Special Interview  
 

ラジオ・サイ マンスリーEジャーナル
Heart2Heart(ハートトゥーハート)(H2H)特集

神の化身と疑り深い人々

 
  Pink Line  
 

7.物質化に関して

私はこれまで、機内での物質化も含めて、あらゆる変わった場所で、こういったことをたくさん見てきました。ババが手を怪我して右手を包帯で吊っていたとき、ババはヴィブーティ(たいていの帰依者が本当に望んでいたのはこれでした)を、左手を使って出したのです。ここで「これを何とか説明できるのか?」。私の科学的素養から察するに、あえて仮説を取ってみようと思います。物理学と超物理学を結ぶ架け橋という私の現在の観点に基づいたものです。ここ数十年、いわば物理学の最後の境界、小宇宙と大宇宙の間の架け橋である分野において目覚ましい進歩が見られました。これまでに私が書いてきた一連の書物に関連して、こういった進歩を受け入れながら、数年を過ごしてきました。(この魅惑的な視野のほんの一部分だけですが、H2Hの中のSEARCH FOR INFINITY(無限を探して)というシリーズに載せています)。それはある意味驚くべきことでしたし、別 の意味でも完全に理解されうることでした。物理的な宇宙は、私たちには違ったふうに見える実体の間に驚異的ではあるが、とても精妙な宇宙の関連性を表している。そういうわけで、ある物理学者が言っているように、たった一つの電子があり、単に空間と時間の影響のせいで多様に見えているのだ、と。いわゆるファインマン図〔素粒子間などの相互作用を表す図〕の助けを借りれば、これはきれいに説明がつくことでしょうが、そこへ話をそらすつもりはありません。70年代半ば、いわゆるアインシュタイン・ポドスキー・ローゼン逆説(EPR)と呼ばれるものを研究する過程である注目すべき実験がこの宇宙の基層を明らかにしたということを述べておきましょう。きわめて予想外の発見でした。実際、アインシュタインはこれを否定しました。なぜならアインシュタインは異なった実在には別 々の実体があると信じていたからです。ネイチャー誌は今こう言っています。「あなたがたの感覚に応じて、そのように表れ、あなたがたの科学的道具、それはあなたがたの感覚の延長にすぎないのであるが、それに応じて、そのように表れるであろう、と。しかし、そこには隠された宇宙の関連性というものがあって、その結果 すべてのものは一つになるのである。それゆえ、特殊相対性理論の明らかな侵害があるのだ!」と。

私の考えでは、これはすばらしい発見です。それについて深く考えたある人々は、我々の過去のリシ〔聖賢〕たちが語ってきたように、アートマを通 して、宇宙の相互関連性という直観的概念を自然は実際に証明しているということに気がついたのでした。

ここでまた別の疑問が生じます。「宇宙には始まりがあった。我々はおよそ137億年前にこの宇宙が生まれたと信じている。それなら一体それはどこから来たのか? この宇宙の元々のエネルギー庫はどこにあったのか?」。これに関して科学界にはたくさんの推測がなされています。しかし、ギーターの言葉を借りて、あえてこう示唆したいと思います。我々の宇宙を定義している時空間を超えたところに、私たちのこの宇宙を生まれせしめた「見えない何者か」が存在しているのだと。我々の宇宙に「母なるもの」が存在したということは、今や多くの宇宙学者が受け入れていることです。私なりには、その「母なるもの」はヴェーダーンタ哲学で強く提唱されている宇宙意識であると考えています。

これが単なる推測にすぎないことは認めますが、それでもかなり妥当な考えであると思います。宇宙意識という概念を、成りたてで、未熟な最近の科学者たちがよくやるように、簡単に排除してしまうことはできないでしょう。現代の多くの物理学者たちが最近になって物質的実体は、実際に純粋宇宙意識から生まれ出たのだという結論にしぶしぶ達したのです。この宇宙というものに関しては、初期の量 子電磁力学において多くの洞察を与えたすばらしい物理学者であるフリーマン ダイソン(Freeman Dyson)のような人物がまさに、Review of Modern Physics〔現代物理学論評〕という権威ある機関紙に、血肉をまとわない生命体に関する真摯な論文を発表するという事をやってのけたのでした。ダイソンはこう推測しています。たとえ地球という惑星がよく知られているように、生命にとって生存しにくい星になったとしても、宇宙意識の一つの雲のような、この宇宙において、生命はある原始的な形で存在し得るだろうと。これらの深遠な研究はダイソンが名誉あるマッカーサー特別 会員奨励金を受けていたときに出されたものです。

私が言おうとしていることはこれです。1)我々の宇宙は宇宙意識から生まれた。2)宇宙全体に浸透している宇宙意識という背景の下に、我々の宇宙は進化してきた。3)この宇宙意識は、我々の宇宙にあるすべての原子に内在している。人間という最も豊かな形態においてきわめて明白なように。

この長い脱線がどうして必要だったのかは、以下の理由からです。まず、次のことを指摘しましょう。シュリ・オーロビンドー(Sri Aurobindo)によると、純粋意識のエネルギーは我々の宇宙を造り上げているエネルギーへと数多くの段階を経て幾筋にも細かく分かれて流れている。これは興味深い考えです。ヴェーダーンタは、純粋意識の抽象的な領域にまでさかのぼります。その下位 のどこかしらに、我々が占有している物理的な宇宙があるというわけです。(いずれにせよ)エネルギーは「抽象的な階層を超えたレベル」から降りてきて私たちの階層の「レベル」を造っているのです。にもかかわらず、純粋意識は私たちの宇宙にも浸透しており、(今となっては捨て去られた)古典的な学説であるエーテルという概念のように、いたるところに存在しているのです。アインシュタイン・ポドスキー・ローゼン逆説を調べるために行われた実験における、この量 子連結性の発見は、私が主張するように、純粋意識ともいえる、物理的な宇宙全体に流れている微妙な関連性が事実存在するということをかなりの自信を持って言えることになるでしょう。

話はここで終わったわけではありません。およそ二十年くらい前のことでした。ロバート・ジャーン(Robert Jahn)というプリンストン大学の航空科学の教授が、運動錯誤における実験を行っていたある学生の世話をするよう頼まれたときのことです。その学生のガイドが休暇に出ていたためでした。この学生の実験には心(マインド)と物質間の相互作用の研究が含まれていました。ジャーンは個人的にはそのような現象を信じてはいませんでしたが、同僚の教授に対する礼儀から、引き受けたのでした。基本的にジャーンはその実験の電子工学の分野と統計学的な側面 を見てあげることになっていました。結果、次第に、ジャーンはこの研究にひきつけられていき、ジャーン自身完全にそれにのめり込んでしまったのでした。ジャーンは奇妙な発見をしました。基本的に心(マインド)が物質に影響を与えることができるということです。(これが何を意味するのか後で述べるつもりです)最初、ジャーンは自分が発見したことを信じませんでした。それで、管理をどんどん強めていったのでした。しかし、心(マインド)が物質に影響を与えるという結果 は出続けました。ジャーンは、人間の中の見えない宇宙意識というものが自動力のない機械に影響を与えうるという結論に達したのでした。なぜならば受動的ではあっても、機械にもまた宇宙意識が浸透しているからなのです。このことはジャーンに、量 子電気力学と量子クロモ力学の基礎をなしている学問というような分野で、宇宙意識の数学的学説を書かせることになったのでした。ジャーンの数学的な公式の詳細に賛成かどうかは、はっきりわかりませんが、しかしジャーンの基本前提に関しては、それがどんなものであろうと疑う余地はありません。

ところでジャーンは、アメリカの電気、電子工学協会で出版されている、権威ある雑誌IEEEで心(マインド)と機械の相互作用に関する発見に関して執筆しました。それは専門家たちによる最高の評論雑誌で、そこで発表するとなると、その論説にはかなりの学識が必要とされるでしょう。事実、ジャーンの発見は広く受け入れられてはいません。しかし、前もってヴェーダーンタや宇宙の起源といったものに関する知識が何もなくとも、ジャーンは現実に、精神が物質と相互に作用するという可能性を明らかにしたのです。

では、ジャーンは一体何をしたのでしょうか? ジャーンは、次のような実験(おそらく最も人を動かさずにはおかない)をたくさん試みました。この実験でジャーンはRandom Number Generator(RNG、任意の数字生成器)という電気機器を使いました。自動的に、機械が任意の数字を出し続けるというものでした。その数字が純粋に任意に出されたものであるかどうか非常に正確なテストが行われました。ジャーンは有志者たちをその機械の前に何時間も座らせて、心の中で、「機械よ、お願いだから任意の配分からはずれてくれ」と言い聞かせながら、機械に集中させました。見たところ、そんな実験は狂気じみていて、まったく時間の無駄 と思われるかもしれません。ジャーン自身そんな気持ちで始めました。しかし、ジャーンは自分に言い聞かせました。「結果 について先入観を持たないようにしよう。これから何が出てくるのか何も予測しないで、ただやってみよう」。そしてその結果 、ジャーンは人々が実際に機械に影響を与えているといことを発見したのです。当然ジャーンは最初そんなこと信じませんでしたが、何度も繰り返し行った結果 、そこに何かが存在しているという結論に達したのでした。その時ジャーンは、前述の宇宙意識の領域によって影響を受けている、心(マインド)と物質間の相互作用という理論を積極的に発展させていく事を始めたのです。

私が本当に言いたいのは単純にこういうことです。もし、自然が宇宙の誕生のときに、宇宙意識から物質を生み出したのであれば、特にジャーンの実験にあるように、人は純粋な宇宙意識に直接かかわって、事象を物質化し得るのであり、また実際にいろいろな事象を起こさしめるであろうと。質問。「皆、だれでもこの純粋な宇宙意識にかかわって、いわゆる『奇跡』と呼ばれるものを起こすことができるのか?」。答えは、だれでもができるわけでなく、純粋意識の領域に住まうことができるよう修練を積んだ女性、または男性に可能なことです。ヴェーダーンタでは、そのような力をシッディとしてはっきり定義していますし、実際それには多くのタイプがあります。またヴェーダーンタでは、真の求道者は究極の原理を追求する際、容易に人を逸脱させてしまうようなシッディの力によって気をそらされたり惑わされたりすべきではないと忠告を与えています。

私の考えでは、ソールカー氏が安っぽいトリックと呼んでいるものは、歴史を通 して知られているシッディの力が表れたものです。ババは「純粋な人が意図すれば、単純にそれは起こる」と言います。歴史は、イエスは多くの奇跡を行ったと記録しています。そのことに何の驚きも感じません。多くの神秘主義者は奇跡を行ったと言われています。もう一度言いますが、きわめて可能なことなのです。意図し、その意図を現実のものとしたり、実現させる能力は単純にその人の精神の純粋性によるものです。それは宗教とは何の関係もありません。すなわち、奇跡と呼ばれる行為を行っているあらゆる信仰には、聖者や預言者の物語があるということです。私がこういう念入りな脱線をするのは、ただこのことを伝えるためです。

以前は強固に奇跡というものを信じていませんでしたが、ひとたびそれを目にした以上、しかもさまざまな状況の下で、それらを全部詳しく語るだけの時間と場所があればと願っていました! 説明がつくようにしたかったのです。宇宙意識に基づいた妥当な筋書、私に証明はできないが、否定もできないというシナリオに行き着くまでに数年かかりました。この地球上の生命の起源に関するすべての理論はその範疇(はんちゅう)に入ることでしょう。同様に、我々のこの宇宙がどこから来たのかという理論はすべて、依然として少数の有力な可能性とともに推測の枠を超えていません。宇宙の場合と同じように、精神の力による物質の直接的な創造も含め、並外れた出来事は不可能ではないと言わざるをえないのです。彼らには可能であり、ある状況下では本当に起こるのです。奇跡を可能にするシナリオがいろいろあるということを推測することはできますが、それくらいでやめておきましょう。私たちは決して真実全体を知ることができないかもしれません。実際この宇宙では、(奇跡も含めて)つねに我々が完全に知り得ないものがたくさんあるのです。そういえば、よくあることですが、偽者たちが人々を(だま)すことはできます。しかしだからといって皆が皆偽者というわけではありません。人は合理的な存在だと信じ、最初から確信を持つような罠に陥るのは危険なことです。

今実践したように、合理性、道理にかなった行動は空間と時間の中にあります。そうです。私たち普通 の生命は空間と時間の制約を受けています。しかしそういう理由で超自然的で卓越した経験をまったく馬鹿げていると決め付けてしまって良いのでしょうか? アインシュタインは科学を追求した結果 、宇宙崇拝という感情を持つに至ったと宣言しました。アインシュタインは馬鹿げたことを言っているのでしょうか? アインシュタインは頭が変なのでしょうか? それならば、私は偽ジャーナリズムではなく同じ馬鹿げた職業を選べて、幸せだと言わせてもらいましょう!

宇宙崇拝の体験と言えば、アインシュタインが、ウパニシャッドが至高の存在について述べているのと驚くほど類似した言葉で、それは言葉と精神(マインド)を超えた体験であると語っていることを、再び思い出していただきたい。わが国のヴェーダの預言者もまた瞑想を通 したトランス状態に入ることでこれを追求したのです。ラーマクリシュナもラーマナ・マハーリシも皆、宇宙意識の状態であるこの至高の至福を体験したのです。ヴェーダーンタでは、この絶対実在の状態を別 の名前でブラフマンと言います。ヴェーダーンタはさらに、自分自身の中に入ることで人は最終的に内なるブラフマンを発見するのだと主張します。このように内なる「神」は外なる「神」と同じものです。アートマンはブラフマンであるという言葉に表れた真理です。ヴェーダーンタを深く探求した、小説家シュローディンガー(Schrodinger)はまさにこの結論に達したのでした。聖典の中でニラーカーラ・ブラフマン〔無形の神〕と述べられているように、プールナ・アヴァター〔完全なる神の化身、クリシュナ神とサイ・ババ〕は抽象的で形のない神が人の形をとって現れたものである、という事実をしっかりと把握するために、私はそれに特別 な注意を払っているのです。この対照的に、血と肉をまとった姿のアヴァター〔神の化身〕はサーカーラ・ブラフマン〔有形の神〕と言われています。そしてクリシュナ神は、はっきりと神は必要なときは降臨し、本当に人の姿を取るのだと言っています。

ここで少しでもこれらのことをすべて肝に銘じて、考えてみると、次のことを見るのは少しも難しいことではありません。

1.すべてはアートマの側面である。ところで、これはまさにクリシュナ神がアルジュナに教えた最初のことである。
2.アヴァター〔神の化身〕とはアートマが肉体化したきわめて特殊な形である。
3.人が自己の浄化、バクティ〔信愛〕などによって、自己を神性のレベルにまで高めていこうとするとき、神のアヴァター〔神の化身〕はまさにこの方法を人々に教えるために降りて来て、人々の努力を促す。実際クリシュナ神はこれをはっきりと認めた。
4.神は人が神のレベルまで上って行けるように、人として降りて来る。このドラマにおいて、化身はちょうど冷たい雨が上から降ってくるように、純粋で新鮮な水のようなものである。一方進化する魂は、不純物を後に残しながら、地表から蒸発しながら上に上がって行く水のようなものである。それが、たとえばクリシュナ神のような化身と、進化向上を目指すラーマナ・マハーリシのような帰依者との間にある違いである。
5.ところで、1926年にシュリ・サティヤ・サイの姿をとって神が降臨したことを認めたシュリ・オーロビンドは、その影響に対して簡単な言葉を述べ、その後、それを実質的に撤回した。

以上のすべてを要約すると次のようになります。

1.サティヤ・サイ・ババの帰依者はババが本当のアヴァター〔神の化身〕であると心から信じている。
2.たとえばクリシュナ神がそうしたように、アヴァターはさまざまな力にあふれた存在としてやって来るのであり、ババの行為が奇跡的だからといってそれはまったく取るに足らないものです。
3.しかしながら、普通の人々がこれらの奇跡に驚異の念に打たれる一方、ババ自身は、それはババの愛の表現にすぎないと言っている。
4.皆が皆、ババがアヴァターであると信じる必要はない。しかし、信じないからといって彼らが根拠のない中傷を支持したり、ババの社会的な任務に対し悪口を言う権利が与えられるわけではなく、しかも基本的な事実をよく知ろうともしないことが認められるわけではない。礼儀をわきまえた人ならだれでも、この国の貧しく、恵まれない人々に、ババがやってきたような健康や飲み水といった面 で、これ程多くのことをなした私的な慈善団体はないということを認めるであろう。

クリシュナ神の人生を深く分析し、入念に調べるまで、長い間私はババが善良な聖人以上のものであるとは認めてはいなかった。私はまたババによって書かれたいろいろな書物を注意深く研究し、ババの昔の講話の数々の記録を読み、私が会ったたくさんの人々から話を聞きました。それに加えて、「バガヴァッド・ギーター」、ウパニシャッドの断片を少し、ヴィヴェーカナンダの書物、ラーマクリシュナ、ラーマナ・マハーリシなどといった人たちの教えを研究しました。その時私はサティヤ・サイ・ババは、その外観ではなく、単なる形を超えた広がりにおいてかなり特殊な存在であることに気がついたのでした。敬虔(けいけん)なイスラム教徒である、パキスタンの有名な物理学者、アブダス・サラム氏(Abdus Salam)はかつて、サラム氏ほどの科学者がいかにして神の存在を信じるのかを尋ねられたことがあります。サラム氏は簡単に答えました。「何の矛盾もありません。科学を通 して私は外界を理解しようとしました。神様に関する限り、私は内側を探求しました。何が問題なのでしょう?」。

先に指摘しましたが、ガンディーは、心を支配し変容せしめるものが神であると言っています。それはまさにババが私になされたことです。私にはババを神として受け入れるにはそれで十分でした。もしその基準がガンディーにとって十分なものであったとしても、私にはそれで十分でした。私は数多くの変容を見てきましたが、それらの出来事はあまり知られてはいません。シュリ・サティア・サイ・オーガニゼーションの会長が最近、私にこう言ったのです。会長が最近オーガニゼーションの仕事でチャッティスガフに行ったとき、そこで売り上げ税務官として雇われていた一人の男に会いました。この男が会長に言ったのは、男がサイ ババに出会う前は自由に賄賂(わいろ)を受け取っていたし、また実際要求もしていたということでした。しかし、今やサイの愛がこの人を永遠に変えてしまったというのです。数え切れないほど多くの物語があり、それらは少しも新しい話ではありません。心から帰依する人々にとって、そのような変容はつねに世界中で起きてきたことです。結局、そこには唯一の神があって、私たちは皆神の子どもなのです。

 

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出典:http://media.radiosai.org/Journals/SpecialArticle/GOD_AVATAR_AND_THE_DOUBTING_THOMAS.pdf
翻訳:サティア サイ 出版協会

 

 
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