サイラムニュース NO.82  
サイの御教え

2001年 ガネーシャ チャトゥルティの御講話

  無私の奉仕は神の恩寵を勝ち取る

おお人よ!
神を忘れて
朝から晩まで知識を蓄え
富を稼ぐことに
すべての時間を費やして
いったい何が得られたのかを
自分でよく考え 調べてみるが良い
(テルグ語の詩)

 愛の化身である皆さん!
 人間としての一生は、もっとも尊く、もっとも稀有なものであり、あらゆる種類の生涯の中で、もっとも生きる価値のあるものです。一生懸命に働き、務めを果 たすこ とによって、自分の一生を価値あるものにすることは、人間の最大の義務であり、責任でもあります。

人々は ただ腹を満たすだけのために
人生において大変な苦労をしている
人々は あらゆる分野の様々な形の知識を身につけるが
完全な至福を楽しむことができない
だから 神を拠り所として 神を黙想するが良い
必ず神は 正しい道を示してくれることだろう
(テルグ語の詩)

犠牲の精神を培いなさい

 愛の化身である皆さん!
 皆さんは、ただ小さなお腹をいっぱいにするだけのために、大変な苦労をしています。また、あらゆるやり方を使ってお金を稼ぎます。このようなことが、皆さんに満足をもたらすのでしょうか? いいえ。こんなことでは決して満足は得られません。このような事実を踏まえて、『幸福によって幸福を得ることはできない』という格言があります。幸福は、困難が実を結んだものです。皆さんはあらゆる快適さと幸せを手に入れたいと望みますが、それによって平安を得ることはできません。もし、幸福と平安を味わいたいのであれば、人生における困難が必要です。
 人間として生きる上で一番大切なものは犠牲です。

木は 命のある間は、他者のために果実を実らせる
それは 命を失った後でも
有用な薪(まき)として我が身を提供する
木こそはまさに犠牲の象徴である
犠牲という理想に関して 木は最良の教師である

(テルグ語の詩)

 犠牲を捧げずに至福の状態を楽しむことは、決してできません。皆さんは今この瞬間から、犠牲の精神を培っていくべきです。私たちは、崇高で広やかな心をもっていなければなりません。決して卑しい心をもってはなりません。

卑劣な心をもった人に
どれほど救いの手を差し伸べ
親切を施しても
その人は、邪
(よこしま)な性質のために
必ずあなたに害を及ぼすであろう

(テルグ語の詩)

 私たちは、宇宙における人間の原初の栄光と、価値と至高の地位を守らなければなりません。現代の人間は脆弱(ぜいじゃく)です。最近の人々は、過ちを犯しますが、それに気づかず、過ちを悔いることがありません。昔は、聖賢たちは過ちを犯すと、必ずそれを心から悔いました。彼らは自分の過ちを改め、純粋な生活を送りました。彼らは、絶えず神に感謝する高貴な人々でした。彼らは、神への感謝を表すために、ヴィグネーシュワラ神( ガネーシャの別名)を崇拝し始めました。皆さんはそのような偉大な人々を見習うべきです。

ヴィナーヤカは正しい道を示す

 ヴィグネーシュワラとは誰でしょう? ガナパティとは誰でしょう?「ガ」は知性に関係していることを表す言葉です。「ナ」は英知のことです。ですから、「ガナパティ」とは、 世俗的な知識と霊的知識のすべての主を意味します( 訳注 ―「パティ」は「主」の意味)。
 ヴィナーヤカは、自分の上に主人をもちません。彼は自分自身の主人なのです。ヴィナーヤカは決して皆さんを苦しませることはありません。ヴィナーヤカは、皆さんのすべての努力や精進を祝福し、成功を授けてくれます。彼は、 邪なものがあなたの中に住むことを許しません。彼は、ネズミを乗り物としています。ネズミは、夜暗いところを動き回るので、暗黒の象徴とされています。ヴィナーヤカは、 闇を追い払うことによって、皆さんを光へと導きます。

 神性は、人類のみに内在しているわけではありません。鳥や獣の内にも神性を見ることができます。象の頭をしたヴィナーヤカは、この隠れた内在の神性を顕現しています。象は大変知的であり、忠実で誠実です。象は感謝の象徴ですが、感謝は非常に神聖な特質です。象は、主人を守るためなら、自分の命すら犠牲にします。象にはまた、忍耐という特質も備わっています。

忍耐は真理であり
忍耐は正義である
忍耐こそはヴェーダの教えであり
忍耐は非暴力である
忍耐は犠牲であり
忍耐は幸福と天国の至福をもたらす
実際 それはすべての世界の
いっさいのものである

(テルグ語の詩)

 ジャングルの中で、我々の進む道がないとき、真っ先に歩いて道を造ってくれるのは象です。同様に、この人生というジャングルの中で、人間が進むべき理想的な道を示してくれるのは、象の頭をしたヴィナーヤカです。
 今日のヴィナーヤカ チャトゥルティの日には、様々な捧げ物がヴィナーヤカに捧げられます。この日捧げられるすべての料理は、油を使わずに蒸気で蒸して作られます。クドゥムルやヴンドゥラルのような、米の粉とゴマで作った料理は、この日のために作られる特別 な捧げ物です。そのような捧げ物が作られるのはなぜでしょう? それは、健康は宝だからです。蒸気で蒸して作った食物を食べる人々は、完全な健康を得ることができます。今日、人々は様々なご馳走を追いかけ、そのために健康を害しています。米の粉とゴマで作った料理を食べると、目の病気から解放されます。ジャガリー( 粗糖)とゴマの組み合わせは、胆汁、気息、粘液が原因で起きる病気や欠陥を予防します。米の粉を蒸した料理も、消化を助け、健康を増進します。

忘恩は人を邪な性質にする

 私たちは、ヴィナーヤカを崇拝することを覚えただけで、 この神を崇拝することの内的な意義を理解しようとしません。ヴィナーヤカの崇拝は、健康と幸福をもたらし、万人を理想的な人間にする力をもっています。もし学生がヴィナーヤカを崇拝して、理想を実践するならば、記憶力と知性が向上します。音楽家たちは、どのような音楽のプログラムを始める前にでも、まずヴィナーヤカに祈りを捧げま す。いかなる音楽のプログラムも、ヴィナーヤカに祈りを捧げずに行われることはありません。
 しかし、カリの時代の影響のために、私たちはこのような理想を忘れています。これが人間の不幸の根本原因です。人間は今日、永遠の至福を忘れて、一時的で移ろいやすい、はかない喜びを追い求めています。私たちは、神に祈ることによって、初めて永遠の至福を獲得することができます。時の経過と共に、人間性そのものが失われようとして います。人間的価値が姿を消してしまいました。人間は定められた行動の規範を守っていません。もし人間的価値を実践するならば、神に到達することができるのです。皆さんは、どのような形の援助であれ、いったん誰かから援助を受けたのであれば、一生そのことを忘れてはなりませ ん。いかなる手助けに対しても、事の大小を問わず、私たちは感謝の心をもたなければなりません。

 『スーリヤ ナマスカー ル( 太陽神への礼拝)』において、私たちは様々なマントラによって太陽神を褒め称えます。その中に、『忘恩の徒を罰する神に帰命し奉る』という言葉があります。私たちの目の中の光は太陽神の贈り物です。私たちがものを見ることができるのは、太陽神のおかげです。たとえ太陽が出ていても、目が閉じられていれば何も見ることができません。視覚は太陽神の反映です。太陽神は、感謝を知らない人の視覚からは離れてしまいます( したがってその人は視力を失います)。
 人間は、目が見えなければ自分の務めを果たすことがで きません。たとえ学者であっても、目を閉じれば何も見ることができません。ですから、 目( ネートラ)は、私たちの人生にとっての聖典( シャーストラ)であるのです。
 聖者サラスワタは、太陽神に捧げる祈りを詳しく解説しました。彼はまた、サラスワティー女神とラクシュミー女神を称えて、詩を歌いました。実際、これらはすべて神の姿です。そのような神々を崇拝することにより、特にヴィナーヤカを崇拝することによって、識別 力が高まります。 ところが皆さんは、人生を神聖で崇高な新しい想いで満たしておりません。皆さんは、悪い想いや、悪い波動、悪い行動によって、人生を浪費しています。今日の人間は執着によって束縛されています。執着、貪欲さ、所有欲は、妄想の原因です。太古の聖賢たちは、偉大なヨーギ(ヨーガ行者)でした。彼らは自分たちの過ちを認識して、心から悔い改めました。今日、自分の過ちに気づかないボーギ(快楽追及者)たちがたくさんいます。ボーガ(快楽)は必ずローガ( 病気)を引き起こします。ですから皆さんは、自分の過ちに気づき、 それを心から悔い改めて、神に許しを乞わなければなりません。

 ヴィナーヤカの教えは、人間が自らを束縛から解き放ち、解脱に到るのを助けます。ガネーシャ神の崇拝は、非常に古い時代から広く行われています。ガネーシャ神は、ナーラー ヤナ ウパニシャッドの中で「タット プルシャーヤ ヴィッドマヘー ヴァックラトゥンダーヤ ディーマヒ タンノー ダンティッ プラチョーダヤート」と賞賛されています。ガネーシャ神に関する記述はヴェーダの中にも見られます。音楽においても、人々は恩寵を求めてガネーシャに祈りを捧げます。しかし本当に、ガネーシャの恩寵を確保することを助けるものは、いったい何でしょう? 私たちはヴィナーヤカの特性を備えているでしょうか?
 ヴィナーヤカのハートは純粋さに満ちています。成功(スィッディ)と知性(ブッディ)は、彼の伴侶とも、左右の目とも見なされています。知性( ブッディ)は理性の源です。知性を高めるためには、私たちは感謝の心をもたなければなりません。恩を忘れる人は、決して知性を高めることができません。知性がなければ、人は決して、人生における成功を収めることはできません。ヴィナーヤカは成功を授けます。ですから、私たちはヴィナーヤカ神崇拝の内的意義を知る必要があります。

 今日私たちは、いかなる仕事を始める前であれ、ガネーシャ神に祈りを捧げます。主の中の主であるヴィナーヤカに祈りを捧げることもなく、したがって利己的な行動をしていれば、私たちは必ず失敗するに決まっています。

 ヴィナーヤカ チャトゥルティは、一年で最初のお祭りであり、それに続いて様々なお祭りが行われます。バーラタの人々は、まずガネーシャ神に祈りを捧げてから、日々の祈りを始めます。ヴィナーヤカは、肉体的、精神的、霊的な力を授けます。

「心(M)=身体(B)=真我(A)」統合コース

 私たちの大学には、MBAコースがあります。それは経営学修士課程と呼ばれていますが、本当はそうではありません。Mは心( Mind)を表し、Bは身体( Body)を、Aは真我( Atma)を表します。ですから、実はMBAとは、その三つをすべて統合することなのです( 拍手)。
 心は、考え、探求するために与えられています。身体は、善い行いを実践するためのものです。真我(アートマ)は、心と肉体の働きを見守る照覧者です。真我は永遠です。心は気まぐれなものであり、安定性をもたせなければなりませ ん。人は、自分が人間の心をもっているのか、けだものの心をもっているのかを、絶えず調べなければなりません。
 私たちは、けだものの心に基づいた行動ではなく、人間 の心に基づいた行動をす るべきです 。身体は 、心にしたがって動きます。知性には、想いの正邪善悪を識別 する能力があります。知性は、決して間違った行動を是認することはありません。

 人間は、自分が心と身体と真我の統合体であることを理解しなければなりません。そして、心を浄化しなければなりません。知性は、不純な心を受け入れません。知性はすべての感覚を超越していますから、識別 力を備えています。 私たちは心や感覚の言うことに従います。心は感覚の主人です。しかし、もし心が感覚をコントロールしないのであれば、いったいそれは何の役に立つでしょう? ですから、 心をマスターして傑出した知性の持ち主になりなさい。心をコントロールするためには、ヴィナーヤカを崇拝することが大切です。ヴィナーヤカは、反応はしませんが、照覧者としてすべてを見守ります。ヴィナーヤカは、理想を実践 して手本を示すことによって、人間のあらゆる活動領域の理想を設定します。
 真我は永遠です。それは照覧者であってすべてを見ていますが、決して執着することはありません。その理由は、真我は身体や心の活動に巻き込まれないからです。真我は、 照覧者としてのみ存在し続けます。

ヴィナーヤカは神聖な波動の主

 あるときヴァールミーキが、ナーラダに、「真理を守り、永遠の至福を楽しみ、常に微笑を絶やさずに他者を許し、決して過ちを犯すことなく、どんなに小さな助力にも感謝の心を表し、常に他者を助け…」と十一の崇高な特質を並べて、そのような特質を兼ね備えた者がどこかに存在するのかどうかを尋ねました。ナーラダは言いました。「おお聖賢よ !何を心配しておられるのか? 十一の特質ばかりでなく、 一万一千もの崇高な特質が、この世に生を受けた一人の人間に備わっている。その方は、そのような聖なる諸特質を携えて、ラーマ神とし て、人間の姿をとってお生まれになった。その方は、多くの問題や困難に直面 されたが、一度たりとも正しい道を踏み外したことはなかった。その方は、決して真理を手放さなかった。というより、その方の語 られる言葉が、何であれ真理になったのじゃ。ラーマの理想をお守りなさい」
 これは、ナーラダによって明かされた聖なる真実でした。 中には、ナーラダはいつも問題を引き起こす聖者だったと誤解している人がいます。そうではありません。事実、彼こそは、聖なる英知を広める一条の光でした。彼は、聖賢ヴィシュワーミトラが神から授かったガーヤトリー マントラの知識を人類に伝えました。

オーム ブール ブヴァッ スヴァハ
タット サヴィトゥル ヴァレーンニャム
バルゴー デーヴァッスヤ ディーマヒ
ディヨー ヨーナッ プラチョーダヤート

 というガーヤトリー マントラの中の、「ブール」は物質のことであり、身体はそれに当たります。身体は、カルシウムや鉛などのような、様々な物質が組み合わさったものです。「ブヴァッ」は、波動のことであり、それは心から発せられて身体を機能させます。「スヴァハ」は放射のことであ り、それは真我に他なりません。人間は、物質化、波動、放射の組み合わさったものです。波動はその人の気分の通 りになります。ここでは毎日、朝と夕方にバジャンが行われています。皆さんは、バジャンはバジャン ホールの中だけで行 われていると考えています。そうではありません 。バジャンの波動がこの場所全体に隅々まで浸透しています。 ゆるぎない心と、純粋で無私のハートをもって注意深く耳を傾ければ、皆さんはこのテーブルからでもバジャンを聞 くことができます。あらゆるものが神聖な波動です。壁も、屋根も、このマイクもそうです。聖者サラスワタは、こういった波動を聞き取ることができ、他の聖者たちにそれを教えました。

 ヴェーダの源は何でしょう? 誰がそれを人類に授けたのでしょう? ヴェーダは、波動の形でいたるところに存在していました。このようにヴェーダは、音声を通 じて、波動を通じて聞くことができたのです。静かに座って、純粋なハートをもって耳を傾ければ、皆さんもそれを聞くことができるはずです。どうしてそのようなことまで考える必要があるでしょうか? 耳を閉じれば、皆さんは、内側からオームの音(オームカーラ)を聞くことができます。オーム はヴェーダの源です。『オームの聖音は神である』と言われます。いっさいのものはオームから生まれました。同じ空気が、ハーモニウムの異なったリードを振動させて、七つの異なった音階を出します。同様に、オームの音は一つであって、それ以外のすべての音はオームカーラが変形したものに他なりません。ヴィナーヤカは、このようなすべての波動の根源です。皆さんは、様々な音を聞きますが、もっとも神聖な音はオーム カーラです。

 もしあなたの身体が邪悪な波動に満ちているとすれば、すべてが邪になるでしょう。決して邪な人があなたに近づくのを許してはなりません。邪悪な波動があなたの中に侵入するのを防ぐために、悪い仲間からは急いで離れなさい。『悪い仲間からは急いで離れなさい。善い仲間に加わって、日夜有徳の行いに励みなさい』

人間は人間の特質を備えていなければならない

 あなたが善良であれば、あなたの身体は善い波動、神聖な波動に満たされます。悪い想いからは悪い波動が生まれます。あなたが見るものは、すべてあなたの内にあるものの反映です。もしあなたが誰かを悪いと言うならば、それはただ、あなたの内にある悪が、その人の中に反映されているだけなのです。それはその人とは何の関係もありません。善も悪も、あなたの内面 の反映です。決して、善と悪があなたと無関係に存在すると考えてはなりません。善い想いからは善い波動が生まれます。ところが最近の学生たちは、この真理を理解する能力をなくしています。彼らは書物の知識しかもたず、ハートの知識をもちません。彼らは、本で読んだ多くのことを頭に詰め込んで、試験場に行って答案用紙に答えを書き込み、頭を空っぽにしてしまいます。彼らは、試験場で書いた内容さえ思い出すことができません。このようなものはどれもが人工的な知識です。それは本当の教育ではありません。

教育や知能があるにもかかわらず
愚かな人は 真の自分の姿を知らず
卑しい心をもった人は
自らの邪な性質を手放そうとしない
最近の教育は人を議論へと導くだけで
完全な英知へとは導かない
世俗の教育が不滅の命へと
導いてくれるのでないとすれば
それを身につけることが
いったいなんの役に立つだろう?
あなたを不滅の存在にしてくれる
知識を身につけなさい

(テルグ語の詩)

 今日の教育は、生活費を稼ぐために使われています。このような知識はすべて表面 的なものです。世俗的な知識は、この世的な問題の役に立つだけであって、真の満足を与えてはくれません。ですからあなたは、ハートに関係したことを学ぶ必要があります。

 愛の化身である皆さん!
 今日この世で起きていることは、すべて、破壊的で、分裂を生むものであり、人間にとって非常に不自然なことです。いたるところに、残虐行為や、殺人や、対立、闘争が見られます。人間として生まれていながら、皆さんの人間性はどうなったのですか? 皆さんの慈悲心や親切心はどうしたのですか? 犠牲と愛と非暴力はどうしたのですか? 皆さんの中には、このようなものがひとかけらも見られません。私たちが見るのは、何の役にも立たない見せかけの行為のみです。
 神は愛と慈悲の権化(ごんげ)です。時には、神が不親切に見えることがあるかもしれませんが、そのことの中にも親切さがあるのです。皆さんは、この神の親切さを理解する能力がありません。自分の中に親切心があってはじめて、親切さを理解することができるのです。同様に、愛は愛によって理解することができます。しかし、あなたの中に憎しみがあれば、憎しみしか見えないことでしょう。

 皆さんは人間として生まれてきました。ですから、人間らしく生きなければなりません。皆さんは、人間性を実践し、広め、経験し、それによって得られる至福を人類同胞と分かち合わなければなりません。皆さんの内にそのような神聖な想いがあれば、自然に神聖な人物になるでしょう。皆さんは自分を人間と呼んでいますが、実際には皆さんの内には、人間の特質はありません。行動は常に誤っており、心はいつも邪な想いでいっぱいです。愛と慈悲という善い感情はどこに行ったのですか? 私たちは、愛と慈悲という特質を吸収しなければなりません。慈悲心のない者は魔物(ダーナヴァ)です。慈悲心をもった者は人間(マーナヴァ) です。慈悲と愛があれば、どんなことでも成し遂げることができます。ゴーピカー(牛飼い女)たちは、クリシュナの愛だけを切望しました。彼らの祈りは次のようなものでした。

おお、クリシュナ様
どうか笛を吹いて
愛のない心の砂漠に愛の種を蒔いてください
愛の雨を大地に降らせて
愛の川が流れるようにしてください

(テルグ語の歌)

 クリシュナはどこから素晴らしい音を出していたのでしょう? 木で作った笛によってでしょうか? 笛とは何でしょう? 九つの穴の開いたこの身体こそが笛なのです。この楽 器(身体)からは、耳障りな音ではなく、正しく音楽性の豊かな音が出るべきです。『おお、クリシュナ! 私の心の笛を持って、曲を奏で、愛に満ちた歌をお歌いください』と、ラーダー( クリシュナの恋人)は歌いました。クリシュナの笛の 奏でる曲を聴きながら、ラーダーは聖なるメロディーに融合しました。
 ラーダーとは誰でしょう? ラーダーはただの女性ではありません。ラーダーはダーラ、すなわち大地です。女性の名前が先に来ます。まずプラクリティ(自然)で、次がパラマートマ(神)です。我々が、ラーダークリシュナ、シーター ラーマ、ラクシュミー ナーラーヤナなどと言うのはそのためです。ですから皆さんは、自然を崇拝し、神聖な行動をすべきです。そうすれば、神の臨在を経験できるでしょう。
 皆さんのために神ができないことは何一つありません。 神に不可能はありません。

 愛の化身である皆さん!
 今日はヴィナーヤカ チャトゥルティです。ヴィナーヤカは成功(シッディ)と知 性(ブッディ)の主です。彼は成功の神であり優れたリーダーです。私たちはそのような神に祈りを捧げなければなりません。もしあなたのリーダーが優れたリーダーであれば、あなたは必ず目的地に到達するでしょう。優れたリーダーとは誰でしょう?
 あなたの良心がリーダーです。ところがあなたは良心を汚してしまいました。それは悪い傾向や邪悪さでいっぱいです。ヴィナーヤカは、あなたの良心に巣食う、そのような悪い傾向をすべて取り除く神です。ネズミはどこに行っても匂いを嗅ぎます。ヴィナーヤカは、そのような生き物を乗り物としています。彼は、ネズミを足の下に敷いています。これは、彼があらゆる悪い傾向を根絶することを意味しています。彼があらゆる神聖な特質の主であるために、 賢者たちや霊的求道者は、彼を崇拝します。

 私たちは、自分のハートの中に住むヴィナーヤカの意義を知り、それを理解しなければなりません。私たちは絶えず彼のことを考えていなければなりません。彼は、すべての神々から崇拝されています。シヴァ神の帰依者たちも、ヴィシュヌ神の帰依者たちも、等しくヴィナーヤカを崇拝しています。彼はすべての神の化身であり、すべての宗教の真髄の体現者です。彼は吉祥の象徴です。以上のことを知った上で、それに応じた崇拝を行えば、皆さん「自身」の人生を救うことができます。

帰依は無私の奉仕の中にある

 今日、プラシャーンティ ニラヤムには、障害や困難をものともせずに、ゆるぎない心でスワミに着実に仕えてきた人々がたくさんいます。それこそが帰依者の真の特質です。私が、そのような人々すべてに祝福を授ける決意をしたのはそのためです(大きな拍手)。
  これは、単なる祝福ではなく 、彼らに対するバガ ヴァンの愛の反映です。これから先は、もっと多くのことが 起きるでしょう。信仰と着実な帰依をもって奉仕を続け なさい。
 ここには、ラーダスワミ教授がいますが、彼は十年以上もここで奉仕をしてきました。教授は、何か仕事を与えられると、次のように言います。「スワミ、あなたが私に命をお授けくださったのです。私の心臓バイパス手術は、特別 専門病院で行われました。私はこの世に欲しいものは何一つありません。私はただ、あなたにお仕えしたいだけなのです」これほど清らかな心をもった人がどこにいるでしょうか? これから先は、そのような人々がさらに増えていかなければなりません。

 またここには、イタリアからきた医師がいます。彼はイタリアで多くの仕事をしていました。それにもかかわらず、神の近くで働きたいと望みました。彼はここに来て住居を定め、心臓病棟で働いています。
 もう一人の医師であるケーシャヴァ プラサードは、米国から来た若い男性ですが、彼は米国で立派な仕事をすることができたはずです。しかし彼はスワミへの奉仕がしたかったので、カバンと荷物を持ってここに来て、住居を構えました。
 外部の者には、このような人々はごく普通に見えます。もし彼らを深く調べ、その経歴を知れば、彼らが非常に特別 な人々であることに気付くでしょう。彼らはそれぞれの分野における立派な先駆者であり専門家でもあります。そのような先駆者たちが、プラシャーンティ ニラヤムで質素な生活を送っています。彼らは、ただスワミへの愛のために、 昼夜を問わず非常によく働きます。

 皆さんは、アルレジャ博士をご覧になったことがあるで しょう。三十年前に私がムンバイを訪れたとき、博士は群衆の中にいました。そのとき彼は、心臓発作を起こしてくずおれました。私は演壇から立ち上がって、その場に駆けつけました。そして、彼を寝かせて胸を軽く叩きました。そのうちに担架が来て、彼を運んで行きました。その後彼はプッ タパルティに来て、そのとき以来ずっとここに留まり、家に帰っていません。スワミがアルレジャに「あなたはもうすぐ九十です。階段を登ることもできない。歩くのにも大変苦労をしています。車に乗って行きなさい」と言ったとき、彼 は「私の身体が車です。身体が健康である限り、私は歩きます。スワミのご心配には及びません。自動車は要りません」 と答えました。博士は毎日、病院まで歩いています。

 以前、プラシャーンティ ニラヤムにはセーシャギリ ラオ がいました。彼は素晴らしい役人でした。彼はいつもアルティ(光の意。礼拝の最後に樟脳を焚くこと。自分を捧げるという意味がある)を捧げていました。そして、百歳まで生きました。
 セーシャギリ ラオが亡くなった後には、キシュタッパとい う人が来ました。彼は遠く離れた場所からここまで通 って いました。バジャンの間ずっと座っていて、バガヴァンにアルティを捧げました。彼も百一歳まで生きました。

 身長が百九十センチほどもある、スライヤという名の、 ヴェンカタギリから来た身体の大きな人もここにいまし た。彼は一生独身を通しました。私が夜になって休むと、彼はいつも、そっと私のところに来て、私の足をマッサージしました。私が「スライヤ、私の足は痛くないよ。足を揉む必要はない」と言うと、彼は「スワミ、スワミは痛くないかもしれ ません。でも、スワミの足をお揉みしないと、私の心が痛むのです。ですから、どうか御足を揉ませてください」と答えていました。彼はいつも、私が目を閉じて、眠ったふりをしてからでなければ、部屋を出て行きませんでした。彼は、この奉仕を、息を引き取る最後の日まで続けました。彼も百歳まで生きました。カルンニャーナンダスワミも百歳まで生きました。

 カストゥーリは、非常に若いときに死ぬ運命にあった人です。しかし、プラシャーンティ ニラヤムに入ってからは、 長生きして九十歳まで生きました。

 ここに住む人は誰でも長生きをします。その理由は何で しょう? 彼らは絶えず神のことを考えていました。このために、長く、健康で神聖な一生を送ることができたのです。 健康を保つために、身体の運動をして、薬を飲む人々がたくさんいます。しかし、今お話した人々は、一切何の薬も飲みませんでした。もし何か問題があれば、ヴィブーテ ィ(神 聖灰)をもらうために私のところにやって来ました。彼らはこのような生き方をしていました。そのような人々がもっとたくさん出てくるべきです。
  若者たちは、彼らをお手本にすべきです 。今日の若い人々はサルのように落ち着かない心(モンキー マインド) をもっています。ただのモンキー マインドではなく、何か、 それよりもひどい状態です。今言われたことを、次の瞬間には忘れています。舌には骨がないので、どのようにでも曲げることができます。しかし、だからと言って、何でも好き放題のことを言って良いというわけではありません。皆さんは、いったん自分がした約束は、最後の息を引き取るまで守らなければなりません。
 多くの人が、「スワミ、もうすぐ歯が全部抜けてしまいます。歯がなくなったら、生きていても何の役にも立ちませ ん」と言います。スワミは、「歯がなくなっても舌が残ってい る」と言います。歯は強いので、先になくなります。舌は柔らかいので、最後まで残ります。あなたがこの世を去るとき、 舌はあなたの行くところについて行きます。ですから、舌を安全に保たなければなりません。舌は常に柔らかく甘く保つべきです。私が「あなたはいつも恩恵を施すことができるとは限らないが、いつも親切に話すことはできる」と言うのはそのためです。

 優しく甘く話しなさい。真実を語りなさい。正しい行いを守りなさい。神の御名を唱えて、他の人々にそれを聞かせなさい。皆さんは、なぜ舌が与えられているか知っています か? それはあらゆるものを味わうためでしょうか? 皆さんは、なぜ足が与えられているか知っていますか? それは小道や脇道を歩くためでしょうか? 身体の部分の一つ一 つに、それぞれの目的があります。この神聖なガネーシャ チャトゥルティの日に、皆さんは、身体のすべての部分を神聖なものにしなければなりません。皆さんは、善良で神聖な行いをすべきです。『身体は、正しい行いをするためのもの』です。皆さんはダルマを守り、不正(アダルマ)を慎まなければなりません。皆さんの身体が、神聖な道をたどって、 その価値を証明するようにしなさい。私は皆さんが、良い評判に恵まれることを期待します。

 バガヴァンは「ハリ バジャナ ビナー スカ シャンティ ナヒ…」というバジャンで御講話を締めくくられました。

訳 サティヤサイ出版協会

 

 


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