サイババの御言葉
 
黙想:スワミはなぜ一部の人々だけを癒されるのか?
(Contemplation: Why Swami heals only some people)

 ハワード・マーフェットは、『サイババ・アヴァター――力と栄光への新しい旅』という本を書いています。この本からの一節を下記に引用します。この一節は「癒しの神秘」と名づけられた章にあります。それはこんなふうに書かれています。

  私は、ある時、ババ様のインタビューを受けました。その時その場にいたのは、アイリスと私とゴカク博士だけでした。私はじかにこう尋ねました、『ババ様、あなたはある人々の病気は癒されるのに、なぜそれ以外の人々にはそうなさらないのですか?』。ババがこの謎を解く万能の鍵を与えてくださるかもしれないと、私は望んでいたのです。 ババ様の答えは、深くて理解するのが簡単ではありませんでした。 そのインタビューのあと、私はそのお答えについてゴカク博士と徹底的に話し合いました。現時点で私の理解の及ぶ限り、ババ様が私に説かれたのは次のようなことです。

 『太陽はすべての上を平等に照らします。その光は、雲または壁などの障害によって遮られるかもしれません。それにもかかわらず、太陽は照っています。光り輝いています。 ちょうどそれと同じように、神の愛もすべての人々を照らしています。多くの人々が精神的条件づけ(mental conditioning)という雲や壁の後ろに隠され、自分自身がその光を受け取らなくても、神の愛という光に照らされていることにかわりはないのです』

 サイアヴァター(神の化身サイババ)を通 じて来るこの神の愛は、肯定的な力です。 実際、それは宇宙の肯定的な偉大な力(陽の力)です。この神の愛が病人の陰極(否定的な面 )に届けば、つながります。 肯定と否定、陽と陰が(ちょうど電流のように)つながって〈全体〉となり、病気は癒されます。逆にこの肯定的な力が、エゴという壁によって遮断され、感情や頭でっかちが原因でできる障害物によって遮断されるなら、愛はつながりませんし、病気も治りません。もし病気が一時的なものであるなら、その人なりに時間にしたがって自然に治ります。 しかしその病気が慢性で、カルマに由来するもので、頑固なものなら、それを治す方法はただひとつ。神の愛という肯定的な力に心を開くことだけです。もし神の愛を全面 的に受け入れるなら、その愛はしつこいカルマやカルマ的傾向を焼き払ってしまいます。

 私たちはみんなある意味で病んでいるのですから、神の愛から自分を引き離す条件づけというこの壁を、自分自身の中に見つけ出さなければなりません。写 真のネガがなんの抵抗もなく光を受け入れるように、私たちは神の光の流れに自分自身の心を開らかなければなりません。

  サイの帰依者にとって、ババは光と愛が通 る大きい神聖なレンズです。他の探求者たちは、ババ以外のさまざまなレンズを見つけました。人それぞれの必要性や気質に応じたレンズです。けれども結局、人はおのおの、真我(アートマ)すなわち不死なる自己こそが小さな自己(死すべき心と体)に対する癒しの愛のためのレンズである、ということを発見します。というのも、私たちはそれぞれ、人間と呼ばれるこの「さなぎ」の中に、否定的で、刹那的で、ほとんど不調和で、病的な不安の状態にある低級な自我と、肯定的な永遠なる自己という、二つの自分が存在しているからです。これが、ババが強調する教訓です。

 この章の終わりに引用されているスワミの御教えは、こうです――
『あなた方はこう言うかもしれません。前世のカルマは今世においてつぐなわれなければならない、いかに大きな恩寵でも人間をそのカルマから救うことはできない、と。 確かに、ある種の人はそう信じるように教えてきました。しかし、私はあなた方に保証します。あなたはそんなふうにカルマで苦しむ必要はない、と。
  激痛があなたを苦しめるとき、医者はあなたにモルヒネを注射します。すると、その激痛の元は体の中にあるけれども、あなたは苦痛を感じません。恩寵はそのモルヒネのようなものです。恩寵が降り注がれたら、苦痛をともなうような経験をしても、その苦痛は感じられません。神はカルマの結果 やカルマの影響力から完全に人間を救うことができます。まさに、グルプールニマ祭のとき、ひどい脳卒中と心臓発作の病状に陥っていた帰依者を私が救ったように……』 (サティア サイババ)

 

寄稿: Augustus Chang
訳:聖 真一郎

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