サイババの御言葉

日付:1962年10月6日・場所:プラシャーンティ ニラヤム
第一回ヴェーダプルシャ・サプターハ・グニャーナ・ヤグニャ連続講話D

バラモン


皆さんは今、覚えていないかもしれませんが、この集会は4時15分に始まり、ほとんどの人は少なくとも3時半までにはここに来ていました。今、時間は7時40分です。

皆さんはウップルッリ・ガナパティ・シャーストリーの明快な解説を聞いたことがあるかもしれません。ウップルッリはヴェーダ全編の個々の音節のさまざまな意味を知っています。これはタパス〔苦行、熱〕です。さらに、ウップルッリの皆さんへのプレーマ(愛)は非常に大きいため、子どもでも理解できるように、そして、皆さんがもっと知りたいと思うように、その広い学識のすべてをあのような簡潔で甘美なテルグ語に置き換えたのです。ウップルッリは、このヤグニャで用いられるさまざまな儀式や祭礼やマントラが、なぜ、何のためにあるのかを皆さんが理解することを助けてきました。なぜなら、これはグニャーナ ヤグニャ(霊的な英知の供犠)であり、誰もが皆、ここで行われている一切の意味をわかっていなければならないからです。

ウップルッリは、ヤグニャにおいて、なぜ王族の馬屋や象舎、宮殿の門の土が神聖なものと見なされるのか、なぜ蟻塚の土が他の場所の土よりも好まれるのかを説明しました。私はこれらの材料が純正さを保ったままここに運ばれるよう特別な注意を払い、学僧たちに必要とするもの一切を与え、代替品や二級品では満足しないようにと告げました。というのは、私には、彼らも同様に、厳正なヤグニャを綿密に行うためにこの機会を利用したいと望んでいることがわかっていたからです。ヴェーダの祭文に従って執り行われたヴェーダのヤグニャは必ずヴェーダ プルシャ(至高の実在)によって約束された結果をもたらすことを、私は皆さんと彼らに示したいと思っています。

ヴェーダは貴重な真珠を包含する深海

レミッラ・スーリヤプラカーシャ・シャーストリーは、クマーリラ・バッタについて話しました。クマーリラ・バッタ〔600−660年〕は、当時、シャンカラーチャールヤに先んじてヴェーダの学習を復活させ、ヴェーダの儀式に反対していた人々を打ち負かした人物です。学僧たちは、今ここで、シェーシャ パルヤンカ〔ヴィシュヌ神が横たわる大蛇をかたどった長椅子〕の設置をしています。カッルッリ・ヴィーラバドラ・シャーストリーと何人かの人々が計画しているトリブヴァナ・ヴィジャヤ〔三界の征服の意の神事〕は、間もなく始まるでしょう。私は今日は何も話すつもりはありませんでしたが、私が話さないと皆さんががっかりするので、この幕間を埋めることにしましょう。

二人のシャーストリー〔学者〕は大変上手に話をしました。なぜなら、二人が述べたすべての典拠は、ほかならぬヴェーダにあるからです。二人の目的も賞賛に値していました。その目的とは、ヴェーダの教えを広めることを通じて人々を向上させることです。心〔マインド〕が非常に純粋で、頭脳が非常に明晰であれば、言葉は間違いなく甘美で栄養のあるものとなるでしょう。始まりも終わりもないヴェーダという深い海飛び込んで貴重な真珠を採ってくるのは、大変難しい仕事です。それは真珠が少ないからではありません。海がとても深いからです。ヴェーダは三つのグナ〔属性〕――鈍性・激性・浄性、すなわち、黒・赤・白――の範囲を超えたところへ人間を連れて行く知恵を教えています。

また、ヴェーダは象徴の言語を語っていますから、人は、ガナパティ・シャーストリーとレミッラがそうであるように、ヴェーダの用語を熟知して、解釈できる技能に精通していなければなりません。たとえば、二人はあるマントラを解説するのに、万人はスーリヤ〔太陽神〕の子であると述べました。その意味は、見ることのできる目が付いている人は皆、とりわけ太陽によって祝福されている、なぜなら太陽は内を見る目と外を見る目を司る神であるから、ということです。そのマントラは、万人がスーリヤヴァムシャ(太陽神の王家)〔日種族〕に属していると言っているわけではないのです! 七つの太陽、七種の光線があり、そのため、神の御姿を瞑想するときには半分目を閉じるようにと言われるのです。そうすれば、初めの三種の光線は上まぶたに射し、後の三種の光線は下まぶたに射すので、目は四番目の光線、四番目の色だけを受け取ることになるのです。

このような微妙な神秘は、神々に向けたさまざまな讃歌の中にも隠されています。雨の神、雷の神、太陽の神、暁の女神といったヴェーダの神々は、人間に特許権が与えられている自然の力を象徴していると言うのは正しいことではありません。唯一なる神の栄光と威厳が、さまざまな背景の中で思い描かれ、讃美されているのです。ただそれだけのことです。マントラの数々には、さらにずっと深い意味があります。

人類は雑多な巡礼者の一団

バラモン階級〔インドの四姓の最上位である僧侶・祭司階級、ブラフミン〕は嫌忌(けんき)と軽蔑心から他の階級がヴェーダを学ぶ機会を認めてこなかった、とよく言われます。もし魚を獲りに出かけるなら、釣り竿と、釣り針と、魚を引き寄せる餌を用意して身支度しておかなくてはなりません。もしヴェーダを修得したければ、ダルマに適った生き方という釣り竿と、ヴェーダのサンスクリット語という釣り針と、餌、つまりヴェーダによって崇められ、かつヴェーダを崇めるバラモンを有していなければなりません。バラモンは、一連の清めの儀式、すなわちサムスカーラによって、準備が整っているのです。このことが、バラモンにマントラを唱えること、解説することを可能にし、また、そうする資格を与えているのです。

誰もが同一の崇高な気質と印象〔ヴァーサナー、潜在的傾向、心に焼きついている印象〕を勝ち得ているわけではありません。あなた方は皆、私の講話を聞いています。しかし、その全員が私の話すことを同じ程度、理解していますか? あるいは、その全員が同じ程度、私の示唆したことを実践していますか? いいえ、していません。人それぞれ、自分の気質、その気質が心〔マインド〕の中に張らせた根に応じた理解と実践をします。人間はそれほど一様ではないのです。一人の人に何らかの素養があるからといって、それが別の人にもあるわけではありません。人類は雑多な巡礼者の一団なのです。

ヴェーダには正しい発音が不可欠

バラモンも、生まれたときはシュードラ〔隷属階級〕にすぎません。生まれがこの神秘の学問に着手する資格を与えるのではありません。たとえ偉大なヴェーダ学者の息子に生まれたとしてもです! 正式に、特別な儀式による伝授を受けて、初めてその少年は聖典の学習を始めることができるのです。その儀式が少年をバラモンにするのです。そのとき、その少年は神聖な学問と責務の世界へと二度目の誕生を果たします。

多くのバラモンは、生活における一定の禁欲的な質素さと、学問における一定の水準を保ち続けるという責務から堕落しています。純粋な金属も、合金に変わってしまえば、再び坩堝(るつぼ)の中に置かれなくてはなりません。繰り返しますが、ここにいる学僧たちのような生粋のヴェーダの器を見出したときはいつも、その人々を守り、保護しなくてはなりません。愚かな憎悪に左右される狭量な人たちによってその器に石が投げつけられたとき、もし人々が沈黙したまま座っているなら、器は壊され、ヴェーダも得がたいものとなってしまうでしょう。

もしバラモンたちが森の中に追い込まれるなら、ヴェーダもいっしょに森の中に入ってしまうでしょう。というのは、バラモンはヴェーダの宝庫だからです。バラモンは各音節の正しい発音を学び記憶の中にそれを維持する驚くべき技によって、インドが耐え忍ばなくてはならなかった数々の災難を経て太古の時代からヴェーダを守り抜いてきました。

一人の少年が自宅で大声を出して英語の勉強をしていました。ところが、その少年はとても不適切な方法で勉強していたため、ある日、両親は大変驚かされました。少年が読んでいた言葉は「ミルク」だったのですが、まずスペルを読み上げ、それから単語全体を声に出して読みました。少年はとても早口で苛々しながら、

「エムアイエルケイ ミルク、エムアイエルケイ ミルク、エムアイエルケイ ミルク!」 と大声で言ったため、両親は少年が、

「アンマー、イエルカー!」

と恐れて叫んだのだと思ったのです。〔アンマーはお母さん〕、イエルカーはテルグ語で「ねずみ」という意味です。正しい発音は絶対に必要です。

バラモンたちを、人生を聖典の正しき学びに捧げるよう奨励しなさい。皆さんもその学びによって恩恵を受け取ることでしょう。ちょうど今ここで、皆さんが恩恵を受けているように。

神はひたむきな切望を好む

ジャーティ〔生まれ〕(カースト)とニーティ〔道徳的基準〕(行為)は互いを基盤としており、相応するニーティを伴わないジャーティや、抑制する制限規則を持たないジャーティはありません。これは、体系的な訓練という目的のため、個人を向上させるために為されるのであって、人を抑圧したり、欺いたりするために為されるのではありません。もし、ある少年が大学ではなく小学校や保育所に入学を許可されたとしても、その少年は騙されているとか、蔑(さげす)まれているなどと言うことはできません。それは大学と学位へ向かうための最初の段階です。

しかし、神がカーストとカーストを区別しないことを忘れてはなりません。神が好むのは美徳であり、ひたむきな切望です。象のガジェーンドラが鼻を持ち上げて神に全託し、救いを祈り求めた時、ガジェーンドラはもはや獣ではありませんでした。獣性は脱け落ちてしまっていました。どれほど汚れたしわくちゃの紙切れでも、ひとたび政府公認銀行の印が印刷され、百ルピー紙幣と呼ばれるなら、大切にされ、貴重な財産として金庫に保管されます。バクティ〔信愛〕は、最も卑しい人間を人々の中で最も類まれな人間にします。

アクバル皇帝の統治時代のデリーに、セーナという一人のバクタ〔信者〕がいました。セーナは王宮で王に仕えるマッサージ師でした。皇帝はセーナに、毎朝7時に来て30分間体をマッサージするよう命じていました。

ある日、セーナがいつものように自宅のプージャー・ルーム〔礼拝の部屋〕へ入ったところ、美しき御方の姿を見て恍惚状態となり、時間の感覚をすっかり失ってしまいました! セーナの妻は礼拝室の外で慌てふためいて右往左往していました。というのは、夫の集中を妨げることは考えられなかったからです。

ちょうどそのころ、アクバル皇帝は王宮でセーナからマッサージを受けていました。アクバルはセーナを褒め称えて言いました。

「セーナよ、私は最近、これほどの幸福を感じたことはない。おまえの指圧はまさに神業である」

マッサージが終わろうとしていたとき、アクバルは目の前のテーブルの上のオイルの器にマッサージ師の顔が映っているのを見ました。そして、その顔がクリシュナ神であったことに仰天しました! アクバルはマッサージ師の顔を確かめようと振り返りましたが、もはやそこには誰もいませんでした!

神は恩寵を注ぐ前に相手の社会的地位やカーストを考慮することはありません。神はまったく慈悲深く、その恩寵は雨水や月光のように万人に注がれます。ヴェーダはそれを明言しています。ですから、それを信じて、その恩寵に値する者となるために、そして、その恩寵を勝ち取るために、前進しなさい。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.2 C45

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