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これらは、36人のサイネットの帰依者たちが協力して、「サイ引用辞典」からの引用を、大変読みやすいインタビュー形式にまとめたものです。 問:人生の目的とは何でしょうか? サイ:人生の目的とは何でしょう? 人間が達成すべきこととは何でしょう? 鳥や獣のようにただ食べて、飲んで、眠って、わずかばかりの喜びと悲しみを味わい、最後に死ぬ ことでしょうか? いいえ、もちろんそうではありません。少し考えればそうでないということがわかるでしょう。目的はブラフマサクシャートカーラ、すなわちブラフマンという絶対者を認識することです!(1) あなたは神から生じました。そして、あなたは神に戻らなければなりません。(2) 神の原理こそが人間の核です。この真理を認識することが人生の目的です。神の原理は衰えることがなく抗し難い力の源です。神はこの場に、あなたの前に、あなたの後ろに、あなたの内に、あなたの外に存在しています。あなたは知性をとおして神を認識することができます。神はあなたと共にあるというのに、あなたは目が見えないのか、視力が衰える病気なのか、もしくは、さらに悪い場合は故意に自分の目を閉じようとしているのです!(3) 問:すべての霊性修行の目的は何でしょうか? サイ:すべての霊性修行は( 問:なぜ私は働かなければならないのでしょうか? どうして、ただこの木の下に座って神に関する本を読んでいてはいけないのでしょうか? サイ:この世にいる間は、仕事に従事しなければなりません。労働は人間にとってとても重要です。あなたは仕事と活動をとおして思いと言葉と行動の一致を学びます。(9) 完全な自由はこの世のどの人間にも与えられていません。なぜなら、人生とは、まさに他者とのかかわり合いと依存関係を意味するからです。(10) 真のグルは人間の師(教師)ではありません。真のグルは宇宙そのものであり、プラクリティ、創造物、私たちをとりまく世界です。(11) あなたは世間の荒波を体験することによって学びます。世間は人間の教育課程における主要な部分です。(12) あなたが属している地域社会は、勝利を得ることのできる競技場であり、勝利するための技能を磨く体育館です。霊性の旅は、思いやり、共感、助け合い、そして、奉仕のためにあり、これらは社会によって育まれ、社会のために用いられるべきです。(13) 問:宇宙には人類しか存在しないのでしょうか? ほかにはどのような生物がいるのでしょうか? サイ:宇宙に始まりはありません。そして、宇宙には無数のジーヴァ(生物)が存在しています。そうしたジーヴァの中で、人間はもっとも高貴な生き物です。(14) 全宇宙の中に、人間や人間と同じような生命体がいる惑星はありません。生命は宇宙のいたる所に存在しています。しかし、地球に現れる生命体は、人間を経て神へと上昇していきます。人間として生まれるという徳によって、次の段階では神を完全に悟ることになります。人間の生は、神聖で、最高に価値あるものとして正しく認識されなければなりません。(15) 宇宙の生物に関する疑問がわくのは、皆さんが自分たちに特有な環境を投影するからです。皆さんは宇宙にいるほかの生物も自分たちと異なる生き方には耐えられないだろうと思っています。なぜなら、自分たちにはそれが耐えられないからです。たとえば、高温の灼熱の太陽の中でも生物は生存しています。その生物は、皆さんが耐えられないと思っている環境の中で生命を維持しています。宇宙のほかの場所でも、そこにいる生物は、自分たちの環境は神聖で神性を備えていると思い、とても満足し、すべて申し分ないと感じています。(16) 問:至高神のほかに神はいるのでしょうか? そういった神々は何をしているのでしょうか? サイ:自分の義務を果たす上で、地上の小さな領域の統治者が特定の規範をもっているのと同じように、世界を司る至高の統治者である全能者もまた、そうした宇宙の支配に関する規則をもっています。神は全能なのだから神はすべて一人で行っているのだろう、と言うのは子どもじみています。この世の国の行政機関にさえ支配者による権限の委任は存在し、特定の省や大臣としての職を任された数人の大臣によって、さまざまな職務が果
たされています。宇宙の営みを稼働させる上で、全能の神もまた、ある種の役目をインドラや、ヴァルナや、ルドラといった特定の神々に割り当てています。世俗のあらゆる問題が王様のところに直接持ち込まれることはなく、それぞれの関係する大臣に処置のために提出されるのと同じように、人間の祈りがすべて至高神に届くわけではないのでしょうか?
すべての祈りはインドラやヴァルナといった至高神の「大臣」が面倒を見ているのでしょうか?(17) 至高神は神々の職務には干渉しません。至高神は、ブラフマーや、ヴィシュヌや、イーシュワラに、宇宙の法則に従ってそれぞれの務めを遂行させています。(18) 世俗的な目的のための祈りは至高神には届きません。そうした祈りは、それぞれの特定範囲を仕切っている神々に届くのみです。一方で、純粋な愛から生じた祈り、奉仕をしたいという無私の熱望、 問:なぜ、私はだれかが幸せにしているのを見ると、幸せを感じるのでしょうか? 逆に悲しみを感じないのはなぜでしょうか? サイ:私たちは、良いときには心は痛まず、悪いときにのみ悩むのです。それは、良い状態は正常であり、悪い状態は異常であるからです。私たちは、だれかが過ちや、苦しみや、悲しみに陥りつつあると、心配し、動揺します。これは、私たちは本来、正しく、幸せで、いつも喜びのうちにあるよう創られているからです。人間がこの真理を理解できなくなってしまったのは嘆かわしいことです。(20) 問:何をしていようが、私はいつも切望を感じています。この切望は何なのでしょうか? サイ:人間は、生来の神への渇望、けっして衰えることも揺らぐこともない至高のアーナンダに対する生まれながらの切望を抱いています。(21) 神は、人間が心を神に向けるように、自分の視野を広げることを喜びとするように、そして自分が道徳的で徳高くあるときにこそ幸福であるように人間を創りました。ゆえに人は、自分の基礎となっている性質に忠実であることによって、ブラフマーに集中することによって、サティアを身につけ、ダルマを実践することによって最大の利益を生み出さなければなりません。(22) 人間のもっとも強い切望とは、一なるもの、根本原理、絶対実在となる体験をすることです。(23) 神を飲むことによってのみ、この渇きを癒すことができるのであって、代用品や緩和剤を飲んでも渇きは癒されません。(24) 故郷の家、すなわち神に帰することによってのみ、シャーンティ〔平安〕を得ることができるのだと真のバクティ〔信愛〕は教えます。そのときまで、人間は 問:人間と動物を分けているものは何でしょうか? サイ:人は、人間とほかの動物との違いは識別
心であるという、基本的な事実を自覚できないでいます。(26) 神の力は世界のあらゆるところに存在しています。その力を認識する能力は人間だけがもっています。(27) 人間以外の生物には、アートマを思い描く水準にまで高められた知性も識別
能力も与えられていません。このことこそ、人間が万物の長であると賞賛され、人間として生まれる機会は非常に稀な幸運であるとシャーストラ〔論書〕が宣言している理由です。人間は天地創造の原因を探求するのに必要な能力を備えています。人間はその探求を行う強い衝動と能力を内に秘めているのです。(28)
人間だけが、努力によって霊的進化のより高い段階に向上することができます。ほかのどの動物にもそれはできません。サーカスの動物の調教師は、虎をさまざまな芸をするよう調教することはできますが、虎の本能を変えることはできません。虎を草食にさせて、完全に肉を食べなくさせることはできないのです。一方、人間は違います。人間の本能は、人が自分でしっかりと努力することによって変えることができます。人間には、 問:私が何かをしているとき、それは私がしているのでしょうか? それとも神がしているのでしょうか? サイ:あなたの努力のみに依存していることは少数である、いうことを理解しなければなりません。その証拠はあなたの体内にあります。たとえば、あなたは自分の心臓が規則正しく鼓動するよう努力していますか? 休むことなく呼吸していることに対してあなたはどこまで関与していますか? 体内で行われている消化作用にあなたはどのような貢献をしていますか? これらが行われているのは人間の努力の結果 でしょうか? ただ生き続けたいと願えば、生き続けることができるでしょうか? 望んだときに人生を終わらせることができるでしょうか? あなたは自分の誕生に関与していますか? まったくしていません。こうした疑問を調べれば、あらゆる困難を招いているのは、自分が行為者であり体験者である、というあなたの意識であることに気づきます。(32) 自分を行為者と見なして行為を行うとき、行為はその人を束縛する足かせとなります。神を喜ばせるための捧げものとして行われた行為はどれも、人を束縛する原因とはなりません。これらは「欲を伴わない」(アナペークシャ)行為となります。人間を道具としてあらゆる行為をなしているのは、すべての生き物に内在する神の原理であることを理解しなければなりません。自分を行為者(カルトルトヴァ)や体験者(ボークトルトヴァ)と見なしている限り、人は自分の行為の結果 から逃れることはできません。(33) 問:悪事を目にしたら、どうすべきでしょうか? サイ:今日、自分の階級や社会を理由に、多くの人々がダルマや真理に反する行為にふけって、国内の争いと不和を助長しています。国の年長者たちは、邪悪な分子によって行われているあらゆる不正行為や暴力的な行為に対して、単なる傍観者に甘んじています。学者や知識人さえ沈黙を保ったままです。高い地位 に就いている人々は、ただ成り行きを眺めているだけです。だれもこの危険分子をとめる努力をしていません。だれも邪悪な分子たちを阻止しようとしません。それはまるで、彼らの知識や地位 や影響力が無価値になってしまったかのようです。そのような人々は、不正行為には携わっていないかもしれませんが、邪悪な人々に励ましを与えていることになります。悪事や不正や暴力が行われているときに、無関心に傍観するなら、その人は不正行為の協力者と見なされざるを得ません。最終的に、その人も罪人たちと同じように罰を被ることになります。彼らの消極的な係わり合いが、悪事を行う者を助長しているのです。 悪人とかかわりをもったときに、善人が悪人に反対しなかったとしたら、その人は悪人の行いの責任を共に負うことになります。神は、不正や悪事が行われているときに反対しない人、無抵抗でいる人さえも滅ぼします。神はその人に学識があるかないか、賢いか賢くないかは考慮しません。もし、その人に学識があり賢かったとしたら、どうして真理と正義を擁護しなかったのでしょうか? なぜ沈黙したままだったのでしょうか? それはその人が同じ罪によって堕落してしまったということです。悪を阻止しようとしなかったのは、その人の罪です。私たちは、不正で不当な行為を阻止し、社会の不法行為を抑えようと努力したときにのみ、ダルマの復興という仕事を手伝っていると主張することができます。 息子であれ、親族であれ、親しい仲間であれ、だれが罪を犯したとしても、その誤った行いに反対し、罪を犯した人を正そうとしたときにのみ、人はその罪の共犯者となって堕落することを免れるのです。もし、そうすることなく、悪事を許し、助長するなら、人は悪を除去しなかった罪を犯すことになります。(34) 出典: 翻訳:サティア・サイ出版協会 (c)Copyright Sathya Sai Central Trust |
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