一問一答


バガヴァン シュリ サティア サイババがアニールクマール教授の質問にお答えになりました。

問: バガヴァン、真の幸福とは何ですか?どのようにして獲得するものなのですか?

答: 幸福はサンスクリット語で‘Santhosha’と表される。この言葉はまさに、幸福はただ「部分的なもの」にすぎず、完全なものではないと教えている。必要なのは幸福ではなく至福だ。真の幸福は、神との一体化にある。あなた方の幸福は、あなた方がどれほど神と親しい間柄にあるかということに依存している。個人が俗世に執着している限り、幸福を体験することは決してない。世俗的見地から見るなら、幸福は、あなた方がどれほど自分のすべきことを好きでいるかということにかかっており、自分のしたいことをするということにかかっているのではない。

問: 生涯に渡って幸福を奪われてしまったかのように思われる者もいます。それは何故でしょうか?

答: 原因となるのは心である。心が神に向いていれば、間違いなく幸せでいることができる。心が世俗的なことに向いているために、幸福からかけ離れたところにいるのだ。簡単な例を挙げよう。もし小さな扇風機があなたの方を向いていれば、あなたはそよ風を受けるだろう。けれども、もしその同じ扇風機が反対方向を向いていたら、そよ風を受けることはない。この様に、私たちは常に自分の心が神に向いているよう確かめていなければならない。

問: 神に近づくためには、何を犠牲にすればよいのでしょうか?

答: それに関しては多くの誤解がなされている。霊性の道を歩むに際し、あなた方が犠牲としなければならないのは、俗世ではない。世俗的な感情を犠牲とすべきだ。

問: ある者は神の恩寵を得、ある者は得ることがありませんが、それは何故ですか?

答: ある者は神の恩寵を得るが、ある者には得難いと考えるのは正しいことではない。神の恩寵はすべてのものの上に、常に一様に、等しく注がれている。あなた方がそれに気づかないために誤解が生じるのだ。雨が降っているとしよう。水を集めるためには、壺を正しく置かなければならず、逆さまに置いてはならない。同様に、あなた方の頭と心を正しい方向に定めることだ。

問: 帰依と全託の遵いは何ですか?

答: 帰依は二元論を行く道である。そこには2つのものが存在している。神と帰依者だ。二者は親しい関係にあり、互いにかかわり合い、依存し合っている。帰依とは、帰依者と神を繋ぐものだ。しかし、全託は異なる。全託は一元論の様相である。あなたが自分自身を神に捧げるとき、そして、すべてを完全に差し出すとき、あなたは存在しない。あなたは自分自身と何の関係もなくなる。砂糖と水を例にとろう。この二つは名前と形において別個のものだ。これは帰依という道を行く二元論だ。砂糖は神であり、水は帰依者だ。では、砂糖を水に入れて、よくかき混ぜてみる。一度砂糖が完全に溶けてしまえば、もはや水と砂糖は区別できない。それは水でもなく砂糖でもない。シロップになる。同様に、帰依者が神に全託するなら、帰依者はもはや存在しない。これが一元論である。

問: スワミ、ある者は体験して初めて神への信仰を深めるこどができると思っています。一方で、体険できるのは信仰があるからだと考える者もいます。どちらの主張が正しいのですか?

答: 信仰によってこそ体験を得ることができる。従って、まず最初に信仰を持つべきだ。例えば、もしあなたが泳ぎを覚えたいと思うなら、あなたは水に飛び込まなければならない。そうだろう? 砂漠や道路の上で泳ぎを覚えることはできない。泳ぎを覚えた後で水に飛び込む、などと言うのは全くばかげている。つまり、ここで言う泳ぎとは体験であり、その体験は信仰という水の中においてのみ得ることができるのだ。

問: バガヴァン、「サーダナ」(霊性修行)が強調されています。しかし、時折私たちは、サーダナを続けるのは難しいことだと感じます。そのような場合、どうすればよいのですか?

答: 大切なことでも些細なことでも、この世のあらゆることに関して、私たちは練習を必要とする。歩くこと、話すこと、読むこと、書くこと、食べること、これらは練習によってのみ身についていく。何をするにしても、不断の練習があって初めて完全にできるようになる。例えぱ、子供が歩くことを覚えるとき、バランスを保ち、歩けるようになるまで何度も転び、練習を繰り返す。また、練習して初めてよい音楽家になることができる。車の運転も最初は難しい。ハンドル、ブレーキ、クラクション、クラッチ、これらは皆違う場所に備えつけられている。けれど練習すれば容易に動かすことができ、うまく運転することができるようになる。そのように、「サーダナ」も最初は困難なことに思えるかもしれない。しかし、日々練習を続けるにつれて容易なものとなる。

問: [サーダナ」は毎日必ず行なう必要がありますか?

答: 「サーダナ」という言葉は、まさに「果たすべきこと」を示している。不動の状態を得、揺るぎない信念を培い、全託の状態に達するまで、毎日自分のサーダナを行なわなければならない。例えば、水田には毎日水を入れなければならない。けれども、ユーカリやヤシやバンヤンの樹は、どんなに大きかろうとも毎日水をやる必要はない。なぜだろうか? それらの樹は根を非常に深いところまで伸ばしているため、地下にある水を含んだ層から水を吸い上げることができるからだ。同様に、私たちの信念が深く根を伸ばし、弱められることなく、不動でいられるようになるその時まで、毎日サーダナを行なわなくてはならない。

問: 誠実に規律をもってサーダナを行なうなら、神の恩寵は確実ですか?

答: もちろんだ! 神の恩寵は100%確実となる。例えば、もし、毎日必ず昼の12時に犬に餌を与えたなら、そのうちに何が起こるだろうか? 犬は餌をもらうため、12時きっかりに戸口の所にいるだろう。同様に、もしあなたが誠実に規律をもってサーダナを行なうなら、神もやって来てあなたに応えるだろう。あなたは間違いなく神の恩寵を得ることができる。

問: 常に無執着でいるというのは非常に難しいことです。私たちは自分のまわりの多くのものに執着しており、強い所有欲を持っています。どのようにすれば無執着でいることができ、束縛から自由でいられるのですか?

答: とても、とても簡単なことだ。私の考えでは、無執着でいることは執着することよりも単純で簡単なことだ。握りしめているのは難しい。けれども、手放すのは簡単だ。見てごらん。私は手の中にハンカチを持っている。では、これを手放そう。ごらん。ハンカチを手放すことがどんなに簡単で単純なことか。掴んでいるためには力をかけ、圧力をかけなければならない。同様に、自分のまわりのものすべてを握りしめる努力などすべきではない。手放しなさい。それだけのことだ。

「Sathyopanishath」 アニール クマール著


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