説明することができません。地球が地軸を中心に自転しているために昼と夜があります。また、地球が太陽の周囲を公転しているために、四季があり、我々の肉体を維持するのに必要な食物が得られるのです。このような全てのことを引き起こしているのは神の意志です。それは世界に恩恵を与えるための神の全体計画です。今に到るまで、誰も原子の力を完全に理解した人はいません。人々は原子には生命がないと考えています。それは誤った考えです。全宇宙をつなぎ止めている生命力が、原子の中にも存在しています。だからこそ「神は大宇宙の中にも小宇宙の中にも存在している」と言われるのです。人間は宇宙の神秘を理解する努力をしなければなりません。人は自分の責任を知り、それに従って行動しなければなりません。人間は、原子の原理を理解する必要があります。もしそれを理解できれば、それ以外のすべてを理解したことになります。なぜなら原子は神だからです。原子の中に存在する生命原理は、全宇宙に存在しています。カーナーダは、原子の原理を正しく理解すれば、神を理解できるようになると言いました。あなたが、拳を握れば多くの原子を掴まえることになります。手を開くと、それらの原子は様々な方向へと動いていきます。原子から生まれるプラナヴァの音は、その粒子と同じく大変小さなものです。

 帰依者たちは神に祈りを捧げます。中には祈りの効果 を疑う人がいます。しかし、実際どれほど大きな仕事であっても、祈りによって達成することができるのです。祈りは不可能なことを可能にします。ここに小さな例があります。10日前から私の頬が腫れています。私は決して薬を飲みません。私は昨日、ここに集まっている人々の注意が、私にではなく私の頬に注がれているのに気づきました! 人々は、頬の腫れがいつまでも小さくならず、スワミが大変苦しんでいると考えて心配していました。閉会式の講話を終えて、私は部屋に戻りました。私が休んでいる時、何人もの帰依者が、遅くともグル・プールニマという吉祥の日までには、私が自分自身を癒しますように、と祈っていました。彼らの祈りはすべて私に届きました。今朝私が起きた時、腫れはひいて全く何の痛みも無くなっていました。実際私は、そのようになることを意志していませんでした。それは帰依者たちの祈りの結果 だったのです。きのうは、多くの人が断食までしていました。彼らは目に涙を浮かべて、絶えず祈り続けていました。私の想いは、一瞬彼らのもとを訪れました。しかし、私は自分を癒そうとは意志しませんでした。私は決してそのようなことはしません。それは何故でしょう? サンジェイ・サハニが正しく指摘したように「私とあなたはひとつです。」あなたは、私と違う存在なのではありません。この肉体は私のものではなく、あなたのものなのです。ですから、この肉体の世話をすることは、あなたの責任です。私は自分の体とその健康について考えることはありません。私は、自分の肉体に関する限り、これこれこのようなことが起きるべきだと意志することはありません。頭の天辺から足の先に到るまで、私の中には全く利己心がありません。だからこそ私は、私とあなたがひとつであると宣言するすべての権利を有しているのです。

 すべての人には同じ原子の力が備わっています。人は、あらゆる努力をしてこのことを理解しなければなりません。太古の昔から、人間は神を偶像の姿で崇拝することに慣れてきました。みんなは偶像の形をしたラーマやクリシュナを礼拝しています。しかし、あなたは彼らの姿を今見ることができますか? いいえ、できません。みんなはイーシュワラ(至高神:シヴァ神)を崇めています。しかしあなたは、イーシュワラを見ることができますか? ラーマやクリシュナやイーシュワラの姿は常に存在しています。ところが人間は、心が狭いために彼らの姿を見ることができません。ハートを広げることは神聖であり、心の狭さは死に他なりません。心の狭い人間は生ける屍そのものです。人はいかなる時にも広い心を持たなければなりません。広やかな感情を持った人のハートには、神が安置されていることが分かることでしょう。

 その昔、聖人や賢者たちは、様々な種類の霊性修行を実践しました。カーナーダもまた苦行を行いました。最終的に彼は、自分が原子から生まれ、そこに帰融することに気づきました。彼は、肉体への執着を手放しました。今日、人々は物質的な生活を送り、自分自身の利己的目的のために努力しています。人間の内に利己心がある限り、原子の神聖な原理を理解することができません。人はジャパや瞑想や苦行を実践するかも知れませんが、心は絶えず原子の原理に向けられていなければなりません。あらゆるものが原子の中に含まれています。私たちの肉体も心も知性等も、神そのものである原子の表れ以外の何物でもありません。

 神は、間違いなく帰依者の祈りを聴いています。中には、自分の祈りが神を困らせるといけないと想って、祈ることをためらう人がいます。彼らは間違っています。というのも、神には一切の不都合はないからです。神は決して苦しむことはありません。神は帰依者の幸福こそが自分の幸福であると考えます。しかし、皆さんの幸福は物質的な物によってもたらされますが、私の幸福はアートマ(真我)の原理に関係しています。私は、愛を込めて捧げられたものであれば、最も小さいものさえも喜びます。あなたのささやかな捧げ物が、私にとっては非常に大きな意味を持ちます。一方皆さんは、非常に大きな恩恵を受けても満足しません。

 グル・プールニマの意義とは何でしょう? グルとは神への道を照らす人です。プールニマは、涼やかな満月の光を表しています。満月は、完全な光輝を得た心の象徴です。それは一点の欠けた所もありません。ひとつでも欠けた所の痕跡があれば、それは暗黒をもたらします。そのような心は、完全な至福をもたらすことはできません。

愛の化身である皆さん!
 心を神の愛の輝きで満たしなさい、単なる書物の知識を手に入れるだけでは何の役にも立ちません。皆さんが、今までに勉強して来たことは全体の知識のごく一部分に過ぎません。にもかかわらず、皆さんはそれを得意に思っています。皆さんの世俗的な教育は、神の英知に比べれば取るに足りないものでしかありません。教育や力や富によっては、神に到達することはできません。神は愛によってしか触れることができません。神は、愛を育てたときに初めて体験できるのです。帰依とは、神を心から愛することです。

愛の化身である皆さん!
 このグル・プールニマの日に知らなければならいこととは何でしょう? あなたは、神があなたの内にあり、あなたと共にあり、あなたの周囲にあり、あなたの上にも下にもあることを理解しなければなりません。実は、あなた自身が神なのです。まず第一に、この真理に気づくことです。過剰な欲望を抱いて乞食に成り下がってはなりません。誠心誠意自分の義務を果 たしなさい。それが、本当の霊性修行(サーダナ)です。あなたが職場に居る時は、職場だけに集中しなさい。自分の家族のことを考えてはなりません。同様に、家に居る時は妻や子供の必要を満たしてあげなさい。あなたの家を職場にしてはなりません。ところが今日、職務があまりにも多いために、人々は職場の書類を家に持ち帰って片付けようとします。このように人々は、職務と家の仕事を混同し、商売と霊性を混同しているために、様々な困難に直面 しています。

 ヒラニヤクシャとヒラニヤカシプは偉大な科学者でした。現代の科学者は月までしか到達できていませんが、ヒラニヤカシプは太陽に行くことができました。彼は、北極星にまで到達し、そのために苦難を味わいました。たとえ偉大な科学者であっても、自分の限界を超えれば苦しみに合うのです。聖者たちは力を合わせて神を体験するための努力をしました。神を体験するには、広やかな心を育てなければなりません。

 人間は死にますが、心は死にません。人間が一生の間にすることはすべて心に焼き付けられて、次の一生まで持ち越されます。誰も心の性質を理解することはできません。中には、自分の経験するすべての問題に終止符を打つための方法は、自殺しかないと考える人が居ます。彼らは「私の苦しみの原因は心である。それに終止符を打とう」と考えるのです。自殺は最大の罪です! 心はそれほど簡単には殺すことができません。そのような低劣な考えを抱くべきではありません。人は、いかなる困難にも根気強く立ち向かい、自分の人生を神聖なものにする用意ができていなければなりません。

 アートマ(真我)は神であり、神はアートマです。プラフラーダは「決して、神はここに居るがあそこには居ないなどと考えてはなりません。神はどこを探しても、探した所に居ます」と言いました。『アートマは永遠であって、生も死もない。それには始まりも中間も終わりもない。それは、あらゆる存在の照覧者として遍在している。』  (テルグ語の詩)

 ですから人間は、「私は神である。肉体のみが死ぬ のであって、私は生まれることも死ぬこともない」という確信をもって人生を送るべきです。そのような人は生きている限りその愛は神のみに捧げられます。ある日一人の裕福な男が、シルディのババを尋ねて来ました。彼は沢山の紙幣をポケットに入れていました。ババはその男の帰依心を試すことにしました。ババは、常に身辺に居たシャームを呼んで、「今すぐ5ルピーが必要だ。行ってパテルに頼みなさい」と言いました。しばらくするとシャームが戻って来て、パテルは家に居なかったと言いました。ババは彼に、もう一人のビジネスマンに頼むように言いました。シャームはこの時も手ぶらで帰ってきました。ババは彼を別 な男のもとに差し向けました。パテルはこのすべてを見ていました。しかし、自分のポケトから5ルピーを出しましょうと、自分から申し出ようとはしませんでした。彼には犠牲の精神がなかったのです。多くの人々にとっては、お金が神であり、政治が神となっています。彼らが死んだ後、お金や政治が彼らについて来るでしょうか? 彼らは何を成し遂げることができるでしょうか? 人生の目的とは何でしょう? 人間として生まれることができた以上は、取るに足りないものを追い求めて人生を無駄 にしてはなりません。社会のために役に立つ活動に参加しなさい。私がこれから言うことを誤解してはなりません。世界の汚染の根本原因は政治です。小さな子供たちの心まで政治に汚染されています。争いや煽動は今日の流行になっています。夫と妻の間にさえ一体性がありません。インドの独立以前は、人々はこれほどまでに苦しんではいませんでした。当時、対立は白人たちと有色人種の間にあっただけですが、今日では有色人種同士の間で派閥争いがあります。このような事態は、今の人々に期待されることではありません。邪悪な性質を慎んで、気高い感情を培いなさい。

愛の化身である皆さん!
 人生を愛で満たし、人生を愛で終えなさい。それが、真の人生です。ウパニシャッドは人生に偉大な価値を認めました。人間は、愛され、尊重されるべき存在です。人は、幸せも悲しみも平常心を持って歓迎しなければなりません。中国には「困難は我々の友人である。困難を歓迎しよう。」という諺があります。困難を通 じて手に入れる幸福は、それ以外のいかなる方法でも手に入れることはできません。幸福によって幸福を手に入れることはできないのです。多くの人が、沢山の困難を抱えていると言って私の所にやって来ます。私は笑いたくなります。私は困難とか悲しみというものの意味を知りたいと想います。ところが、そのようなものは私に近づくことすらありません。私は帰依者たちに困難によって行き詰まってはならないと言い続けています。私はいかなる悲しみにも付け入る隙を与えません。この肉体は77年目を迎えています。今日に到るまで、私は一瞬たりとも悲しみを経験したことがありません。人間は至福を願い求めます。人は至福の化身です。至福こそは真の財産です。それが事実であるのに、どうして人は悲しみに付け入る隙を与える必要があるのでしょう? それは、人間が自分の真の性質を理解していないからです。世俗的関係は来ては去っていきます。しかし、やって来てそこで成長するものは愛の原理です。

愛の化身である皆さん!
 本日この日から、できるだけこの世に対する執着を少なくするよう努めなさい。幸せでいて他の人々を幸せにしなさい。誰をも傷つけてはなりません。困難は過ぎ行く雲と見なしなさい。皆さんは家族関係を持っていますので、何らかの心配ごとを抱えていることでしょう。しかし、そのようなものに悩まされてはなりません。広大な空を見上げると沢山の雲が見えます。同様に、あなたのハートという大空には執着という雲があります。それらは来ては去っていくものばかりです。それについて心配しないことです。心配はどのような形をしていますか? それは心が作り上げた恐れに他なりません。それはあなたの想像の産物です。すべての人が必ず困難や喪失に遭遇します。私たちは勇気を持ってそれに直面 しなければなりません。

 シヴァジが大臣に教えたことを思い出しなさい。この肉体は生命が宿っている限りは尊重されます。一旦、生命力が出て行ってしまえば、それには何の価値もなくなります。それと同じことを、ドゥリョーダナが死ぬ 間際に言いました。彼は「私は生命がある間は尊敬を受けたが、明日になればカラスや犬が私を食べてしまうことだろう」と言ったのです。何であれ、起きるべきことは必ず起きます。生命ある限り、尊敬に値する生活を送りなさい。あなたの中に神聖な感情を育てなさい。そうして初めて、あなたは真の人間の生き方したことになるのです。人間はこんにち、全く物質的な生活を送っています。このようなこともある程度必要です。この世俗的な生活の中にすら、超越的な原理が存在していることを忘れてはなりません。

愛の化身である皆さん!
 このグル・プールニマの日からあなたのハートを神聖なものにしなさい。あなたを刺す蚊を手で追い払うように、あなたに降りかかるあらゆる困難を払いのけなさい。悲しみに胸をふさがれることも、幸せに有頂天になることもあってはなりません。平常心を培い、神に到達するよう精進しなさい。

 ここでバガヴァンは「ワヘグル ワヘグル ワヘグル ジーボロ…」というバジャンをお歌いになり、再び講話をお続けになりました。

 グルはひとりしか存在しません。心の中のグルと外側のグルという、二人のグルが存在することはできません。グルとは、真理の道を歩く者のことです。グルは、真理そのものである存在です。

「グルールブランマ グルールヴイシュヌ 
グルール デヴォー マヘーシュワラ
グルールサークシャット パラム ブラムハ 
タスマイ シュリー グラヴェー ナマハ」

(グルは創造者ブラフマであり、グルは維持者ヴィシュヌであり、グルは破壊者マヘーシュワラである。まことにグルこそは至高のブラフマンである。よって、グルに敬礼を捧げ奉る)

 あなたは、ブラフマ、ヴィシュヌ、マヘーシュワラという三大神の化身です。ですから、グルはあなたを離れて存在しているわけではないのです。あなたは、すべてのすべてです。集中力をぐらつかせてはなりません。あなたの目標にしっかりと集中し続けなさい。学生であれ、家長であれ、隠遁者であれ、すべての人の目標はひとつであって、変わることはありません。あなたの内なる声が教えるソーハムの原理を黙想しなさい。「私は神である」と言いなさい。その言葉に何ひとつ誤りはありません。中にはそのように言うことは利己主義の印であるという誤った考えを持った人がいます。実際、それは、全くエゴなどではありません。それはあなたの権利です。自分が単なる人間に過ぎないと考えることは、あなた自身をおとしめることです。あなたは神の化身です。そのような信念を培って神に成りなさい。神には悪い性質は存在し得ません。ですから、あなたは純粋で着実な私心の無い生活を送らなければなりません。善を見、善を語り、善を行いなさい。あなたは万人にとっての理想となるべきです。心を清めなければ、礼拝からは何の恩恵も得られません。あなたはスワミを崇拝して、何年間にもわたってスワミのもとを訪れています。しかし、あなたの中で、何らかの変革が起きているでしょうか? あなたは何の目標も持たずに、ここに来ては去って行きます。そのような人は、ここに来る必要など全くありません。どこにいても、あなたが居る場所で霊性修行をしなさい。あなたがここに来る時は、神聖な感情を吸収し、神聖な人間にならなければなりません。この世に対する執着を段々と減らして行きなさい。あなたが死ぬ 時、この世はあなたと一緒に来てはくれません。あなたは一握りの土さえも持って行くことができません。あなたは自分で培った美徳しか持って行くことができないのです。あなたの先生と目上の人と両親を敬いなさい。「母親を神として敬いなさい。父親を神として敬いなさい。教師を神として敬いなさい。客人を神として敬いなさい。」すべての人を神と見なしなさい。犬の中にすら神は存在します。神が万物に浸透していることを堅く信じなさい。これ以上に偉大な霊性修行は存在しません。人々がこのような信念を育てたとき、国家全体が豊穣と繁栄とあらゆる吉祥に恵まれます。あなたのハートを神聖な感情で満たしなさい。これが、あなたが今日学ぶべきことです。

バガヴァンは「ハリ バジャナビナ…」というバジャンと「スッブラマンニャム スッブラマンニャム…」というバジャンで御講話を締めくくられました。 (了)

 

出典: http://www.srisathyasai.org.in/

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