サイババの御言葉

日付:1966年3月16日・場所:ブリンダーヴァン
ボンベイでの御講話より

ヒタとプリヤ


人とが生まれつき持っている神性を認識すること、そして、その真実に従って日常生活を規律正しくすることは、このような人口の多い都市で紛争や闘争という海流や逆流にのみ込まれている人を導く星です。この真我の英知がなければ、人生は意味のない道化芝居、嘲笑の的、愚か者のゲームとなってしまいます。この気づきを得ることこそが、人生を切に甘く、実り多いものにします。

人は自分が歩んでいる巡礼の壮大なゴールを知りません。人は災難にしかたどり着けない間違った道に迷い込んでいます。人は自分の外側の物事に信用を置き、それらから喜びを得ようとしています。人は、すべての喜びは自分の内にある泉からのみ湧き出るということを知らずにいます。人は外側のものを自分の喜びで包み、そうすることで、それをあたかも他のものから得た喜びのように感じている――これがすべてです!

食事を準備しようとするとき、必要な食材、たとえば、米、豆、塩、ライム、スパイス、野菜などがそろっていても、かまどに火がなければ食事を得ることはできません。人生についても同じことが言えます。英知は火であり、それは物質世界と外的な行為や経験を、食べられて、おいしくて、吸収できて、健康を授けてくれて、喜びを与えてくれるものにします。その喜びは至福と呼ばれるものです。至福は人を高めます。至福は啓発します。至福は建設的です。

解放は苦労を通してのみ手に入れることができる

「ここ」での人生は、「そこ」に到達するためのものです。つまり、ここでの生活(イハ ニヴァーサム)は、至高の到達(パラ プラープティ)のためのものです。次のことを教えてあげましょう。幸せによって幸せを手に入れることはできません。つまり、解放される喜びは苦労と試練を通してのみ手に入れることができます。苦痛を通して、女性は母となる祝福を得ます。骨折り仕事を通して、農夫は畑から待望の穀物を得ます。昼夜を問わず長いこと懸命に勉強することを通して、学生は試験に合格し、学位を手に入れます。贅沢を慎んで、快適ささえも自制して、何が一番大切で近しいものかを知らないためにあなたが一番大切で近しいものだと感じて握りしめているものを手放して、切望して、奮闘して、絶え間なく努力しなさい。そうすれば、普遍なるものとの融合、神我顕現(サークシャートカーラ)という、言葉では言い表せない至福に恵まれます。苦しみこそが、喜びを価値あるものにし、貴重な所有物にするのです。真っ暗な闇夜こそが、光を求める人を駆り立てるのです。死こそが、生きる意欲を与えるのです。

人生は単純なものではありません。人生は、発見して適用できる一定の法則に支配されているわけではありません。数学では2×2はつねに4ですが、人生においては、いつもそうとはかぎりません。人はそれぞれ、独自の強さや弱さ、欠点や恐れ、スキルやハンディキャップを持っています。ですから、1つの指示を全員に勧めることはできません。今日は太陽が眩しく輝いていても、翌日には雨が降るかもしれません。ある人は道を歩いているときに財宝を見つけ、その同じ道でその人の後ろを歩いていた人は財布も所有物もすべてを失くしてしまうかもしれません! 誰も皆一人ひとりが、自分が今いるところから、自分のペースで、自分の光で道を照らして、前に進まなければなりません。

けれども、自分が生じた源であり、かつ融合するゴールであるアートマの実在をちらりと垣間見た人は皆、遅かれ早かれ旅のゴールにたどり着きます。恩寵、もしくはグルを通して、あるいはその他の方法によって、その謁見を得たならば、体や体を支配している五感と五感に餌を与えるこの世への陶酔、名声や富を求める虚栄心に満ちた冒険への陶酔は、もはや無意味なものとなり、消え去ってしまうでしょう。すると、人間は、体に対する切望(デーハ ブラーンティ)という、今、自分をひどく苦しめているものの代わりに、体に宿る者(デーヒ)を知り、そこに落ち着くでしょう。

自分の欠点を隠そうとしてはならない

それを求める切望と、それによって駆り立てられる追求のためにまず必要なのは、自分の中からあらゆる悪いものを取り除くための「厳格な内省」です。欠点や、堕落に陥る傾向や習慣を隠そうとしてはいけません。服を仕立てるために布地を買いにお店に行くとき、人は白い生地より色のついた生地を好むことを知っていますか? 色のついた生地を選ぶ理由を尋ねれば、「汚れが目立たないから」という答えが返ってくるでしょう。このように、人は自分の欠点を取り除く努力をしようとする代わりに、いかに欠点を隠そうとしているかがわかるでしょう。

人は身体的な快適さと物質的な快楽に非常に執着しています。まさしく、体は傷として扱わねばなりません。傷は、洗って包帯を巻き、一日に3、4回軟膏をつけなければなりません。それが食べ物や飲み物や衣服の本当の目的です。喉が渇くのは病気であり、その薬は飲み物です。お腹が空くのは病気であり、その薬は食べ物です。快楽を切望するのは病気であり、その薬は無執着です。

ひとたびアートマが認識されれば、すべては1つのものとなります。あなたはすべてのものが本当に1つであることがわかるでしょう。これが、この国の古来の経典が定めているゴールです。ところが、この聖なる国の子供たちは、その道を無視し、内輪もめや恐れの泥沼や汚水の中でもがいています。ジャングルで草を食む4頭の雄牛がいました。4頭が団結して互いの安全に目を配っていた時には、トラでさえあえてその牛たちに近づくことはできませんでした。しかし、不和が4頭の仲を裂き、団結心を失うと、4頭は散り散りになり、どの牛もトラに襲われてやられてしまいました。これが、分離感を持った者の運命です。個々の人間(ヴィヤクティ)は分離しているかもしれませんが、力(シャクティ)は1つであり、至高のアートマ原理(パラム アートマ タットワ)であることを知りなさい。

有益なものは喜びを与えるとはかぎらない

これは私が携えてきたメッセージです。力、平安、希望、成就を授けるメッセージです。このメッセージはプリヤ(快いもの/好みのもの)ではないかもしれませんが、ヒタ(ためになるもの/有益なもの)であることには間違いありません。患者は、薬を飲み、体のためになる治療を受けなければなりません。患者は、甘い薬や、自分にとって快い、心地よい治療を求めることはできません。医者は最善策を知っています。回復するには、患者は医者に従わねばなりません。ラーヴァナの大臣たちは、ラーヴァナが喜ぶことだけを話しました。彼らは恐怖に駆られて危険な助言者となってしまいました。弟のヴィビーシャナだけは、ためになる薬、治すことのできる薬を、ラーヴァナに与えました。けれども、それはプリヤ(快いもの/好みのもの)ではなかったので、ラーヴァナはそれを拒み、地獄に落ちました。

ヴェーダやシャーストラは、人類の福利と解脱のみに関心のある聖仙や先覚者たちが苦行や苦労を重ねて獲得したものなので、ヒタ(ためになるもの/有益なもの)の最大の宝庫です。ヴェーダやシャーストラは、人は自分の「外観」を整え、「内観」を深めなければならないと助言しています。内なる実在は基盤であり、その上に外側の実在が築かれます。それは、車の外に付いている車輪を操縦する、車の中にあるハンドルのようなものです。基盤である実在は、全能、全知、遍在の神であることを知りなさい。そのことに気づき、つねにその気づきの中にいなさい。どれほどのストレスや嵐があっても、その信念が揺らがないようにしなさい。あるいは、呼吸をするたびに自分にそのことを思い出させることで、その気づきを得ることができます。「どうすれば呼吸をするたびに自分に思い出させることができるのですか?」とあなたは尋ねるかもしれません。それは、いずれか1つの神の御名、神の香りのする御名、神の美しさ、神の恩寵、神の力を連想させる御名を用いることによってです。

悟りは人がそれに値するときにのみ訪れる

この霊性の入門書の最初のレッスンを始めなさい。自分はバガヴァッド ギーターを100回以上読み、すべての詩節を暗記し、ギーターについて書かれた解説を全部学んでマスターしたなどといって、ただ自惚れているだけではいけません。ギーターを教えられた何百万もの人々の中で、ヴィシュワルーパ ダルシャナ(神の一切相を見ること)、そして、この宇宙は神の計り知れない栄光のほんの一部の現れにすぎないという悟りを得たのは、アルジュナだけでした。偉大なパンディト(学僧)たちは、なぜそれを享受していないのでしょうか? その実在の悟りは、それに値する求道者のみに訪れるものです。アルジュナは、教えが始まった時には全託の最高の段階に到達しており、教えの間は集中力(エーカーグラター/一意専心)を発揮していました。アルジュナが祝福されたのは少しも不思議なことではありません。

それと同じくらいの全託の度合い、同じくらいの熱望、同じくらいの集中力を持っていないなら、どうしてアルジュナの得た果報を期待できるでしょう? それは決して容易な道ではありません。それはギーターが定めているシャラナーガティ(帰依全託)の道、プラパッティ(全託)の道です。日に当てて乾燥させた種も、土に植えられると芽を出します。種の中には、生まれること(ジャナナ)と死(マーラナ)が入っています。学習や学識によって輪廻を脱することはできません。ほとんどのサーダカ(霊性修行者)は乾燥させた種です。けれども、アルジュナは乾燥させた種ではありませんでした。アルジュナは炒った種でした。アルジュナは五感を征服したグダーケーシャ〔眠りを克服した者〕でした。アルジュナは、言い寄ってくるウルヴァシー〔妖艶な水の精〕を、母に対する息子の態度ではねつけました。

心を浄化すること、そして、「これ」と「あれ」は1つであることを発見する霊的至福の王国へと昇ることを求めるすべての人にとって、最も効果的なサーダナ(霊性修行)は、絶え間なく神の御名を憶念することです。

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C6

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