サイババの御言葉

2010年ババ様御降誕85周年記念サティヤ サイ プレ世界大会用
日付:2009年12月25日・場所:プラシャーンティニラヤム
クリスマスの 「I am I」(私は私) に関する御講話B

私は私、私はアートマ

太陽はうららかで、穏やかに見え
日は短くなり
涼しい風が吹き渡る

(テルグ語の詩)

この祝祭の時季は、新しく収穫されたたくさんの穀物で農夫の穀倉を満たし、人々にあらゆる繁栄をもたらします。農夫だけでなく、一般の人々も皆、幸せを感じてこの時季を楽しみます。人々は自分たちの幸福や繁栄は神のおかげであると考えます。

神はどこにいるのでしょう? 神は至るところにいます。神はあまねく、あなたの中に、あなたの上に、あなたの下に、あなたの周りに存在しています。神は特定の名と姿をもっていません。神には誕生も死もありません。誕生がある場合にのみ、死もまた存在します! それゆえ、神には誕生も死もないのです! 神はアートマ スワルーパ(神聖な真我の具現)として、あらゆる生き物の中に存在しています。現代人は、そのアートマ タットワ(真我の原理)を悟ることができずにいます。

バーラタは神聖な国です。バーラタは多くの高潔な人々や貞淑な女性たちを生み出してきました。

このバーラタの国は、多くの高潔な女性たちを生み出してきた
死んだ夫をよみがえらせたサーヴィトリー
真理の力で野火を消し止めたチャンドラマティー
赤々と燃え上がる炎の中から無傷のまま現れて,自らの貞節を証明したシーター
純潔の力で邪悪な心の狩人を灰に変えたダマヤンティー
この敬虔けいけんと高潔の国が、豊かさと繁栄を手に入れて、
世界のあらゆる国々の教師となったのは
そのような貞淑な女性たちのお蔭

(テルグ語の詩)

シュリ・ラーマは、悪鬼ラーヴァナにより十ヶ月間ランカーに幽閉されていたシーターを、監禁状態から救出しました。ラーマはシーターを炎で試した後に、シーターを迎え入れました。火の神は、次のように言いながら、ラーマの御前にシーターを差し出しました。

「おお、ラーマ! シーターは素晴らしい貞淑な女性です。シーターはすこぶる夫に忠実で、この十ヶ月というもの、ただの一人の男の顔すら見ませんでした」

シーターは無傷で炎から出てきて、火の神自身がシーターの貞節を証明したのです。シーターがどれほど立派で高潔であったか、想像できるでしょう! 世界のどこかの国に、これほどの女性に匹敵する者がいるでしょうか?

バーラタ(インド)の国は、七つの海の真ん中に位置しています。この国の男女は皆、それぞれ、プルショーッタマ(高潔な男性)とパティヴラター(貞淑な女性)として振る舞わなければなりません。この神聖な国に何人ものアヴァター(神の化身)が誕生したのも当然です。偉大な男女や高潔な人々は、どこの国にでも生まれる可能性があります。しかし、アヴァターが降誕するのはバーラタの国だけです。

今日、人は神以外の世界中のあらゆるものを熱望しています。人は富やお金を求めて母国さえ離れます。これは、特にバーラタ人(インド人)にとっては、前向きな動きではありません。というのは、バーラタ人は金銭への欲望を超越することを期待されているからです。神は常に与える者です。神は決して受け取りません。神が私たちから望むものは愛だけであり、他には何も望みません。バーラタの国は非常に高潔で神聖であるのに、この国の人々は今より良い場所を求めてよそに出て行きます。しかし、純粋でけがれない心を持つ人は、祖国に留まっています。

神が信者から期待しているものは、純粋で神聖な心だけです。

人は、神にはさまざまな名前と姿があると思っています。実際には、神は一つです。神はあらゆる名と姿を超越しています。神はそれぞれの信者の願いと熱望に応じた名と姿をとります。あなたがイエスの姿を黙想してその姿を見たいと望むなら、神はイエスとしてあなたの目の前に現れるのです。

サルヴァタッ パーニパーダム タット サルヴァトークシ スィロームカム
サルヴァタッ シルティマローケー サルヴァマヴルッティヤ ティシタティ

(その手、足、眼、頭、口、耳を万物に行き渡らせ、神は全宇宙に遍満している)

(バガヴァッドギーター13章13節)

神は、すべての人間の中に、いやそれどころか、すべての生き物の中に、います。

ダイヴァム マーヌシャ ルーペーナ
(神は人の姿をとっている)

それゆえ、人間的価値はとても神聖で重要であると考えられているのです。ただ人間の身体を持っているだけでは十分ではありません。人間の姿に即して、人は、サティヤ(真理)、ダルマ(正義)、シャーンティ(平安)、プレーマ(愛)、アヒムサー(非暴力)という人間的価値も養うべきです。

どのような状況の下でも、嘘をつくべきではありません。真理を守るなら、正義がついてくるでしょう。真理と正義が共にあれば、平安が生じるでしょう。平安があれば、愛も生じるでしょう。愛があれば、暴力の余地はあり得ません。残念なことに、今日、人々の間に愛が欠けているために、至るところに暴力があります。最近では、誰を見かけても、あるのは不安、不安ばかりです。人々は平安を手に入れるためにジャパ(神の御名を唱えること)やタパ(苦行)をしていますが、どこにも平安(ピース)はありません。どこを見ようとも、あるのはバラバラの断片(ピース)、断片、断片ばかりです!

平安を得るためには、愛を育てなければなりません。何よりも先に、愛を育てなければなりません。「愛は神、神は愛」、「真理は神、神は真理」です。真理と愛はまさに神性の具現です。神は一つですが、人は、神がラーマ、クリシュナ、ゴーヴィンダ、ナーラーヤナといったさまざまな名前を持っていると思っています。神のものだと思われているさまざまな名と姿は、詩人や画家たちの想像の結果です。たとえば、ラヴィ・ヴァルマ〔インドの有名な宗教画家〕は自分の想像をもとにして神をさまざまな姿に描きました。しかし、神が特定の名と姿に限定されるはずがありません。あらゆる名と姿は神のものであり、また、神はそれらを超越してもいます! 神は、人間を含むすべての生命ある種に内在しています。万物は神性の顕現なのです。

神には何の欲望も野心もありません。神は無私無欲です。外界の一切は、あなたの内なる存在の反応、反映、反響です。(一枚のハンカチを見せながら)これは一枚の布です。厳密に言えば、これは布ではなく糸の束です。糸が布の形になるように織られたのです。同様に、人間の思考と欲望が、心〔マインド〕を作ります。それは次に、言葉という形をとって自らを表現します。その言葉は、感覚器官を通じて行為をもたらします。この過程で、人間は特定の悪い思考と感情を抱くのです。

神は、なぜ人間に目を授けたのでしょうか? 良いものだけを見るためです。同様に、耳は良いことを聞くために授けられ、舌は良い言葉を話すために授けられました。あなたの話す言葉は常に甘く優しいものでなければならず、決して辛辣しんらつなものであってはなりません。このように、神から与えられた手足と体の器官すべてを神聖なものと見なし、正しく使わなければなりません。これほど神聖な体は、他の誰にでもなく、神に捧げられなくてはなりません。神は、あなたの人生の旅に必要なすべてをあなたに与えます。ですから、あなたの純粋で神聖な心の奥にある祭壇に、神をまつ祀るべきです。

神は遍在です。空は神であり、大地は神です。すべての人間は神の化身です。神は呼吸(ソーハム)の形をとって人間一人ひとりに内在しています。人はこの真理を悟らなければなりません。神の本性を悟った時、初めてあなたはグニャーナ(叡智えいち)を獲得したと見なされることができます。

グニャーナは単なる書物の知識ではありません。何人もの教養ある人々が教科書から膨大な知識を身につけましたが、誰が真の意味でのグニャーニ(悟りを得た人)でしょうか? 「私は身体ではない。私は心でもない。私はまさしく神である」と悟った者だけが、真のグニャーニです。

「これは私の体です」とあなたが言う場合、あなたは誰ですか? あなたは誰に言っているのでしょうか? 「私の体」という表現は、あなたが体とは別のものであることを意味します。あなたが「これは私の心です」と言う場合、心はあなたとは別のものです。同様に、「これは私のブッディ(知性)です」と言う場合、ブッディはあなたとは別のものであることを意味します。これらすべての表現において、「私の」とは何者なのでしょうか? 「私の」は「私」です。「私」は、イエス・キリストによってエゴと呼ばれたものであり、切断されなくてはなりません。これが、十字架の真の意味です。エゴを切断しなさい。

皆さんは二つのものに縛られています。「私」と「私のもの」です。それが人間の束縛です。もし、あなたがこの二つの束縛から自由になれたら、残るのは「あなた」だけです。さて、あなたは今、体と共にあります。明日、体を離れなければならないと想像してみなさい。体を離れた時、あなたは一体誰であり、どこにいるのでしょうか? あなたにはわかりません! 体は衣装、ローブのようなものです。ひとたび、衣装への執着を取り除くなら、あなたの本性が明らかになるでしょう。

その同じ真理がこの句の中で説明されています――「あなたが自分だと思うあなた、他人があなただと思うあなた、本当のあなた」。これが人間の本性です。誰かが、あなたは誰かを尋ねてきたら、あなたは「私はしかじかです」と答えるでしょう。あなたは自分の名前を言うでしょう。実際、その名前は、あなたが生まれた時に両親が与えたものであり、神が与えたものではありません。

あなたが神に、「あなたは誰ですか?」と尋ねたとします。神は「アハム ブランマースミー」(我はブラフマンなり〕と答えるでしょう。人は皆、「私はブラフマンである。私にはそれ以外の名前はない」と自分自身に言い聞かせるべきです。もし誰かが「あなたの名前は何ですか?」と尋ねてきたら、「私の名前はブラフマンです」と答えるべきです。あなたがこのようにして絶え間なく自分の本性を自覚しているなら、それがアートマ タットワ〔真我の原理〕です。それ以外のものを黙想する必要はありません。

友人や知人を見かけると、皆さんはいつもナマスカール〔合掌がっしょう〕をして挨拶あいさつします。このことは、つまり、その人に内在する神性に敬意を表していることを意味します。ですから、「私」、「私」、「私」という感情を心に抱いてはなりません。どの肉体もすべて、劇中で演じられている役割に過ぎないのです。肉体は変化します。世界そのものが宇宙規模の劇なのです。あなたはその壮大な劇の中で自分の役割を演じているだけであり、あなたの本性は神聖な真我の化身(アートマ スワルーパ)であることを、常に自分に言い聞かせていなければなりません。(ここでスワミは聴衆に向かってお尋ねになりました) この点について何か疑いはありますか? もし、何か疑いを抱いているなら、困惑することになるでしょう。

残念ながら、現在、人は自分の本性について知りません。それでどうして神について知ることができるでしょう? ですから、真っ先に「汝自身を知れ!」です。「私は誰か?、私は誰か?」と自問しなさい。皆さんは、「私は私、私はアートマ」、「私は私、私はアートマ」、「私は私、私はアートマ」と悟るでしょう。もし、このディヴァイン、神聖な真我を忘れるなら、残るものはディープワイン、強いお酒です! それゆえ、皆さんは神のごとくなるべきです。

ラーマ、クリシュナ、ゴーヴィンダ等は、一般の言葉で神性を述べたものにすぎません。個人は、身体レベルでの人間関係に基づいたさまざまな名前で呼ばれます。ある人はその人を「彼は私の義理の息子です」と言いますが、別の人は「私の息子です」と言います。三人目は「私の兄です」と言います。このように、人は人間関係が増えるにしたがって、束縛に巻き込まれます。この束縛はどこから現れたのでしょう? すべてはあなた自身が作ったものです。

あなたは一人の娘と結婚し、「彼女は私の妻です」と言います。しかし、結婚前、その娘はどのような人でしたか? あなたは知りません。何年か経って最終的に妻がこの世を去ると、あなたはその後の彼女について何もわかりません。このように、結婚前の彼女はどのようであったか、また彼女は死後どこへ行くのか、あなたは何も知らないのです。夫婦関係が存在しているのはその中間だけです。

ですから、過去について心配してはなりません。過去は過去であり、未来は不確定です。あなたは過去も未来もわからず、またその知識も持ち合わせていません。あなたが知っているのは現在だけです。それゆえ、今を生きなさい。それが唯一の真実です。


(バガヴァンはバジャン「ハリ バジャナ ビナー スカ シャーンティ ナヒン」を歌って御講話を終えられました。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:2009年12月25日、プラシャーンティ ニラヤム:クリスマスの御講話
    http://www.sathyasai.org/discour/2009/d091225.html

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