サイババの御言葉

日付:2004年11月23日・場所:プラシャーンティ ニラヤムのサイ クルワントホール
バガヴァン シュリ サティア サイババ様による79歳御降誕祭の御講話

あなたの人生を社会への奉仕に捧げなさい

あらゆる学歴や社会的地位も、慈善行為や奉仕も、
真理、正しい行い、愛、平安という四つの徳がなくては
ほとんど何の価値もありません。

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!
 皆さん方は、誰もがこの世に来た本当の目的を忘れています。あなたがどこにいようとも、三つのことを必ず覚えていなければなりません。それは、あなたはどこから来たのか? 今、どこにいるのか? そして、何の目的でここに来たのか? ということです。あなたが郵便物や手紙をポストに投函するとしましょう。それには差出人の住所と宛先の住所が書かれていなければなりません。どちらも書かれていないとき、その郵便物はどこへ行くでしょう? 「配達不能郵便物」の事務所に行ってしまいます。これと同じように、あなたは今、差出人と宛先の住所なしでこの世にいます。そういう人にどんなことが起きるかは、容易に想像がつきます。ですから、あなたは先の三つの質問のうち、最低一つは自分で答えを見つけなければなりません。そうでなければ、あなたの人生そのものが無駄 になってしまいます。

ここで短い話をしましょう。アーンドラ プラデーシュ州のゴーダーヴァリー川の東西のデルタ地域に住むビジネスマンは、舟で川を渡ります。あるとき、一人のビジネスマンが舟で旅をしていました。舟にはそのビジネスマンと船頭以外誰もいませんでした。通 常、人々は旅をするとき、退屈しのぎに話をしたがります。というわけで、その男も時間をつぶすために船頭と話しを始めました。彼は船頭に、「新聞は持っているかね?」と尋ねました。
 船頭は、「お客さん、新聞は持ってません。私は読み書きができないんです」と答えました。
 これに対してビジネスマンは、「何だって! 読み書きができないのなら君の人生の四分の一はガンジス河に流されたようなものだ」と言いました。船頭は自分の情けない状態を残念に思い、黙っていました。
 数分経って、再びビジネスマンは尋ねました。「ねえ君! ボンベイ市場しじょうでの、今の金と銀の相場を知っているかい?」
 船頭は、「お客さん! 私はきんの取り引きはしたことがありません。だから、ボンベイ市場の金銀の相場なんて知りませんよ」と答えました。そこでビジネスマンは言いました。「金の取り引きをしたことがないのなら、君の人生の半分はガンジス河の水に流されたようなもんだ」。さらに会話は続きました。
 船頭がはめている腕時計を見て、ビジネスマンはまた尋ねました。「ねえ君! 今何時だい?」哀れな船頭は、腕時計をしてはいましたが、時間の読み方を知りませんでした。ビジネスマンは重ねて、「それなら、何で時計をしているんだね?」と聞きました。
 船頭は答えました。「時間の読み方は知らなくても、最近は腕時計をするのがはやっていましてね、だから私もはめているんですよ」
 そこで、ビジネスマンが言いました。「腕時計さえ読めないのなら君の人生の四分の三はガンジス河に流されたようなもんだ」
 そうこうするうちに、ひどい強風が吹き始め、川には大きな波がうねり始めました。船は上や下へと波に揺られて不安定な状態になりました。そこで船頭はビジネスマンに尋ねました。「ところでお客さん! あなたは泳げますか?」
 ビジネスマンは答えました。「ああ! 私は泳げないんだ」
 そこで今度は、船頭が言う番でした。「それなら、旦那の人生すべてがガンジス河の水に流されてしまいますよ」

私たちは今日、同じようにこの世という川の中で翻弄されています。しかし、残念なことに、私たちは、自分がなぜここにいるのか、この世で何を学ばなければならないのか、自分はどこへ行かなければならないのか、また、どんなことがわかればそこに行き着くことができるのか、といったことを知ろうとする努力をまったくしていません。こういった方面 に対して無知であることから、私たちの人生すべてがガンジス河の藻くずになろうとしています。ですから、私たちはまず、自分がなぜここへ来たのか? 知らなければならないことは何なのか? 自分たちはこの先どこへ行くのか? という疑問に対する答えを見つける努力をしなければなりません。もし、この中の、少なくともどれか一つの答えすら見つけることができないならば、人生という旅は目的を失います。私たちが「どこから」という差出人の住所と、「どこへ」という宛先の住所と、今、自分のいる現住所を知っているときに限って、私たちの人生は意味のある神聖なものになるのです。

マイケル ゴールドスティン博士(プラシャーンティ評議会の議長でスワミの帰依者)とその奥さんは、よくプッタパルティを訪れます。ある日、私が大学を訪れようとしていたとき、彼がやって来て、「スワミ、もしお許しがいただけるなら、私も大学へお供させていただきたいのですが」と頼みました。私は一緒に来るように言いました。車で走っているときに、私はゴールドスティン博士に、「これからどんな予定でいますか?」と尋ねました。
 彼は、「スワミ、私は今日出発して、帰国しなければなりません」と答えました。そこで私は、今日は出発しないようにと忠告しました。ゴールドスティンは再び私に言いました。「スワミ、私はここを今日出発しますが、ボンベイからの便に乗るのは明日です」
 そのとき私は、「そういうことを私に言ってはいけない。私が行ってはいけないと言うときは、それが最終決定だ」と、きつく言いました。
 ゴールドスティンはその日に出発すれば、自分の命が大きな危険にさらされることを知りませんでした。ついに私は、「よろしい。それほど望むのなら行きなさい」と言いました。
 そこでゴールドスティンは部屋に戻って、ボンベイに行くために荷物をまとめました。そしてボンベイからアメリカ行きの飛行機に乗りました。飛行機が飛び立って間もなく、その飛行機にはハイジャッカーたちが乗っていたことがわかりました。機内の空気は極度の緊張感に包まれました。二人のハイジャッカーが入り口に立って見張り、別 の二人が弾をいっぱいに込めた銃で乗客に狙いをつけながら機内を歩き回りました。ようやくゴールドスティンは、スワミがなぜ、この日、この飛行機に自分を乗せたくなかったかを理解しました。こうした状況ではゴールドスティンは何もすることができず、スワミだけを頼りにして祈っていました。彼の妻は立派なスワミの帰依者です。彼女は「サイラム、サイラム、サイラム」とスワミの名前を唱え始めました。

飛行機が高度を上げると、ハイジャッカーたちは乗客に向けて発砲し始めました。乗客たちはどうすることもできず、恐怖におののきました。ハイジャッカーたちが銃を撃つたびに、機内のあちこちに死体が転がりました。ゴールドスティン夫妻は機体の前方に乗っていました。ハイジャッカーは二人の周りの乗客を撃ち始めました。二人は、次は自分たちの番だと思いました。そのときゴールドスティンは、夫人に、「スワミはこの日に出発するなとおっしゃったのだが、私はスワミの忠告をまったく聞かなかった。だからこんなことになったんだ」と言いました。

やがて、一人のハイジャッカーが夫婦に目をつけました。しかし、ゴールドスティン夫人はすべてを忘れて、絶え間なくスワミの名前を唱えていました。スワミの名前を唱えることによって不思議な力が働き、ゴールドスティン夫人は命を救われました。そのときゴールドスティンは立ちあがって、飛行機の出入り口に立ちました。ところがハイジャッカーたちは、ゴールドスティンがあのように身体の大きな人であるにもかかわらず、彼に気がつきませんでした。このように、スワミの恩寵によって、ゴールドスティンの命は救われたのです。夫妻はその後も、食事も水も睡眠もとれないまま人質として長い間飛行機の中に囚われていました。夫妻は意気消沈していました。

ゴールドスティン夫人はスワミに真剣に帰依しています。通 常、女性は男性より帰依心が強いものです。それは男性に帰依心がないということではありませんが、男性はそれを外に表さないのです。夫人はゴールドスティンに、「心配しないで、スワミを深く思っていなさい」と言いました。この時点で、無慈悲にもハイジャッカーたちは、男も女も子どもたちまでも撃ち始めました。しかしながら、ゴールドスティン夫妻は、「サイラム、サイラム、サイラム」と、スワミに祈り続けました。夫妻は目を閉じて静かにスワミに祈っていました。そのうち、ハイジャッカーたちは銃の弾丸をすべて使い果 たしてしまい、警察に逮捕されました。ゴールドスティン夫妻は解放され、別 の飛行機でアメリカに帰りました。しかし、この過酷な体験は夫妻の心を悩ませ続けました。数日後、事件の調査のために警察が訪れました。ゴールドスティンは賠償金を提示されましたが、受け取りませんでした。

二、三ヶ月後、ゴールドスティンは再びプッタパルティに来て、スワミのダルシャンを受けました。そのとき彼は、どんな状況になっても、ナーマスマラナ(神の御名を唱えること)さえしていれば何も恐れる必要はないということを、自分の体験を通 じて知っていました。スワミのダルシャンを受けたのち、ゴールドスティンの心に静けさが戻りました。それからというもの、ゴールドスティンは、スワミが帰り旅のことを尋ねると、神の意志に任せるようになりました。彼は、その件はスワミの手にゆだねたほうがよいことに気がついたのです。それ以来、ゴールドスティンは、スワミの言葉に揺るぎない信頼をもって、それをしっかり守るようになりました。

今の人々は、自分がどこから来てどこへ行くのかを悟ることができないでいます。人々は、このような(ゴールドスティン博士が体験したような)体験を経て、初めて信仰の威力に気がつくのです。人々はこの世に生まれてきて、何らかの形で時間を過ごします。誰かに、どのように時間を過ごしているかを聞かれると、人々は、食事や安楽な眠りを楽しむためにこの世に生を受けたのだと答えます。しかしながら、人間は単に食事や飲み物を楽しむだけのためにこの世に生まれたのではないということを理解するべきです。アーディ シャンカラは、有名な「バジャ ゴーヴィンダム」という歌の中で、これと同じ真理を説明しています。

バジャ ゴーヴィンダム、 バジャ ゴーヴィンダム
ゴーヴィンダム バジャ ムーダ マテー
サムプラプテー サンニヒテー カーレー
ナヒ ナヒ ラクシャティ ドゥックン カラネー

おお、愚かな人間よ、ゴーヴィンダの御名を唱えるがよい
文法の規則は、(人生の)最後の時が来たとき
おまえたちを救ってはくれないのだ

ほとんどの人は、人間としての一生が自分に与えられたのはなぜかと尋ねられれば、それは食べ、飲み、眠り、死ぬ ためだと答えます。このような推測は完全に間違っています。人が一生を通じて成し遂げなければならないことがいくつかあります。人間としてこの世に生まれてくる目的は、食べ物や安楽を楽しむためではありません。教育を受けるためですらありません。人の誕生の目的は、それとはまったく別 なものであり、人々はそれを忘れてしまいました。皆さんは、人生を成就して、自分の誕生を神聖なものにしなくてはなりません。肉体は、生まれ、成長し、死に、最後には腐敗します。肉体が死ぬ 前に、人はこの世に生まれてきた目的を成就しなければなりません。

愛の化身である皆さん!
 人生の旅路には、通らなければならないいくつかの試練や苦難があります。人はそれらに勇敢に立ち向かっていくことのできる力を身につけなければなりません。それは霊性の力です。自信を失って、途中で努力をやめてはなりません。当然このバヴァ サーガラ(人生の大海)には、激しい高波が起きて、あなたの船が上へ下へと揺さぶられることもあるでしょう。

プナラピ ギャナナム プラナピ マラナム
プラナピ ギャナニ ジャタレー サヤナム
イハ サムサーレー バフ トゥスターレー
クリッパヤパーレー パーヒ ムラーレー

おお、神様、私は生と死の繰り返しから逃れることができません
私は母親の胎内に留まるというたいへんな苦しみを
何度も繰り返して味わっています
世俗的な生活という、この果てしない海を渡るのは、実に難しいことです
どうか私を連れてこの海を渡ってください
そして、解脱をお与えください

人の誕生の目的は、母親の胎内から繰り返し何度も生まれて、目的もなく一生を過ごし、最終的にこの世をあとにすることではありません。人がこの世に生まれてくるのにははっきりとした目的があります。ですから、人はその目的を理解して、人生を神聖なものにしなければなりません。私たちの教養や仕事、そして手にした収入は、すべて目的をもって使わなくてはなりません。今日の学生は生活のために教育を受けます。彼らはお金を稼ぐだけの目的で学位 を得ようとします。自分の腹を満たすために苦労することのどこがそれほどすばらしいのですか? 犬や狐でさえ自分たちの腹を満たします。猿でさえいくつかの芸当を覚えて人々に見てもらうのを、皆さんはサーカスで見たことがあるでしょう。人間として生まれてきた皆さんは、犬や狐や猿のように振る舞ってはいけません。もしそのような振る舞いをするのなら、あなたの教育はいったい何の役に立つのでしょう? あなたの受けた教育は正しい目的のために使わなければなりません。そうして初めて、それは価値あるものになり、あなたの性格に力を与えます。あなたの人生の目的は、単に教育を受けて学位 を取ることだけにあるのではありません。もちろん、勉強してもよいのですが、ただ学位 を取るためだけに勉強するのでは不十分です。

読み書きができる人なら誰でも教養のある人と呼ぶことができるでしょうか?
人間は単に学位を取るだけで、教養のある人と呼ばれる資格があるでしょうか?
美徳を授けないものを教育と呼ぶことができるでしょうか?

(テルグ語の詩)

教育の目的を、人生と、生計を立てるための両方に置くとき、初めてあなたの教育は意味のあるものになります。ですから、すべての人は人生の目的を頭に描いておかなければなりません。「私はMBA(取得が難しいとされている経営学修士号)の試験に合格した。私は多くの学位 をもっている」と考えて自分の成功に有頂天になることが何の役に立つでしょう。これらの学位 は、正しく使わなければなりません。人間だけが自分の人生の目的を理解する能力をもっています。もしあなたが、「私はこの世に生まれて教育を受け、お金を稼いだ。銀行に十分な預金があり、子どもたちには十分な教育を与え、より高い教育を受けさせるために海外に留学させた」と考えて満足しているとしても、こうしたことだけが人生の目的なのではありません。あなたはなぜこの世に生まれてきたかという目的を決して忘れてはなりません。残念なことに今日、あなたは人生の目的を忘れてしまい、無意味な行動にふけっています。あなた方は生きている限り、最後の息を引き取るまで、平安を感じていなくてはなりません。あなたは真理と永遠の至福を手に入れるべきです。

マハトマ ガンジーはロンドンに行き、司法弁護士の資格を取りました。ガンジーは自分の教育を社会への奉仕に活かして人生の目的を成就したいと考えました。ですから、ガンジーは母国に帰ったのち、インド国民会議派に加わりました。ガンジーは国の独立を獲得するために自分の一生を犠牲にしました。ガンジーは粗末なドーティ(腰巻き布)と、もう一枚の布で上半身を被うだけになりました。解放運動の最中に、ガンジーは北インドの諸州で何度も苦境に立たされました。ラクナウ(地名)では警官から棍棒で叩かれました。しかし、警察の手で何度も困難や拷問を経験させられたにもかかわらず、彼は国家の独立を獲得するという決意を放棄しませんでした。ガンジーは法律事務所を開業しました。そのときでさえ、ガンジーの人生は順調にはいきませんでした。ガンジーはインド国民会議派を代表して独立運動に加わり、英国から非常に苦しめられました。それにもかかわらず、ガンジーは志を失いませんでした。

ガンジーの妻であったカストゥルバは高貴な女性です。カストゥルパはガンジーが監獄に入れられているときでさえ、つねに、たいへん献身的に夫に仕えました。それと同時に、カストゥルパは国家へ奉仕もしていました。終始一貫してカストゥルパを守っていたのは、彼女の奉仕の精神にほかなりません。独立運動に参加していた間、夫婦が離ればなれになった時期が何度かありました。しかし、カストゥルバは何が起きようともそれは自分のために起きているのだと考えて、その状況を受け入れました。このように、高貴な心で他者に奉仕する人々はつねに善いことのみを見るのです。ついに、国は独立を獲得し、ジャワハルラル ネルーが初代首相に就任しました。

スバーシュ チャンドラ ボースは、善良な心をもったもう一人の独立運動の偉大な指導者でした。このような犠牲の精神に満ちた人々の努力があって初めて、この国(インド)は独立を獲得できたのです。しかしながら、私たちが求めるべきは、単なる独立だけではありません。私たちは自律を獲得しなければなりません。それが立派なことなのです。独立は外国の統治から解放されるだけの一時的な現象であるのに対し、自律はハートに関することで、心が獲得するものです。

親愛なる学生諸君!
 国家のためには、自分の命さえ投げ出す覚悟をもたなければなりません。あなたは肉体ではありません。肉体は単なる道具であり、崇高で高貴なことを成し遂げるための手段にすぎません。肉体はこうした崇高で高貴な目的を達成するために使われなければなりません。肉体は私たちが着る衣服のようなものです。衣服はいつの日か朽ちる運命にあります。それまでは肉体は正しく維持されなければなりません。人は、犠牲を通 してしかヨーガ(神と一体になること)を得ることができません。ヴェーダが、「不滅の命は、行動によっても、子孫によっても、財産によっても得られない。それは犠牲を通 して初めて手に入れることができる」と宣言しているのは、そのことです。人間として生まれてきた以上、皆さんは神への奉仕に一生を捧げ、絶えず深く神を思うことに専念しなければなりません。もしそうするなら、いかなる身体の病気もあなたを悩ますことはないでしょう。

ここで話しておきたい小さな例があります。しばらく前に私がバンガロールにいたとき、この身体は風呂場で転びました。そこには、私の世話をしていたサッティヤジットとアチンティヤという二人の学生がいました。二人は私にたいへんよく尽くしました。私は二人に、「私には肉体への執着はありません。あなたたちはこの身体を手術してもよいですが、私はこの肉体とは関係ありません。私はこの肉体ではありません。この肉体がここにある以上、私はなすべき仕事をしなくてはなりません」と言いました。医者たちは私に包帯を巻こうとしましたが私は同意しませんでした。医者たちは私に、骨折が早く治るために手術を受けるように勧めました。私はこの肉体を医者たちの手にゆだね、彼らがやりたいようにさせました。私は歩くことをやめませんでしたが、それは今でも続けています。私には痛みも苦しみもありません。帰依者の中には、スワミが歩くのにたいへん苦労をしており、おそらく大きな痛みがあるのではないかと心配している人がいます。何度も言いますが、私には痛みも苦しみもありません。今日まで、私にはいかなる肉体的な苦痛もありませんでした。このように肉体への執着を犠牲にすれば、皆さんは人生においてどんなことでも達成できます。私は何をしても、したとおりのことを言います。人は言ったことは実践し、実践していることを言わなければなりません。次に述べる言葉はそれを意味しています。

思いと言葉と行動が完全に調和している人は高貴な人である
これらの調和がとれていない者はよこしまな者である

これが真の「人間性」です。医者は反対しますが、私はどれだけの時間でも立っていることができます。今も、私は長い間立っています。私には何の苦痛もありません。私は一錠の薬さえ飲んでいません。包帯もまったく巻いていません。私の生き方が霊性そのものであり、霊性以外の何ものでもありません。私は自らの行動で手本を示しています。

親愛なる学生諸君!
 肉体は多くの苦痛を経験するかもしれません。肉体は水の泡のようなものです。心は気の狂った猿のようです。ですから、私たちは、肉体と心のどちらにも従ってはなりません。私たちは自分の良心に従わなければなりません。私たちは霊的な渇望(真我を愛する心)を育てなければなりません。真我を愛する心が育てば、どんな苦痛にも左右されなくなります。私がこうした困難を通 過しているのは、皆さんに真我を愛する心を教えたいからなのです。私は何の痛みも感じていません。これは本当です。事実を隠しているのではありません。実際、私は痛みがどういうものか知りませんし、痛みを感じることもありません。

私たちは困難に対して勇敢に立ち向かわなければなりません。私がこうした苦痛を自分の身に引き受けたのは、皆さんに、この不動の精神と勇気を教えるためにほかなりません。皆さんは私の理想に従わなければなりません。決して肉体の苦しみに重きをおいてはいけません。肉体への執着を手放しなさい。そして、肉体を正しい活動に従事させなさい。肉体を神への奉仕に携わらせなさい。私たちの肉体は神からの贈り物です。神はなぜ私たちに肉体を与えたのでしょう? それは神への奉仕に献身するためだけなのです。

愛の化身である皆さん!
 肉体は神聖なカルマ(行動)に携わるために与えられました。中には、なぜスワミはあれほどの肉体的な苦痛がありながら疲れないのだろうと不思議に思っている人がいます。特に女性たちは弱さの徴候をいち早く見つけることができます。私は一定の体重を維持して、健康に注意していることを皆さんに保証します。私は体重が増えてもいませんし、病弱にもなっていません。私は素早く歩くことができますが、それをしないのは、医者たちを満足させるためにほかなりません。医者たちは私に、決して速く歩いてはいけないと、特に念を押します。医者たちは私に、「スワミ、どうか速く歩かないでください。つねに二人の学生をお供に連れて、スワミのお世話をさせてください」と忠告しました。私がこの二人の学生を連れているのは、医師たちを喜ばせ、満足させるためだけなのです。私はこの学生たちに不便な思いをさせているわけではありません。この若者たち、アルンとプルシュティは二人とも、私の身辺の世話をするほかにも、それぞれの事務所に行って仕事をしています。私がプルシュティを呼べば、すぐに彼は飛んできます。私は、コップに水をほしいと言って、彼が持ってきてくれた水を飲みます。このようにして、この二人の若者は、絶えず私の世話をしてくれます。二人は強い帰依心と愛で私に奉仕しています。私は誰にも不便をかけていません。

愛の化身である皆さん!
 今日、皆さんはスワミの誕生日を祝っています。事実、この肉体には誕生日があります。この肉体はすでに生まれて78年が経過し、79年目に入ったところです。しかし、私は79歳に見えますか? いいえ、そんな年齢には見えません。今だけではなく、80歳になっても、90歳になっても、私は今のままです。私は決して誰にも他の人には頼りません。私の目も歯も完璧な状態です。普通 は、79歳にもなると、歯は全部なくなってしまい、目は白内障にかかります。皮膚には皺が寄ります。しかし、私には皺一つありません。私は年をとりません。実際、私は老人ではありません。

同様に、皆さんもこのような勇気と自信を培わなければなりません。そうすれば必ずよい気分になります。私だけでなく、皆さん方全員がよい健康状態に恵まれるべきです。しかし、皆さんは自分で自分の健康を害しています。皆さんは、実にさまざまな面 において、肉体的な力を誤用しています。もし皆さんが、肉体を正しく使うようにすれば、スワミの恩寵によって栄えることができます。皆さんは、健全な肉体と健全な精神をもっていれば、どれだけの人々にでも奉仕することができます。ですから、自分の美しさをひけらかすためではなく、他者に奉仕するために、皆さんの身体を健康に保たなければなりません。私でさえ、他の人々に奉仕するためにこの肉体が必要なのです。人類に奉仕するためには、私はどんなことでも、自分の命を犠牲にすることさえ覚悟しています。

同じように、皆さんもいつも他者に奉仕する心構えがなくてはなりません。決して肉体が一番大切だと考えてはなりません。そして、体力を無駄 に使ってはなりません。皆さんは肉体を正しく使わなければなりません。それと同時に精神力も十分に強くしなければなりません。よい学業成績を修めて、人類への奉仕をして人生を聖なるものにしなさい。人生のどのような場面 にも臆せず立ち向かう心構えを、つねにもっておきなさい。それこそが真の人間の本質です。どんなときでも、あなたの奉仕が必要とされれば、「用意ができています。用意ができています。用意ができています」と言って、即座に要求に答えなければなりません。このような勇気と自信を培って、世の中に理想を示しなさい。

肉体は汚れの巣窟であり、病に冒されやすい
それは時と共に変化せざるを得ない
肉体は輪廻の大海を渡ることはできない
肉体は骨が組み合わさってできたもの以外の何ものでもない
ああ、マインドよ!
肉体が永遠であるという妄想に捕われてはいけない
その代わりに神の蓮華の御足に安らぎを求めるがよい

神の蓮華の御足に安息の場を求めなさい。肉体がどれほど苦しくても気に留めてはなりません。あなたのできる範囲で、国に奉仕しなさい。あらゆる小さな機会を活かして国と社会に奉仕しなさい。道で出会ったお婆さんに対する小さな手助けでさえ奉仕です。決して、「この女性を助けることで私に何の見返りがあるのだろう?」などと考えてはなりません。小さな奉仕であっても大きな価値があるのです。ですから、奉仕を続けなさい。人類同胞に対する奉仕ほど偉大なサーダナ(霊性修行)はありません。「奉仕なくして救いは得られません」。他者に奉仕をするうえで出遭うであろういかなる不便さも、気にかけてはなりません。

私は自分の誕生日を大がかりに祝いたいとは思っていません。私がただ一つ心がけているのは、肉体を良いコンディションで維持することであり、この肉体を通 じて他者に奉仕をすることです。つねに皆さんは、社会奉仕に一生を捧げる心づもりをもっていなければなりません。それが真の奉仕です。

(バガヴァンは「ハリ バジャナ ビナ スカ シャーンティ ナヒン」のバジャンで御講話を締めくくられました。

 

翻訳:サティア サイ出版協会
出典:http://www.sssbpt.org/Pages/Prasanthi_Nilayam/79th_Birthday_Discourse.htm

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