サイババの御言葉
2002年9月10日 ガネーシャ チャトゥルティーの御講話
プラシャーンティ・ニラヤムにて
ヴィナーヤカへの礼拝の意味

有神論は廃れ、無神論が勢力を増している
正義と年長者に対する尊敬は次第に失われつつある
信愛と昔の叡智えいちは失われてしまった
今、教育は心の動揺となっている

今日はガネーシャ・チャトゥルティーという神聖なお祝いの日です。「ガ」はブッディ(理智、知性)を表し、「ナ」はヴィグニャーナ〔高次の叡智、智慧〕を意味します。これゆえ、ガナパティ〔ガネーシャ神の別名〕はブッディとヴィグニャーナの主人です。宇宙はガナ〔神群〕によって維持されており、ガナパティはガナの主人です。この世において、すべての人は主人を持っていますが、ガナパティだけは主人を持っていません。ガナパティは自分自身が主人なのです。今日は主人たちの主人の誕生日です。ガナパティはまたムーシカ・ヴァーハナ(ネズミを乗り物とする者)とも呼ばれています。皆さんは、どうして小さなムーシカ(ネズミ)がヴィナーヤカ〔ガネーシャ神の別名〕のような大きな者を背中に乗せることができるのか疑問に思ったことがあるでしょう。ここでのムーシカは、単なるネズミを意味しているのではありません。無知という暗闇を象徴しているのです。なぜなら、ネズミが動き回るのは暗闇の中だからです。したがって、ムーシカ・ヴァーハナとは、無知を制圧して暗やみを追い払う者のことです。ヴィナーヤカ・チャトゥルティーを正しくお祝いすることができるのは、ヴィナーヤカの本質の内的意味を理解した場合だけです。「バガヴァッド・ギーター」の主な教えの一つは、次の詩に含まれています。

サルヴァダルマム パリティヤジャ マーメーカム シャラナム ヴラジャ
アハム トヴァ サルヴァパペービョー モークシャイシャミ マー スチャ(ハ)

〔一切のダルマを放棄して、ただ私のみに庇護ひごを求めよ。
私はあなたを、すべての罪悪から解放するであろう。嘆くことはない〕

〔「バガヴァッド・ギーター」18章66節〕

人は自分を社会と同一視しなければならない

人が肉体の執着に浸っている限り、あらゆる種類の艱難かんなん辛苦しんくが付きまといます。肉体の執着はさまざまなサンカルパ(思い)の根源です。これゆえに、クリシュナは肉体への執着を手放すよう熱心に説いたのです。この教えの内的な意味は、人は多様性の中の一体性を体験すべきである、ということです。ヴィヤシティ(個人)なしにはサマシティ(社会)はあり得ません。サマシティなしには、スリシティ(宇宙)はあり得ません。それゆえ、まず第一にヴィヤシティの役割を認識しなければなりません。そのとき初めてサマシティの本質を理解することができ、それは次にスリシティの理解へとつながるのです。スリシティを理解する人はパラメーシティ(神)と一つになります。実際のところ、サマシティとスリシティとパラメーシティの本質は、まさにヴィヤシティの中に存在しているのです。それゆえ、人はまず最初にヴィヤシティを理解すべく努力しなければなりません。

ヴィヤシティが個人(ジーヴァ)を象徴する一方で、サマシティは神(デーヴァ)を表しています。個人の魂と宇宙の大霊との間には大きな相違はありません。ヴィヤシティが自分を肉体と同一視している限り、まったく普通の人生を送るだけです。自分をサマシティと同一視して、初めて創造の原理を理解することができます。ですから、人はまず最初にヴィヤシティの真の意味を理解するために努力すべきなのです。これがヴィナーヤカのメッセージです。ガナパティという名前の「ガ」〔ブッディ〕はこの点を表しているのです。「ナ」はヴィグニャーナ〔高次の叡智〕を表しています。それゆえ、ガナパティは善い理智を授与し、叡智を授ける者なのです。

今日、人々は意味を理解しないままヴィナーヤカ礼拝をしています。ヴィナーヤカはすべての面における真の指導者の特質を象徴しています。

ヴィヤテー ナーヤケー イティ ヴィナーヤカ
ヴィナーヤカは自分自身の主人である

この世では、ヴィナーヤカは多くの人によって礼拝されています。しかしながら、ヴィナーヤカには自分を越える主人がいないため、誰のことも礼拝しません。父であるイーシュワラ〔シヴァ神〕でさえ自分の息子であるヴィナーヤカを礼拝しましたが、その逆はありませんでした。

マインドを制すことが真の霊性修行

今日、誰もヴィヤシティとサマシティとスリシティの背後に存在する根元的な力であるパラメーシティの本質を知ろうとしていません。パラメーシティはすべてのものの主人です。この世において、人はさまざまな活動を行いますが、その中には善い行いもあれば悪い行いもあります。人のサンカルパ〔思考、意志、決心〕がこの二元性の根本原因です。善い思いは善い行いへとつながり、悪い思いは悪い行いへとつながります。人はさまざまなサンカルパとヴィカルパ〔サンカルパを否定する思考〕の具現です。真の霊性修行は、こうした思考〔サンカルパ〕とその逸脱〔ヴィカルパ〕を制御することにあります。

今、人は心配の種と不安に悩まされている
一瞬たりとも心配の種から解放されることがない
人を悩ませる心配の種とは何か?

生まれることも心配の種、この世を生きることも心配の種
この世は心配と死の原因でもある
幼年期のすべては心配の種、老年期もまたしかり
生活は心配の種、失敗は心配の種
あらゆる行為と困難は心配をもたらす
幸せさえも不可思議な心配の種

(テルグ語の詩)

肉体への執着が、すべての憂慮の主な原因です。人は困難と憂慮なしには幸せをつかむことができません。喜びは二つの苦しみの合間にあります。困難に遭遇することなしに幸せを経験することは不可能です。すべての人に神性が内在しています。人に潜在する力は他の場所にはありません。しかしながら、人は自分の中にある神の力を活かすことができずにいます。すべての人には測りしれない可能性を秘めたブッディ〔理智、知性〕が授けられています。ヴィグニャーナ〔高次の叡智〕は知性よりも遙かに優れたものです。まず最初にブッディとヴィグニャーナの本質を正しく理解しなければなりません。

ヴィナーヤカへの供物にはすべて意味がある

ヴィナーヤカ チャトゥルティーの日、人々は特別料理としてクドゥムルとウンドラッルを作ってヴィナーヤカに捧げます。これらは少しも油を使わずに蒸して作るという意味において、特別で独特な料理です。ゴマと米粉とジャッガリー〔ココナッツの樹液で作る椰子糖〕を混ぜ、団子状にし、蒸してヴィナーヤカに捧げます。皆さんはこのような供物を作る目的を調べるべきです。ゴマは目に良いのです。油を少しも使わずに蒸して調理した料理は、消化器官に良いのです。このような料理を食べる人は、血圧と血糖の問題がなくなり、ずっと健康と幸せを満喫できるでしょう。油を使って火で熱する調理法は、ジャタラーグニ(消化の火)に対して有害です。そうした料理はさまざまな病気を引き起こします。油を使った料理を食べなければ、長寿で幸せで健康な人生を送ることができます。ヴィナーヤカは太鼓腹をしていますが、油が入っていない蒸料理を食べていたので完全に健康でした。

ヴィナーヤカはヴィグネーシュワラ(障害を取り除く者)とも呼ばれています。ヴィナーヤカに祈りを捧げる人に障害はやって来ません。ヴィナーヤカの礼拝は、世俗的な努力に対してのみならず、霊的な努力に対しても成功をもたらします。神は、プラヴリッティ(外界)とニヴリッティ(内界)という、二つのレベルにおいて幸せを与えます。プラヴリッティは肉体に関係しており、ニヴリッティは理智に関係しています。前者は時の経過と共に変化しますが、後者は変化することがありません。それゆえ、人は適切な食物と習慣によって肉体への執着を減らす努力をすべきです。

食物をとりすぎると肥満になり、その結果、血液を送る際に心臓に大きな負担がかかります。血液は心臓の鼓動ごとに体内を12,000マイル〔約19、300km〕流れます。肥満が進むと血液の循環が妨げられ、その結果、心臓の機能も阻害されます。したがって、人は自分の食習慣を管理すべきです。実際、ヴィナーヤカはこのことを行っているのです。

人々はガリカー(白い草の一種)を供えてヴィナーヤカを礼拝します。この礼拝の起源は何でしょうか? あるとき、パールヴァティーとパラメーシュワラ〔シヴァ神の別名〕がサイコロ遊びをしていました。ナンディ〔シヴァ神の乗り物である聖牛〕が審判官の役を頼まれました。ナンディは毎回イーシュワラの勝ちを宣言しました。母なるパールヴァティー女神はナンディがイーシュワラを依怙贔屓えこひいきしていると思いました。パールヴァティーは怒り、ナンディが慢性の消化不良を患うようにと呪いをかけました。するとナンディはすぐにパールヴァティーの足元にひれ伏して懇願しました。「お母様、私は決してあなたを欺いてはいませんし、またイーシュワラを贔屓ひいきもしていません。私はきわめて公明正大に審判していました。イーシュワラが毎回勝ったように見えたのは、イーシュワラの意志の力によるものです。イーシュワラのサンカルパ(意志)はヴァジュラ サンカルパ(必ず成功するという意志)でした。それゆえ、どうか私をお許しください。そして、呪いを解いてくださるようお願いします」。パールヴァティーはすぐにナンディを気の毒に思い、「ナンディよ! バードラパダ月〔インドの太陰暦の月で太陽暦では通常9月に当たる〕の四日目にガリカー(白い草)でヴィナーヤカを礼拝しなさい。ヴィナーヤカに供えた草を食べれば消化不良から解放されるでしょう」と言いました。

ペットに犬を飼っている人は、このことをよく知っています。犬を草むらに放すと、犬は白い草を探して食べます。このわけは何でしょう? 白い草は犬の消化器官に役立つのです。このことから、ヴィナーヤカに捧げられた供物は、すべてのものの健康を保証することがわかります。昔から、バードラパダ月の四日目にヴィナーヤカを礼拝した人にはヴィナーヤカの恩寵が与えられる、と信じられています。

嫌悪と怒りを制圧せよ

今日、人々は、マティ(マインド)、ガティ(運命、拠り所、努力)、シティティ(地位)、サムパッティ(富)を正しく使っていません。その結果として、人は神から授かった聖なるエネルギーを失いつつあります。それだけではありません。人は、カーマ(欲望)やクローダ(怒り)やローバ(貪欲)といった邪悪な特性のために、苦痛と悲しみをこうむっています。人はまったく自分の欲望を抑えていません。一つの欲望が満たされると、次の欲望を追い求めます。怒りは人を滅ぼすもう一つの邪悪な特性です。

怒りを持っている人は、あらゆる努力が実を結ばず、
罪を犯し、すべての人から嘲笑ちょうしょうされる。

(テルグ語の詩)

怒りは人の敵、平安は防御の盾、慈悲は本当の親戚
幸福は天国、不幸は地獄

(テルグ語の詩)

憎しみは怒りより危険です。憎しみは神を体験することを妨げる多くの邪悪な性質を呼び起こします。人は本来100年間生きることができますが、これらの邪悪な性質のために人の寿命は短くなっています。このような邪悪な性質が完全に制圧されれば、人は永く幸せな人生を謳歌おうかすることができます。たとえ大きな事故に遭遇しても命を失わないでしょう。人は自分自身の邪悪な性質の反映と反動と反響によって苦しめられています。欲望と怒りと憎しみは人間の性質ではなく、獣の特質です。自分にこれらの邪悪な性質に支配されることを許せば、人は獣になります。人は絶えず、自分は人間であって獣ではないと自分自身に言い聞かせるべきです。このようにして、人は獣の性質を抑制することができます。不幸なことに、今日の青年は過大な欲望を抱いており、結果的に自分の将来を悲惨なものにしています。

人生にはしっかりした基礎が必要

人生は4階建ての家にたとえることができます。ブラフマチャルヤ(学生期がくしょうき)、グルハスタ(家長期)、ヴァーナプラスタ(林住期)、サンニャーサ(遊行期)は、人生の4つの段階です。ブラフマチャルヤは基礎であり、もしも基礎が強固であれば、他の3つの段階はひとりでに整うでしょう。しかしながら、現代の青年は、しっかりとしたブラフマチャルヤの基礎がないために、人生の四分の三を台無しにしています。年長者が少なくとも5分間腰を下ろして神に祈るようアドバイスすると、青年たちは時間がないと言いますが、世俗で悪い性質と悪い習慣に浸る時間は限りなく持っているのです。特に学生と青年はブラフマチャルヤの強固な基礎を築くためにあらゆる努力をすべきです。ただ単に独身でいることがブラフマチャルヤなのではなく、絶えずブラフマーを黙想することが真のブラフマチャルヤです。いかなる状況のもとでも神を想い、神の御名を唱えなさい。清らかな生活を送りなさい。人生を愛の原理に捧げなさい。これは人生という家の安全を保証してくれます。あなたは壁や屋根や建物全体を見ますが、基礎は見ません。基礎は地下に隠れています。しかしながら、外から見える家の安全性は見えない基礎に基づいています。家を建てるときには、壁や屋根を魅力的に見えるよう設計します。一方、建物全体を支える基礎を美しいものにする必要はありません。しかし、建物の最も重要な部分は基礎なのです。今日、人は人生の基礎を気遣うことなく、外見のほうに強い関心を持っています。

人生の第一の段階はブラフマチャルヤです。「チャルヤ」とは身を処することを意味します。皆さんはつねにブラフマーのことを思っているべきです。皆さんの行動はブラフマチャルヤの段階にふさわしいものであるべきです。昔、教訓を授ける人は「アーチャールヤ」と呼ばれていました。「アーチャールヤ」とは、説教をする前に自ら実践する人という意味です。実践することなしに説教だけをする人は、単なる教師にすぎません。そのような人は、少しの教訓を教えることはできるかもしれませんが、マインドを制することや、霊的進歩の達成には、何の助けにもならないでしょう。真のアーチャールヤだけが、マインドを制することに関して人を助けることができます。

アーチャールヤについて話すとき、二人の名前がすぐに私たちの心に浮かびます。一人はビーシュマーチャールヤ、もう一人はドローナチャルヤです。ドローナチャルヤはパーンダヴァ兄弟に弓術を教えたという点でパーンダヴァ兄弟のグルでした。ビーシュマチャルヤはパーンダヴァ兄弟の霊性の師でした。ビーシュマチャルヤは偉大なグニャーニ〔叡智を得た人〕でした。グニャーナとは、教科書の知識の修得を意味するのではありません。

アドワイタ ダルシャナム グニャーナム
(不二一元を認識することが最高の叡智である)

真のグニャーニとは、自分の肉体と心と知性を神に捧げる人のことです。真のグニャーニは神だけを想い、その他のことは何も考えません。真のグニャーニは神を喜ばすという唯一の目的のためだけに行動します。

サルヴァ カルマ バガヴァッド プリーッティヤルタム
(すべての行為を神を喜ばせるために為せ)

個人的満足を求めるべきではありません。神を喜ばせるためにあらゆる努力をすべきです。ビーシュマーチャールヤはこれだけを一生懸命行いました。ビーシュマーチャールヤは母なるガンジス河の息子でした。そして、人生のすべてにおいて母親の命令に従い、ついに最期が近づいた時には母の愛と恩寵を感じることを望みました。ビーシュマーチャールヤはアルジュナが射った多数の矢で負傷し、矢の床に58日間横たわっていました。全身が何本もの矢によって貫かれていました。肉体を去る前、ビーシュマーチャールヤは、アルジュナに母なるガンジス河の水を持ってきて喉の渇きを癒して欲しいと懇願しました。アルジュナとは、純粋なハートを持った人を意味します。アルジュナは多くの名称、たとえば、パルグナ、パールタ〔プリティーの子の意〕、キリティ、スヴェータヴァハナ、ビーバッツァ、サヴィヤサーチン、ダナンジャヤ等を持っていました。ビーシュマの願いを聞くやいなや、アルジュナは全力を振り絞って大地に向かって矢を射ました。すると、たちどころに母なるガンジス河の水が噴水のように湧き出し、息子ビーシュマの渇きを癒したのです。こうして、ビーシュマは安らかに息を引き取りました。

今、アルジュナという名前の人は多くいますが、その行いはその名前にふさわしくありません。有名な巡礼地シュリーシャイラムでは、ブラマラアンバーとマッリカアルジュナ〔リンガムの姿をしたシヴァ神の別名、白いジャスミンの意〕という神の夫妻が主祭神です。ブラマラは蜜蜂みつばちを意味し、アンバは母を意味します。マッリ〔マッリカ〕はジャスミンの花を意味します。マッリカアルジュナは純白のジャスミンの花を象徴しています。蜂が花から蜜を吸うように、ブラマラアンバーはマッリカアルジュナと仲睦なかむつまじかったのです。

アルジュナ、純粋なる者

アルジュナは、パーンダヴァ兄弟の中で最も偉大な人と見なされていました。なぜなら、アルジュナは純粋な心の持ち主であったからです。アルジュナは決しては罪のない人を傷付けることがありませんでした。また、正当な理由なしには誰にも武器を使うことはありませんでした。戦いが始まる前、アルジュナはクリシュナに、和平の使命を担ってカウラヴァ家を訪問してほしいと頼みました。クリシュナが、「誰のところへ行ったらいいだろうか?」と尋ねると、アルジュナは「おお! クリシュナ、あなたはすべてをご存知のお方です。私があなたに指図することなどできましょうか。どうか戦いを避けるためにあらゆる努力をしてください」と言いました。するとクリシュナは、「盲目の王ドリタラーシュトラに話をしたところで無駄だろう。息子に対する王の執着が、王を現実に対して盲目にしてしまった。王は息子の言うことは聞くが私の言うことは聞かないだろう」と言いました。しかしながら、クリシュナは特使としてカウラヴァ家へ行きました。ところが、クリシュナが予告したように、和平への任務は失敗に終わりました。戦いは避けられないものとなりました。

クリシュナは戻ってきてアルジュナに言いました。「努力はすべて無駄に終わった。戦いの準備をするように」。アルジュナは、多くの罪のない人たちがこの戦いで殺されることを心配している、と口にしました。すると、クリシュナは「アルジュナよ! 戦場に来る者たちは、どのような結末にでも直面する覚悟が完全にできている。ただ見物するためだけに戦場に来るような者は誰もいない。皆、命のやりとりをする覚悟ができている。だから、戦いで罪のないものが殺されるという心配は無用だ。さあ、戦う準備をせよ」と言いました。アルジュナはこの知らせを兄のダルマラージャに伝えたいと思いました。そこで、二人でダルマラージャのところへ行きました。ダルマラージャは初めからから戦いには反対でした。しかし、受け入れるしか選択肢はありませんでした。同じ知らせがナクラとサハデーヴァにも伝えられました。二人は、若いながらも、とても高潔でした。二人にはアルジュナやダルマラージャすら凌ぐ高い徳が備わっていました。二人がクリシュナを見たときの喜びは測り知れないものでした。カウラヴァ兄弟の邪悪な本質を充分に知っていたので、二人には戦う覚悟ができていました。クリシュナの和平の任務の結果については気にしませんでした。二人はいつもクリシュナが無事に帰ってくることだけを祈っていました。二人のクリシュナへの愛はそれほどのものでした。

ついにアルジュナは言いました。「クリシュナ、毒から甘露を取り出すことが可能でしょうか? 邪悪なカウラヴァ兄弟に良い勧告をしたところで何の役に立つでしょう? それは火の中にジャスミンの花を放り込むようなものです。和平への話し合いはやめて戦う準備をしましょう」。

実際に戦場に到着し、おびただしい数のカウラヴァの軍勢を見た時、アルジュナは意気消沈してしまいました。アルジュナは戦場で多くの無実の人々が殺されることを気にかけました。そして、自分が多くの家族に悲しみをもたらす元凶になるのではないかと憂鬱になりました。「クリシュナ、私は親類縁者がこの戦場で殺される光景に耐えられません。そのことを思うと、私の頭はくらくらします。時を無駄にせずに直ちに引き返しましょう」とアルジュナは言いました。クリシュナは怒ったふりをして言いました。「アルジュナよ、私をけしかけ、私を戦場に連れてきたのはおまえだ。どうして今になって意気地なしのように振る舞うのだ? 恥を知れ!」。ここで、クリシュナはアルジュナに「バガヴァッド・ギーター」の教えを授けたのです。その教えは戦場で戦うのに必要な力をアルジュナに与えました。しかしながら、ビーシュマと対面した時、アルジュナはビーシュマの力に反撃することができませんでした。アルジュナに勇気を注ぎ込むために、クリシュナはさっと馬車から飛び降りると、「アルジュナ、私がビーシュマを殺しておまえをまもろう」と言いました。アルジュナは「クリシュナ、あなたはこの戦争では戦わないとの誓いを立てられました。私のために誓いを破らないでください」と言いました。クリシュナがビーシュマに近づいていくと、ビーシュマは手を合わせて祈り、「私を殺しに来たお方が、私を救済してくれる唯一のお方です」と言いました。ビーシュマの信愛はそれほどのものでした。

愛の化身である皆さん! 私たちの歴史には神聖な内的意味が詰まっています。ところが、現代の青年は私たちの歴史に全く関心を寄せません。そして、小説や意味のない物語を読んで時間を浪費しています。そうしたカター(物語)は、ただヴャータ〔動揺、痛み、悲しみ〕だけを与えるものです。神の物語のみが理想的な道を教えてくれます。「ヒズ ストーリー」〔His Story 神の物語〕が「ヒストリー」〔History 歴史〕です。聖なる歴史を読み、理解し、実践すべきです。『ラーマヤナ』、『バーガヴァタ』、『マハーバーラタ』のような神聖な叙事詩は大切な教えの宝庫です。

同様に、ヴィナーヤカの物語も人類への重要なメッセージを含んでいます。ヴィナーヤカは叡智の権化です。だからこそ、すべての神々がヴィナーヤカを礼拝するのです。ヴィナーヤカ チャトゥルティーの日、学生はヴィナーヤカ像の前に教科書を置いて祈りを捧げます。この内的な意味は、学生は「神の叡智が授けられますように」と祈るべきであるということです。学生がこの吉祥の日にヴィナーヤカを礼拝することは最も大切です。ヴィナーヤカは自分の信者の望みを叶えてくれます。ヴィナーヤカはアヌグラハ(恩寵)のみを授けます。ヴィナーヤカはアーグラハ(怒り)を持っていません。それゆえ、バーラタ人だけでなく、他の国の人たちもヴィナーヤカを礼拝しているのです。

セントラル トラストへの実り多い30年の献身

午後2時に、シュリ・サティヤ・サイ・セントラル・トラストのために働いている私たちの学校の卒業生によって、あるプログラムが執り行われます。彼らはたくさんの善い仕事をしています。過去30年間セントラル・トラストの世話をしてきた数人の年長者がいます。その間、私はセントラル トラストの日々の業務を個人的に指示してきました。私の学生たちは、セントラル・トラストに加わって以来、責任をもってすばらしい仕事をしています。出版協会でも、アコモデーション・オフィスでも、また、アシュラムのどこにおいても、学生たちは大きな貢献をしています。

学生たちは親切に優しく話します。荒々しい言葉は使いません。「Help ever, Hurt never つねに助け、決して傷付けない」という金言に従っています。こうしたシュリ・サティヤ・サイ・セントラル・トラストの青年たちが、午後のプログラムでセントラル・トラストのさまざまな活動について話をするでしょう。皆さんの誰もが、彼らが話すことを必ず聞かなければなりません。彼らが話すことはすべて、自分の体験に基づいています。私の青年たちはつねに真実を話します。冗談でも嘘はつきません。彼らは午後のプログラムで真実のメッセージを伝えるでしょう。年齢的には若いですが、仕事はとても効率的にこなします。彼らはトラストで行われる活動に強い関心を抱いています。彼らはスワミのメッセージを全世界に広めています。私はこうした青年たちが善い生活を送ってきたことをとても幸せに思います。彼らはとても知的です。質問をされれば、適切で迅速な回答を返します。

五人の青年がセントラル・トラストの会計を見ています。同様に、数人の若者が書籍と出版のために働いています。一パイサ〔約一銭〕の誤りもありません。彼らはとても正直です。一パイサに至るまで用途が明確にされています。彼らは高貴な性質と善い気質、そして、理想的な性格を備えています。皆さんは今日の午後、自分の目でそれを見なさい。彼らはプラシャーンティ・ニラヤムで行われるすべてのプログラムをラジオ・サイ・グローバル・ハーモニーで一日24時間放送することに、積極的に関わっています。彼らは若い青年ですが、とても洗練された上品な言葉で話します。皆さんは午後に彼らの話を聞くことができます。皆さんが彼らの言葉遣いを学ぶことは絶対必要です。いずれにせよ、彼らは皆さんの兄弟です。誰もが兄弟姉妹なのです。私は、あなた方の誰もが、このような機会をつかまえて幸せな人生を送ることを望みます。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.35 Ch.16

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