サイババの御言葉:ダルマクシェートラ

日付:1964年2月18日・場所:ヴェーンカタギリ
プラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバー連続講話@より

ダルマクシェートラ


これは、全人類にサナータナ ダルマ(永遠の宗教〔古代よりの永遠の法〕)の根本的な真理と信条と修養法に関する知識と実践を促進するために設立された、「プラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバー」〔ヴェーダを復興するためのヴェーダ学者の会〕の開会式です。ラージャ・サヘブは今しがた、この栄光を欲する多くの他の地に代わって、この地〔プッタパルティの東190キロほどにあるヴェーンカタギリという都市〕で、私によって、この宮殿〔ヴェーンカタギリ宮殿〕から復興の車輪が回されたことへの大いなる歓喜と満足を表現しました。

去年のシュリ・ラーマナヴァミーの日、ラージャムンドリー〔ゴーダーヴァリー川の東岸にある都市〕でのことでした。私はゴーダーヴァリー川の小島の砂地で私を取り囲んでいた学僧(パンディト)たちに、この会(サバー)の目的と目標を発表しました。当然ながら、その地域の帰依者たちは地元で開会式を行うことを望みつつ会の準備をしていました。もちろん、ラージャムンドリーはその栄誉にあずかるのに適した場所でした。ラージャムンドリーは歴史のある都市であり、数多くの有神論者たちの団体(アースティカ サンガ)や組織を育んでおり、伝統を守る人々の間で高い地位を得ています。しかし、あらゆる良いことや、あらゆる幸運な機会と同じように、これは努力によってというよりは、何年も、何世紀もかけて積んだ功徳によって勝ち得るものなのです!

神へと向かう道はダルマに基づいた行為

これは画期的な出来事です。なぜなら、これは人類の解放の黄金時代の夜明けにほかならないからです。ヴェーンカタギリは、何百年もの間、王室のあった場所であり、ダルマを支え、守り、促進することに献身してきました。ゆえに、ヴェーンカタギリはこの栄誉を得たのです。ヴェーンカタギリの歴代の王によって建てられた寺院、修復された寺院、保持されている寺院がいったい幾つあるか考えてみなさい! ヴェーンカタギリの王たちによって経済的援助を与えられ、励まされてきた学僧の数、光を見るために役立つようにと寄贈された宗教書の数を数えてみなさい! ヴェーンカタギリの王たちが何世紀にもわたってこの州に確立した、ダルマのみなぎる空気を考えてみなさい。藩王国も王の地位も政治的変化の嵐によって吹き飛ばされてしまった今でさえ、王家が関心を寄せている事柄を見てごらんなさい。

バーラタヴァルシャ(インド国)は自らの前にダルマという理想を据えています。それはバーラタの文化の主根であり、バーラタの活力と精力の源です。神へと向かう道はダルマに基づいた行為(カルマ)です。それは、歓喜の道、満足の道、そして、それゆえ、力の道でもあります。今、その道が茨と茂みで隠され、橋と地下水路は修理されないままになっています。人々は、目的地を忘れ、その道を忘れ、その道の上を歩くことを忘れてしまいました。その道は唯一の避難所であり、明日、あるいは、明日でなければ今日、人々はその上を歩かなければなりません。なぜなら、目的地はその道の終わりに横たわっているからです。その道は、歴史の記憶をはるかに超える何世紀も昔に、ヴェーダの中で言明されました。

サッティヤム ヴァダ ダルマム チャラ
真実を話し、ダルマを実践せよ

とヴェーダはあなた方に呼びかけています。ここにいる学僧たちは、ヴェーダとシャーストラに精通しており、ダルマとは何かを知っていて、それを歪曲することなくあなた方に説明することができます。だからこそ、あなた方は敬意をもって彼らのところに行き、彼らに自分たちの真ん中に座ってもらい、自分たちを啓蒙してもらわなければなりません。知っているということは、かくあることではありません。学僧たちから習ったことを毎日の生活に適用させるよう努めなければなりません。道徳的な生活は、歓喜に満ちた生活を送るための最善の修養法です。

神の栄光のうちに生きる方法を習得せよ

一人ひとりのハートは、善の力と悪の力が戦いを繰り広げている「ダルマクシェートラ」〔ダルマの場。マハーバーラタの戦場となったクルクシェートラの別名〕です。むろん、国全体がダルマクシェートラです。それゆえ、この国の母と子は、何よりもまずダルマに献身しなければなりません。バガヴァッド ギーターは、

ダルマクシェートレー
(ダルマの場に)

という言葉で始まり、最後の章には、

サルヴァ ダルマーン パリッティヤジヤ
〔一切のダルマを放棄せよ〕

という句があります。つまり、ダルマを通してダルマを超えなければならないということです。それゆえ、カウサリヤー妃はラーマが森に入るときにこう言って励ましたのです。

「この行為によってあなたが貫こうとしているダルマが、あなたが追放者として森にいる間、あなたの守護者となりますように」

そうして、ラーマもまた、最も辛い状況にあったときでさえダルマを貫きました。ラーヴァナ〔ランカー国の羅刹王〕の死後、ヴィビーシャナ〔ラーヴァナの弟〕の戴冠式の準備が進められていたとき、ヴィビーシャナは、自分の戴冠式はラーマ自身がランカー国の都で執り行うべきであると懇願しました。しかしラーマは、自らの誓いと父の命令により、追放の身である間は都に足を踏み入れることは許されないと断言しました。追放期間はまだ終わっていないとラーマは言いました。そのため、戴冠式にはスグリーヴァ(猿王)と他の者たちのみが参列しました。このようにして、ラーマは自らの行動によって、ダルマとは、かくも徹底して守らなければならないものであるということを示したのです。私たちは、たいへん賢い母たちと、たいへんダルマに忠実な子どもたちを欲しています。

実践こそが、霊的な事柄の中で本当に大事なことです。学識は重荷であり、多くの場合、不利な条件です。神はお寺や聖地といった遠い所にいると信じている限り、人は宗教を重荷や障害物だと感じるでしょう。しかし、神を自分のハートの中に据えるなら、あなたは、軽くなった、重荷がなくなった、さらには、強くなったとさえ感じるでしょう。それは食ベ物を入れた背負い籠のようなものです。肩に背負えば重く感じ、持って歩くにはあなたは力が弱すぎます。しかし、川の近くに座って食ベ物を食べてしまえば、全体の重さは減っていないのに、あなたは、軽くなった、強くなったと感じます。それは食べ物を自分のお腹に入れた結果です。神の観念も同じようにしなさい。肩に乗せて運ばずに、中に入れてしまいなさい。

神と神の栄光をいつも記憶に留めていなさい。それはあなたの歩みを速め、あなたは間もなく目的地に到達するでしょう。母親が井戸から戻るとき、水がめの一つを頭の上に載せ、もう一つを腰に載せ、三つ目を手に持ちながらも家路を速足で歩くのは、揺りかごに寝かせてきた子どものことがずっと頭をよぎっているからです。もし赤ん坊のことを忘れていたら、母親は歩をゆるめ、あちこち寄り道して、友だち皆とおしゃべりしていることでしょう。それと同じように、もし神という目的地が記憶の中に大切に留められていないなら、人は何度も生まれ変わってさまよい、家に着くのが遅くなります。

神はすべての魂の命の息吹です。ですから、一瞬一瞬を、神の栄光のうちに、神の記憶のうちに、神の黙想のうちに生きることを身に付けなさい。これはヴェーダとシャーストラが説いていることです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.4 C8

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