サイババの御言葉

日付:2009年7月7日・場所:プラシャーンティ ニラヤム、サイ クルワントホール
グルプールニマーの御講話

無私の奉仕の手本となりなさい


(おめでたいグルプールニマーの朝、シュリ・サティヤ・サイ高等医療機関の会計監査役、サルヴァシュリー・A・V・アッパ・ラーオ氏、シュリ・サティヤ・サイ高等医療機関の上級エンジニア、A・V・サティヤナーラーヤナムルティ氏、シュリ・サティヤ・サイ大学の試験管理員、ナンジュンダイアフ教授、シュリ・サティヤ・サイ大学の総務、A・V・ラクシュミーナラシンハム教授という四人の古参の職員が、バガヴァンからお祝いにあずかりました。夕方、バガヴァンは再びアッパ・ラーオ夫妻とナンジュダイアフ教授夫妻を壇上にお呼びになり、惜しみない祝福を与えてくださいました)


神性アートマの化身である皆さん!

今朝はここにいる人たちの話をする時間がありませんでした。私たちの病院が開業して以来、アッパ・ラーオは病院で会計監査役として働いてきました。この十四年間、ラーオは日夜懸命に働きました。私はラーオの働きを嬉しく思っています。無私の奉仕をするのだという目的だけを携えて、それ以外何の動機も持たずに、ラーオはここにやって来ました。それは高度専門病院の初期の段階でしたから、昼も夜も仕事は山ほどありました。薬の小包の受取、その検品、その記録――ラーオは一人ですべての番をしなければなりませんでした。医療分野の人間でないにもかかわらず、ラーオは患者の面倒さえ看ながら、疲れを知らずに働きました。ラーオは非常に注意深くあらゆる詳細をチェックしました。ラーオは十分満足して働いてきました。この十四年の間ずっと、ラーオは一度たりとも何も求めませんでした。

ラーオはナヤパイサ(一銭)も受け取りませんでした。最近では病院の誰もが二万から三万ルピーを稼ぎます。けれどもラーオは一切お金を受け取りませんでした。ラーオはまた、売店や患者や看護士や医者の世話をするために、毎日何度も階段の上り下りをしなければなりませんでした。ラーオはたった一人で非常に多くのことの面倒を看ました。ラーオは私にも一度も不平を言ったことはありませんでした。

ラーオはずっと自分を順応させてきました。ラーオの仕事には何の欠点もありませんでした。私自身、仕事について尋ねるために時々ラーオを見に行っていました。私たちはこれほどの献身的な働き手に感謝を表すべきです。

ラーオへの大きな慈愛から、私はこう言いました。
「アッパ・ラーオ、今、私たちの病院に来る患者の数は何千人も増えている。もちろん、おまえは精神的にはかなり注意深く気を配っているが、肉体的には衰えている。だから、家で休みを取りなさい。おまえはスワミに奉仕するためにやって来た。おまえの奉仕に不十分な点は何もない」
 同様に、ラーオの妻も夫を助け、家でよくラーオの面倒を看て、ラーオの食事や他の必要なことを非常に注意深く世話してきました。ラーオには外食をする習慣がありません。ですから、必要なときにはよく病院に食事を届けていました。

アッパ・ラーオは多くの面で貧しい人たちの面倒も看てきました。ラーオは貧しい人への心臓の手術を援助してきました。そうした心臓病患者が退院した後でさえ、家に薬を届けていました。ラーオは懸命に働きました。私の心はラーオの奉仕にとろけました。私たちはそれほど懸命に働いた人を、どうして手放すことなどできるでしょうか? 誰も皆、学生を含めて、ラーオの助けを求めました。私は学生たちによく、「常に助け、決して傷つけてはならない」と言っています。

私たちは医療サービスを受ける誰からも、一パイサさえ受け取っていません。私たちの病院は常に与え、決して受け取りません。ラーオは、「これは私の病院だ、私のスワミの病院だ」という気持ちでセヴァ(無私の奉仕)を行いました。病院を自分のものと見なし、私心なく病院に奉仕してきました。肉体的に離れているときでさえ、私はラーオの行為のすべてを助けました。

それは私たちの最初の高度専門病院だったので、ラーオはその発展のために懸命に働かなければなりませんでした。後に、もう一つの高度専門病院がバンガロールに設立されました。そこの私たちの病院には整形外科もあります。アッパ・ラーオはそのすべての面倒を看てきました。私はラーオの仕事ぶりが好きです。

ここの前、ラーオは政府で働いていました。そこでもラーオは良い奉仕をしていました。ラーオが自分の経験のすべてを私たちの病院のために役立たせてくれたので、今日、私たちはラーオに敬意を表するために、ここに集まっているのです。

ラーオの弟のムルティは電気技師です。ムルティも私たちと共に働いています。いつどんな電気の問題が生じても、ムルティに電話をするとすぐに駆けつけて来てくれます。たとえ夜であろうと、いつも奉仕をする準備ができているのです。

末の弟のラクシュミーナラシンハムは、私たちの大学の総務として働きました。ナラシンハムも同様に年を取り、少々休息が必要になりました。ナラシンハムは結婚していないので、何のしがらみも持っていません。ナラシンハムは私たちの大学に完全に身を捧げています。最初、ナラシンハムはセヴァダルに加わりました。ナラシンハムは私たちの大学に加わることを意図して博士号を取得しました。この三兄弟はずっと良い奉仕を行ってきました。数々の困難に直面しなければならなかったにもかかわらず、三人はおおいに私たちの力になってくれました。

ナンジュンダイアフは試験管理員をしてきました。ナンジュンダイアフはすべての学生に対してとても親切でした。試験結果を期日に発表するために、昼も夜も働いてきました。少しの間も休んだことはありませんでした。熱が出て辛いときでさえ、ナンジュンダイアフは自分で答案用紙を集めていました。誰もがナンジュンダイアフに頼っていました。ナンジュンダイアフはアナンタプールやバンガロールの大学に試験結果を送るのに、多くの困難を経なければなりませんでした。私たちはナンジュンダイアフが直面しなければならなかった困難のことを大変心配しました。ナンジュンダイアフの妻も同様に、家でよくナンジュンダイアフの世話をし、規則正しく食事を出して、他に必要なことも非常に注意深く面倒を看てきました。

大学は今、とても大きくなりました。私たちには他の教育機関と比べてだいぶ多くの入学志願者がいます。偉い役人からちょっとした事務員まで、インドでは皆、私たちの機関に大きな関心を寄せています。病院であれ大学であれ、私たちの機関にはサービスに対してお金を取るという習慣は一切ありません。私たちが知っているのは与えることのみです。サイ・オーガニゼーションには与えることのみが存在し、受け取ることは存在しません。

最近、私たちは、病院の仕事ぶりを監督して必要な援助と指導を施すために委員会を設立しました。私たちは新しい機械も何台か手に入れました。必要な機器は外国から輸入しています。本も各種取り揃えています。大学では多くの博士号を輩出しています。今年も十四人の研究者が博士号を取りました。

学生たちはこの二人(アッパ・ラーオ氏とナンジュンダイアフ氏)に大きな信頼を寄せています。二人は病院のサービスと教育機関の活動に関して、おおいに私たちの力になってくれました。あらゆる責任は二人の肩に掛かっていました。私がここにいないとき、二人はよく私に手紙をよこしてきました。私はとても細かいことを二人と話し合ったものです。私はよくナンジュンダイアフに試験結果について尋ねていました。結果はいつも良いものでした。

私たちは今、もうこれ以上二人にそうした責任を負ってもらうのはやめようと決意しました。今日、私は二人に感謝し、祝福を与えています。私たちの機関のために尽力した人たちの中でも、二人は先頭を行っていました。それゆえ、二人がどこにいても、スワミはいつも二人と共にあり、二人を導き守ります。二人はスワミのためだけにここに来ました。ですから、私は二人に家を与えて、ずっとここにいてほしいと思っています。これまで二人が患者や学生たちの面倒を看てきたのと同じように、私は今後も二人に、それぞれのエリアで必要な指導を施し、新参者を手助けしてほしいと思います。この二人から学ぶことはまだまだたくさんあります。このオーガニゼーションは社会のために何をしているのか? それはどうやって行われているのか? その点において二人はどんな責任を負っているのか? こうした詳細を新参者に示して、必要な熱意と動機を植え付けるべきです。

大学は最初、学士課程から始まりました。今では博士課程のレベルまであります。私たちの大学と病院は、今やインドで一番だと評価されています。私はあなた方がそうした名誉と評判に寄与してくれたことをとても嬉しく思います。あなた方は常に私に属しています。あなた方は一度も自分は病院や大学のために働いていると考えたことはありませんでした。あなた方はずっと、「これは私たちのもの、これは私たちのスワミのもの」という思いで働いてきました。だから私たちは大学に対するあらゆる一等賞を取り、病院に対する高い評判を得ているのです。こうした情報は新聞にしか載っていないからといって、私たちは決してどのようにもそれをこれ見よがしに公言したことはありません。それでも私たちの病院と大学は、実に、とても有名になりました。

学生たちはこうした人たちから多くのことを学び、大変高いところまで成長しました。博士号を持っている学生の多くは、これらの機関を率いていけるよう、ここでの職に任じられています。今、多くの新しい科目が、従来の商学士、理学士、商学修士、理学修士、博士等と共に導入されています。十分な能力があるにもかかわらず他の学校や大学に入学できずにいる大勢の学生たちが、大きな希望を胸に、助けを欲して私たちを見ています。私は私たちの学校当局にそうした学生たちも私たちのところに入れるよう話をしました。私たちには利己的な動機は一切ありません。それはただ、学生の両親の苦悩のみを考慮してのことです。親たちは子どもの幸福と進歩の面倒を看る責任を、私たちに委ねています。

アッパ・ラーオとナンジュンダイアフの二人には、大学と病院の業務に注意して目を光らせているという仕事が与えられるべきです。他の機関では、入ってきた人はお金を払い、領収書をもらいます。私たちの病院と大学では、決してそういったことに余地を与えません。ここではすべてが無料、無料、無料です。人々は私たちがどうやって、このように大勢の人が入ってくる機関を一パイサも取らずに運営しているのか、不思議に思っています。私たちが受け入れるので、人々は着の身着のままに入ってきます。平均点の者も含め、私たちはあらゆる子どもを受け入れて、そうした生徒を「一級」の学生に育てています。

他の病院では、患者は心臓の手術に何千ルピーも支払わなければなりません。一方、私たちは患者に一パイサも要求しません。私たちにとっては、愛と信愛が重要なのであって、それ以外は重要ではありません。「愛と愛、心と心」です。私たちが求めているのはこれだけです。患者たちは皆、大きな喜びを得ています。ただで治療を受けるためにネパールやブータンから多くの患者がやって来ます。こうした事業においては、学生たちも医者や他の職員に対して必要な助けを差し伸べなければなりません。私たちの病院と学校は、過去二十年間、そのようにして育ってきたのです。

こうした風潮は将来も続いていかなければなりません。誰にも請うことなく、私たちはそれぞれの機関名義で二億か三億ルピーの定期預金を持ち、そこから発生する利子で機関を運営しています。私はその件に関して必要な手配をしました。私たちは政府の機関と同額の給料を支払っています。私たちの学校の学生と、私たちの病院の患者は、何の心配もする必要はありません。私たちが全部の世話をしています。

皆さんは、すべての人が幸せであり続けるよう努力を払わなければなりません。両親を幸せにしなさい。両親を助けなさい。中には、お金がなくなると老人ホームに放り込まれる親もいます。これは正しいことではありません。年老いた親には必要な援助を施さなければなりません。親の面倒を看るのは皆さん自身の責任です。たとえスワミが皆さんの教育と他の必要なものの世話をしていても、親の世話という点については、皆さん自身に責任があります。親は老人ホームに送られるべきではありません。皆さんは両親を自分のもとに置いて、両親に尽くさなければなりません。勤勉に働いて、よく両親の世話をしなければなりません。親のために特別なものを用意する必要はありません。何であれ自分が食べているものを出せばそれで十分です。

試験に合格して学位を取ると、すぐに学生は職を探しに出かけて行く
女性が全員、外に働きに行ったら、誰が家事をするのだろう?
よその子どもを教えに行ったら、その家の子どもは誰が教えるのだろう?
夫婦そろって働きに出たら、誰が二人の子どもの世話をするのだろう?

(テルグ語の詩)

人々の中には、家庭料理を与えられていない人もいます。なぜなら、家にいて料理をする人が誰もいないからです。そのため、何であろうと手に入るものを口に入れています。そうやって健康を害しているのです。職場で雇われている女性に幸せはありません。そうした女性は貴重な時間をクラブで過ごしています。そして、家にいる自分の子どものことも、きちんとした時間に食事をとることも、まったく考えていません。人は自分の子どもを育てることを最優先すべきです。

ある役人が、家に電話をして調理人に言いました。「今日、家でティーパーティーをすることにしたから、準備をすべて整えておくように」。けれども、家には紅茶の粉も、砂糖も、チャパティやパコーダ(インドの軽食)を作る材料もありませんでした。家庭は今、こういった類の状況にあります。加えて、不規則な食事と、親の世話の欠如のせいで、子どもたちの健康も害されています。子どもたちは汚染された水を飲み、健康を害しています。なぜなら、家にいて教えてくれる者が誰もいないからです。

なぜ、妻が外に働きに出なければならないのでしょう? もし他人の子どもを教えに学校に行くなら、自分の子どもは誰が教えるのでしょう? ですから、自分の子どもの世話をするのは自分の義務です。もし、自分の子どもを教えて、いい子に育てることができれば、それはいい給料を稼ぐことに等しいのです。人は自分の夫と子どもの世話ができない女性の状態を哀れに感じます。自分の子どもに規則正しく適切な食事を出して、子どもの健康を気遣うことができれば、それで十分です。もし、仕事を始めて、自分の子どもを家で放っておくなら、稼ぎのすべては料理人とベビーシッターと掃除人のところに行ってしまうでしょう。それでは、家の管理が誤っています。料理人や代行人、その他の人への支払いは、結果的に自分の稼ぎよりも多くなってしまうでしょう。自分の仕事に専心しさえすれば、そうしたたくさんのお金を使わずに済みます。これは、すべての女性が選択すべき生き方です。

同様に、子どもも家で必要な手伝いをすることを身につけるべきです。家に帰ってきたらすぐに、「何が事足りていて、何が事足りていないか?」、「早急に必要とされている事は何か?」を確かめなさい。水が足りないなら、男子はじっとしていてはなりません。容器を持って走って行って、利用できる水源から水を汲んでくるべきです。「僕は教育を受けているのに、どうして水を運んでこなくちゃならないんだ?」などと思うべきではありません。家庭生活にこうした家事は付き物です。

学生はどうやって両親を幸せにするかを学ばなければなりません。親の義務は自分の子どもの世話をすることです。これはすべての人に不可欠な教育です。博士号を取ったからといって、何千ルピーか余計に稼ぐために遠くに行く必要はありません。もし、自分の子どもの世話をし、自分の親に尽くすなら、それ自体が大きな財産です。

今、親は使用人のように扱われています。自分の親と子どもと家族の世話をするなら、それで十分です。これが真の教育です。一級の成績を取って職のためにもがくのは、賢いことではありません。どんな職に就こうとも、自分の親の手助けをしなければなりません。これは皆さんが学ぶべきことです。

学生はアッパ・ラーオのような人物を見習わなければなりません。「常に助け、決して傷つけない」――これは、皆さんがシュリ・サティヤ・サイ大学で学ぶべき良い性質です。いつ、どんな貧しい人があなたのところにやって来ても、まずその人に食べ物を出しなさい。必要とあらば、たとえ自分の食事は抜いてもです。クラブに行ってお金を使うなら、その代わりにそのお金を貧しい人のために使うほうがましです。社会を改善することができるよう、良い性質と習慣を身につけることが必要です。

まず第一に、神への愛、罪への恐れ、社会の道徳を育てなければなりません。社会の悪い性質を抑え、倫理を育てなければなりません。道徳が失われれば、皆さんがどれだけ社会奉仕を行っても、それが何の役に立つでしょう? 皆さんが学ぶべき教訓があります。彼らのような年長者の道の後について行くなら、生涯、計り知れないほどの喜びと善良さを得るでしょう。これは女子にも当てはまります。皆さんは両親から奉仕の何たるかを学び、それを実践に移さなければなりません。もし自分の両親を幸せにするなら、自分の子どもがあなたを幸せにしてくれるでしょう。

道徳とは何を意味するのでしょう? 道徳とは、ただお金を稼いで銀行に貯金することではありません。皆さんは自分の両親を困らせることを慎まなければなりません。神への愛があれば、罪への恐れが生じます。道徳を身につけた後、皆さんは社会全体に奉仕することに進むかもしれません。神の愛が得られないとき、どうやって人々の愛を勝ち得ることを期待できるでしょう? 皆さんは、人から良い人で役に立つ人だと言われるように、ある程度社会での評判を得なければなりません。皆さんは人助けの方法を両親から学ばなければなりません。

真っ先に育てるべきものは、神への愛と、罪への恐れと、社会の道徳です。罪の行為をしているとき、どうやって道徳を得ることができるでしょう? 年長者に出くわしたら、常に敬意をもって尽くしなさい。

今日、私は、皆さんが見習うことができるよう、こうした善良な人たちに敬意を表しているのです。それは私に幸せを与えてくれることです。まず、家で自分の子どもの世話をして、自分の両親に幸せを与えなさい。自分の両親が幸せでないとき、どうやって自分が幸せになることなどできるでしょう? もし、今日、両親を愛せば、明日、皆さんは自分の子どもから愛を受け取るでしょう。この二つを身につけたとき、初めて皆さんは学のある人と呼ばれます。皆さんは立派な学位を得るかもしれませんが、もし両親を愛さないなら、誰が皆さんを愛するでしょう? 皆さんが両親の世話をよくするなら、社会は皆さんを愛するでしょう。まず、家庭をきちんとして、それから社会の向上について考えなさい。私はこの目的のために、今日これら経験豊かな年長者たちに敬意を示しているのです。皆さんはこのことから学びを得て、この年長者たちの足跡をたどるべきです。

翻訳:サティヤ サイ出版協会
出典:http://www.sssbpt.org/Pages/Prasanthi_Nilayam/DivineDiscourse07072009.html

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