・ババの御教え・
新年の御言葉
西洋のカレンダーでは、1月l日から新しい年が始まります。この日は、インドにおいても、西洋の習慣にならって新年の日として祝われています。しかし、少し考えてみれば、皆さんは一秒一秒が新しいものであることが判るでしょう。一秒一秒が新しい誕生を示しています。それは新たな勝利を得るための機会です。
文化が目標としているものは、各人がアートマ(真我)を認識することであり、富や学問や名声を手に入れることではないからです。人間の最大の義務は、真実を探究することです。真実は献身と帰依によってのみ勝ち得ることができます。そして、この献身と帰依は神の恩籠に依存しており、神の恩籠は、愛に満ちあふれた心にしか注ぎません。
「神はどこに存在するのか?」という質問を、最近の人々はよく口にします。神の御名をたゆみなく唱え続けることによってプラフラーダは、神が、至る所におられることを知っていました。様々な魅力的な品物がデパートに並んでいるのが見えても、下さいと頼むだけでは手に入れることはできません。あなた方は代金を支払った品物しか自分のものにはできないのです。真我実現は魅力的で、手に入れて帰りたいと思うかもしれませんが、あなた方はその代価を支払わなければなりません。もしあなた方が、訴えるための議論しか持ち合わせていないとすれば、真我実現を自分のものにすることはできません。
あなたが、一国の名明な最高支配者である場合に限り国王になる資格があります。もしあなたが敵に襲われて王座から逃げ出そうとしているのであれば、その身分の尊厳はどうして相応しいと言えましょう?同様にあなたが、肉欲、貪欲、憎悪、慢心という内なる敵を打ち破り、明白に自分自身を克服したときに、初めて王座に昇って、自分が主人であると宣言することができるのです。
神はあなた方の手の届かない所、遠く離れた場所にいるのではありません。神はあなた方の内奥にいます。あなた自身の心の中の祭壇にいます。そこに神を見いだせず、その発見によって平安と歓びを引き出すことができないので人間は苦しんでいるのです。流れる川の水に膝までつかって洗っていたドービ(インドの洗擢屋)が、のどが渇いて死にました。彼は命の水が手の届く所にあるのに、気がつかなっかたからです。彼はただ体を曲げて水を飲めば良かったのです。人間の身の上はそれに似ています。人は外に神を求めて必死に走り廻り、目的を達することができずに、失望と混乱のうちに死んでいき、その結果また生まれてくるのです。
もちろん、あなた方はこの世の中に生きなければなりませんが、この世に所属する必要はないのです。注意を神に、内なる神に固定しておかなければなりません。(インド国内の)カンナダ語が話されている地方には、カラガと呼ばれるお祭りがあります。この神聖な儀式の中心人物は頭上にいくつもの壺を積み重ねて乗せ、音楽に足取りを合わせて行進します。彼は行進のリズムに合わせていなければならないのです。しかし、そうしている間ずっと彼の注意は、自分の頭にのっている不安定な塔の壺のバランスを取ることに向けられています。それと同じく人間は人生という騒がしく浮かれた行進を続けている間、神実現という目標を持ち続けなければなりません。
人々は、自分は知的探究と理性にしか興味がなく、ジュニャーナ(霊的知識)の道だけを歩くのだと誇らしげに言います。ジュニャーニ(解脱して霊的知識を備えた人)になることを望んでいるのです。しかし、ジュニャーナは純粋な心を持っていなければ勝ち得ることはできません。人は「神は誰か」という探究に取り組む前に、まず自分が誰であるかを発見しなければなりません。いったん自分が誰かを発見してしまえば、神が誰であるか知る必要はありません。なぜなら、両者は同じであるからです。
神は自分の中にいるということが判れば、あなた方は自分自身をはるかに高く評価するでしょう。というのも自分が拾った「ガラス玉」が実は「ダイヤモンド」であったことが判れば、その安全のために鉄製の金庫に保管するに違いないからです。一個の石も、彫刻家によって、魅力的な神像の形に彫刻されれば、非常に大切にされ、立派な寺院に安置されて、何世代にも渡って、人々は儀式を捧げて礼拝するでしょう。
あなたが何度も何度も生まれてきた間に、この世が真実であり、あなたは肉体と同じであるという誤った認識があまりにも深く植え付けられてしまったので、非常に効力の強い薬を絶え間なく服用し続けることによってしか、それを取り除くことができません。その薬はラーマ、ラーマ、ラーマという神の御名です。それを限りなく服用し、吸収しなければなりません。その治癒力のあるエッセンスは手足の一本一本とすべての感覚器官にまで運ばれ、全部の神経、さらには血液の一滴一滴にまで行き渡ります。あなたの全細胞がラーマに変化してしまうでしょう。あなたはるつぼのなかで溶けてしまい、ラーマの鋳型に注ぎ込まれてラーマとならなければなりません。それこそがジュニャーナの完成であります。ラーマの御名でもそうですが、繰り返し唱えて心に吸収されれば、あなた方を虚しさに引きずりこむ感覚の気まぐれをコントロールすることを助けるでしょう。
一年が新しくなるのも、一日が神聖なものになるのも、あなた方がサーダナ(霊性修行)によって、それを聖別したときに限られるのであり、それ以外の条件ではそうではありません。サーダナは愛という肥料がよく施された畑でしか育ちません。愛、すなわちプレマはバクティ(神への帰依心)の必須条件です。あなた方が、物や名声、妻子などに対して抱いている愛は、より強烈な神の愛に包摂されることによって神聖なものにならなければなりません。スプーン二杯の水を二リットルのミルクに混ぜてごらんなさい。水もミルクとして喜ばれます。いま現在、あなた方のサーダナは、二リットルの水にスプーン二杯のミルクを混ぜるようなものでしかありません。神への愛があなた方の心を満たし、心を震わせている状態でいなさい。そうすれば、誰も憎むことができなくなり、不健全な競争意識にひたることもできなくなります。また、どんな人にも欠陥を見出すことができなくなるでしょう。人生は柔らかく甘美で、滑らかなものとなります。
(1967年1月1日 マドラス市ギンディ地区でのスワミの講話) 『サティア サイは語る』改定版 第VII巻より要約
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