サイババの御言葉:三日間の祭り

日付:1965年3月26日午前・場所:サムパラ村
サムパラ村での御講話より

三日間の祭り


人は、寝るため、食べるためにこの世に来たのではありません。人は、修養のプロセスによって自らの内なる神を顕現させるために来たのです。だからこそ、人は「ヴィヤクティ」〔人間〕と呼ばれているのです。「ヴィヤクティ」とは、人を動機づける神のエネルギーである内在の力(シャクティ)を明らかに(ヴィヤクタ)する者、という意味です。その目的のために、人は、体と、体を制御して役に立つ行為へと方向転換させるのに必要な知性を授けられて、やって来たのです。皆さんは、それを、道徳を地道に行っていくこと(ダルマ ニシタ)と、善行を地道に行っていくこと(カルマ ニシタ)によって達成しなければなりません。

皆さんは、私が皆さんのもとに来ることを、これまで6年間、絶えず熱く願ってきました。だから、私は今日、あなた方のハートを冷やして、あなた方に喜びを与えるために、やって来ました。灼熱の太陽に苦しんでいるとき、皆さんはゴーダーヴァリー河の水に浸かってリフレッシュします。平安を求める、燃え盛る欲望でハートが干上がっているときには、涼やかな霊性の大家との交わりに浸らなければなりません。皆さんが体を維持するための時間割を持っているのと同じように、霊性を維持するための時間割も持ちなさい。朝食には神の御名の敬虔な唱名と瞑想、昼食時には神への礼拝、午後のお茶とおやつには経典や神聖な書物の読書、そして、夜の早い時間にバジャンという軽めの夕食を摂りなさい。もしこの養生法に従うなら、ぐっすりと眠れ、さわやかな気分で目覚めることができます。毎日、新しい夜明けと共にあなたは生まれ、夜、目を閉じて眠りに就く時に死の膝の上に身を落ち着けるのだと、感じなさい。熟睡している時には何が起こっているのでしょう? 体、感覚、心、知性はどれも無視され、ほんのわずかも世界を感知してはいません。

人類は誰もが神の栄光の一部

もしあなたがこの養生法を実践するならば、行為の結果が積み上げられることはなくなるでしょう。日々、一日の終わりに、その日の収支計算が「死」をもって閉じられるでしょう。とりわけ、あなたが行為の一つひとつを行為の促し手である神に捧げ、行為の果実をそれを摂取する者である神に託すなら、なおさらです。もし、他人に喜びを与えるつもりでいれば、あなた自身が喜びにあふれるようになるでしょう。他人とは、いったい誰のことですか? 主なる神が特定の人間の体をまとってやって来た時であれ、あなたが出くわす人々は誰もが神の栄光と神の光輝の一部に他なりません。「おお、アルジュナよ、主はすべての生き物のハートに宿っている」(イーシュワラサルヴァブーターナーム フリッデーシェー アルジュナ ティシュタティ)と、『バガヴァッド ギーター』の中で主は述べています。

皆さんは、「食事を摂るため、身をまとうために、すべての時間に精を出して働かなければならないとき、どうやってその養生法の一切をする時間を見つければいいのですか?」と尋ねるかもしれません。しかし、そういった物質的なものをあなたに授けるのは神である、ということを皆さんは忘れています。不死さえも神が授けます。あなたはただ、神にすっかり依存しさえすればよいのです。あなたが何をするときにも、ラーマ、クリシュナ、シヴァ、あるいは、ハリの御名を舌の上に乗せていなさい。それをするのに特別な時間やエネルギーは必要ありません。朝、起き上がる時、舌の上に御名を乗せて起き上がりなさい。夜、眠りに陥るとき、神の御名を舌に乗せて眠りなさい。

皆さんは、ナーラダ仙の話を知っていると思います。あるとき、ヴィシュヌ神が、「とある農夫のほうがナーラダよりも大きな信愛を抱いている」と、ナーラダをたしなめました。ナーラダ仙は、むっとして、それが事実かどうか自分の目で確かめたいと思いました。ナーラダはその農夫の住む村に行き、その農夫を捜し当て、何日か様子をうかがいました。その農夫は一日三回(!)しか神の御名を唱えていませんでした。寝床から起き上がった時に一回、二回目は昼に一日一食の食事を摂る時、そして、三回目は眠りに就くために身を横たえる時でした。ナーラダは、神の御名を唱えることをそのように簡単に済ませている農夫よりも自分のほうが劣っていると言われるとは、ずいぶん侮辱されたものだと思いました。ナーラダはヴィシュヌ神のもとに戻って、事の次第を報告し、農夫の信愛を評価し直してほしいと望みました。

ヴィシュヌ神はナーラダに、気まぐれともとれるような試験を課しました。

「頭の上に壺を五つ積んで載せ、私の住居の周囲を歩いてほしい」と、ヴィシュヌ神は言いました。ナーラダはそれに応じなければなりませんでした。ナーラダは、用心しながら、ゆっくりと、今にも頭から落ちそうな五つの壺に全神経を集中させて、何とか無事にヴィシュヌ神の御前に戻ってきました。壺はすべて、かろうじて無傷でした! ナーラダはヴィシュヌ神から次のように言われて、たいそう驚きました。

「さあ、私に教えなさい。歩いている最中、おまえは何度私の名前を憶念したか?」

ナーラダは、御名のことなどすっかり忘れ、一度も御名を唱えたことはなかったということを告白しなければなりませんでした。すると、ヴィシュヌ神は言いました。

「今、おまえもわかっただろう? 幸運、不運、正しいこと、間違っていること、大自然とその気まぐれへの注意の集中、という五つの壺を運んでいるあの農夫が実に優れているのは、少なくとも一日三回、神の御名を唱えているからである、ということを。」

魂の育成を考えなさい

皆さんは、耕地から刺のある植物や藪を取り除き、土を耕し、水をやり、丹念に選んだ種を蒔き、雑草を抜き、家畜に荒らされないよう柵で囲い、殺虫剤を吹きつけます。そして、ようやく収穫を刈り入れます。皆さんは、そのために費やした苦労のすべてに耐えました。しかし、あなたは、別の種類の耕作にも励まなければいけません。それは、魂のための耕作です。あなたのハートの畑の状態を考えてごらんなさい。そこには、色欲、怒り、貪欲、妬みという、刺や藪が生い茂っています。それらを取り除きなさい。全部根こそぎ引き抜きなさい。土地を休ませてはなりません。絶えず善い仕事を続けることでハートの畑を耕して、愛という水を撒きなさい。あなたが感じ入る神の御名が種です。それを選んでハートの畑に蒔きなさい。規律は作物を家畜から守ってくれる柵です。徳は殺虫剤です。一所懸命にハートの畑の世話をしていれば、そのうち、あなたは、至福という貴い作物を家に運ぶことができるようになるでしょう。その間、急いだり、絶望したりしなければ。

人生は三日間の祭り

自分のエネルギーのすべてを、体が欲するもののほうに向けてはなりません。体は一分ごとに老化して、火葬場に向かって速いスピードで進んでいます。人生は三日間の祭りです。人生は、夕暮れまでに萎れてしまう花の命と似ています。肉体の魅力が失われ、何でも他人に頼らなければならなくなる老齢という時は、誰にでもすぐにやって来ます。ですから、死を迎え入れる準備をしなさい。穏やかに、喜んで、主なる神の意志に黙って委ね、死と出会うための身支度を整えなさい。あなたが支度を整えたいと思っても、それはすぐにできるものではありません。それは長い年数の修行の末に身に付けられるものです。起こることすべての中に神の手を見なさい。そうすれば、あなたは大喜びしたり、深く悲しんだりしなくなるでしょう。そうすれば、あなたの人生は一続きの礼拝と瞑想になるでしょう。

私は皆さん方全員に、残りの人生を通して、兄弟意識、協力の精神、互いへの愛と敬意を持ち続けることを望みます。そうすれば、この村は類を見ないものになるでしょう。皆さん方一人ひとりが自分の土地を耕し、自分の食物を食べているというのに、なぜ憎しみと妬みで空気を汚すのですか? 皆さんが、そのように、あらゆるいざこざに足を踏み入れるのは、自分の時間を有益な行いに使う方法を知らないからです。

調和を促進するために、あなたが守らなければならない最初のルールは、舌を制御することです。思ったことを何でもすぐに口に出すのはいけません。言葉を選んで、よく考えてから話しなさい。悪意を持つことなく、優しく、穏やかに話しなさい。一人ひとりの内に住むサイに話しかけるつもりで話しなさい。舌は神の御名を唱えるために使いなさい。足は清らかで神聖な用事をするために使いなさい。ハートは清らかな思いと感情を持ち続けるために使いなさい。

今、喧騒に満ちた、ネオン輝く町と都会が、あらゆる人を魅了して手招きしています。しかし、村のほうが、はるかに望ましい場所です。村では、今でも、聖なるもの、年長者、道徳律への崇敬の念が、強いままあり続けています。都会では、人々は犬のようにすぐに怒りだします。都会の人の話、思考、感情は、どれも一定のパターンに規格統一されています。都会では、人間は、ペットにして飼い慣らし、餌をやり、服を着せ、住まいを与え、言いなりにならせるべき動物と見なされています。人の内なる神性、人は神に他ならないという事実は、都市生活の慌しさと悩みの中で無視されています。

本物のバクタの印

ですから、自分が今いる場所で幸福と満足を感じることを学びなさい。きっとそこでは幸福と満足が手に入るだろうと考えて、都会に走っていってはいけません。外面的な事物を手に入れるよりも、内面的な豊かさを持ちなさい。あなたの家庭を、美徳と道徳と愛に満ちた場所にしなさい。怒りと貪欲を制しなさい。それこそが、本物のバクタ〔信者、帰依者、バクティを持っている人〕の印です。制限なく言いたいことを言い、やりたいことをやるのは、本物のバクタの印ではありません。皆さんは、自分はバクタであると主張し、話の中で自分はバクタだと断言しているかもしれません。しかし、あなたのエゴが消えてなくなり、あなたが万人を等しく愛するようにならない限り、神はあなたのバクティを認めません! 今日、この日から、あなたの行いから一切の個人的な敵対感情を取り除きなさい。自分たちは、互いに愛と協力の精神で結ばれた、同じ一族の親戚同士であると感じなさい。友愛の精神を持って暮らしなさい。喜びに満ちて暮らしなさい。内輪もめや憎しみに心を乱されることなく暮らしなさい。なぜなら、いつか、あなたは、そうした内輪もめと憎しみを通じて手に入れたいと願ったものを、すべて手放さなければならない日がやって来るからです。村の年長者たちの助言に耳を傾けなさい。彼らはあなたのためを思っています。

今日の至福をハートに保持し、反芻することで、その至福を深めなさい。外に出ていくとき、興奮して走り回って車をぶつけ、女性や老人や子供たちに怪我を負わせるようなことにならないようにしなさい。バクティは、規律を設けられ、制御されなければいけません。私が皆さんの所に来たのは、皆さんが規律正しいバクティを持っているからなのですから。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C15

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