Special Talk  
 

コダイカナル インタビュー Q & A
サティアム シヴァム スンダラム(真善美)Part1

ワールドスペース「サイ・グローバル・ハーモニー」 2002年6月16日放送

 
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※これに先立ちアニール クマール教授へのインタビューが行なわれました。 (後日掲載予定)

 以上はアニール クマール教授のインタビューでした。アニール クマール教授は私達全てにコダイカナルでの素晴らしい体験の一部を感動的に話してくださいました。アニール クマール教授のお話にあったように、スワミはコダイカナルで学生達の質問にお答えになります。そのようなやりとりの中で、様々な霊的質問に対しババがお答えになったものをいくつか集め、ここにご紹介します。



問:スワミ、近頃は他人の真似をすることがとても一般的になっています。これは若い人達が目新しい流行を求めることの一因ともなっています。バガヴァンはこれについてどのようにお考えですか。

ババ:人の真似をするのは良くありません。スワミはよく男子学生に「真似をするのは人間であるが、創造をするのは神である」と話します。人の真似をすることはその人自身の興味と能力を失わせ、本来の性質を覆い隠してしまいます。例えば、カラスが白鳥のように歩こうとしたとします。カラスは長い間何度も挑戦しましたが、うまくいきませんでした。結局カラスはうんざりして白鳥の真似をするのをやめました。しかしそうしている間に、そのカラスはカラスらしい歩き方までも忘れてしまったのです。安直に真似をしようとする人々は結局こうなるのです。常に真のあなた自身でいなさい。

問:スワミ、自分達の人生には幸せなどない、自分達は絶対に幸福になれない、という人達がいます。なぜでしょうか。

ババ:心がそのような思いの原因なのです。幸せは、心が神へと向かった時にのみ手に入れることができます。もし心が世俗へと向かったら人生は苦しいものになります。例えば、うちわを自分に向けて動かしてごらんなさい。涼しい風は自分の方へ来るでしょう。でも、そのうちわを自分から遠ざける形で動かせば、どうして涼しい風を受けることができるでしょう。同じように、心が神へ向かった時にのみ、あなたは幸せを得ることができるのです。

問:スワミ、人間が手放すべきものは何でしょうか。

ババ:人々は、放棄とは社会生活から離れ隠遁生活を送ることだと思っています。人が手放さなければならないのは「執着」です。これが「放棄」という言葉の本当の意味です。ラマナンダティルタ師は出家する以前は妻と息子がいました。出家した後、ある時彼の妻が彼に会いに来ました。師は顔をそむけて、自分は出家をした身なので妻が会いに来るべきではないと言いました。彼女はそれを聞き、自分は夫に会いに来たのではなく、聖なるサニャーシ(世捨人)に会いに来たのだと言いました。ラマナンダティルタはその答を聞いて謙虚になり、彼女に高慢な態度で話をしたことを後悔しました。あなたは財産(properties)を手放さなくてもよいのです。そのかわりに重要なのは神との正しい結びつき(proper-ties)を育てることです。

問:スワミ、なぜ私達は神の恩寵を受けないのでしょうか。

ババ:これは全く誤った考え方です。神は万人を平等に扱います。問題は個人の側にあるのです。例えば、雨が降っている時あなたが雨水を受け止めたいと思ったら、雨の中で容器の口を空に向けて置かなければなりません。そうして初めて雨水を容器に集めることができます。もしも容器を逆さ向きに置いたら、雨水を集められるはずがありません。あなたの心が容器で神が空です。心を神に向けなさい。そうすれば間違いなく恩寵という水を集めることができます。

問:スワミ、「バクティ(神への愛)」と「全託」の違いは何ですか。

ババ:バクティというのは二元性の段階です。この段階では神と帰依者という二つの存在があります。この二つは大変に緊密で決して切り離したり分割したりすることはできません。バクティは帰依者を神へ結び付けます。一方、全託というのは一元性、あるいは不二一元性(アドヴァイタ)の段階です。帰依者が「存在するのは神のみで、その他のものは何も存在しない」と感じれば、帰依者は独立した存在を持たなくなるのです。彼はもう神と別 のものとしては存在しません。そのような帰依者はもう決して何も自分のものとは見なしません。彼にはもう「自分」という感覚は全くありません。例を挙げて言えば、水と砂糖は形状においても特性においても異なっています。これは二元性、あるいはバクティの道です。砂糖を水に入れてその水をかき回したとします。砂糖は水に溶けて水全体に広がります。この状態においては純粋な水も純粋な砂糖もありません。そのかわりにシロップがあります。これが全託あるいは不二一元性です。帰依者は全てを神に捧げ、心も含めて何一つ自分のために取っておくことはありません。

問:スワミ、信ずる心の後に愛がくるのでしょうか、愛の後に信ずる心がくるのでしょうか。

ババ:信ずる心がまず先にこなければならないということに疑問の余地はありません。人を愛に導くものは信ずる心です。人が自分の母親や友人を愛するのはこれらの人々を信じているからです。もし信じていなければ、彼らへの愛があるでしょうか。ですから、信ずる心と愛とどちらが先にくるかという質問ならば、信ずる心が先にくるという答になります。

問:スワミ、ある人は信ずる心の元となるのは体験であると言いますし、またある人は体験の前に信ずる心がくると言います。どちらが正しいのでしょうか。

ババ:信ずる心があって初めて体験することができるのです。信ずる心は全ての元となるものです。例えば、水泳を習いたい人が、自分はまず泳ぎ方を習ってから水に入る、と言ったとしたらそれは全くおかしな話です。砂の上や道路の上で泳ぎ方を覚えることができますか。泳ぎ方は水の中で習う必要があります。体験は泳ぎ方に例えられ、水は信ずる心に例えられます。信ずる心がまず最初にくるということをしっかりと分っておきなさい。

問:スワミ、無執着というのはとても難しいことのように思えます。家族や親類等への愛着を捨てるのは決して簡単なことではありません。

ババ:実のところ、無執着というのはとても簡単なことなのです。スワミに言わせれば、何かを手放さずに持っている方がより困難です。ご覧なさい、私はここにハンカチを握りしめています。私が手を離せばハンカチは落ちていきます。ハンカチを握りしめているのとハンカチを手離すのとどちらが難しいでしょう。ハンカチを握りしめておくには五本の指に力を入れていなければなりません。これには努力が必要です。しかし、握った手を離すことはずっと簡単です。このように、執着することは無執着でいるよりも難しいことなのです。

問:スワミ、私達が霊性修行の成果を直ちに得られないのは何故ですか。

ババ:あなたの霊性修行に対する考え方は正しくありません。あなたはいくつかの重要な点を理解しなければなりません。一つ例を挙げましょう。子供達は幼稚園から勉強を始めます。そして中学、高校まで進み、そして大学に入って学士号を取るために勉強します。そうするのに全部で何年かかるでしょうか。大学の学位 を取るためにはどれほどの努力が必要でしょうか。世俗的な学位を取るのでさえ大変な努力をしなければならないのであれば、無限なる存在や永遠なる存在の探求において、すぐさま成果 や報酬を期待するのは正しいことでしょうか。すぐに報酬を得ようと期待するのは間違っています。

問:スワミ、どうしたら「私」とか「私のもの」という感覚をなくせるのでしょうか。

ババ:このことについてはちょっとした例え話をするとはっきり分るでしょう。豪邸に住んでいる金持ちの男がいたとします。彼は用心のため獰猛な犬を飼っていました。もしあなたがその豪邸に入りたいと思ったら、2つの方法しかありません。1つはその犬と仲良くなることです。これがカルマヨガの方法です。そうでなければ、その金持ちの男が門まで出てきてあなたを中に入れなければなりません。もし男が出てこなければ犬はあなたを中に入れてくれません。これがバクティヨガです。これらは「私」とか「私のもの」という感覚をなくすためのただ2つの方法です。バクティ(神への愛)は「私」とか「私のもの」という感覚の元になっているエゴをなくすための最良の方法です。

問:ニャーナあるいは霊的英知とは何を意味するのでしょうか。

ババ:ニャーナとは書物に書かれた知識のことではありません。それは学問とは何の関係もありません。ニャーナを得るために沢山の本を修得する必要はありません。実のところ、ニャーナは自分自身の全ての欠点を内省しそれらを完全に取り除いた時、手に入れることができるのです。知識を頭に詰め込むことによって霊的な英知を得ることはできません。

問:スワミ、私達は自分自身の行動に責任があり、自分の行動の結果 を逃れることはできないと言われています。そのような状況の中で、バクティ(神への愛)はどのような恩恵をもたらすのでしょうか。

ババ:神は全てを創造した後、人間に完全な自由を与えて、好きなように行動できるようにしました。しかし、神は一つの条件をつけたのです。あなたは何でも好きなことをし、望んだものを楽しむことができますが、あなたはそれがもたらす結果 を逃れることができないのです。あなたはそれらの結果に直面しなければなりません。ですから、あなたに起こることはあなただけの責任なのです。あなたに起こった良いことや悪いことをもたらしたのはあなた自身であり、その他のものではありません。それではどうして私達は神を愛するべきなのかとあなたは問います。その答えを与えてくれる例えがあります。あなたはいくらかの土地を持っています。あなたはそこで玉 ねぎでもジャスミンでも、好きなものを栽培することができます。それはあなたの望むままです。しかし、何を栽培するにしてもあなたは政府に地税を払わなければなりません。同じように、あなたは自分のカルマ、あるいは行動の結果 を逃れることはできません。ここで重要な点は、あなたの所得税はあなたの収入の額によって決まるということです。しかし、免税という方法があります。同じように、帰依、奉仕、霊性修行、バジャン等の全ては、あなたが過去に行った行動の結果 をいくらか払い戻してくれるのです。

問:スワミ、神は姿を持たないという人もいますが、一方で姿のある神を礼拝する人もいます。その違いを教えてください。

ババ:沢山の人々が間違いを犯すのはこの点です。初めに何の形もなかったら、人はどうやって無形の存在を想像することすらできるでしょうか。ですから、姿形を略して退けてしまうことはできません。あなたには姿があるでしょう? ですから、あなたは姿のある神を礼拝しなければなりません。もし魚が神を礼拝するならば、魚は、神はとても大きな魚だと思うでしょう。水牛でも同じことです。水牛は、神はとても偉大な水牛だと思うでしょう。それと同様、人は人の姿をした神を思わなければなりません。事実、姿のないものへの礼拝も、元々は姿のある神を礼拝することから始まったのです。姿形なしでは、無形の存在は意味を持ちません。例えば、あなたは今ここにいてこの部屋でスワミと会話をしています。ここであなたは実際の姿とやりとりをしています。あなたが後で自分の部屋に戻った時、ここでなされた会話を思い出しますが、心の中でそれを思い出すことはスワミの実際の物理的な姿を伴いません。そこには姿はありません。これが有形と無形の関係です。もう一つの例を挙げると、牛乳があってあなたはそれを飲みたいのだとします。牛乳を飲むにはコップが必要です。同じように、帰依には御姿と呼ばれるコップが必要なのです。

問:スワミ、神は遍在だと言う人がいます。どうかこれについて説明してください。

ババ:クリシュナはギーターの中で「私は全てのものがそこから生じた根源である」と言いました。これは、神は全てのものの本源であるということです。例えば、あなたがマンゴーの種を地面 に植えたとします。そうすると種から小さな芽が出てそれは大きな木に成長し、花を咲かせます。そしてマンゴーの実がなり、その実の一つ一つには種があります。このマンゴーの木は宇宙を表し、マンゴーの実は生き物を表し、実の中の種は神を表します。

問:スワミ、もし神が全ての生き物の中に存在するなら、どうしてそれぞれに違いがあるのでしょうか。

ババ:ヴェーダは、神は一つであると言明しています。別のものがあるのではという疑問の余地はありません。あなたの疑問は、もし唯一者があらゆる所に存在しているのだとしたら、なぜ生き物に様々な違いがあるかということでしょう。この点を説明するちょっとした例えがあります。様々な電球の中には同じ電流が流れています。しかし、電灯の明るさには大きな違いがあるでしょう。ある電灯は明るく、別 の電灯は暗いのです。なぜでしょう。それはこれらの電球のボルト数が違うからです。神は内在者です。神は電流のようなものです。同じ神が全ての生き物の中に存在するのです。人間は電球のようなものです。人間はその徳性(グナ)や生来の傾向において異なっています。ですから、違いがあるのです。

問:スワミ、霊性の道においてさらに進歩をするためには、どれ位の霊的知識を持たなければならないのでしょうか。

ババ:実はそれ程多くの知識は必要ないのです。多くの人は絶えず霊性に関する本を読んでいます。彼らは講話を聞いたり、自分で講話を行ったりすることでしょう。しかし、それら全てが何の役に立つのでしょう。そのような人々はまったく変化する様子はありませんし、霊的な意味では同じ所に留まっています。彼らは自分が聞いたことや学んだことを実行に移しません。実際、沢山の本を読んだり沢山の講話を聞いたりする必要は全くありません。進歩はほんの1つか2つの重要な教えに誠実に従うことによって得ることができます。自殺を図るには一本の小さな針があれば十分です。ナイフやカマや刀などの大きい凶器が必要なのは人を殺す時だけです。他の人に説教をしたい人は多くの本を読まなければなりません。自分自身を向上させたい人は多くの本を読まなくてもよいのです。少し読んだものを実行に移す必要があるだけです。

問:スワミ、このマーヤー(幻影)とは何ですか。

ババ:マーヤーなどというものはないのです。それは全て人の想像です。自分は身体であると考えることはマーヤーです。実はそうではないのに、あなたは自分がこの身体であると信じています。これがマーヤーです。本当をいうと、マーヤーというものはないのです。それは全て人の想像なのです。マーヤーは木の影のようなものです。何が影を落とすのでしょうか。木の枝が影を落とすのであり、太陽の光ではありません。枝がなければ影もありません。マーヤーと呼ばれるこの影は、人の欲望と呼ばれる枝によってできるのです。もし欲望がなければマーヤーもありません。

 


 以上は、コダイカナルにおいて学生達が神のおそばで受けた霊的英知の一部でした。アニール クマール教授のインタビューにもあったように、学生達はコダイカナルで大変多くのものを授かります。

 南アフリカのC.R. シン氏はこれらの学生達がどれほど幸運であるかを詩に著しています。この詩は1988年にコダイカナルで書かれたものです。

 

白きユニフォームをまとったサイの天使達よ
神の光の松明を持つ者よ
あなた方は立派に自らの役目を果たしている
目標とする卓越性を求めながら

 

ババのおりの中に集まれば
羊たちは重さと同じ金塊ほどの価値がある
精選された羊の群れを
羊飼いは24時間番をする

 

神のお召しにより蓮華の御足にある
全学生の何と幸運なことよ
今あなた方の道案内を務める神ご自身を
すぐ近くからこんなにも頻繁に拝謁できる

 

サイのこよなく美しい歌を歌う者達よ
サイはあなた方の礎を強固にお築きになった
サイがあなた方に用意している贈り物は何か
自己実現と自己探求のために

 

あなた方はサイの掌中にある道具
宇宙の御霊を通じ
あなた方の母国と
人類愛全体を変容させるために選ばれた

 

あなた方が将来の役割と義務を
帰依の心で果たさんことを
おのおの導き星のように輝き
どこにいようともその役目を果たさんことを

 

 

 

 
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