マハーシヴァラートリ祭はインドで最も重要なお祭りの一つです。このお祭りはヒンドゥー暦マーガ月の、月が欠けていく二週間(クリシュナパクシャ/黒分)の14日目(満月の日を1日目と数えて14日目)に行われます。「シヴァラートリ」とは「吉祥な夜」という意味です。インド全国で、人々はシヴァ寺院に集まって神を礼拝したり神を黙想をして夜を過ごします。 ヒンドゥー教の信仰では、月は心(マナス/マインド)を司る神であり、月の16の相は心の16相を表しているとされています。シヴァラートリの夜は新月(朔)の前日で、目に見えるのは線のように細い月のみです。これは、15の相は真我に融合しており、残すところ1つの相だけになっていること、すなわち、心の影響が弱まっていることを象徴しています。そのため、この日は心を制御して神に向かわせることが容易になるとされているのです。ですから、この夜、神を瞑想し、神を礼拝することで一夜を過ごすなら、心の気まぐれを完全に抑え、心を超越し、アートマンを実感認識することができるのです。 マハー シヴァラートリには、通常、一晩中アカンダバジャン(ひっきりなしにバジャンを歌うこと)が執り行われます。プラシャーンティニラヤムでのシヴァラートリは非常に重要な祭典です。なぜなら、至高のイーシュワラ(至高神)であられるババは、この祭典の期間に自らの神性を顕現させることをお選びになったからです。ババは人類への無限の愛ゆえに、シヴァラートリの夜にご自身の体内からリンガ(神性の象徴である卵形の物体、リンガム)を現出なさっていました。このリンガの出現は「リンゴードバヴァム」と呼ばれています。 ババはこうご説明してくださっています。 「リンガは、まさしく、始まりがなく、終わりがなく、限りないものの、象徴、しるし、実例です。なぜならリンガには手も足もなく、顔もなく、正面も後ろもなく、始まりも終わりもないからです。リンガの形は、人の想像するニラーカーラ(無形なるもの)のごとき形をしています。実に、リンガとは、リーヤテー(すべての名と姿が融合する先)とガムヤテー(成就を目指してすべての名と姿が向かう先)という意味なのです。リンガは全知・全能・遍在なるものに最もふさわしいシンボルです」 (1971年2月23日の御講話より) http://www.srisathyasai.org.in/Pages/AshramInfo/Makara_Sankraanti.htm
今日、私たちはシヴァラートリを祝っています。「シヴァラートリ」とは「縁起のよい夜」という意味です。少なくともこの日、人は夜通 しシヴァ神の御名を唱えるべきです。少なくとも一年に一日くらいは、主なる神の御名を唱えなさい。今夜、帰依者たちは、神聖なシヴァ神の御名を唱えて起きているものと見なされています。何か別 の方法で起きていても意味はありません。主なる神の御名を唱えてこの夜を過ごすなら、人生は聖なるものとなります。 1998年2月25日の御講話より シヴァラートリの教訓は、帰依者は善良で聖なる思いを育てるべきである、ということです。帰依者は神聖な思いで満ちていなければなりません。帰依者は自分たちに生来備わっている神性を現すことによって、神と一つになろうと求めるべきです。もし絶えず神の御名を唱えるならば、やがて神の悟りが訪れるでしょう。 他の何を所有していようとも、平安と至福がなければ人は苦しみます。この二つは神からのみ得ることができます。人は、それ以外の何も求めず、この二つを神に祈るべきです。というのも、平安と至福を授けることができるのは神だけだからです。この二つが手に入れば、他の一切は神の恩寵によっておのずとやって来ます。人は神を切望すべきです。それ以外の一切の欲望は無価値です。 1998年2月26日の御講話より シヴァラートリにはさまざまな意味があります。「ラートリ」には夜の闇という意味があります。けれども、「シヴァラートリ」の意味するものは闇ではなく、この夜の特別 な神聖さです。この夜も暗くはありますが、その闇には吉祥があります。その理由は、満月後14日目〔新月の前日〕に当たるこの日は、心を司る神である月の16の相のうち、15の相が消えているからです。これは、神に近づくのに幸先のよい時です。 神の属性は、真理と善良さと美しさ(サッティヤムとシヴァムとスンダラム)であると、ウパニシャッドは述べています。プラトンは、真理と美を、吉祥の原理を表す神聖な善(シヴァム)であると見なしました。善は、片面 に真理を、もう片面に美を伴います。 これがシヴァラートリの第一のメッセージです。皆さんが覚えておかなければならない三つの金言を与えましょう。それは、「奉仕、奉仕、奉仕」(セヴァ、セヴァ、セヴァ)です。奉仕という義務を決して忘れてはなりません。このためには、愛を育まなければなりません。愛を育むためには、犠牲の精神を培わなければなりません。奉仕は、犠牲から生じる愛がそれに現れるなら、意味あるものとなります。奉仕は自分自身の霊性を開発するのに役立つと考えなさい。善良であり、善良な行いをしなさい。 1997年3月7日の御講話より シヴァとシャンカラ〔シヴァ神の別名〕という語は、吉祥を意味します。シャンは至福に満ちた意識(チッターナンダ)を意味します。カラは生じさせる者を意味します。したがって、シャンカラは、至福に満ちた意識を生じさせる者、という意味になります。シャンカラは、神を拠り所とする人や、神を崇拝する人に、幸せな意識を授ける者です。 被造物の不思議は、シヴァ神の姿の描写によって明らかになっています。シヴァ神の頭の三日月は人間の意識を、ガンジス河(ガンガー女神)は生命力を、シヴァ神の体に絡む数匹の蛇は無数の生き物を、象徴しています。シヴァ神は白銀の山の上に住んでいます。シヴァ神の最愛の友は富の神、クベーラです。これらすべてを備えているにもかかわらず、なぜシヴァ神は托鉢の鉢を持っていなければならなかったのでしょう? あらゆる富は霊性の進歩の障害であることを身をもって世に示すために、シヴァ神はすべてを放棄したのです。シヴァ神が至福の化身となったのは、放棄の結果 です。 シヴァ神の三つの目は三界(ローカ)を象徴しています。シヴァ神の三叉の矛(ほこ)は、過去と現在と未来という時間の三相を象徴しています。三属性(グナ)――浄性、激性、鈍性(サットワ、ラジャス、タマス)――は、ブラフマー神とヴィシュヌ神とシヴァ神の三位 一体の象徴です。三界と、時間の三位一体の相と、三属性は、神の原理(イーシュワラの原理)の顕現です。このようにして神が心〔ハート〕に安置されるとき、人は自らを神の段階へと高めることができます。 1990年2月23日の御講話より 人が絶対実在・純粋意識・至福(サット・チット・アーナンダ)という神の状態を体験可能な日、それが、シヴァラートリという真に聖なる日です。その日まで、人は永遠の闇の中にいます。木になっている果 物は、熟すまで甘くはありません。十分に熟れると果物は木から落ちます。これは木の執着がなくなったということです。それと同じように、人が霊的な円熟に達すると、自然と無執着(バイラーギャ)を得ます。人は、意識を変容させるもろもろの霊性修行によって、円熟という段階に到るために尽力しなければなりません。 心〔マインド〕を神へと向けなさい。神の御名の反復は、心を浮世の物事からそらすための霊性修行として処方されています。もしあなたが一夜を徹して神を想うなら、たとえ「心の超越」というもっとも高い状態に達し得ないとしても、心は変容するでしょう。神の三特性――真理、叡智、永遠なるブラフマン(サッティヤム、グニャーナム、アナンタム ブラフマン)――をいつも心に抱き、人間の究極の目的を達成するよう努力しなさい。 1988年2月16日の御講話より シヴァラートリは、すべての人にとってたいへん縁起のよい日です。満月から新月までは二週間ほどありますが、この日はその14日目に当たります。このとき月は欠ける過程にあり、太陽は宝瓶宮(ほうへいきゅう)に入っています。しかしながら、シヴァラートリ祭は太陽より月に関連しています。この特別 な夜は、他の夜とは異なり、清めの夜、専心の夜、照明の夜です。 心〔マインド〕は月と密接に関連しています。月の神チャンドラは心を司る神です。チャンドラは、満月ののち、自らの光輝を日々16分の一ずつ失い続け、今夜、その力は残すところちょうど16分の一となります。欠けた月は、とりとめのない気まぐれな心が霊性修行によって征服され弱まったことを象徴しています。この夜、さらに征服されるべき部分はほんのわずかしかなく、それは寝ずに神の栄光に浸ることによって達成できるのです。 処方されているこの寝ずの行は、人が続けなければならない永遠の不寝番(ねずばん)の象徴です。また、断食の慣わしは、五感が強く求める快楽から五感をそらすことを象徴しています。一晩中バジャンを歌うことは、神が目の前にいることを一生にわたって意識することの象徴であり、この意識は私たち一人ひとりが育てるべきものです。シヴァラートリのために処方されている慣わしと誓願は、一年を通 じて他の夜にはないものであり、この日それに従うことは、その処方が役に立つということを思い出させるためにあるのです。 1978年3月7日の御講話より
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