サイババの御言葉

日付:2003年7月13日・場所:プラシャーンティ ニラヤム・行事:グル プールニマー
バガヴァン シュリ サティヤ サイ ババ様の御講話

肉体への執着を捨てて真我の意識を獲得しなさい

愛の化身である皆さん!

全宇宙は神の意志によって創造されました。神は宇宙を創造し、宇宙を維持します。宇宙は、最終的に、そもそもの根源である神に融合します。神の意志によって生まれた宇宙は、ヴィシュワという名で呼ばれています。ヴィシュワという言葉は、正確に言えば、「自ら拡張して、至福に満ちているもの」という意味です。神は、一つの目的をもって宇宙を創りましたが、人間はその目的に反する行動をしています。宇宙は、単なる物質の顕現ではありません。宇宙は神が直接顕現したものです。宇宙は、普遍的な存在〔プルシャ〕が手足を持って顕れた具現にほかなりません。宇宙は神の拡張する特質を象徴していますが、このことは、識別 力を働かせることによって、初めて理解できるものです。神は時間と原因を超越しています。
 物質世界は、いわゆる道理によって動いていますが、神の意志は道理によって縛られることはありません。神は宇宙の背後にある根源的な原因です。宇宙は神の反映です。ヴィシュワ(宇宙)とヴィシュヌ神は、別 々のものではありません。ヴィシュヌ(Visnu)という名前の中の「V」という文字はヴィヴェーカ〔識別力〕とヴィシュタラ(拡張)を象徴しています。ですから、宇宙は、ヴィシュヌ神の姿そのものにほかなりません。全宇宙がは神の体のさまざまな部分を構成されています。

宇宙に存在するすべてのものには、五つの相があります。それは、サット(絶対実在)、チット(純粋意識)、アーナンダ(至福)、ルーパ(姿)、ナーマ(名前)です。最初の三つは永遠の原理ですが、名前と姿は一時的なものです。サット、チット、アーナンダは、名前と姿の基盤です。人間のすべての活動は、名前と姿に基づいています。誰が何をすべきかを決めるのは神です。一部の人々は激性で、また中には鈍性の人々もいます。激性や鈍性の人々は、憎しみや妬みのような、よこしまな性質に支配されています。

人間は、自分たちの感情に基づいて、神にはさまざまな名前と姿があると考えています。そして、サット、チット、アーナンダという三つの主要な原理を忘れて、名前と姿だけが唯一の真実であると考えているのです。実際は、名前と姿は永遠ではありません。しかし、人々は名前と姿に圧倒されて、サット、チット、アーナンダという永遠の原理を無視しています。その結果 、惑わされ、名前と姿の背後にある神の偉大な力を忘れてしまう傾向にあるのです。

神は、パドマナーバ(臍から蓮が生えているお方の意)と呼ばれています。この蓮は、神の意志(サンカルパ)の象徴です。神はまた、黄金の胎をもっているために、ヒランニャガルバとも呼ばれています。神は、「私」という形で万物に内在しているので、ヴァースタとも呼ばれています。「私」という原理は万物に浸透しています。神は特定の名前はありません。人間は神にさまざまな名前を付けました。パドマナーバ、ヒランニャガルバ、ヒランマヤ〔黄金〕等々の名前には、それぞれ深い内的な意味があります。霊性は、神の原理と、神に付けられた名前の内的な意味を説明するためにあります。霊性の道を歩く人は、神の原理を理解し、経験して、それを広めるための努力をしなければなりません。しかし、今日の人間は、霊性の意味を正しく理解していません。人は、霊性というものを誤って受け止めて、霊性とは単に神に礼拝や祈りを捧げ、儀式を行うことだと考えています。人々は、霊性の内的意義と、神に付けられたさまざまな名前の内的意義を教わらなければなりません。

ダルマクシェートラの誕生

1968年に、ボンベイ(今のムンバイ)で、サティヤ・サイ・セヴァ・オーガニゼーションの第一回世界大会が行われました。それは、ダルマクシェートラ〔ババの住居とマハーラーシュトラ州のサティヤ・サイ・オーガニゼーションの本部から成る建物〕 の定礎式が行われた時でもありました。インドゥラル・シャー〔当時のサティヤ・サイ・オーガニゼーション国際委員長〕が、ダルマクシェートラの建立の責任者でした。シャーは、スワミのメッセージを広めるために、休みなく働き続けてきました。夫人のサララー・シャーは、シャーの力の源として、シャーを支え続けてきました。サララーは、バルヴィカスと婦人部(マヒラー・ヴィバーガ)の発展に積極的な役割を果 たしました。このようにして、夫婦共に、全世界にサイの運動を広めるために偉大な貢献をしました。二人は高齢になった今も、サイ・オーガニゼーションのために多大な力を注いでいます。

すべての人が神の特質を理解することができるわけではありません。この世は柱も支えもない壁に描かれた絵のように見えます。人は、この世の基盤(アーダージ)とその上に置かれたもの(アーデーヤ)の原理を理解する努力をしなければなりません。ただ単に儀式を行うことだけに時間を費やし、時間を無駄 にしてはなりません。真の霊性は、人間は神の火花にすぎないという真理を理解することにあります。このことは、バガヴァッドギーターに宣言されています。
ママイヴァームショー ジーヴァローケー ジーヴァブータッ サナータナハ
(すべての存在は、私の永遠の存在の一部である)
ヴァースデーヴァ サルヴァム イダム〔イティ〕
(全世界には、神、ヴァースデーヴァが浸透している)
あなたは、この真理を体験して、世界に広めなければなりません。

世界中にサイ・センターがたくさんできています。それぞれのセンターには、固有の歴史があります。ダルマクシェートラも例外ではありません。ダルマクシェートラ建立の際にインドゥラル・シャーが経験した無数の困難は、スワミだけが知っています。当時は、現在ダルマクシェートラが立っている所に行く道さえありませんでした。シャーは棘だらけの藪の中を歩いて、ダルマクシェートラを建設するのに適した場所を見つけなければなりませんでした。シャーは、私の承認を得るために、私にその場所を見せてくれました。それは今のマハーカーリー洞窟通 りに面した所です。シャーはその建設のために一所懸命働きました。シャーの仕事を完成させるために多くの人が手伝いました。他の人々の助けなしには、これだけの規模の仕事を進めることは不可能です。善い仕事を手がけるときは、最初にいくらかの障害に出遭うものです。しかし、決してやる気を失ってはなりません。
 神々(デーヴァ)と魔物(ダーナヴァ)たちが乳海を掻き混ぜたとき、最初に出てきたものは猛毒でした。しかし、彼らはその作業をやめませんでした。揺らぐことのない決意をもって努力を続け、とうとう神聖な甘露を手に入れることができました。私たちのハートは乳海に喩えることができます。そして、霊性修行(サーダナ)は、攪拌のプロセスに喩えることができます。霊性修行を始めると、初めのうちは障害がつきものです。障害によって目標から目をそらされることなく、心からの信じて努力を続けなければなりません。そうして初めて、崇高な、至福に満ちた状態に到達できるのです。過去において、多くの人々が、巡礼所を作るに当たって、多くの人々が多大な困難に耐え忍ばなければなりませんでした。バドラーチャラムは、そのような聖地の一つです。アーディ・シャンカラ〔不二一元論を説いた哲人〕は、肉体的な困難をものともせずに、インドの南の端から北の端まで歩いて、バドリーナートとアマルナートとケーダールナートに巡礼所を置きました。

どんな人であれ、大きな仕事を達成するには、他の人々の協力を得なければなりません。一体性があるところには至福があります。このカリの時代においては、もはや人々は一体性の精神をもっていません。一体性も純粋さもありません。そのため、人の心には敵対心が侵入し、問題や混乱の原因となっています。実際、今の時代に一番必要とされているものは一体性です。人類の真の力は一体性の中にあります。思考はそのまま行動に表れます。行動はそのまま結果 に表れます。今日、人間が人生のゴールに到達できないのは、神聖な思考を抱かないからです。何よりも先に、人は神聖な思考を抱かなければなりません。

自分は神を愛しているのだと言って、自分自身を騙している人々がたくさんいます。しかし、彼らは肉体意識でいっぱいで、お金や物質的なものを欲しがります。そのような愛は、まったく真の愛ではあり得ません。それは人工的な愛です。多くの人が私に、
「スワミ、あなたを愛しています。どうか私たちを近くに引き寄せて、大事に愛してください」
といった手紙を書いてきます。ここでスワミが強く言っておきたいのは、サイを手に入れるのはそれほど簡単なことではない、ということです。あなたは私を愛していると言うかもしれません。しかし、どうして私はあなたを信じることができるでしょう? あなたの愛には犠牲の精神があるでしょうか? あなたの言葉と行動には一貫性がありません。あなたは何かを約束しても、次の日にはその約束を破ります。そのような詐欺師の愛をどうやって信じることができるでしょう?
 真の永遠なる愛はハートから生まれます。真の愛はハートとハートの関係です。それは、万人の内にあるアートマの原理に関係しています。アートマは意識の根源です。アートマ〔真我〕とブラフマン〔神〕は同じものです。ハートから生まれた愛は、永遠にして尽きることのない、不二一元の至福をもたらします。しかし、今日、そのような愛はどこにあるでしょう? 皆さんは、話をするときは英雄ですが、実践においてはゼロです。今日、世界はそのような人々に騙されています。ハートに真の愛がある人は、大げさなことを言いません。彼らは、その愛を行動で示します。今日、人々は、自分の言葉を実行に移すことなく、多くのことを語ります。そのような人々は泥棒にほかなりません。そのような良心のない人々を信じて頼っていたら、どうして人生の目標を達成することができるでしょう?
 ハートは溶けて神に向かって流れていかなければなりません。そうして初めて、神の恩寵を得ることができるのです。人々は、好き勝手な話をするかもしれませんが、それに影響されてはなりません。困難や苦労を気にかけず、神の原則をしっかり守って、人生の目標を達成しなさい。今の人々には、人生の目標を達成しようとする意志と決断力が欠けています。人生の目標を理解していない人が、どうしてそれを達成することができるでしょう? 真の愛は砕いて断片にすることはできません。神への愛をもつと同時に、一時的な物事や関係を愛することはできません。砕かれて断片にされた愛は人工的なものにすぎません。あなたには、ハートは一つしかありません。それをいくつもの断片に砕いて、さまざまな人に与えることはできません。ラッドゥー〔インド菓子〕やサトウキビは細かく分けて人々に配ることができますが、愛はそのようなものではありません。愛は永遠の真理です。愛は甘露のように甘く、至福に満ちています。人々は、尽きることのない内なる至福を無視して、世俗の道をたどっています。世俗的な道に至福があると考えているのです。そのような考えは想像の産物にすぎません。完全な信仰心と固い決意をもって、試練や苦難を省みることなく、神に到達する努力をする人こそが、真の帰依者です。

決意すべきことを決意し、成功するまでそれを貫くべし
願うべきことを願い、その願いが叶うまでそれを貫くべし
求めるべきものを求め、手に入れるまでそれをあきらめてはならぬ
考えるべきことを考え、成功するまでそれを貫くべし
神の心は溶け、神はあなたの願いに屈するに違いない
自分のことは一切考えず、心の底から神に求めるべし
耐え忍び、粘り強く、決してあきらめてはならぬ
いったん決断したことを翻して後戻りをしないことこそが、
帰依者の特質なのだから

(テルグ語の詩)

現代の帰依者たちは、神すらも甘い言葉と人工的な愛で騙そうとしています。そのような人々は決して神を手に入れることはできません。あなたは揺るぎない信仰心をもっていなければなりません。危険や困難のときでさえ、信仰心はしっかりと定まっていなければなりません。神を経験できるのは、困難なときのみです。「勤勉は豊かな報酬をもたらす」という諺があります。また、「幸せによって幸せを手に入れることはできない」とも言われています。困難を神の贈り物と考えて、正しい精神で受け入れなさい。

サルラー・アンマ〔アンマは母の意〕とインドゥラル・シャーは、当時、無数の困難に直面 しなければなりませんでした。二人は勇気と不屈の精神であらゆる困難を克服しました。二人はボンベイに住んでいますが、あそこは普通 の都市ではありません。Bombay(ボンベイ)はBomb(爆弾)のような所です。ボンベイでは、良いことでも悪いことでも、何をするときにも困難に出遭います。そのような場所にいながら、二人は立派な仕事をしました。実際、インドゥラル・シャーは多くの人々に面 倒をもちかけられました。しかし、シャーは揺るぎない信愛(バクティ)をもって仕事を続け、成功を収めました。どんなことを成し遂げるにも、神の恩寵が必要です。
 大きな仕事を達成するには、他の人々の援助を求めなければなりません。神の仕事に携わっている人は、どんな障害にも立ち向かう覚悟が必要です。インドゥラル・シャーの人生は、そのことを十分に立証しています。シャーは、これまで40年にわたって、強い信仰心と決断力をもってサイに奉仕してきました。世界中を回ってサイの教えを広めました。人々が疑念をもってやって来ると、いつでも最も適切な答えを示して、皆の疑いを取り除きました。人は、世俗的な課題であれ、霊的な課題であれ、いかなる課題にも取り組む準備を整えていなければなりません。シャー夫妻は、肉体的にも多大なエネルギーを割いて、オーガニゼーションのためにたゆまず働いてきました。

私は皆さんに、ある小さな出来事を話したいと思います。先月、シャーは私に会うためにバンガロールへやって来ました。そして、私がベッドに休んでいるのを見て非常に悲しみました。口には出しませんでしたが、シャーはスワミが早く良くなるようにと、心の中で祈っていました。シャーは、絶えずスワミの健康を案じていたので、この一ヶ月、食事も睡眠も十分にとっていません。その結果 、体が弱ってしまいました。それまでは、シャーは常に健康を維持していました。シャーには、オーガニゼーションの将来のための計画がたくさんあります。シャーは、それらの計画を実行するための力をスワミに与えて欲しいと祈っています。サララー・アンマとインドゥラル・シャーは、共にスワミの健康を非常に心配して、いつもスワミのことを考えていました。シャー夫婦は他の人々の言葉に影響されることはありません。二人は自分の確信を拠り所としています。

肉体意識を手放してアートマ意識を持ちなさい

誰もスワミの健康を心配する必要はありません。スワミには何の危険も降りかかることはありません。スワミは、あらゆる困難や難問を、無傷で通 り抜けます。そして、あらゆる成功を収めるでしょう。肉体面では何らかの変化があるかもしれません。それは一時的なものにすぎず、永続するものではありません。ですから、スワミは、皆さんに勇気をもってほしいと思います。今、私は回復して、こうして皆さんの前に立っています。私が使った薬は何でしょう? 帰依者たちの熱烈な祈りこそが私の薬です。この一ヶ月の間、マドラス(現在のチェンナイ)やハイダラーバードや、バンガロールやムンバイで、帰依者たちは祈りと霊的な活動を盛んに行ってきました。どの家でもバジャンやナーマスマラナが行われました。一部の帰依者たちは苦行や供犠(ヤグニャ)を行いました。このようにして、スワミの健康を祈るいくつもの霊的活動が行われました。私が皆さんの前に立って語りかけることができるのは、そのような熱心なお祈りのおかげです。私自身は、この苦しみを望むことも、それが癒されることも望みませんでした。皆さんが、この体の苦痛が癒されることを望み、祈りによってその願いは叶えられました。この体は私のものではありません。この体は皆さんのものです。ですから、この体の世話をするのは皆さんの責任です。私は体(デーハ)ではありません。私は体に宿る者(デーヒ)です。

肉体は五元素によって作られており、いつかは必ず消滅する
しかし、内在者は 生まれることも死ぬこともない
内在者は、いかなる執着も持たない永遠の照覧者
実を言えば、アートマの姿をとった内在者は、まさに神にほかならない

(テルグ語の詩)

アートマは、生まれることも死ぬこともありません。また、アートマには痛みも苦しみもありません。皆さんは信じないかもしれませんが、医師たちが、私の腰の怪我の具合を調べました。他の人であれば、普通 に歩けるようになるまで、少なくとも2、3年はかかっていたことでしょう。股関節の大腿骨の頭の丸い部分が砕けて割れたのです。それを支える筋肉はありませんでした。私の骨はダイヤモンドのように硬く、それを元通 りに付けることはできませんでした。そこで、医師たちはそこにスチールを入れて手術をしました。そういう複雑な手術を受けたあと、普通 に歩けるようになるには何年もの年月がかかります。そのようなことはいっさい気にかけず、私は歩き始めました。医師たちは、この体を守るためにあらゆる努力を傾けました。医師たちは義務を果 たしたのです。  
  しかし、私はこの体のことはまったく考えませんでした。私は、人は肉体に執着すべきではないという理想の手本を示しました。今だけでなく、2年前から、私は皆さんに、肉体への執着を手放すように繰り返し説き勧めてきました。徐々に肉体意識(デーハビーマナ)を手放して、アートマ意識(アートマビーマナ)を持ちなさい。あなたは肉体ではありません。あなたはアートマの化身なのです。肉体は生まれては去っていきます。苦しむのは体であって、アートマが苦しむことはありません。

腰の骨を折ったとき、私は足を動かすことすらできませんでした。少しでも動かすと、電気ショックのような激痛が走りました。私は医師たちに、
「これは私の身体ではありません。これはあなた方のものです。あなた方が適切だと思うような処置をしなさい」
と言いました。肉体意識を捨てた者には、まったく苦しみはありません。
 サティヤジット〔サイ大学の卒業生〕は、いつもスワミといっしょにいました。固い決意で、いかなるときにもスワミといっしょにいると誓いを立てました。私がバンで病院に連れて行かれるとき、サティヤジットは私の頭のすぐそばに座っていました。私が手術室に運ばれたときも、サティヤジットはついて来ました。普通 、手術が行われるときは、誰も手術室には入れません。しかし、サティヤジットはスワミのもとを離れたくありませんでした。医師たちがスワミの体に何をするか見たかったのです。そこで、サティヤジットは手術衣を着て、手術室に入りました。私はサティヤジットに、
「君は血を見るのに耐えられないだろう。だから外で待っていなさい」
と言いました。しかし、サティヤジットは、どうしても手術室に留まるのを許してくださいと、愛を込めて言いました。手術の時、サティヤジットは私といっしょにいました。そして、医師たちが骨にハンマーで穴を開けるのを見ていました。手術が終わったあと、サティヤジットは、
「スワミはどうやって、あれほどの痛みと苦しみに耐えることがおできになったのですか?」
と尋ねました。私は、
「君のような帰依者の愛が、私の力なのだよ」
と言いました。愛の力は最強です。皆さんは、愛の力で、いかなる苦痛や危険も克服することができます。
愛のこもった奉仕と断固たる信仰心

あなたは、疑いのかけらもない、強く、揺らぐことのない信仰心をもたなければなりません。あなたの思いと言葉と行いは一致していなければなりません。強くて揺るぎない信仰心をもっている帰依者は、スワミの恩寵を受けています。このひと月の間に、あらゆる村でバジャンが行われました。人々は、スワミが一日も早く回復してダルシャンを与えてくれるようにということだけを祈っていました。スワミの健康が、すべての人の心の最優先事項でした。私は、私の早い回復を願う帰依者たちから、おびただしい数の電報を受け取りました。多くの帰依者は、非常に心配して、心の中で祈っていました。帰依者の心配は苦行に変わりました。その苦行の力が、スワミに健康をもたらしたのです。帰依者の愛と信愛のおかげで、スワミは今、健康でいることができるのです。私は、自分自身を癒すためには、一度も神の力を使ったことがありません。もし私が神の力を使っていたら、一瞬のうちに苦痛を癒すことができたでしょう。私には、自分は癒されるべきだという利己的な感情がありません。私にはひとかけらの利己心もありません。すべての人が幸福であるべきです。これが私の唯一の欲求です。

すべての人が幸せを味わうべきであるということ――これがバーラタの文化の本質です。今はカリの時代〔末世〕です。この時代には、人々は疑いを持つようになります。特に、大学院を出ていたり、複数の学位 を持っているような、高い教育を受けた若い世代の人々はそうです。カリの時代の影響と、現代的な教育を受けたことで、若い世代が神への揺るぎない信仰を育てることができないのは自然の成り行きです。真夜中の1時、2時といったような時間でも、私がベッドから起き上がって見回すと、サティヤジットとディリップの二人の青年が、一人は私の頭のそばに、もう一人は私の足元に座って、この体の無事を見守っていました。
 二人の男子のうちの一人、ディリップは、ここのスーパー・スペシャリティー・ホスピタル〔シュリ・サティアヤ・サイ高度専門病院〕で働いています。ディリップは最近足の骨を折って、まだギブスをはめているにもかかわらず、スワミの具合が悪いことを聞いた日の朝、スワミに奉仕するためにバンガロールへやって来ました。この青年たちは二人とも、おおいなる信愛をもってスワミの世話をしてくれました。スワミへの愛と信愛に関しては、この二人に匹敵する者はいないと、はっきり言うことができます。人々は機械的に、口先だけで「愛」、「愛」と言うかもしれませんが、この二人の青年がしたような立派な奉仕は、誰にもできません。夜中でも、私が小さな声で「サティヤ」と言うだけで、すぐに起きて、私の世話をしてくれました。サティヤジットは実に敏感に、注意深くしていました。私に食事を食べさせることも含めて、二人は何から何まで私の世話をしてくれました。
 実際、二人は、スワミに仕えていた間、自分たちの個人的な欲求をまったく忘れていました。これはすべて、二人の両親が積んできた立派な徳のおかげです。この二人の青年が、それほど崇高な信愛と奉仕の精神を培うことができたのは、神に対する二人の両親の信愛と、両親が積んだ徳のおかげにほかなりません。ですから、まず両親が神の帰にらなければなりません。私は、この二人の青年に、自分はもう気分がよくなったから、二人とも私のそばを離れて食事をしていいと言いました。しかし、二人は私から離れませんでした。帰依者たちが心配してスワミの状況を尋ねる電話をかけてきたときは、いつでも二人は、スワミは大丈夫ですと簡単に答えて、決して詳しい話はしませんでした。二人は、帰依者からの問い合わせに、大きな愛をもって機知を利かせて答えていました。二人はいかにして、そのような大きな愛と機知を身につけたのでしょう? それは高い教養や年齢によるものではありません。それは、スワミへの強い信愛と信仰心を持っていたからにほかなりません。それこそが真の優秀さです。そのような崇高な資質に基づいて、二人はスワミに立派な奉仕をしました。
 機会さえあればスワミに奉仕する準備ができている人々は、何人かいます。しかし、誰もそのような機会を手に入れることはできませんでした。二人はその稀な機会を手に入れることができ、それを最大限に活用しました。スワミの身辺に仕えること以上にすばらしい霊性修行がどこにあるでしょう? スワミに自分の愛を認められること以上に大きな満足がどこにあるでしょう? これほど若い年齢で、一ヶ月もの間、昼夜を問わず、そのような偉大な奉仕を絶え間なく行う人は、どこにも見つけることができないでしょう。愛と奉仕について語る人々もいるかもしれませんが、この二人ほど愛に満ちた献身的な青年を見つけることはできないでしょう。私は、二人が大きな信仰心と信愛と揺るぎない心をもっているのを見ました。二人がスワミの心を勝ち得ることができたのは、そのためです。信仰心と信愛があれば、人は大きな仕事を成し遂げることができます。山を持ち上げることさえできるでしょう。
 ハヌマーンの例を考えてごらんなさい。ラクシュマナが戦場で倒れて意識を失ったとき、ラーマは大変心を痛めました。そのときハヌマーンは、ラクシュマナの意識を回復させるために、サンジーヴァニーという薬草を採りに行かされました。ハヌマーンは、その薬草がある正確な場所を知りませんでした。そこで、薬草の生えている山を丸ごとを持ち上げて、ラーマの前に運んで来ました。同様に、神の帰依者たる者は、たとえどれほど大きな仕事であっても、いかなる任務でも、引き受ける覚悟が必要です。一般 に、人々は困難からは逃げて、幸せを追い求める傾向があります。そうであってはなりません。人は、あらゆる覚悟ができていなければなりません。
 人間の体は、さまざまな病気や困難に遭いやすいものです。そうしたことに心を痛めるべきではありません。神性への揺るぎない信仰を培わなければなりません。そのような信仰(ヴィシュワーサ)が、あなたの呼吸(シュワーサ)とならなければなりません。今日、私が皆さんの前に立って講話をすることができるのは、この二人の青年が立派な奉仕をしてくれたからにほかなりません。

もう一つ、話しておかなければならないことがあります。スワミの具合が悪かった時期に、世界中の何百万もの人々が、スワミが早く回復するようにと、休みなく祈り続けていました。中には、誓願(ヴラタ)〔断食などの宗教的な誓願〕を立てた人々もいます。スワミの健康に関する、数え切れないほどの問い合わせの電報や電話がありました。特に、アーンドラ・プラデーシュ州議会の(女性の会の)会長であるギーター・レッディーは、ブリンダーヴァンに一ヶ月滞在して、スワミの健康を祈り、何とかしてスワミのダルシャンを得たいと願っていました。その時は、誰もスワミの住居に入ることを許さていなかったので、スワミのダルシャンを受ける機会が得られなかったのです。それでも彼女は、ハイダラーバードでどうしても果 たすべき仕事があったにもかかわらず、強い決意をもって滞在を続けました。その間は、バンガロールとハイダラーバードの間をほとんど毎日飛行機で往復するような状態でしたが、多額の出費や、家でのさまざまな困難も気に留めませんでした。ギーターが心から望んだのは、スワミが早く回復することだけでした。ギーターはスワミを、自分の命そのものと考えていました。それこそが、スワミを喜ばせることのできる、真の愛と信愛です。信愛と神への全託は、どれほど大きな苦しみをも癒すことができます。

神の御名を唱えることでどんな病も治すことができる

もう一つの小さな出来事を話したいと思います。米国に一人の病人がいました。その女性は、医師に診断された病気を非常に怖がっていました。心臓に癌性腫瘍があると診断されたのです。彼女は夫と連れ立って、スワミの恩寵を祈り求めてバンガロールに来ました。私は、癌を消してあげるから、もうそのことは何も心配しなくていいと保証しました。一週間治療を受けたのち、癌は消えてしまいました! 小さな悪性の腫瘍が残りましたが、私は医師たちにそれを手術で切除するように指示しました。医師たちは私の指示通 りに手術を行い、彼女は手術の翌日から歩き出しました! その女性は今、非常に健康になって、普通 に生活しています。
  こうした事例はいくつかあります。神の御名を唱えることによって、不治の病すらも治すことができます。彼女のしたことは、まさにそれでした。その女性には、「サイ ラーム、サイ ラーム」と、絶えず神の御名を唱え続ける習慣があるのです。そのように神の御名を唱えている人々は何人かいます。私は、何人かの人の、きわめて悪性の不治の病を癒しました。また、私がさまざまな方法で助けた人もたくさんいます。その人たちが皆、今度はスワミの回復を祈ってくれたのです。彼らの祈りがあったからこそ、私は早く回復することができたのです。

それだけではありません。私は9年ほど前に、左目の視力を失いました。その間、私は片方の目でしかものを見ていませんでした。我々の病院の医師たちと、ナラシンハ・ムールティ(ブリンダーヴァンのサイ大学の学寮長)が、私に、腰の骨の手術といっしょに左目の手術も受けてくださいと懇願しました。私は、片方の目だけでも十分働くことができるから、もう一つの目の手術は必要ないと言いました。しかし、彼らの祈りに負けて、私は目の手術も受けることになりました。

私が、プラシャーンティ・ニラヤムのサイ・クルワント・ホールに出ていって朝7時に帰依者たちにダルシャンを与えたいと思ったとき、サティヤジットは、早朝のダルシャンで私の身体にかかる負担を考えて、7時半までダルシャンを待ってくださいと懇願しました。このように、サティヤジットは、どんな瞬間にも私の幸せを気遣っています。サティヤジットだけでなく、崇高な想いをもった帰依者たちは何人かいます。聖者ティヤーガラージャが、「イェンダロー マハーヌバーブル」(偉大な聖者は数多い)という、不滅のキールタン〔独唱〕を歌ったのは、そのためです。
 実際、バーラタ〔インド〕が平和に存続しているのは、そのような崇高な魂たちのおかげにほかなりません。バーラタの国は、単なる土の塊ではありません。バーラタは、まさしく全世界の心臓に当たります。もしバーラタが平穏無事であれば、全世界が安全です。不幸なことに、バーラタの国民はこの真理に気付いていません。どこを見ても、利己主義がはびこっています。ですから、利己的な動機を捨てて、他の人々を助ける活動に携わりなさい。高齢者の幸せを祈りなさい。万人の幸福を祈りなさい。それが、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」〔世界の皆が幸せになりますように〕という祈りの真の意味です。
 全世界の幸福のために心の底から祈りなさい。そうすれば、必ず皆さんは繁栄します。私は、長い時間話をして、皆さんに不便をかけたことと思います。サララー・アンマとインドゥラル・シャーの二人をお手本にして、皆さんがすべての人々に奉仕の精神を植えつけるよう望みます。また、バルヴィカスと婦人部が十分に発展することを望みます。二人が夫婦そろって、長く健康で幸せな一生を送りますように。

(バガヴァンは、「ハリ バジャナ ビナー スカ シャーンティ ナヒン」のバジャンで御講話を締めくくられました)

 

2003年7月13日、グルプールニマー
プラシャーンティ・ニラヤム
Sathya Sai Speaks Vol.36 Part2 C2

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