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プライドを捨てて すべての人を愛しなさい (サンスクリット語の詩節) 愛の化身である皆さん! 神のへそには、宇宙的な力が存在しています。ですから、神はヒランニャガルバ(註:黄金の宇宙卵、純粋な神の愛が最初に形として表れたもの、宇宙の始めから終わりまでのすべてがその中に詰まっているとされる)として知られています。神は神々しい光と輝きに満ちているので、美と栄光の化身であると言われています。人間としての生涯は最も崇高なものです。なぜなら、人間にはヒランニャガルバの原理が備わっているからです。神はまた、全宇宙の創造者でもあるので、プラジャーパティー(註:「至高の神そのものであるヒランニャガルバ」の意味)としても知られています。神の原理を理解するためには、一つひとつの神の御名の内的意味とその意義とを理解しなければなりません。神は様々な名前を持ち、それぞれの名前が深遠な内的意味を持っています。大昔のわが国の人々が子どもたちに、何らかの神の名前を付けたのは、そのような理由からなのです。 今日、人間は、神を捜し求めており、神の性質を探ろうとしています。神が自分の内にいるとき、どこに神を捜し求める必要があるでしょう? 神は愛の化身です。真実は神の姿そのものであり、神の本来の性質でもあります。真理を守ることよりも偉大なダルマは存在しません。しかし、今の人は、真理の意味を理解することができません。人は、自分の欲望を満たすために、非真理を真理と見なしています。まず第一に、人間は、サッティヤム(サティア、真実)、グナーナム(グニャーナ、知識)、アナンタム(アナンタ、無限性)に他ならない自分の真の特性を理解するように努めなければなりません。神は、人間は本質的に神であるという真理に目を開くように、ヴェーダ、シャーストラ、プラーナ、イティハサという聖典を、人間に贈りました。この世において、すべての人間には真理と正義と愛が備わっています。人間はサット、チット、アーナンダの化身です。これらの特性は、まことに神聖です。サット(存在)とは、変わることのない永遠のものです。チットはチャイタニヤ(意識)です。アートマ(真我)は、神の別 名です。ブラフマ(神)はアートマの同義語です。それは、すべての人の内に、チャイタニヤの形で存在しています。このチャイタニヤの原理を理解する人のみが、真の人間です。サット・チット・アーナンダとサッティヤム・グナーナム・アナンタムは、言葉は違いますが同じ意味を持っています。 この世には、無神論、二元論、不二一元論、条件付不二一元論等々、様々な思想の学派があります。ケーシャヴァという神の御名は、様々な神の名前の中でも最も重要なものです。すべての哲学の本質は、この名前に含まれています。それは、三つの音節から成っています。すなわち、「カ」+「イーシャ」+「ヴァ」であって、それぞれ、ブラフマ、イーシュワラ、ヴィシュヌを表しています。ですから、ケーシャヴァは、創造(ブラフマ)と維持(ヴィシュヌ)と破壊(イーシュワラ)の原理を象徴しています。人間は、ケーシャヴァという神の御名を黙想し、その意義を理解すれば、真の自己(真我)を理解することができます。 我が国の太古の聖賢たちは、神を理解するために深い研究と探求を行いました。最終的に、彼らは、「私は、10億の太陽の光をもって輝き、タマス(無知の暗闇)を超越した至高の存在を見た」と世界に宣言しました。彼らは、神のビジョンを得るようにと、人間に熱心に勧めました。そのときから、人間は神を信じるようになったのです。しかし、時の経過と共に、人間の信仰心は段々と弱まっていきました。人間は神を信じていないために、悲しみに支配されているのです。 回教徒からはアッラーとして知られる神は (テルグ語の詩) 神は一つですが、多くの名前を持っています。様々な宗教が生まれましたが、すべてが同じ神に通 じています。 宗教はたくさんありますが 目標は一つです (テルグ語の詩) ですから、誰でも、もし自分の本当の性質を探求していけば、真実を体験することができます。イエスは高貴な魂でした。彼は、自分が神の子であると宣言しましたが、決して自分が神であるとは言いませんでした。イエスが生まれたとき、東洋から三人の立派な賢者たちが、星に導かれてベツレヘムの牛小屋にやって来ました。そこには、飼葉おけの中に幼子イエスが寝ていました。彼は神々しい光を放っていました。三人の中の最初の一人が「この子は神を愛するだろう」と言いました。二番目の賢者は、「彼は神に愛されるだろう」と言いました。三番目の賢者は、「彼はすべての人を愛するだろう。彼は神と異なるところはない」と言いました。神を愛する人は、神の使いです。神が愛する人は神の子です。一体性の原理を理解する人は、神と一つになります。これが、聖書に書かれた言葉の内的意義です。あなたが考えるあなたと、他の人が考えるあなた、そして本当のあなたがいます。皆さんは、このような言葉の意味を理解すべきです。 その子は、母マリアによって育てられました。父親は、大工として働いていました。エルサレムでお祭りがあったとき、子どものイエスは両親に連れられてお祭りに行きました。彼らは群集の中に子どもを見失い、どこにも見つけることができませんでした。母マリアは、当然、大変心配しました。とうとう彼らは、祈るために神殿に行きました。驚いたことに、二人は若いイエスが神殿から出て来るのを見つけました。子どもはずっと神殿にいて、ラビ(ユダヤ教の司祭)の神聖な講話を聞いていたのです。心配した母親は、子どもをつかまえて、彼がそれまで何をしていたのかを聞くために、いくつかの質問をしました。子どもは答えました。「お母さん。なぜ恐れていたのですか? 僕はずっと神様の御手の中にいました。僕は神殿の中で、ラビが神様の御言葉を説明するのを聞いていたのです」このように、イエスは非常に小さいときから、神に心を向けている子どもでした。 そのうちに父のヨセフが他界しました。マリアは息子に言いました。「もうお父さんが亡くなられたのだから、私たちが食べていくために、お前はお父さんの仕事を継がなければなりません」ところが、少年は父親の職業を継ごうとはしませんでした。母親もまた、若いイエスの自然な心の促しに反対しようとはしませんでした。ある日、若いイエスは、一人で誰もいない丘に登りました。母親は大変心配しました。それどころか、息子がいないので、ふさぎ込んでしまいました。イエスは座ってずっと神を瞑想していました。しばらくして、彼は帰ってきました。帰る途中に、彼は、ガリラヤの海辺で心配している何人かの男たちに出会いました。若いイエスが彼らに何を心配しているのかと尋ねると、彼らは漁師で、そのときまで何日も網に一匹も魚がかかっていないのだという答えが返ってきました。イエスは言いました。「私について来なさい。一匹も魚のいない海があるだろうか?」イエスは漁師たちを連れて彼らの船に乗り込み、海の中ほどに出て、ある場所で網を打つように言いました。彼らがたいそう驚き、またとても喜んだことに、漁師たちの投げた網は魚で一杯になりました。この出来事によって、漁師たちの心には、大きな信仰が生まれました。ですから、信仰は人間にとって欠かせないものです。 信仰があるところに愛があります イエスは、彼らに、そのような大いなる信仰を教えることができました。その漁師たちの一人は、イエスによってペテロと名付けられました。彼には、イエスに対する熱烈な愛と信仰が育ちました。そのときから、漁師たちは定期的にイエスを漁に連れて行き、夜になって漁から戻ると、イエスが彼らに霊的な事柄を説明するようになりました。ペテロの父親が亡くなったとき、彼の母親は悲しみで一杯でしたが、イエスは次のように言って彼女を慰めました。「死は生命の衣に過ぎません。あなたはなぜ涙を流すのですか? 死は人が衣を着替えるようなものです。ですから悲しむのをやめなさい。このような肉体は来ては去って行きます。ですから、このようなはかないものごとに心を向けることによって、思いを無駄 にしてはいけません。この肉体の中に住んでいる存在こそが、本当の神なのです。」 肉体は五大元素によって作られており (テルグ語の詩) イエスはこうして真理を説き、周囲の人々に自信を植え付けました。このように、その漁師たちの村は、イエスと共に幸せな時を送っていました。その頃、ローマ人たちの収税人であったマタイという人が、仕事でその地域をよく訪問していました。彼は、そのような訪問の際には、いつもイエスの話を聞き、彼の教えを書き留めていました。そしてとうとう、彼はイエスの弟子になりました。 そのうちイエスは、彼の教えに対する様々な困難や抵抗に遭うようになりました。人間の身体をまとっている人は誰でも、そのような人生の浮き沈みを避けることはできません。困難がなければ、人間は存在することができません。生の後には死が訪れ、それと同じ確かさで、喜びの後には悲しみがやって来ます。「人は、悲喜・得失・勝敗の中で平常心を保つべきです」楽しみは、苦痛と苦痛の間に訪れます。人間の一生は、至高の実体を探求するためのものであり、ただ単に食べて飲んで子孫を増やすためのものではありません。すべての人間は、自分の内的特質を知り、自分が本当は誰なのかを理解するための努力をしなければなりません。イエスはそのような神聖な真理を説いていました。ですから彼は、同時代の人々の間で、非常に有名になりました。世の中で有名になれば、当然妬みやうらやみを向けられます。妬みや、尊大さや利己主義は、よこしまな傾向であり、ついには破滅をもたらします。誰もそのような傾向を持っている人を許さないでしょう。 あなたは、決して他者を非難したり侮辱したりしてはいけません。人が平等心を養ったときに、初めて人間性が花開くのです。今日の人間が言いようのない苦しみを味わっているのは、人間的価値が欠如しているからです。本質的にものを燃やす力を備えているものは、火と呼ばれます。同様に、人間的価値を備えている人のみが人間なのです。人間的価値が欠如している人は、まったく人間などではありません。皆さんは高度の教育を受けて、高い地位 を占めているかもしれませんが、もし人間的価値が欠けているとすれば非人間的だと見なされます。ですから、まず第一によこしまな性質を取り除くようにしなさい。 きょう、メッセンジャー オブ サティア サイ(アナンタプール女子大の卒業生の組織)の人々が、設立記念日のお祝いをしています。彼女たちは、嫉妬や、怒りや、憎しみのようなよこしまな傾向に付け入る 私は、この5、6年の間の彼らの行動にはつくづくうんざりしています。オーガニゼーションを設立しても何の役に立つでしょう? 皆さんは、サティア
サイ セヴァ センターやバジャン グループを持っています。皆さんは社会奉仕に携わり、スタディー
サークルを行っています。しかし、もしそのような奉仕が、ハートの中の愛によって支えられていないのであれば、何にもなりません。愛は神です。愛に生きなさい。そうする代わりに、人々はお互いに対する憎しみを育てています。そのような人々は、見せしめの罰を受けるに値します。と言うのも、他の人々もまた、そのような邪悪な人々のために 神は、サッティヤ ダルマ パラーヤナーヤ ナマハー、サッティヤ スワルーパーヤ ナマハー、プレーマ スワルーパーヤ ナマハーなどのような、いくつかの名前で崇拝されています。このような名前には多くの意味があります。神は愛の化身です。実際、人間自身が神の愛の化身なのです。愛こそが最大の特質です。もしあなたが、愛を培わなければ、人生には何の意味もありません。人の悪口を言ったり、陰口をきいたりすることは、非難されるべき性質です。過去においては、女性は悪い傾向の影響を受けることがありませんでした。ところが、今では女性すらも、このような病気の例外ではなくなりました。なんという恥ずべきことでしょう! 私の考えでは、これは現代の教育の結果 によって起きたひずみです。 教育や知能があるにもかかわらず (テルグ語の詩) よこしまな性質と結びついた教育では、何にもなりません。大事なのは教育ではなく、善い性質と、立派な人格と行動です。 もしあなたが、悪い性質を持った人々と交われば、あなた自身も悪くなります。悪い仲間から離れなさい。善い仲間に加わりなさい。そして、日夜有徳の行為に励みなさい。この三つの原則は、人間にとって最も大事です。カルナはマハーバーラタにおける偉大な戦士でした。実際、彼は戦場においてはアルジュナを 余分な富はエゴをもたらし (テルグ語の詩) 偉大さは富を手に入れることの中にはありません。崇高な性質を培うことこそが、この上なく重要なのです。口数を減らしなさい。あなたがおしゃべりをすればするほど、あなたは悪い性質を身に付けやすくなります。もしあなたが、美徳を培い、自分の行動を変革して善いものにしないのであれば、奉仕団体に入ってもまったく意味がありません。中には、優しく話すのに心の奥には悪意が潜んでいる人がいます。そのような分裂は、あなたをどこへも導きません。あなたはまず、心の中に柔らかさと甘さを育てなければなりません。「フリッド」+「ダヤ」=「フリダヤ」と言われています。あなたのフリダヤ(ハート)は、ダヤ(慈愛)に満ちていなければなりません。あなたのハートが、愛と慈悲に満ちているときに、初めてあなたはマーナヴァ(人間)と呼ばれる資格があるのです。 イエス キリストは、そのような崇高な性質を養いました。彼は愛する心で、何人かの貧しい窮乏生活を送っている人々を保護しました。事実、そのような境涯にある何人かの人々が、彼に保護を求めたのです。その過程の中で、彼は何人かの敵の激しい怒りを買いました。皆さんは何らかの困難を経なければならないとしても、人々を助けるべきです。決して他の人々の悪口を言ってはなりません。それは、同じアートマが、すべての生き物に浸透しているからです。もしあなたが、他の人をののしれば、それは自分自身をののしることと同じです。もしあなたが彼らを好きでないのなら、彼らから離れていなさい。しかし、決して彼らをののしってはなりません。もしあなたが悪い性質を取り除かなかったとすれば、どれだけ善い事をしても何の役にも立ちません。もしあなたが他の人々に善い事をすることができないのであれば、少なくとも、善い言葉を語りなさい。あなたは常に親切なことをしてあげられるとは限りませんが、いつも親切な話し方をすることはできます。もし誰かが苦しんでいるのを見つけたら、その人を助けるように努めなさい。きょうはその人の番ですが、明日になれば、あなたが苦しむ番がやって来るかもしれません。このことをいつも心に留めておきなさい。いかなる人も、痛みや苦しみを避けることはできません。常に万人の幸せのために祈りなさい。そのような意味合いにおいて、初めてローカ サマスター スキノー バヴァントゥー(すべての世界のすべての人々が幸せでありますように!)という祈りが唱えられるのです。 あなたのハートは、ヒランニャガルバへと作り変えられるべきです。あなたが善い感情を培ったとき、初めてあなたは善い人になることができます。あなたは偉大な人である必要はありませんが、善い人になるように努力すべきです。あなたはすべての人の愛を勝ち得なければなりません。神に祈る言葉の一つに、ヒランニャガルバーヤ ナマハーというものがあります。神はすべての人に愛されています。神は常に幸せで至福に満ちています。彼は、どんな人をも憎みません。神がすることは何であれ、あなたのためです。すべての人が、他者に対してそのような神聖な愛を培わなければなりません。常に真理と道徳の道を歩きなさい。道徳のない国家は必ず衰退して滅亡します。皆さんは、愛国心を持つだけでは十分ではありません。それと同時に、皆さんは道徳心も持たなければなりません。道徳に関する講義をするだけでは間に合いません。あなたの一つ一つの行いが道徳に満ちていなければなりません。 愛の化身である皆さん! あなたはあらゆる説明と人間の理解を超えています (テルグ語の歌) 人の心の奥から神聖な感情が湧き上がるとき、それは偉大な帰依の詩となって表現されます。 愛の化身である皆さん! 親愛なる学生諸君! バガヴァンは、「プレーマ ムディタ マナセ カホー ラーマ ラーマ ラーム」というバジャンで御講話を締めくくられました。
出典:http://www.sathyasai.org/discour/2002/d021225.htm |
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